月光る夜   作:案院運

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王選9

 

SIDE エリス

 

 王都ルグニカの城門が、ゆっくりと遠ざかっていく。

 

 石畳を叩く車輪の音。規則正しく響く馬の蹄。窓の外では、王都の賑やかな街並みが少しずつ姿を変え、やがて街道沿いの草原へと移り変わっていった。

 

 王選会議が終わった。

 

 もっとも、終わったというだけで、何もかもが片付いたわけじゃない。

 

 むしろ面倒事は増えた気さえする。

 

「……あー、かったりぃ」

 

 俺は馬車の座席に深く腰掛け、両腕を頭の後ろで組んだ。

 

「エリー、お行儀悪いよ」

 

「誰も見てねえだろ」

 

「私が見てるよ?」

 

「じゃあ見なかったことにしろ」

 

「もうっ」

 

 向かいに座るリアが頬を膨らませる。

 

 その仕草に思わず笑いそうになったが、どうにもいつもの調子とは違った。

 

 無理もない。

 

 昨日、あれだけのことがあったんだからな。

 

 王選会議。

 

 スバルの暴走。

 

 ユリウスとの決闘。

 

 そして、リアとスバルの喧嘩。

 

 思い返すだけでも、なかなか濃い一日だった。

 

 ……ったく。

 

 あの馬鹿も、少しは加減ってもんを覚えりゃいいのによ。

 

「……エリー」

 

「あ?」

 

 顔を上げると、リアがこちらを見ていた。

 

 紫紺の瞳には、どこか迷いが浮かんでいる。

 

「……スバル、本当に大丈夫かな」

 

「さあな」

 

「……そっか」

 

 リアは小さく俯いた。

 

 俺は窓の外へ視線を向ける。

 

 王都の城壁は、もう随分と小さくなっていた。

 

「まあ、怪我の方は心配いらねえだろ。フェリスが診てるんだ」

 

「……うん」

 

「それにレムも残ってる。あいつが一緒なら、スバルもそうそう無茶はできねえだろ」

 

「……そうだといいんだけど」

 

 リアは膝の上で手を握り締めた。

 

 ……まったく。

 

 こいつは本当に、他人のことばっかりだ。

 

「リア」

 

「なあに?」

 

「お前、まだ自分が悪かったと思ってんのか?」

 

「……少しだけ」

 

「はぁ……」

 

 俺は盛大にため息を吐いた。

 

「昨日も言っただろ。お前は間違ったこと言ってねえって」

 

「……でも、スバルはすごく傷ついてたから」

 

「そりゃそうだろ」

 

「……え?」

 

 リアが顔を上げる。

 

 俺は肩を竦めた。

 

「喧嘩したんだから、傷つくことぐらいあるだろ。お前だって傷ついたんじゃねえのか?」

 

「…………」

 

「なのに、なんでお前だけが悪かったことにしようとしてんだよ」

 

 リアは答えなかった。

 

 ただ、膝の上でぎゅっと手を握る。

 

「……スバルは、私のために頑張ってくれたの」

 

「ああ」

 

「それは、ちゃんとわかってるつもりなの」

 

「なら、それでいいじゃねえか」

 

「……でも」

 

「でもじゃねえよ」

 

 俺は少しだけ身を乗り出した。

 

「リア。お前はスバルに感謝してる。けど、勝手なことをされて腹も立った。両方本当なんだろ?」

 

「……うん」

 

「なら、それでいい」

 

 俺は口元を歪めた。

 

「誰かを大事に思ってるからって、そいつの全部を許さなきゃいけねえわけじゃない。お前の気持ちだって、お前のもんだろ」

 

 リアは目を見開いた。

 

 そして、ゆっくりと頷く。

 

「……うん。ありがとう、エリー」

 

「おう」

 

 俺は満足げに背もたれへ体を預けた。

 

 すると。

 

「……まったく」

 

 隣から、小さな声が聞こえた。

 

