SIDE スバル
屋敷の玄関先に座り込んでから、どれほどの時間が経ったのだろう。
空はすっかり茜色に染まり、庭に植えられた木々が長い影を落としている。夕暮れを告げる鳥の声が、どこか遠くから聞こえてきた。
俺は膝に肘をついたまま、門の向こうを見つめていた。
「……遅ぇよ」
呟いてみても、返事はない。
エリスはまだ戻ってこない。
あいつがベアトリスと一緒に森へ出かけていることは、エミリアから聞いた。結界の調査だか修復だか知らないが、こんな時に限って留守にしやがって。
……いや、違う。
悪いのはあいつじゃない。
勝手に屋敷を飛び出したのは俺だ。危険だと言われた街道を進むと決めたのも、レムを連れてきたのも。
そして、レムを置いて逃げたのも。
「……くそっ」
握り締めた拳が震えた。
白い霧の中へ飛び込んでいった青い髪が、何度も脳裏に浮かぶ。
あの時、俺は何をしていた?
叫んでいただけだ。手を伸ばしただけだ。結局、何一つできなかった。
エリスなら違ったはずだ。あいつなら、レムが飛び出すより先に動いていただろう。あの黒い鞭を振るって、馬鹿みたいな笑い方で白鯨に喧嘩を売っていたに違いない。
そんな光景が容易に想像できてしまうことが、ひどく惨めだった。
「……何やってんだよ、俺」
自分に問いかけても、答えは返ってこない。
背後で扉が開く音がした。
「スバル」
振り向くと、エミリアが立っていた。手には水の入ったコップと、清潔な布を持っている。
「せめて、傷だけでも手当てさせて?」
「……悪い」
差し出された水を受け取る。喉が渇いていたことに、その時になってようやく気づいた。
エミリアは俺の隣にしゃがみ込み、頬の擦り傷を濡らした布で拭い始めた。
「痛かったら言ってね」
「……平気」
「平気な顔じゃないよ」
その言葉に、思わず笑いそうになった。
少し前なら、こんなふうに心配してもらえただけで舞い上がっていたはずだ。
けれど今は、胸の奥に重たいものが詰まっている。
「……エミリアたん」
「なあに?」
「本当に、レムのこと覚えてないのか?」
布を動かす手が止まった。
「……ごめんなさい」
「ラムの妹なんだ。青い髪で、メイド服着てて、俺のことをずっと助けてくれた女の子で……」
「スバル」
「料理が上手くて、掃除もできて、でも自分のことになるとすぐ無茶してさ。俺なんかのこと、英雄だって言ってくれるんだよ」
言葉を重ねるほど、エミリアの表情が曇っていく。
わかっている。彼女を責めても仕方がない。それでも、止められなかった。
「なあ、頼むよ。思い出してくれよ。レムはいたんだ。ちゃんと、ここにいたんだよ……!」
「……うん」
エミリアは静かに頷いた。
「私には思い出せないけど、スバルが嘘をついてるとは思わないよ」
「…………」
「だから、エリーが帰ってきたら一緒に考えよう? ベアトリスもいるし、きっと何かわかると思う」
その言葉は、優しかった。
だからこそ、苦しかった。
俺は知っている。
この世界には、どうしようもない理不尽が存在する。そして俺には、それをやり直す手段がある。
――死に戻り。
口にすることさえ許されない、俺だけの秘密。
もし、あの力を説明できたなら。
もし、俺がこれまで経験してきたことを、誰かに伝えられたなら。
エリスにだって、エミリアにだって、もっと上手く助けを求められたはずなのに。
「……なあ、エミリアたん」
「うん?」
「俺さ、君に話してないことがあるんだ」
エミリアが首を傾げた。
「話してないこと?」
「ああ。すっげえ大事なこと」
胸の奥がざわつく。
やめろ、と本能が告げていた。
その先へ踏み込んではいけない。何度も経験してきた、あの感覚。
けれど、レムは消えた。
誰も覚えていない。エリスもまだ帰ってこない。
これ以上、何もできないまま待っているなんて――。
