SIDE エリス
朝というものは、どうしてこうも容赦がないのだろうか。
窓の向こうでは小鳥が鳴いている。柔らかな陽光がカーテンの隙間から差し込み、寝台の上に横たわる俺の顔を遠慮なく照らしていた。
実に腹立たしい。
「……うるせえ」
布団を頭まで引き上げる。
昨日は王都から帰ってきて、ベティーの魔法研究に付き合わされた。あいつが眠ったあとも、結局しばらく本を読んでいたせいで寝不足だ。
せっかく屋敷に帰ってきたんだ。
今日くらい惰眠を貪ったところで、誰も文句は言わねえだろう。
そう思っていたのだが。
「エリス様。朝でございます」
「…………」
「エリス様」
「……死んだ」
「では、埋葬の手配をいたします」
「おい待て。もうちょい悲しめよ」
即座に返ってきた声に、思わず布団から顔を出す。
扉の前に立っていたのは、桃色の髪をしたメイド――ラムだった。
いつもの無表情。いつもの冷ややかな視線。
ああ、帰ってきたんだな。
「おはよう、ラム」
「おはようございます、エリス様。随分とお元気そうなご遺体ですね」
「死人にも優しくしろよ」
「死者が朝食を要求するとは存じませんでした」
「要求するぞ。腹減った」
「では、さっさと起きてくださいませ」
容赦のない女だ。
俺は大きく伸びをすると、寝台から身体を起こした。
そこで、ふと違和感を覚える。
足元の布団が妙に膨らんでいる。
「……おい」
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんかいる」
布団をめくる。
「……寒いかしら」
いた。
金髪の縦ロールを枕に散らし、小さな身体を丸めて眠っている少女。
ベアトリスである。
「お前、いつの間に潜り込んだんだよ」
「……エリスが寝相悪いのがいけないのよ」
「質問に答えろ」
「うるさいかしら……」
そう言うと、ベティーは俺の枕を抱きしめて再び目を閉じた。
まったく。
俺の寝台を自分のものだと思ってやがる。
「ベティー。起きろ」
「嫌なのよ」
「朝飯だぞ」
「……あと五分かしら」
「俺と同じこと言ってんじゃねえよ」
ラムが小さくため息をつく。
「お二人とも、実にお似合いでございますね」
「だろ? 仲良しだからな」
「……っ!」
ベティーの肩がぴくりと跳ねた。
「べ、別に仲良しなんかじゃないのよ! ベティーはただ、契約者の体調管理をしているだけかしら!」
「寝ながらか?」
「そうなのよ!」
「そりゃ大変だな」
「絶対に馬鹿にしているかしら!」
朝から騒がしい。
だが、悪くない。
王都では随分と面倒なことが続いた。
貴族どものくだらねえ言い争い。騎士としての立場。スバルの騒動。そして、リアとの喧嘩。
あいつらのことを考えれば、多少思うところはある。
だが、今ここで俺が陰気な顔をしていたところで、何かが変わるわけでもない。
だったら、いつも通りでいい。
「ほら、ベティー。行くぞ」
「……抱っこ」
「あ?」
「……まだ眠いから、運ぶのよ」
「ったく。しょうがねえな」
小さな身体を抱き上げる。
ベティーは当然のように俺の首へ腕を回し、満足げに頬を寄せてきた。
「……ふふん」
「なんで勝ち誇ってんだ?」
「なんでもないかしら」
ラムがこちらを見て、何やら呆れたように目を細める。
「エリス様は、本当にお変わりになりませんね」
「おう。変わる必要もねえしな」
「それはそれで、少々問題かと」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
「褒めておりません」
そんなやり取りを交わしながら、俺たちは食堂へ向かった。
廊下を歩く。
窓から差し込む朝日。磨き上げられた床。見慣れた絵画。
何もかもが、いつも通りだ。
ただ。
「……静かだな」
ぽつりと呟く。
いつもなら、廊下の向こうから馬鹿みてえに騒がしい声が聞こえてきてもおかしくない時間だった。
朝っぱらから妙な挨拶を考えて、ラムに冷たくあしらわれて、それでも懲りずに笑っている男。