「エリスは、本当に甘いのよ」

 

「……あ?」

 

 振り向けば、ベティーが腕を組んでいた。

 

 その顔には、いかにも不満そうな表情が浮かんでいる。

 

「王城でも散々言ったけど、あの人間は反省が足りないかしら」

 

「まだ怒ってんのか、お前」

 

「当然なのよ!」

 

 ベティーは勢いよくこちらを向いた。

 

「エリスがあれだけ心配してやったのに、あの人間は最後まで意地を張っていたのよ! まったく、理解できないかしら!」

 

「まあ、そう言ってやるな」

 

「どうしてなのよ!」

 

「……あいつにも、あいつなりの事情があんだろ」

 

「…………」

 

 ベティーは黙り込んだ。

 

 そして、少しだけ声を落とす。

 

「……それでも、エリスにあんなことを言っていい理由にはならないのよ」

 

 ……ああ。

 

 そうだな。

 

 確かに、あの言葉は少しだけ胸に引っかかっている。

 

 ――エリスみたいな奴には、俺の気持ちなんかわかんねえ。

 

 ……その通りだ。

 

 俺はスバルじゃない。

 

 あいつが何を考えて、何を恐れているのか。

 

 全部理解できるわけじゃない。

 

 だからといって。

 

 友達であることまで、やめるつもりはない。

 

「……ベティー」

 

「何かしら」

 

「こっち来い」

 

「……?」

 

 俺は片腕を広げた。

 

 ベティーは一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を赤くする。

 

「な、なんなのよ、突然!」

 

「いいから」

 

「……まったく、仕方ないかしら」

 

 そう言いながら、ベティーは素直に俺の膝へ移動してきた。

 

 俺はその頭を軽く撫でる。

 

「お前が俺のために怒ってくれたのは、嬉しかったぜ」

 

「…………っ」

 

「けど、もういい。俺は別に気にしてねえから」

 

「……エリス」

 

「それに、あいつが帰ってきた時まで怒ってたら、気まずいだろ?」

 

 ベティーはしばらく黙っていた。

 

 そして、小さくため息を吐く。

 

「……本当に、エリスは甘いのよ」

 

「ははっ。そうかもな」

 

「……でも」

 

「あ?」

 

「……そういうところも、嫌いじゃないかしら」

 

 ……ん?

 

 俺は首を傾げた。

 

「そりゃよかった」

 

「…………」

 

 ベティーが何故か不満そうに俺を睨んできた。

 

「……本当に、鈍感な男なのよ」

 

「なんでだよ」

 

 理不尽である。

 

 俺が眉を寄せると、向かい側から小さな笑い声が聞こえた。

 

「……ふふっ」

 

 リアだった。

 

「ベティー、エリーのこと大好きだもんね」

 

「なっ……!?」

 

 ベティーの顔が一瞬で真っ赤になった。

 

「ち、違うのよ! ベティーは別に、そんな……!」

 

「そうなの?」

 

「そ、そうかしら!」

 

 ……おいおい。

 

 顔真っ赤じゃねえか。

 

 俺は思わず笑った。

 

「ははっ! そんな必死に否定しなくてもいいだろ」

 

「エリスは黙っているのよ!!」

 

「なんで俺まで怒られんだよ!」

 

 馬車の中に笑い声が響いた。

 

 ほんの少しだけ。

 

 重かった空気が、軽くなった気がした。

 

     ◇◇◇

 

 王都を離れて数時間。

 

 馬車は街道を進み、広大な草原を横切っていた。

 

 窓の外には、どこまでも続く緑。

 

 遠くには山々が連なり、空には白い雲がゆっくりと流れている。

 

 平和な景色だ。

 

 少なくとも、今のところは。

 

「……エリー」

 

「ん?」

 

「ちょっと聞いてもいい?」

 

 リアがこちらを見ていた。

 

「おう。なんだ」

 

「……エリーは、どうして騎士になったの?」

 

 ……ん?