「俺は……」
喉がひりついた。
「俺は、死んだら――」
瞬間。
世界から音が消えた。
◇◇◇
視界が暗転する。
夕暮れの庭も、屋敷の壁も、目の前にいたエミリアの姿さえ、黒く塗り潰されていった。
そして、現れる。
闇の中から伸びる、無数の黒い手。
「……っ!」
心臓を鷲掴みにされた。
激痛が走る。肺が潰れ、喉が塞がり、身体の内側を冷たい指が這い回る。
――また、これか。
俺は歯を食いしばった。
わかっている。この先を言おうとすれば、いつもこうなる。
誰にも話すな。秘密を漏らすな。
そういうことなのだろう。
けれど。
「……ふざ、けんな……!」
黒い手が心臓を締め上げる。
俺は必死に言葉を絞り出した。
「俺は……死んだら……戻れるんだ……!」
その瞬間、黒い手の動きが止まった。
奇妙な静寂が訪れる。
痛みが、消えた。
「……え?」
視界が戻る。
夕暮れの庭。屋敷の玄関。そして、目の前のエミリア。
「……エミリアたん?」
彼女は俺を見ていた。
驚いたように目を見開き、何かを言おうとしている。
けれど、その唇から声は出なかった。
代わりに。
「……あ」
小さな吐息が漏れた。
エミリアの身体が、ぐらりと傾く。
「……え?」
俺は反射的に腕を伸ばした。
倒れ込んできた身体を抱き止める。
軽かった。あまりにも、軽かった。
「……おい」
エミリアの瞳が、俺を見上げている。
けれど、その瞳にはもう、何も映っていなかった。
「……エミリアたん?」
返事はない。
「おい、冗談だろ?」
肩を揺する。身体が、力なく揺れた。
「……なあ」
胸に耳を当てる。
何も聞こえない。
呼吸も、鼓動も。
何も。
「…………嘘だろ」
頭の中が真っ白になった。
俺は、ただエミリアの身体を抱き締めていた。
「……なんで」
誰かに聞いたわけじゃない。
答えなんて、最初からわかっていた。
俺が言ったからだ。
俺が、秘密を話そうとしたから。
あの黒い手は、俺ではなく。
エミリアを。
「……あ、ああ……」
喉から、情けない音が漏れた。
「……俺が……?」
違う。
違う違う違う。
そんなつもりじゃなかった。
俺はただ、助けてほしかっただけで。
誰かにわかってほしかっただけで。
「……エミリア……」
冷たくなり始めた頬に触れる。
「……起きろよ」
返事はない。
「なあ……起きてくれよ……」
何度呼んでも、何度揺すっても、エミリアは二度と目を開かなかった。
◇◇◇
SIDE エリス
「……おい、ベティー」
「何かしら」
「この術式、誰が組んだと思う?」
森の奥。
結界を構成する魔法陣の前で、俺はしゃがみ込んでいた。
地面に刻まれた複雑な紋様は、ところどころで魔力の流れが乱れている。触れれば微かな抵抗が返ってくるが、術式そのものが壊れているわけではなさそうだった。
「ロズワールに決まっているのよ。少なくとも基礎部分は、あの道化が組んだものかしら」
「趣味悪ぃな」
「魔法陣に趣味の良し悪しを求めるのは、エリスくらいなのよ」
「いや、見ろよここ。無駄に線が多い」
「それは魔力の循環を安定させるための補助術式かしら!」
「へえ。じゃあここは?」
「……そこは、確かに余計なのよ」
「だろ?」
得意げに笑うと、ベティーがむっと頬を膨らませた。
「一つ見つけたくらいで偉そうにしないでほしいかしら」
「一つ見つけりゃ十分だろ。俺は魔法陣の専門家じゃねえんだから」
「威張って言うことじゃないのよ」
そう言いながらも、ベティーは俺の隣にしゃがみ込み、指先で術式をなぞり始めた。
淡い紫色の光が走る。
乱れていた魔力の流れが、少しずつ整っていった。
「……これで、ひとまず問題ないかしら」
「お疲れさん」
「エリスも少しは働いたらどうなのよ」
「働いただろ。邪魔な魔獣は全部片づけた」
「それはそうだけど……」