今は王都に残っている。
「あの人間のことかしら?」
腕の中のベティーが顔を上げた。
「ああ。あいつがいねえと、こんな静かなもんなんだな」
「騒がしいだけの男なのよ」
「ははっ。違いねえ」
俺が笑うと、ベティーも小さく鼻を鳴らした。
スバル。
あいつ、ちゃんと飯食ってんのかね。
まあ、レムが一緒なら心配はいらねえか。
そう思いながら、食堂の扉を開けた。
◇◇◇
「おはよう、エリー!」
「おう、おはよう。リア」
食堂には既にエミリアがいた。
銀色の髪を揺らし、こちらへ柔らかな笑みを向けてくる。
昨日までの疲れは、少し取れたらしい。
もっとも、完全に吹っ切れたわけじゃねえだろうが。
「ベアトリス、またエリーに抱っこしてもらってるの?」
「……何か文句があるのかしら」
「ううん。仲がいいなって」
「ち、違うのよ!」
「さっきからそればっかりだな、お前」
「エリスは黙っているかしら!」
俺は笑いながら椅子に腰を下ろし、ベティーを隣へ座らせた。
ラムが手際よく朝食を並べていく。
焼きたてのパンに、温かなスープ。卵料理と果物。
見慣れた食卓。
いつもと同じ朝食。
けれど、椅子が二つ空いていた。
エミリアの視線が、一瞬だけその空席へ向く。
俺はパンをちぎりながら口を開いた。
「なあ、リア」
「ん?」
「今日、暇か?」
「えっと……午後なら特に予定はないけど」
「じゃあ村に行くぞ」
「村?」
「おう。王都の土産話でもしてやろうぜ。ガキども、退屈してんだろ」
エミリアは少し目を丸くした。
「……いいの?」
「あ? 何がだよ」
「その……王都から帰ってきたばっかりだし、エリーも疲れてるんじゃないかなって」
「俺を誰だと思ってんだ」
鼻で笑う。
「馬車に揺られた程度でへばるほど、軟弱じゃねえよ」
「ふふっ。そうだったね」
エミリアが笑う。
昨日までの、どこか無理をしたような笑みとは違う。
それを見て、俺は満足げに頷いた。
「決まりだな」
「ベティーも行くかしら」
「お、珍しいな。お前から外に出たがるなんて」
「エリス一人では、また余計な騒ぎを起こすに決まっているのよ」
「俺をなんだと思ってやがる」
「自覚のない問題児かしら」
「おいラム。なんか言ってやれ」
「ベアトリス様のおっしゃる通りかと」
「味方がいねえ!」
エミリアが声を上げて笑った。
つられて、俺も笑う。
ああ。
やっぱり、こういうのがいい。
◇◇◇
昼下がり。
アーラム村は、今日も平和だった。
畑仕事に精を出す大人たち。井戸端で話し込む女たち。広場を駆け回る子供たち。
俺たちが村へ入ると、真っ先に気づいたのは子供たちだった。
「あっ!」
「エリス兄ちゃんだ!」
「帰ってきたー!」
「おう、ガキども! 元気してたか!」
「してたー!」
途端に群がってくる。
服の裾を引っ張る奴。腕にしがみつく奴。なぜか背中によじ登ろうとする奴。
「おいおい、待て待て。俺は遊具じゃねえぞ」
「ねえ兄ちゃん! 王都ってどんなところ!?」
「お城あった!?」
「強い騎士さんいた!?」
「いたぞ。俺と同じくらい強え奴がな」
「ええー!?」
「嘘だー!」
「嘘じゃねえよ。赤毛のすかした野郎でな、顔も腕もいいんだが、どうにも真面目すぎる」
ラインハルトの顔を思い浮かべる。
あいつが聞いたら、きっと困ったように笑うだろう。
「エリス兄ちゃんより強いの!?」
「さあな。次やったら俺が勝つ」
「前は負けたの!?」
「うるせえ! 細けえことはいいんだよ!」
子供たちが笑い転げる。
その様子を、少し離れたところでエミリアが眺めていた。
ベティーは俺の隣で腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔をしている。
「……エリス」
「ん?」
「子供に囲まれすぎなのよ」
「人気者はつれえな」
「……ふん」
何が気に入らねえのか、ベティーはぷいと顔を背けた。
すると、子供の一人がエミリアへ駆け寄った。