 

 随分と唐突な質問だな。

 

 俺は少しだけ眉を上げた。

 

「なんだよ、いきなり」

 

「……王選会議で、スバルが騎士を名乗ったでしょ?」

 

「ああ」

 

「それで、考えちゃったの。騎士って、どういう人のことを言うのかなって」

 

 ……なるほど。

 

 俺は腕を組んだ。

 

 騎士、ねえ。

 

 面倒臭え話だ。

 

「……さあな」

 

「えっ?」

 

「俺にもよくわかんねえよ」

 

 リアが目を丸くする。

 

「……エリー、騎士なのに?」

 

「騎士だからって、何でも知ってるわけじゃねえだろ」

 

 俺は鼻で笑った。

 

「ユリウスに聞けば、立派な答えが返ってくるだろうけどな」

 

「……ユリウスさん?」

 

「ああ。あいつは騎士の鑑みてえな奴だからな」

 

 俺は肩を竦めた。

 

「礼儀正しくて、真面目で、馬鹿みたいに誇り高い。ああいうのを騎士って言うんだろ」

 

「……じゃあ、エリーは?」

 

「俺?」

 

 俺は少しだけ考えた。

 

 そして、笑う。

 

「俺は俺だろ」

 

「……え?」

 

「騎士だからどうこうじゃねえよ。俺が守りてえと思った奴を守る。それだけだ」

 

 リアは黙ってこちらを見つめていた。

 

 俺は続ける。

 

「別に、立派な理由なんざねえ。俺が気に入らねえことは気に入らねえし、助けてえ奴は助ける」

 

「…………」

 

「それが騎士らしくねえって言われても、知ったこっちゃねえよ」

 

 リアはしばらく黙っていた。

 

 そして、小さく笑う。

 

「……エリーらしいね」

 

「だろ?」

 

 俺は得意げに笑った。

 

 すると。

 

「……本当に、傍若無人な男なのよ」

 

 膝の上から声がした。

 

「うるせえ、ベティー」

 

「事実なのよ」

 

「お前も大概だろ」

 

「ベティーはエリスと違って、ちゃんとしているかしら」

 

「どの口が言うんだよ」

 

「この口なのよ!」

 

 ベティーが頬を膨らませる。

 

 俺は思わず吹き出した。

 

 リアも笑った。

 

 ……ああ。

 

 こういう時間は、悪くない。

 

     ◇◇◇

 

 夕暮れ。

 

 馬車はようやくロズワール領へと差し掛かった。

 

 見慣れた森。

 

 見慣れた道。

 

 そして、遠くに見える小さな村。

 

 アーラム村。

 

 俺は窓の外を眺めながら、軽く伸びをした。

 

「……やっと帰ってきたか」

 

「……うん」

 

 リアが小さく頷く。

 

 その表情には、ようやく安堵が浮かんでいた。

 

「……やっぱり、帰ってくると落ち着くね」

 

「まあな」

 

 俺は鼻を鳴らした。

 

 王都は嫌いじゃない。

 

 美味い飯もあるし、面白い奴らもいる。

 

 ユリウスやラインハルトと顔を合わせるのも、悪くない。

 

 だが。

 

 あの堅苦しい空気だけは、どうにも性に合わない。

 

 ……まったく。

 

 騎士ってのは、どうしてああ面倒臭いんだろうな。

 

「……エリス」

 

 膝の上のベティーが、小さく呟いた。

 

「あ?」

 

「……屋敷に戻ったら、禁書庫に来るかしら?」

 

「ん? なんだよ、急に」

 

「……別に。久しぶりに、少し確認したい術式があるだけなのよ」

 

「俺を巻き込む気か?」

 

「契約者なのだから、当然かしら」

 

「横暴な精霊様だな、おい」

 

「エリスにだけは言われたくないのよ」

 

 俺は思わず笑った。

 