「だろ? 適材適所ってやつだ」
ベティーが呆れたようにため息をつく。
俺は立ち上がり、軽く背筋を伸ばした。
森の向こうには、夕暮れの空が見えている。
「そろそろ帰るか。リアも待ってるだろ」
「そうするかしら。ベティーも少し疲れたのよ」
「おんぶしてやろうか?」
「子供扱いするんじゃないかしら!」
「じゃあ歩け」
「……手くらいは繋いであげてもいいのよ」
「はいはい」
差し出された小さな手を握る。
ベティーは満足そうに鼻を鳴らした。
その時だった。
――ぞくり。
背筋を、冷たいものが走った。
「……あ?」
足を止める。
ベティーも同時に立ち止まった。
「……エリス?」
「お前も感じたか」
「……ええ」
森の空気が変わっていた。
風が止み、木々のざわめきが消える。そして、遠くから異様なほど濃密な魔力が押し寄せてきた。
「……なんだ、こりゃ」
俺は眉をひそめた。
知っている。この魔力を、俺は知っている。
けれど、こんなものは知らない。
「……にーちゃ?」
ベティーが小さく呟いた。
その声が震えていた。
「……嘘、かしら」
次の瞬間、森の向こうから白い冷気が噴き上がった。
◇◇◇
木々が凍りついていく。
葉が白く染まり、幹が氷に覆われ、地面を這う霜が恐ろしい速度で広がっていた。
俺はベティーの手を引き、後方へ跳んだ。
直後、さっきまで立っていた場所が氷の柱に貫かれる。
「……おいおい」
口元が引きつった。
「ずいぶん派手な挨拶じゃねえか」
ベティーは答えなかった。ただ、森の向こうを見つめている。
俺も視線を向けた。
そこに、いた。
巨大な獣。
白い毛並みに覆われた、途方もない巨体。四肢が大地を踏みしめるたびに地面が凍り、吐き出す息が森を白く染めていく。
見慣れた小さな猫の姿は、どこにもなかった。
「……パック」
俺が名前を呼ぶと、巨大な獣がゆっくりとこちらを向いた。
『……エリスか』
声が響いた。
普段の軽薄な調子とは似ても似つかない、低く重い声だった。
「何してんだよ、お前」
『…………』
「リアはどうした?」
その問いに、パックの動きが止まった。
そして。
『……リアは、死んだよ』
静かな声だった。
だからこそ、一瞬、意味がわからなかった。
「……は?」
『ボクの娘は、死んだ』
冷気が強まる。
木々が音を立てて砕け、地面に白い亀裂が走った。
『だから、世界を終わらせる』
俺は、しばらく黙っていた。
隣では、ベティーが息を呑んでいる。
「……にーちゃ」
『ベアトリス』
「……何を、言っているのよ」
『聞こえなかったのかい?』
「聞こえたかしら! でも、そんな……!」
ベティーの声が震える。
「エミリアが……死んだなんて……!」
パックは答えなかった。代わりに、周囲の温度がさらに下がった。
俺は舌打ちした。
「……ちっ」
黒い鞭を引き抜く。
ベティーが驚いたように俺を見た。
「エリス……?」
「話は後だ」
俺はパックを見上げた。
「リアが死んだってんなら、まず何があったか確かめる。お前が世界を滅ぼすのは、その後でも遅くねえだろ」
『……退いてくれ、エリス』
「断る」
即答した。
『ボクは、もう止まれない』
「知るかよ」
鞭を肩に担ぐ。
「世界を滅ぼす? 寝言は寝て言え、クソ猫」
ベティーが息を呑んだ。
パックの瞳が、わずかに細められる。
『……君でも、ボクを止められるとは限らないよ』
「はっ」
俺は笑った。
「そりゃこっちの台詞だ」
足元の地面を踏み砕く。
「俺が誰だか、忘れたか?」
次の瞬間、俺は駆け出した。
◇◇◇
黒い鞭が、空気を裂いた。
狙いはパックの前脚。巨体を支えるその一本へ、魔力を込めた一撃を叩き込む。
轟音。
衝撃が森を揺らし、凍りついた木々が一斉に砕け散った。
『……っ!』
パックの巨体がわずかに傾く。
だが、すぐさま周囲の氷が盛り上がった。
