第十四話『怠惰』
SIDE スバル
「……スバルくん?」
聞き慣れた声が、すぐそばから聞こえた。
「スバルくん、そろそろ離していただけませんか?」
「……もうちょい」
「もう、スバルくんったら」
困ったような声。それでもレムは俺を突き放そうとはせず、背中に回した手で優しく撫でてくれた。
彼女の肩に顔を埋めたまま、俺はゆっくりと息を吐いた。温かい。腕の中にいる少女は、間違いなく生きている。規則正しい呼吸も、柔らかな髪の感触も、俺の名前を呼ぶ声も、全部が本物だった。
「……スバルくん?」
「悪い。ちょっと、変な夢見てさ」
「怖い夢ですか?」
「……ああ。とびっきりのやつ」
レムは少し考えるように黙り込んだ後、俺の背中を優しく撫でた。
「でしたら、もう大丈夫ですよ」
「……なんで?」
「だって、レムがここにいますから」
顔を上げると、彼女は当たり前のことを言うように微笑んでいた。その笑顔を見た瞬間、喉の奥が詰まる。
白い霧の中へ飛び込んでいった青い髪。巨大な影に立ち向かう、小さな背中。そして、屋敷へ辿り着いた俺に向けられた、エミリアの困惑した表情。
全部、覚えている。
レムが誰からも忘れられてしまったことも、エミリアが俺の腕の中で息絶えたことも。俺だけが、あの世界で起きたことを覚えていた。
「……なあ、レム」
「はい」
「俺たち、今日これからどうする予定だったっけ?」
「スバルくん?」
「いや、ちょっと確認。ほら、寝起きって頭回んねえじゃん?」
レムは不思議そうに首を傾げながらも、丁寧に答えてくれた。
「クルシュ様のお屋敷で療養を続ける予定でした。スバルくんのお怪我は、まだ完全には治っていませんから」
「……そっか」
「ですが、昨日からロズワール様の領地について、何か気にされているご様子でしたね」
俺は頷いた。戻っている。レムと屋敷へ向かう前に。エミリアが死ぬ前に。まだ、何も失っていない時間へ。
安堵が胸に広がりかけた、その時だった。
脳裏に浮かんだのは、光を失っていく紫紺の瞳だった。
「……っ」
「スバルくん?」
「……なんでもねえ」
俺は笑おうとしたが、頬の筋肉が思うように動かなかった。
◇◇◇
結論から言えば、もう一度屋敷へ向かうしかなかった。
エミリアが死んだ原因は俺だ。あの時、余計なことを口にしなければ、彼女は死なずに済んだはずだった。だったら同じことを繰り返さなければいい。
それに、レムが消えた原因もわかっている。白鯨だ。あの化け物が現れる場所を避ければ、今度こそレムを失わずに済む。
少なくとも、その時の俺はそう考えていた。
「……スバルくん、本当に行くんですか?」
王都の商業区を歩きながら、レムが心配そうに尋ねてきた。
「行く。絶対に」
「ですが、クルシュ様もフェリス様も、まだ療養が必要だと……」
「身体ならもう動くって。ほら、この通り!」
両腕を広げてみせると、レムは俺の胸元へ手を伸ばし、服の上からそっと触れた。
「……無理をしていませんか?」
「してねえって」
「本当ですか?」
「……ちょっとだけ」
「スバルくん」
「はい、すみません」
思わず頭を下げると、レムは小さく笑った。その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
大丈夫だ。今度は失敗しない。
白鯨の出る街道を避けて、魔女教の連中より先に屋敷へ着けばいい。エリスもベアトリスもいる。あいつらに事情を話して、協力してもらえば――。
そこで、ふと足が止まった。
「……あ」
「スバルくん?」
「……いや」
何を話す? 何を、どう説明する?
