白鯨~怠惰
SIDE スバル
――おかしい。
最初にそう思ったのは、街道を進み始めてから二時間ほど経った頃だった。
夕暮れの空はすでに赤みを失いつつあり、街道の両脇に広がる森は薄暗い。木々の隙間から吹き込む風が、妙に冷たかった。
がたん、と竜車が揺れる。
「いってぇ……」
思わず腹を押さえた。フェリスの治療で随分と回復したとはいえ、完全に治ったわけではない。無理な運動は控えろと、あの猫耳野郎には散々言われている。
……ま、今さらだけどな。
「スバルくん、大丈夫ですか?」
隣に座るレムが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ああ、平気平気。ちょっと揺れが腹に響いただけ」
「本当に?」
「本当だって。俺を誰だと思ってる?」
「ナツキ・スバルくんです」
「そこはもうちょっとこう、頼れる男的な回答を期待してたんだけど!?」
レムがくすりと笑う。その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。
……そうだ。大丈夫。
レムがいる。そして、屋敷にはエリスがいる。何が起きたって、あいつならきっと何とかしてくれる。
「いやぁ、お客さんたち。本当にこのまま進むんですか?」
御者台から声が飛んできた。
茶色い髪の青年、オットー・スーウェン。王都で何とか見つけた、ロズワール領方面へ向かう竜車の持ち主だ。
「またその話かよ、オットー」
「またって! そりゃ何度だって言いますよ! 最近この辺り、物騒な噂ばっかりなんですから!」
「だからこそ急いでんだよ」
「いやいや! おかしいでしょう、その理屈!」
オットーは大げさに肩を落とした。
「そもそも僕、こんな夜道を走るつもりじゃなかったんですよ? お二人がどうしてもって言うから……」
「追加料金払っただろ?」
「そういう問題じゃありませんよ! 僕だって命は惜しいんですから!」
「商人のくせに金より命かよ」
「当たり前でしょう!? 死んだら稼いだお金も使えないじゃないですか!」
……なかなか面白い奴だ。少なくとも、こうして話している間は、胸の奥に居座る嫌な予感を少しだけ忘れられる。
「スバルくん」
「ん?」
レムが窓の外を見つめていた。
「……少し、静かすぎませんか?」
「静か?」
俺も外を見る。森、街道、薄暗い空。特に変わったものは見当たらない。
けれど、確かに妙だった。
鳥の鳴き声がしない。虫の声も、風に揺れる木々の音すらどこか遠い。
「……気のせいじゃね?」
そう言いかけた、その時。
「――うわっ!?」
御者台から甲高い声が響き、竜車が大きく揺れた。
「うおおっ!?」
身体が座席から浮く。レムが咄嗟に俺の腕を掴んだ。
「スバルくん!」
「な、なんだ!?」
「地竜が……! 地竜が急に怯え始めて……!」
オットーの声が震えている。
俺は窓から顔を出した。地竜が荒い息を吐き、前へ進もうとしない。何かを恐れるように、何度も首を振っている。
「おい、オットー! 何が――」
そこまで言って、俺は気づいた。
白いものが漂っている。
最初はただの霧だと思った。夜の街道なら珍しくもない。けれど、その霧はあまりにも濃く、あまりにも突然現れた。
「……なんだよ、これ」
森の輪郭が消えていく。街道の先が見えなくなり、世界そのものが白く塗り潰されていくようだった。
「……スバルくん」
レムの声が変わった。先ほどまでの柔らかな響きが消えている。
振り向くと、レムは立ち上がっていた。その顔から血の気が引いている。
「レム?」
「……いけません」
「何が?」
「これは……」
レムの唇がわずかに震えた。
「――白鯨」
その瞬間、遠くで何かが鳴いた。
低く、長く、腹の底を震わせるような異様な声。獣の咆哮とも雷鳴とも違う、聞いただけで全身の血が凍りつくような音だった。
「……は?」
俺はゆっくりと空を見上げた。
霧の向こうで巨大な影が動いている。最初は雲かと思ったが、違った。
山のような胴体。空を泳ぐ異形の巨体。そして、闇の中で不気味に光る瞳。
「…………なん、だよ」
言葉が出なかった。
白い、巨大な鯨。
それが、空に浮かんでいた。
◇◇◇
「走ってください!!」
レムの叫び声で、俺は我に返った。
「オットーさん! 全速力で!!」
「ひ、ひいいいいっ!!」
鞭が鳴り、地竜が悲鳴のような声を上げて竜車が急発進した。身体が座席へ叩きつけられる。
「ぐっ……!」
「スバルくん、頭を下げて!」
「レム、あれは何なんだよ!?」
「三大魔獣の一角――白鯨です!」
「三大……!?」
そんなもんが、なんでこんなところにいるんだよ!