無数の氷槍。
それらが、俺へ向けて一斉に放たれる。
「遅ぇ!」
鞭を振るう。
一本、二本、三本。
迫る氷槍を叩き砕き、そのままパックの懐へ飛び込んだ。
「――アクラ!」
陽属性の魔力が全身を駆け巡った。
体内を巡るマナが活性化し、筋肉が一瞬で引き締まる。視界が鮮明になり、地面を蹴る足に力が漲った。
身体強化。
ただそれだけの魔法。
だが、俺にとっては、それで十分だった。
「おらぁっ!!」
踏み込みと同時に鞭を振り抜く。
黒い一閃がパックの前脚を打ち据え、凍りついた大地へ深い亀裂を刻んだ。
『……ぐっ!』
巨体が揺らぐ。
しかし、次の瞬間には凄まじい冷気が周囲へ噴き出した。
『……邪魔をしないでくれ』
「――っ!」
咄嗟に後方へ跳ぶ。
地面が凍り、空気そのものが白く染まる。
頬を掠めた冷気が、皮膚を裂いた。
「……へえ」
俺は口元を吊り上げた。
「やるじゃねえか」
「エリス!!」
背後からベティーの声。
振り向くより早く、紫色の魔法陣が展開された。
「――ウル・ミーニャ!」
ベティーの背後に、無数の紫紺の結晶が生まれた。
鋭く尖った陰魔法の結晶が、彼女の意思に応じて一斉に飛翔する。
迫り来る氷槍を次々と撃ち砕き、さらにその一部がパックの巨体へ殺到した。
氷と結晶が衝突し、森の中に激しい破砕音が響き渡る。
俺はその隙に踏み込んだ。
「ベティー! 右の奴ら任せた!」
「言われるまでもないかしら!」
ベティーが両手を広げる。
新たな陰魔法の結晶が空間を埋め尽くし、パックの放つ氷の奔流を迎え撃った。
俺は鞭を振るい、巨体の側面へ回り込む。
鞭の先端が氷の鎧を裂き、白い毛並みを掠めた。
『……エリス』
「なんだよ!」
『君は、リアが死んでも平気なのかい?』
その言葉に、俺の眉が動いた。
「……あ?」
『君は、あの子を大切にしていたはずだ』
「当たり前だろ」
『なら、どうして――』
「だからだよ!!」
鞭を振り抜く。
黒い軌跡が空気を切り裂き、パックの前脚へ深く食い込んだ。
「リアが死んだって聞かされて、平気なわけねえだろうが!」
声を荒げる。
「けどな! だからって、あいつが生きてた世界までぶっ壊していい理由にはならねえんだよ!」
パックの動きが、一瞬止まった。
俺は続ける。
「リアがそんなこと望むと思ってんのか!?」
『…………』
「お前が一番わかってんだろうが!!」
沈黙。
それから、パックはゆっくりと目を閉じた。
『……そうだね』
冷気が、さらに濃くなる。
『リアは、望まないだろうね』
「だったら――」
『それでも、ボクは止まれない』
次の瞬間、世界が白く染まった。
◇◇◇
「――エリス!!」
ベティーの叫びが響く。
俺は反射的に鞭を振るい、彼女の身体を引き寄せた。
直後、森全体を覆うほどの氷の奔流が押し寄せる。
「ちっ……!」
ベティーを抱えたまま跳躍する。
足元の大地が凍りつき、木々が一瞬で氷像へ変わった。
空中で体勢を立て直し、鞭を振るう。
「――ジワルド!」
光が走る。
一直線に放たれた光線が氷の壁を貫き、パックの巨体へ突き刺さった。
轟音とともに氷片が飛び散る。
『……っ!』
パックが低く唸った。
俺は着地すると、ベティーを地面へ下ろした。
「無事か?」
「ベティーを誰だと思っているのよ!」
「そりゃ結構」
軽く笑ってから、パックを見上げる。
巨大な獣は、なおも冷気を放ち続けていた。
このままでは、森だけでは済まない。
屋敷も、村も。何もかもが凍りつく。
「……ベティー」
「わかっているかしら」
彼女は俺の隣に立った。
その小さな顔には、いつもの不機嫌そうな表情はない。ただ、悲しそうにパックを見つめている。
「……にーちゃ」
『…………』
「ベティーは、にーちゃと戦いたくないのよ」
パックの瞳が、わずかに揺れた。