白鯨が現れること。レムが消されること。エミリアが死ぬこと。そして、俺が死んで戻ってきたこと。
最後の一つだけは、絶対に話せない。
それでもエリスなら、理由を聞かずに信じてくれるだろうか。
『お前がそう言うんなら、そうなんだろ』
そんなふうに笑ってくれる姿が、容易に想像できた。
同時に、王選の後、あいつが差し出してくれた手を振り払った自分を思い出す。
「……くそ」
今さら、どんな顔をして頼ればいいんだよ。
◇◇◇
新しく雇った竜車は、王都を出てから順調に進んでいた。
今回は街道の途中で分岐する、少し遠回りの道を選んでいる。御者の話では道幅が狭く、荷馬車には不向きらしい。その代わり、山沿いを抜ければロズワール領の近くへ出られるという。
白鯨の出現場所を避けるためなら、多少の不便は我慢できた。
「スバルくん、お水をどうぞ」
「サンキュー」
レムから水筒を受け取り、口をつける。揺れる車内から窓の外を眺めれば、木々の間を抜ける陽光が眩しかった。前と違う道を進んでいるというだけで、少しだけ気が楽になっていた。
「……なあ、レム」
「はい」
「エリスってさ、やっぱすげえよな」
唐突な問いに、レムは目を瞬かせた。
「エリス様ですか?」
「ああ」
「はい。とてもお強くて、頼りになる方です」
「だよなぁ」
「ですが、どうして急に?」
「……いや、なんつーかさ。俺も、あいつみたいになれたらなって」
レムは少しだけ黙った。それから、静かに口を開く。
「スバルくんは、スバルくんですよ」
「……そりゃそうだけど」
「エリス様と同じである必要はないと思います。レムは、スバルくんにも素敵なところがたくさんあると知っていますから」
胸が痛んだ。
優しい言葉だった。けれど、今の俺には、その優しさを素直に受け取れなかった。
俺に何ができる? 白鯨から逃げることしかできなかった。エミリアを殺した。エリスにも、あんなひどいことを言った。
それでも、レムは俺を信じてくれる。
「……ありがとな」
それだけ言うのが、精一杯だった。
◇◇◇
異変に気づいたのは、山道へ入ってしばらく経ってからだった。
鳥の声がしない。
木々は風に揺れているのに、妙に静かだった。竜車の車輪が土を踏む音ばかりが耳につき、御者も落ち着かない様子で辺りを見回している。
「……レム」
「はい」
「なんか、おかしくね?」
レムの表情が変わった。さっきまでの柔らかな笑みが消え、青い瞳が鋭く細められる。
「……スバルくん。少し、お静かに」
彼女が耳を澄ませた。俺も息を殺し、周囲の気配を探る。
地竜の足音に混じって、微かに聞こえてきたのは、枝を踏み折るような音だった。
「……止まってください!」
レムが叫んだ。
直後、轟音が響いた。
竜車が大きく傾き、俺の身体が横へ投げ出される。車体の側面に何かが叩きつけられ、木材が砕ける音がした。
「うおっ!?」
「スバルくん!」
レムが俺の腕を掴む。次の瞬間、俺たちは竜車の外へ飛び出していた。
地面を転がり、全身に土埃を浴びる。背中を打った痛みに顔をしかめながら起き上がった俺は、周囲の光景に息を呑んだ。
黒い外套を纏った、何人もの人影。
顔を隠した連中が、森の中から次々と現れてくる。
「……魔女教徒」
レムが低く呟いた。
背筋が冷えた。
魔女教。王都で耳にした、不穏な噂。ロズワール領へ向かう道中でも、その名を聞いたことがあった。
けれど、実際に目の前に現れた連中は、噂よりずっと不気味だった。
誰も喋らない。ただ、じっとこちらを見ている。
「……スバルくん」
レムが俺の前へ出た。
「レムから離れないでください」
「お、おう……」
彼女の手には、いつの間にか鉄球が握られていた。鎖が地面を擦り、金属の重たい音を立てる。
魔女教徒の一人が、ゆっくりと腕を上げた。
その合図と同時に、黒い影が一斉に動いた。
◇◇◇
レムは強かった。
それは俺が一番よく知っている。鉄球が唸りを上げ、飛びかかってきた魔女教徒をまとめて吹き飛ばす。凄まじい衝撃に木々が折れ、土煙が舞い上がった。
「スバルくん! 走ってください!」
「で、でも、お前は!?」
「レムなら大丈夫です!」
その言葉に、足が止まった。
大丈夫。
前にも聞いた。白い霧の中で。
「……っ!」
俺はレムの腕を掴んだ。
「駄目だ!」
「スバルくん!?」
「一緒に逃げるんだよ! お前だけ置いていけるか!」
レムが驚いたように目を見開いた。その一瞬を狙うように、背後の魔女教徒が何かを投げつけてくる。