「エミリアお姉ちゃん!」
「はーい。どうしたの?」
「お姉ちゃんも王都行ってたんでしょ?」
「うん。行ってきたよ」
「楽しかった?」
エミリアが、一瞬だけ言葉に詰まった。
王都での出来事が頭をよぎったのだろう。
だが、すぐに微笑む。
「……うん。いろんなことがあったけど、とっても勉強になったよ」
「ふーん?」
「それでね、すっごく大きなお城があって――」
子供たちがエミリアの周りにも集まり始める。
俺はそれを見て、口元を緩めた。
王選候補者だの、半魔だの。
そんな肩書きなんざ、こいつらには関係ねえ。
目の前にいるのは、ただの優しい姉ちゃんだ。
それで十分じゃねえか。
「エリス」
ベティーが俺の袖を引いた。
「あ?」
「……少し、歩きたいかしら」
「おう。いいぞ」
俺たちは広場を離れ、村の外れへ向かって歩き始めた。
風が心地いい。
遠くでは、エミリアと子供たちの笑い声が聞こえている。
「……ねえ、エリス」
「なんだ?」
「あの人間は、帰ってくるのかしら」
俺は少しだけ目を細めた。
「帰ってくるだろ」
「……随分と簡単に言うのね」
「あいつ、リアのこと好きなんだろ?」
「……そうかしら」
「なら、帰ってくるさ」
あれだけ派手に喧嘩したんだ。
意地を張っているかもしれねえ。
自分が何をしたかったのか、わからなくなっているかもしれねえ。
だが。
「スバルは、逃げっぱなしで終わるような奴じゃねえよ」
少なくとも、俺はそう思っている。
あいつは弱い。
剣も魔法も、大した腕じゃねえ。
騎士としての実績も、まだない。
だが、何度転んでも立ち上がるところだけは、妙にしぶとい。
だからこそ、俺はあいつが嫌いじゃない。
「……エリスは、甘いのよ」
「はっ。今のでか?」
「そうかしら」
「お前、俺のどこ見てそんなこと言ってんだ」
「全部なのよ」
ベティーは、当然のように言い切った。
俺は思わず笑ってしまった。
「そりゃ光栄だな」
「……まったく」
小さな手が、俺の手を握る。
俺も握り返した。
それだけのことだった。
遠くで、子供たちが俺を呼ぶ声がする。
「エリス兄ちゃーん!」
「おう! 今行く!」
「……また遊ぶつもりかしら?」
「当然だろ。今日は俺が鬼だ」
「子供相手に本気を出すんじゃないのよ」
「俺は何事にも全力なんだよ!」
「本当に大人げない男かしら!」
ベティーの小言を聞きながら、俺は広場へ駆け出した。
いつもの村。
いつもの仲間。
いつもの、くだらねえ一日。
王都で何があろうと、ここには変わらないものがある。
そして俺は、そういうものが案外嫌いじゃなかった。
◇◇◇
SIDE スバル
朝が来た。
それだけのことが、ひどく億劫だった。
「……はぁ」
天井を見上げる。
見慣れない部屋。
見慣れない寝台。
見慣れない景色。
ここは王都にあるクルシュ・カルステンの屋敷だ。
エミリアたちが帰ってから、もう何日かが過ぎていた。
なのに。
「……なんも変わんねえな」
俺は、まだここにいる。
エミリアと喧嘩した。
ユリウスに叩きのめされた。
エリスにも、ひどいことを言った。
思い返せば、何もかも最悪だった。
あの時の俺は、何がしたかったんだろう。
エミリアを守りたかった。
それは嘘じゃない。
誰よりもあの子の味方でいたかった。
それだって、本当だ。
なのに。
どうして、あんなことになった。
「……くそっ」
顔を覆う。
目を閉じると、あの訓練場が浮かんでくる。
木剣を構えたユリウス。
何度も地面に叩きつけられる俺。
周囲の騎士たちの視線。
そして。
『立てるか、スバル』
差し出された手。
エリスだった。
あいつは、いつもそうだ。
当たり前みたいに人の前に立って、当たり前みたいに手を差し伸べてくる。
俺がどれだけ惨めでも。
どれだけ醜態を晒しても。
あいつは、何も変わらない。
『エリスみたいな奴には……俺の気持ちなんかわかんねえ……!』
「……っ」
枕に顔を埋めた。
思い出しただけで、胸が痛む。
最低だ。