再び、あの鳴き声が響く。竜車が激しく揺れ、窓の外では白い霧が渦を巻いていた。
何も見えない。ただ、巨大な何かが近づいてくる気配だけがある。
「オットー! もっと飛ばせ!!」
「これ以上は無理ですってぇぇぇ!!」
御者台から半泣きの声が返ってくる。
その時、レムが静かに立ち上がった。
「……スバルくん」
「レム?」
「少しだけ、待っていてください」
その声は、不思議なほど穏やかだった。
嫌な予感がした。
「……おい」
「レムが、時間を稼ぎます」
「は?」
何を言っている、こいつは。
「お前、何言って――」
「スバルくんは、先に行ってください」
「ふざけんな!!」
思わず叫んでいた。
「そんなことできるわけねえだろ!」
レムは困ったように笑った。
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんだよ!」
「レムは、強いですから」
知っている。そんなことは知っている。レムは強い。俺なんかより、ずっと。
でも、あんな化け物を相手にして無事で済むはずがない。
「だったら一緒に逃げろよ!」
「……それでは、追いつかれます」
「そんなの、やってみなきゃわかんねえだろ!」
レムは答えなかった。代わりに、俺の手を握った。
小さな手だった。けれど、その手は温かかった。
「スバルくん」
「……なんだよ」
「屋敷に戻ったら、エリス様によろしくお伝えください」
心臓が嫌な音を立てた。
「……は?」
「きっと、スバルくんを助けてくださいます」
「おい、待てよ」
「エリス様は、とてもお強い方ですから」
「待てって言ってんだろ!」
レムが微笑む。
「……でも」
その瞳が、まっすぐ俺を見た。
「レムにとって、一番かっこいいのは、スバルくんです」
「…………」
「どうか、ご無事で」
次の瞬間、レムが竜車から飛び出した。
「――レム!!」
手を伸ばす。届かない。
青い髪が、白い霧の中へ消えていく。
鉄球が唸りを上げ、遠くで爆発音が響いた。白い霧の向こうに、一瞬だけ光が走る。
「レム!! 戻れ!!」
何度も叫んだ。けれど、返事はなかった。
◇◇◇
「止めろ!!」
俺は御者台へ身を乗り出した。
「オットー! 止めろ!!」
「無茶言わないでくださいよ!!」
「レムがまだ向こうにいるんだよ!!」
「レム!?」
オットーが振り返った。その顔に浮かんでいたのは恐怖と、そして困惑だった。
「誰です、それ!?」
「…………は?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
「……何言ってんだ、お前」
「何って……!」
「レムだよ! さっきまで一緒に乗ってた女の子!」
オットーは青ざめた顔で俺を見た。
「お客さん、何を言ってるんですか!?」
「だから!!」
「最初から、お客さん一人だったでしょう!?」
――は?
頭の中が真っ白になった。
「……いや」
そんなわけがない。
レムはいた。さっきまで俺の隣にいて、俺の手を握って、笑っていた。
「……冗談、だろ?」
「こんな時に冗談なんか言いません!」
「お前……!」
胸ぐらを掴みかけた、その時。
再び、あの鳴き声が響いた。
白い霧が竜車を包み込む。
「ひっ……!」
オットーが悲鳴を上げた。俺も振り返る。
霧の向こうで、巨大な影が近づいてくる。
「……なんで」
俺は呟いた。
「なんで、レムのこと……」
思い出せ。思い出せよ。
あいつはお前とも話してただろ。王都から一緒に来ただろ。
なのに、なんで。
「……お客さん」
オットーの声がした。
振り向くと、その顔には何かを決意したような表情が浮かんでいた。
「……すみません」
「……え?」
次の瞬間、胸に強い衝撃が走った。
「――っ!?」
視界が傾き、身体が宙へ投げ出される。
何が起きたのか理解できなかった。ただ、オットーが俺を突き飛ばした。それだけはわかった。
「――ああああああっ!?」
地面を何度も転がり、ようやく身体が止まった。全身を襲う痛みに呻きながら、スバルは遠ざかっていく竜車を睨みつけた。
「……っつぅ……! あの野郎、マジで落としやがった……!」
悪態をついたところで、すぐそばに何かが転がっていることに気づいた。見慣れた黒い携帯電話だった。どうやら竜車から放り出された拍子に、ポケットから飛び出してしまったらしい。
衝撃で開いてしまった携帯の画面には、午前3時を少し過ぎた時刻が表示されていた。
「……くそ、壊れてねえだろうな……」