「――危ない!」
レムが俺を突き飛ばした。
直後、地面が爆ぜる。
衝撃で身体が浮き、木の幹へ背中を叩きつけられた。肺の空気が一気に押し出され、俺は声にならない呻きを漏らす。
「がっ……!」
視界が揺れる。立ち上がろうとしても足に力が入らず、俺は地面に手をついたままレムの姿を探した。
彼女はまだ戦っていた。だが、敵が多すぎる。
前から、横から、背後から。黒い外套が次々と襲いかかり、レムの逃げ道を塞いでいく。
「……レム……!」
俺は手を伸ばした。
その時だった。
「――おやおやおや?」
奇妙な声が、森の中に響いた。
魔女教徒たちの動きが、ぴたりと止まる。
森の奥から、一人の男が歩いてきた。
痩せ細った身体に、緑色の髪。落ち窪んだ目と、顔いっぱいに浮かべた不自然な笑み。
「これはこれは……実に、実に興味深い!」
男は両手を広げ、俺を見つめた。
「あなた……ずいぶんと濃い香りを纏っているではありまセンか!」
「……は?」
男が首を傾けた。人間の関節とは思えない、不気味な角度だった。
「素晴らしい……素晴らしいデスねぇ……! まさか、こんなところで出会えるとは……!」
細い指が自分の頬を掻き始める。爪が皮膚に食い込み、赤い筋が走った。
俺は動けなかった。
男の視線が、俺に貼りついている。まるで、ずっと探していた何かを見つけたかのように。
「……お前、誰だよ」
震える声で尋ねると、男は大げさに目を見開いた。
「おおっ! これは失礼!」
胸に手を当て、深々と頭を下げる。
「ワタクシ、魔女教大罪司教――」
男の口元が、耳まで裂けそうなほど吊り上がった。
「『怠惰』担当、ペテルギウス・ロマネコンティ……デス!」
◇◇◇
「……大罪司教?」
俺はその言葉を繰り返した。
魔女教。大罪司教。その響きだけで、ろくでもない存在だとわかった。
「スバルくん!」
レムが叫ぶ。
「その男から離れてください!」
「おや?」
ペテルギウスがゆっくりと首を回した。
「あなたは……鬼族、デスか」
レムの額から、一本の角が生えていた。周囲のマナが彼女へ集まり、空気が震え始める。
「スバルくんに、近づかないでください!」
鉄球が振り抜かれた。
凄まじい勢いで飛んだ鉄球が、ペテルギウスの頭部を捉える――はずだった。
「……え?」
レムの身体が止まった。
いや、止められた。
何もない空中で、彼女の腕が不自然に持ち上がっている。鉄球は男の手前で軌道を逸らされ、近くの木を粉砕した。
「……な、なんだよ……?」
俺には何も見えなかった。
ただ、レムの身体が宙へ浮かび上がっていく。
「ぐっ……!」
「いけまセンねぇ」
ペテルギウスが悲しそうに首を振った。
「ワタクシが話している最中に割り込むなど……あまりにも、あまりにも怠惰!」
レムの身体が横へ吹き飛ばされ、木の幹へ激突した。
「レム!!」
俺は叫んだ。
ペテルギウスはそんな俺を見て、嬉しそうに笑った。
「おお、素晴らしい反応デス! 愛! 愛デスねぇ! あなたはあの娘を愛しているのデスか!?」
「うるせえ!!」
俺は地面を蹴った。
何をするつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、目の前の男を殴りたかった。
その瞬間、身体が宙へ浮いた。
「――がっ!?」
腹に、何かがめり込んでいる。
見えない。何も見えないのに、確かに何かに掴まれている。四肢を動かそうとしても、びくともしなかった。
「ぐ……あ……!」
「おやおや、あなたも随分と短気デスねぇ」
ペテルギウスが俺へ顔を近づけた。
「しかし……その香り……なんと甘美な……!」
男は鼻をひくつかせ、恍惚とした表情を浮かべる。俺は吐き気を堪えながら、必死に睨みつけた。
「……離せ……!」
「ふむ?」
ペテルギウスは、ふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……例の騎士への手配は、どうなっているのデス?」
背後に控えていた魔女教徒が、頭を下げる。
「滞りなく。各所への配置は完了しております」
「結構、結構!」
ペテルギウスは満足そうに頷いた。
「エリス・フォン・フェンウィック……実に厄介な騎士デスからねぇ」
その名前に、俺の心臓が跳ねた。
「……エリス?」
「おや? ご存じなのデスか?」
「……お前ら、エリスに何するつもりだ」
「何を?」
男は不思議そうに首を傾げた。