あいつは助けようとしてくれたのに。
俺は、その手を振り払った。
だって。
だって、しょうがねえだろ。
エリスは強いんだ。
誰もが認める騎士で、エミリアにも信頼されていて、ラインハルトやユリウスとも肩を並べている。
しかも、あいつはそれを鼻にかけることすらない。
いや、態度はめちゃくちゃでかい。
偉そうだし、口も悪いし、貴族相手にも平気で喧嘩を売る。
なのに。
誰もが、あいつを頼りにする。
ベアトリスも。
ラムも、レムも。
エミリアも。
みんな、エリスのことを信じている。
それは、あいつが今まで積み上げてきたものがあるからだ。
俺には、それがない。
いや。
違う。
ないんじゃない。
あったんだ。
確かに、あった。
俺はエミリアを助けた。
何度も、何度も。
死ぬほど痛い思いをして。
怖くて、苦しくて。
それでも、どうにかして。
やっと掴んだ未来だった。
だけど。
誰も知らない。
誰にも言えない。
俺がどれだけ頑張ったのか。
何を失って、何を乗り越えたのか。
全部。
全部、俺だけのものだ。
「……ずりぃよ」
声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
エリスがずるいわけじゃない。
あいつは何も悪くない。
そんなこと、わかってる。
だから、余計に苦しい。
嫌いになれたら、どれだけ楽だっただろう。
あいつが嫌な奴だったら。
弱い奴を見下して、偉そうに笑うだけの男だったら。
俺だって、胸を張って嫌ってやれた。
でも。
『お前はお前だろ。俺と比べてどうすんだよ』
あいつなら、きっとそう言う。
何の悪気もなく。
当たり前のことみたいに。
「……ほんと、嫌になるぜ」
笑おうとした。
うまく笑えなかった。
その時だった。
扉が控えめに叩かれた。
「スバルくん。起きていますか?」
「……レム?」
「はい。朝食の時間ですよ」
聞き慣れた声。
俺はゆっくり身体を起こした。
「……ああ。今行く」
「わかりました。レム、外で待っていますね」
足音が遠ざかる。
俺はしばらく扉を見つめていた。
レム。
あの子だけは、今も俺のそばにいてくれる。
俺がどれだけ情けなくても。
どれだけ惨めでも。
それでも、あの子は俺を信じてくれる。
……それが、今は少しだけ苦しかった。
◇◇◇
「スバルくん。今日は少し顔色がよくありませんね」
「え? いやいや、そんなことないって! ほら、この通り!」
無理やり笑顔を作ってみせる。
レムは困ったように眉を下げた。
「……無理はしないでくださいね」
「お、おう」
朝食の席。
レムはいつも通りだった。
俺の体調を気遣い、食事を取り分け、何かと世話を焼いてくれる。
ありがたい。
本当に、ありがたいんだ。
でも。
「……なあ、レム」
「はい?」
「俺ってさ……そんなに駄目な奴かな」
口にしてから、後悔した。
何を聞いてんだ、俺は。
レムは少しだけ目を丸くした。
それから、静かに首を振る。
「いいえ」
「……即答かよ」
「はい」
「もうちょっと考えてもよくね?」
「考える必要がありませんから」
まっすぐな瞳だった。
「レムは、スバルくんが頑張ってきたことを知っています」
「…………」
「スバルくんが、自分で思っているよりずっと優しい人だということも」
「……やめろって」
「だから、レムは――」
「やめてくれ」
思ったより、強い声が出た。
レムの言葉が止まる。
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
「……悪い」
「いえ」
「その……レムが悪いわけじゃねえんだ」
「はい。わかっています」
また、それだ。
わかっている。
信じている。
大丈夫。
レムはいつだって、俺にそう言ってくれる。
なのに俺は、その言葉を素直に受け取れない。
情けねえ。
ほんと、情けねえよ。
「……なあ、レム」
「はい」
「エリスってさ、すげえよな」
レムが少し驚いたように瞬きをした。