携帯を拾い上げ、画面を確かめる。幸い、目立った破損はない。スバルは安堵の息を漏らすと、携帯を閉じてポケットへ押し込んだ。
そして、痛む身体を引きずりながら立ち上がった時、街道の向こうにそびえ立つ巨大な樹が目に入った。
「……あれ、確か……」
天を衝くほどの大樹。夜空を覆うように広がる枝葉は、遠く離れた場所からでもはっきりとわかった。
「フリューゲルの大樹……だったよな」
以前、レムから聞いたことのある名前だった。
スバルは大樹を見上げ、それから白い霧に包まれた街道へ視線を戻した。今は一刻も早く屋敷へ辿り着かなければならない。
「……待ってろよ、エミリアたん」
そう呟き、スバルは再び歩き始めた。
◇◇◇
どれくらい、そうしていただろう。
気づけば白い影は遠ざかり、霧も少しずつ薄くなっていた。
俺は生きていた。
どうして生きているのか、わからなかった。あの化け物がなぜ俺を見逃したのか、そんなことを考える余裕もない。
「……レム」
名前を呼ぶ。返事はない。
立ち上がると、足が震えた。身体中が痛い。
けれど、進まなければ。
屋敷へ。エミリアのところへ。エリスのところへ。
あそこに行けば、きっと何とかなる。エリスなら、レムを探してくれる。
そう信じるしかなかった。
俺は暗い街道を歩き始めた。何度も転びそうになりながら、ただ前へ進んだ。
◇◇◇
屋敷の門が見えた時、俺は思わず膝から崩れ落ちそうになった。
「……着いた」
ロズワール邸。
見慣れた建物、見慣れた庭。何も変わっていない。それだけで涙が出そうになった。
「……エリス」
門を押し開け、庭を横切って玄関へ向かう。
扉を叩こうとした、その時。
扉が内側から開いた。
「……スバル?」
銀色の髪。紫紺の瞳。
見慣れた少女が、そこに立っていた。
「……エミリア、たん……」
声がかすれた。
エミリアは目を見開いた。
「スバル!? どうしたの、その格好!」
駆け寄ってくる。その姿を見た瞬間、胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「……よかった」
「え?」
「……無事、だったんだな……」
「スバル……?」
エミリアが困惑したように俺を見る。
俺はその肩を掴んだ。
「エリスは!?」
「エリー?」
「あいつ、どこにいる!?」
「エリーなら、ベアトリスと一緒に森へ行ってるけど……」
「……森?」
「結界の様子がおかしいから、調べてくるって」
いない。エリスが、今ここにいない。
「……そっか」
力が抜けた。
けれど、大丈夫。戻ってくる。あいつなら、すぐに。
「スバル、本当にどうしたの?」
エミリアが心配そうに顔を覗き込む。
「何があったの?」
「……レムが」
俺は口を開いた。
「レムが、いなくなったんだ」
「……え?」
「白鯨って化け物が出てきて……レムが俺を逃がしてくれて……!」
言葉が止まらなかった。
「でも、オットーはレムのこと覚えてなくて……! 俺、どうしたらいいかわかんなくて……!」
エミリアは黙って聞いていた。その顔には困惑が浮かんでいる。
俺は必死に続けた。
「頼む、エミリア! レムを探すの、手伝ってくれ!」
「……スバル」
「ラムにも話さなきゃ! あいつなら、妹のこと――」
「……待って」
エミリアが静かに言った。
俺は口を閉じる。その瞳が、まっすぐ俺を見つめていた。
「……レムって、誰?」
時間が止まった。
「…………は?」
エミリアは悲しそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。私、その人のこと……」
「……何、言ってんだよ」
「スバル……?」
「ラムの妹だろ! 青い髪の! ずっと屋敷で一緒に暮らしてただろ!?」
エミリアは困ったように眉を下げた。
その表情を見て、俺は悟った。
嘘をついているわけじゃない。本当に、知らないのだ。
「……エリスは?」
「え?」
「エリス、いつ帰ってくる?」
「結界の調査だから……夕方には戻ると思うけど」
「……そっか」
俺は玄関の敷居に腰を下ろした。
「スバル? お部屋で休んだ方が……」
「……ここで待つ」
「でも、その怪我……」
「頼む。ちょっとだけ、一人にしてくれ」
エミリアは何か言いかけたが、結局、静かに屋敷の中へ戻っていった。
扉が閉まる。
俺は両手で顔を覆った。
「……エリス」
あいつなら、何とかしてくれる。そう思った。
けれど、さっきまで当たり前だったその確信が、今はひどく頼りなかった。
顔を上げ、誰もいない庭を見つめる。
「……早く帰ってこいよ、馬鹿野郎」