 ……まったく。

 

 どうやら、帰ってからも退屈はしなさそうだ。

 

     ◇◇◇

 

 ロズワール邸。

 

 その大きな門が、ゆっくりと開かれた。

 

 馬車が敷地内へと入り、玄関前で停車する。

 

 俺は真っ先に馬車を降りた。

 

「……ふぅ」

 

 大きく伸びをする。

 

 長時間の移動は、どうにも肩が凝る。

 

 続いて、リアが降りてきた。

 

 最後に、ベティー。

 

 ……いや。

 

 ベティーは降りてこなかった。

 

「……おい、ベティー」

 

「……何かしら」

 

「降りねえのか?」

 

「……エリスが抱っこするのよ」

 

「……は?」

 

 俺は思わず目を瞬かせた。

 

「お前、自分で歩けるだろ」

 

「……疲れたのよ」

 

「精霊が?」

 

「精霊だって疲れるのよ!」

 

 ……そういうもんなのか?

 

 俺は少しだけ首を傾げた。

 

 だが、まあ。

 

 別に大したことでもない。

 

「……ったく。仕方ねえな」

 

 俺はベティーを抱き上げた。

 

 すると。

 

「……ふふん」

 

 何故か、ベティーが得意げな顔をした。

 

 ……なんだこいつ。

 

 まあ、いいか。

 

「――お帰りなさいませ、エミリア様。エリス様」

 

 玄関前。

 

 そこには、見慣れた桃色の髪の少女が立っていた。

 

 ラム。

 

 ロズワール邸に仕える双子のメイドの姉だ。

 

「おう、ただいま」

 

「ただいま、ラム」

 

 リアが微笑む。

 

 ラムは丁寧に頭を下げた。

 

「長旅、お疲れ様でした」

 

「おう。留守番ご苦労さん」

 

 俺が笑うと、ラムは何食わぬ顔で俺の格好を眺めた。

 

「……相変わらず、だらしない格好ですね、エリス様」

 

「あ?」

 

「王都へ行かれたのですから、少しは騎士らしい格好を覚えてこられるかと思っていましたが」

 

「はっ。残念だったな」

 

「ええ。本当に残念です」

 

 ……こいつ。

 

 相変わらず、いい性格してやがる。

 

 俺は鼻を鳴らした。

 

「お前も相変わらず口が悪いな、ラム」

 

「エリス様ほどではありません」

 

「言うじゃねえか」

 

「事実ですので」

 

 俺は思わず笑った。

 

 ……ああ。

 

 帰ってきたって感じがするな。

 

 ラムは一度、馬車の方へ視線を向けた。

 

「……ところで、バルスとレムは王都に残られたのですね」

 

「ああ。スバルの奴がちょっと怪我してな。レムが付き添ってる」

 

「……そうですか」

 

 ラムは小さく頷いた。

 

 その表情はいつもと変わらない。

 

 だが、ほんの一瞬だけ、眉が動いた。

 

「……レムに余計な苦労を掛けていなければいいのですが」

 

「ははっ! そりゃ無理な相談だろ」

 

「……否定できないのが腹立たしいですね」

 

 ラムは小さくため息を吐いた。

 

 俺は思わず笑う。

 

「まあ、心配すんな。フェリスも診てるし、レムが一緒なら大丈夫だろ」

 

「……そうですね」

 

 ラムは静かに頷いた。

 

「レムなら、きっと上手くやるでしょう」

 

 その声には、妹への確かな信頼が滲んでいた。

 

 俺はベティーを抱え直し、屋敷の中へと足を踏み入れようとした。

 

 その時、ふと気づく。

 

「……そういや、ロズワールは?」

 

 いつもなら、あの妙な喋り方の道化師が出迎えに来てもおかしくない。

 

 だが、姿が見えない。

 

「ロズワール様でしたら、急用でお出かけになられました」

 

「急用?」

 