「……はい。エリス様は、とても立派な方です」
「だよな」
笑う。
今度は、少しだけ自然に笑えた。
「あいつさ、めちゃくちゃ偉そうじゃん?」
「……ふふ。そうですね」
「王都でも、貴族相手に平気で喧嘩売ってたし」
「エリス様らしいですね」
「しかもさ、あいつが言うと、なんか許されんだよな」
俺がやったら、きっと大問題になる。
実際、大問題になった。
でも、エリスは違う。
あいつには、そう言えるだけの何かがある。
「……俺もさ」
言葉が、勝手にこぼれた。
「あいつみたいになりたかったんだよ」
レムは何も言わなかった。
「強くてさ。誰かに頼られてさ。エミリアたんの隣に立っても、誰にも文句言われねえような……そんな奴に」
拳を握る。
「でも、駄目だった」
「スバルくん……」
「俺、何もできなかった」
声が震える。
「エリスは、俺のこと友達だって思ってくれてるんだと思う」
あいつは、いつだってそうだった。
最初から。
俺が何者かもわからない頃から。
妙に気安くて、偉そうで。
でも、困っていれば助けてくれた。
「……なのに、俺さ」
喉が詰まる。
「友達に、あんなこと言っちまった」
レムは静かに聞いていた。
責めることも、慰めることもせず。
ただ、俺の言葉を待ってくれていた。
「……謝りてえな」
ぽつりと呟いた。
それは、ずっと胸の奥に引っかかっていた言葉だった。
エリスに。
エミリアに。
ちゃんと謝りたい。
でも。
今さら、どんな顔をして戻ればいい。
「……スバルくん」
レムが、そっと口を開いた。
「エリス様なら、きっと笑ってくださいますよ」
「……そうかな」
「はい」
レムは微笑んだ。
「きっと、『んなこと気にしてたのかよ』って」
「…………」
思わず、吹き出した。
「……ははっ」
ああ。
言いそうだ。
めちゃくちゃ言いそうだ。
『は? お前まだそんなこと気にしてんの? 暇な奴だな』
そんな声が、簡単に想像できてしまう。
「……あいつ、ほんとムカつくな」
「ふふっ」
「でもさ」
俺は、少しだけ顔を上げた。
「……やっぱ、すげえ奴だよ」
レムは、嬉しそうに頷いた。
◇◇◇
その日の午後。
俺は屋敷の庭にいた。
治療の合間に、少し身体を動かそうと思ったのだ。
木剣を握る。
構える。
振り下ろす。
「……っ!」
腕に痛みが走った。
まだ、ユリウスにやられた傷が完全には癒えていない。
「……くそ」
もう一度。
振り下ろす。
ぎこちない。
遅い。
自分でもわかるほど、ひどい剣筋だった。
『剣を振るだけなら、誰にでもできる』
ユリウスの言葉が頭をよぎる。
あいつの剣は、綺麗だった。
悔しいけど、認めざるを得ない。
そして、エリスの戦い方を思い出す。
黒い鞭を自在に操り、まるで踊るように敵を翻弄する姿。
あいつは、剣を使わない。
それでも、誰よりも騎士らしく見えた。
「……なんでだよ」
木剣を握る手に力がこもる。
「なんで、俺は……」
何度も振る。
何度も。
何度も。
やがて、腕が上がらなくなった。
木剣が地面に落ちる。
「……はぁ……はぁ……」
膝に手をつく。
情けねえ。
こんなことしたって、急に強くなれるわけじゃない。
そんなこと、わかってる。
でも。
何もしないでいるのは、もっと嫌だった。
「スバルくん!」
声がした。
振り向くと、レムが駆け寄ってくる。
「まだ身体が治っていないのに、無茶をしてはいけません!」
「……わりぃ」
「もう……」
レムは落ちた木剣を拾い上げた。
それから、俺の顔を覗き込む。
「……何か、できることはありませんか?」
「え?」
「レムにできることがあれば、何でも言ってください」
その言葉に、胸が詰まった。
何でも。
何でも、か。
だったら。
俺が欲しいものを、くれるのか。
強さを。
実績を。
誰かの隣に立つ資格を。
……そんなもの、レムに求めたって仕方ない。
「……ありがとな」
俺は、笑った。
「でも、今は大丈夫」
レムは少しだけ寂しそうな顔をした。
それでも、頷いてくれた。