「でも……エリスを傷つけるなら、話は別かしら」
紫色の魔法陣が、彼女の背後に展開される。
「ベティーは、エリスの精霊なのよ」
俺は思わず笑った。
「はっ、頼りにしてるぜ!」
「……っ! 今はそういうことを言う場面じゃないかしら!」
「そうか? 俺はいつでも本気だぞ」
「まったく……!」
ベティーが、ほんの少しだけ笑った。
そして、俺たちは同時に前へ踏み出した。
◇◇◇
SIDE スバル
寒い。
最初に感じたのは、それだった。
エミリアを抱き締めたまま、俺は玄関先に座り込んでいた。
何も考えられなかった。
どうしてこんなことになったのか。どうすればよかったのか。そんなことを考える力さえ、もう残っていなかった。
「……エミリアたん」
返事はない。
当然だ。
わかっている。わかっているのに。
「……ごめん」
声が震えた。
「……ごめん、な……」
その時、頬に冷たいものが触れた。
雪だった。
「……え?」
顔を上げる。
空から白いものが降ってきている。季節外れの雪。それも、尋常ではない量だった。
庭の草花が白く染まり、石畳に霜が広がっていく。
「……なんだよ、これ」
遠くで何かが砕ける音がした。
続いて、轟音。
森の方角から、巨大な魔力の波が押し寄せてくる。
俺は震える身体で立ち上がろうとした。けれど、足が動かない。
寒い。
寒すぎる。
指先の感覚が、少しずつ失われていく。
「……エリス……?」
森の向こうで、光が走った。
白い空を裂くような、一筋の閃光。
続いて、地面を揺るがす衝撃。
何かが戦っている。
あの森で。
エリスが。ベアトリスが。
「……何、やってんだよ……」
俺は呟いた。
けれど、その声はすぐに白い息へ変わった。
エミリアの身体を抱き締め直す。
もう、冷たかった。
俺の指先も、同じように冷えている。
「……ごめん……」
もう一度、謝った。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
レム。エミリア。エリス。ベアトリス。
みんな。
俺は、何もできなかった。
目の前が、少しずつ暗くなる。
雪が降っている。
静かだった。
さっきまで聞こえていた轟音も、もう遠い。
「……エリス……」
最後に、名前を呼んだ。
あいつは、まだ戦っているのだろうか。
俺が壊してしまった世界を、守ろうとしているのだろうか。
「……悪い……」
唇が動かなくなった。
視界が白く染まる。
そして、何も見えなくなった。
◇◇◇
――音がした。
人の声。馬車の車輪が石畳を叩く音。遠くから聞こえる、商人たちの呼び声。
「……っ!?」
俺は勢いよく顔を上げた。
見慣れた天井。見慣れた部屋。そして、窓の外には王都の街並みが広がっている。
「……は?」
身体を起こす。
痛みがない。寒くもない。
さっきまで全身を覆っていた冷気が、嘘のように消えていた。
「……ここ、は……」
扉が開く。
「スバルくん?」
聞き覚えのある声。
振り向くと、青い髪の少女が立っていた。
「……レム?」
レムは不思議そうに首を傾げた。
「どうしました? そんなに驚いて」
「…………」
俺は何も言えなかった。
レムがいる。生きている。ちゃんと、俺のことを見ている。
「……レム」
「はい?」
気づけば立ち上がっていた。
そのまま彼女へ駆け寄り、抱き締める。
「わっ!? ス、スバルくん!?」
「……よかった」
声が震えた。
「……よかった……!」
レムは驚いたように固まっていたが、やがてそっと俺の背中に手を回した。
「……何か、怖い夢でも見たんですか?」
「……ああ」
俺は彼女の肩に顔を埋めた。
「……最悪の、夢だった」
レムの手が、優しく背中を撫でる。
窓の外では、王都の人々がいつも通りの日常を送っていた。
俺はしばらく、レムを離すことができなかった。