「はい。聖域へ向かわれたとのことです」

 

「……聖域?」

 

 聞き慣れない言葉に、俺は眉を上げた。

 

「なんだそりゃ」

 

「ロズワール様が管理されている、領内の特別な場所です。詳しいことはラムの口からは申し上げられません」

 

「ふーん」

 

 俺は肩を竦めた。

 

「まあ、あいつのことだ。どうせろくでもねえ用事だろ」

 

「エリス様。ロズワール様への侮辱はお控えください」

 

「はっ! 本人の前でも言ってやるよ」

 

「……でしょうね」

 

 ラムは呆れたようにため息を吐いた。

 

 その隣で、リアが少しだけ不安そうな顔をする。

 

「……ロズワール、いつ帰ってくるのかな?」

 

「帰還の日程については、まだ伺っておりません」

 

「……そっか」

 

 リアが小さく頷く。

 

 俺はそんな彼女の頭を、ぽんと軽く叩いた。

 

「心配すんな。あいつがいなくても、屋敷がどうにかなるわけじゃねえだろ」

 

「……うん。そうだね」

 

「それに」

 

 俺は腕の中のベティーへ視線を落とした。

 

「俺とベティーがいるんだぜ?」

 

「……当然なのよ」

 

 ベティーが得意げに胸を張った。

 

「ロズワールがいなくとも、ベティーとエリスがいれば問題ないかしら」

 

「ははっ! 頼もしいじゃねえか!」

 

 俺が笑うと、リアもつられるように微笑んだ。

 

 ……まあ、実際のところ。

 

 あの道化師が何を企んでいるのかなんざ、俺の知ったことじゃない。

 

 何か用があるなら、帰ってきた時に聞けばいい。

 

 今はただ、長旅の疲れを癒やしたかった。

 

     ◇◇◇

 

 夜。

 

 夕食を終えた俺は、自室へ戻ろうと廊下を歩いていた。

 

 長旅の疲れもある。今日はさっさと寝るつもりだった。

 

 ――そのはずだったんだが。

 

「エリス」

 

「あ?」

 

 背後から聞こえた声に振り返る。

 

 そこには、分厚い本を両腕で抱えたベティーが立っていた。

 

「ちょうどよかったかしら。少し手伝ってほしいことがあるのよ」

 

「断る」

 

「まだ何も言ってないのよ!?」

 

「お前がその顔してる時は、大抵ろくでもねえことだ」

 

「失礼極まりないかしら!」

 

 ベティーが頬を膨らませる。

 

 俺は鼻で笑い、その横を通り過ぎようとした。

 

 すると。

 

 ぐいっ。

 

 上着の裾が引っ張られた。

 

「……おい」

 

「……ちょっとだけなのよ」

 

 振り返ると、ベティーがこちらを見上げていた。

 

 さっきまでの威勢はどこへやら。

 

 その小さな指は、俺の上着をしっかりと掴んでいる。

 

「…………」

 

 ……ったく。

 

「三十分だぞ」

 

「……!」

 

「それ以上は付き合わねえからな」

 

「ふ、ふん! 最初からそのつもりかしら!」

 

 ……絶対嘘だろ。

 

     ◇◇◇

 

「……で?」

 

 禁書庫。

 

 俺は椅子に腰掛け、目の前に積み上げられた本を眺めていた。

 

「これをどうしろって?」

 

「そこの術式を読んでほしいのよ」

 

「自分で読めばいいだろ」

 

「ベティーは別の術式を確認しているのよ。手分けした方が早いかしら」

 

「……なるほどな」

 

 俺は適当に一冊を開いた。

 

 古びた紙面には、細かな文字と複雑な魔法陣が描かれている。

 

 ……ふむ。

 

「これ、術式の接続がおかしくねえか?」

 

「……え?」

 

「ほら、ここだよ。こっちの流れと干渉してる」

 

 指先で図形の一部を示す。

 