「……はい」
俺は空を見上げる。
青い空。
白い雲。
きっと今頃、エミリアたちのいる屋敷にも、同じ空が広がっている。
エリスは、何をしているんだろう。
ベアトリスと喧嘩でもしているのか。
ラムに怒られているのか。
エミリアと笑っているのか。
……いいな。
そう思ってしまった。
そして、そんな自分が嫌になった。
◇◇◇
夕暮れ。
王都の街並みが、赤く染まっていく。
俺は窓辺に腰掛け、ぼんやりと外を眺めていた。
遠くから、商人たちの声が聞こえる。
馬車の車輪が石畳を鳴らす。
人々は、それぞれの生活を送っている。
俺がどれだけ落ち込んでいようと。
どれだけ後悔していようと。
世界は、何事もなかったように動いていく。
「……エミリアたん」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
当たり前だ。
あの子は、ここにはいない。
俺が、自分で遠ざけたんだから。
「……帰りてえな」
ぽつりと呟く。
ロズワール邸に。
あの、馬鹿みたいに騒がしい屋敷に。
ラムに嫌味を言われて。
レムに笑われて。
ベアトリスに追い出されて。
エリスに馬鹿にされて。
そして。
エミリアに、笑ってほしい。
ただ、それだけだったはずなのに。
どうして、こんなに遠くなっちまったんだろう。
窓に映る自分の顔は、ひどく情けなかった。
俺は、そっと拳を握る。
まだ、何もできていない。
何も取り戻せていない。
だけど。
「……このままじゃ、終われねえよな」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
エリスの背中は、まだ遠い。
ユリウスの剣も、ラインハルトの強さも。
俺には、到底届かない。
それでも。
あいつらと同じようにはなれなくても。
俺には、俺にしかできないことがあるはずだ。
……そう、信じたかった。
◇◇◇
SIDE エリス
「……ぶえっくしょい!」
「ひゃっ!?」
突然のくしゃみに、隣にいたベティーが飛び上がった。
「な、何をするかしら!」
「いや、くしゃみだろ」
「もう少し静かにできないのよ!?」
「無茶言うなって」
夜。
俺は自室のソファに寝転がり、読みかけの本を片手にくつろいでいた。
ベティーはその隣で、何やら難しそうな魔導書を読んでいる。
窓の外には、星が瞬いていた。
静かな夜だ。
「……誰か噂でもしてんのかね」
「どうせろくでもない噂かしら」
「お前、俺のことなんだと思ってんだよ」
「自覚のない問題児なのよ」
「それ今日二回目だぞ」
「何度でも言ってやるかしら」
俺は笑いながら本を閉じた。
今日も一日、特に何もなかった。
村へ行って、ガキどもと遊んで。
リアと飯を食って。
ラムに嫌味を言われて。
ベティーとこうして、くだらねえ話をしている。
平和だ。
実に、平和だ。
「……なあ、ベティー」
「何かしら」
「スバルの奴、何してんだろうな」
ベティーは本から顔を上げた。
「……知らないのよ」
「だよな」
「……でも」
「ん?」
「どうせ、また馬鹿なことでもしているに決まっているかしら」
「ははっ!」
思わず笑ってしまった。
「違いねえ!」
あいつなら、きっとそうだ。
何かに悩んで。
何かにぶつかって。
それでも、最後には馬鹿みたいに笑って帰ってくる。
俺は、そう思っている。
「……帰ってきたら、飯でも奢ってやるか」
「どうしてベティーに言うのよ」
「いや、お前も来るだろ?」
「……当然かしら」
「じゃあ決まりだな」
ベティーは小さくため息をついた。
それから、俺の肩に身体を預けてくる。
「……エリス」
「あ?」
「今日は、もう寝るのよ」
「まだ早えだろ」
「明日も朝からラムに起こされたいのかしら?」
「……そりゃ勘弁だな」
俺は立ち上がり、ベティーを抱き上げた。
「ほら、寝るぞ」
「……ん」
小さな返事。
部屋の灯りを落とす。
――同じ夜。
遠く離れた王都では、一人の少年が眠れずにいた。