 ベティーは俺の隣へ寄ってきて、じっと本を覗き込んだ。

 

「……確かに、妙なのよ」

 

「だろ?」

 

「でも、それならこちらの記述と矛盾するかしら」

 

 ベティーが別の頁を開く。

 

 そこには、似たような魔法陣が描かれていた。

 

「……あー、なるほどな」

 

 俺は顎に手を当てた。

 

「こっちは魔力の流れを分散させてるのか」

 

「そうなのよ。問題は、その分散先かしら」

 

「……だったら、ここを変えりゃいいんじゃねえか?」

 

 俺は魔法陣の一部を指差した。

 

 ベティーはしばらく黙っていた。

 

 そして。

 

「……エリス」

 

「あ?」

 

「……天才なのよ?」

 

「今さら気づいたのか?」

 

「調子に乗るんじゃないかしら!」

 

「褒めたのはお前だろ!」

 

 ……まったく。

 

 理不尽な精霊様だ。

 

 だが、ベティーの目は先ほどまでとは違っていた。

 

 興味深そうに術式を眺め、何やらぶつぶつと呟いている。

 

 ……ああ。

 

 こいつ、完全に研究に夢中になってやがる。

 

「……ベティー」

 

「何かしら」

 

「三十分経ったぞ」

 

「……もう少しなのよ」

 

「おい」

 

「あと少しだけかしら!」

 

「……ったく」

 

 俺は盛大にため息を吐いた。

 

 ……まあ、いいか。

 

 どうせ明日は、特に予定もねえ。

 

 俺は再び本へ視線を落とした。

 

 それから、どれほど時間が経っただろうか。

 

 机の上には、書き殴られた紙が何枚も積み重なっていた。

 

 ベティーは何度も本を開き直し、俺はその横から好き勝手に口を挟む。

 

 時折、意見が食い違って言い合いになった。

 

 その度にベティーが頬を膨らませ、俺が笑う。

 

 ……なんだかんだ、悪くねえ時間だった。

 

「……ふぁ……」

 

 不意に、小さな欠伸が聞こえた。

 

 顔を上げると、ベティーが目を擦っていた。

 

「……おい、眠いんじゃねえのか?」

 

「……眠くないのよ」

 

「いや、どう見ても眠そうだろ」

 

「……ベティーは、まだ……」

 

 そこまで言って。

 

 こてん。

 

 ベティーの頭が、俺の肩に寄りかかった。

 

「……おい?」

 

 返事はない。

 

 規則正しい寝息だけが聞こえてくる。

 

 ……寝やがった。

 

 俺は思わず苦笑した。

 

「……ったく。人を散々付き合わせといて、先に寝るとはな」

 

 俺は静かに本を閉じた。

 

 起こそうかとも思ったが、やめておく。

 

 ……まあ、今日はこいつも疲れただろうしな。

 

 俺はベティーを抱き上げ、いつもの椅子へ深く腰掛け直した。

 

 小さな体が、自然と俺の胸元へ寄り添ってくる。

 

「……ん……エリス……」

 

 寝言か。

 

「……おう。ここにいるぜ」

 

 小さく答えると、ベティーは安心したように表情を緩めた。

 

 ……まったく。

 

 普段は偉そうなくせに、こういう時だけ素直なんだからな。

 

 俺は片手でベティーを支えながら、もう片方の手で机の上の紙を取った。

 

 さっきまで二人で考えていた術式。

 

 まだ完成には程遠い。

 

 だが、なかなか面白いものになりそうだった。

 

「……さて」

 

 俺は小さく笑った。

 

「明日、もう少し弄ってみるか」

 

 ベティーの寝息を聞きながら、俺は再び紙へ視線を落とした。

 

 静かな禁書庫。

 

 積み上がった本。

 

 そして、腕の中で眠る小さな契約精霊。

 

 ……ああ。

 

 やっぱり、帰ってきたって感じがするな。

 

     

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