「何もするつもりはありまセンよ。強い者に正面から挑むなど、無益な行為デス。勤勉とは、ただ闇雲に働くことではありまセン」
細い指が一本、立てられる。
「必要なのは、正しい場所で、正しい時に、正しい役割を果たすこと。どれほど優れた騎士であろうとも、身体は一つしかありまセンからねぇ」
背筋が冷たくなった。
こいつらは知っている。エリスのことを。あいつが強いことも、屋敷にいることも、全部知った上で動いている。
「……ふざけんな……」
「ふざける?」
ペテルギウスの表情が消えた。
「ワタクシは、至って真面目デスが?」
見えない力が、俺の身体を締め上げる。骨が軋み、肺から空気が押し出された。
「がっ……!」
「ワタクシの勤勉を疑うなど……なんという、なんという怠惰!」
視界が霞む。
その端で、レムが立ち上がるのが見えた。
「……スバル、くん……!」
額の角が、赤く輝いていた。
◇◇◇
「その手を……離しなさい!!」
レムが飛び込んできた。
鉄球が唸りを上げ、ペテルギウスへ迫る。だが男は慌てる様子もなく、ゆっくりと振り向いた。
「……ああ。実に、実に勤勉デスねぇ」
次の瞬間、レムの身体が宙で止まった。
「……っ!?」
見えない何かが、彼女の四肢を掴んでいる。レムは必死にもがいたが、身体は少しも動かなかった。
「やめろ……!」
俺は叫んだ。
「やめろよ!!」
ペテルギウスは俺を見て、にっこりと笑った。
「どうしてデス?」
「レムを離せ!!」
「ですが、この娘はワタクシを殺そうとしたのデスよ?」
「頼む……! 頼むから……!」
声が裏返った。
ペテルギウスはしばらく俺を眺めていた。それから、嬉しそうに頷く。
「なるほど。あなたの愛を、試してみまショウ」
レムの腕が、不自然な方向へ曲がった。
「――っああああ!!」
乾いた音が響いた。
俺は一瞬、何が起こったのか理解できなかった。レムの腕が、あり得ない角度で折れ曲がっている。
「やめろ……」
もう片方の腕がねじれ、彼女の悲鳴が森に響き渡った。
「やめろって……! やめろぉぉぉぉ!!」
俺は必死に暴れた。けれど、見えない何かに掴まれた身体は、びくともしない。
ペテルギウスは楽しそうに笑っていた。
「愛! 実に素晴らしい! 苦痛の中でもなお、他者を想うその姿!」
レムの身体が、地面へ叩きつけられる。
一度、二度。衝撃のたびに土が跳ね、青い髪が乱れた。彼女はもう抵抗することさえできなくなっていた。
「やめてくれ……!」
喉が裂けそうだった。
「頼む……もう、やめてくれ……!」
ペテルギウスは首を傾げた。
「……おや?」
レムの身体が動かなくなった。
青い髪が、地面に広がっている。
「……レム?」
返事はない。
「……おい」
俺は彼女を見つめた。
さっきまで笑っていた。俺に水を渡してくれた。俺のことを、信じてくれていた。
なのに。
「……レム……?」
ペテルギウスが、つまらなさそうにため息をついた。
「……壊れてしまいましたか」
その一言で、頭の中に張り詰めていた何かが切れた。
俺は目の前の光景を理解しようとした。レムが倒れている。動かない。呼びかけても答えない。そんな単純なことが、どうしても頭に入ってこなかった。
だって、レムはさっきまで生きていたのだ。俺の隣で笑って、俺を心配して、俺には素敵なところがあると言ってくれた。
そんな彼女が、こんな場所で死ぬはずがない。
「……あ」
声が漏れた。
ペテルギウスの笑い声が聞こえる。魔女教徒たちが何かを話している。けれど、どの言葉も意味を持たず、ただ耳の奥を通り過ぎていった。
「……レム、起きろよ……」
返事はなかった。
◇◇◇
どれほど時間が経ったのだろう。
気づけば、俺は地面に座り込んでいた。身体のあちこちが痛むはずなのに、何も感じなかった。
目の前にはレムがいる。
動かない。何も言わない。ただ、そこに横たわっている。
「……レム」
手を伸ばし、青い髪に触れた。
冷たかった。
「……はは」
自分の口から笑い声が漏れたことに、少し驚いた。
「……なんだよ、これ」
ペテルギウスたちの姿は、もう見えなかった。どうして俺だけが生かされたのかも、わからない。
俺はレムの肩に手をかけ、そっと揺すった。
「……なあ、帰ろうぜ」
返事はない。
「エリスがさ、いるんだよ。あいつ、すげえ強いんだ。ベティーもいるし、リアだって……」
そこで言葉が止まった。
エミリア。
あの子も、死んだ。
俺のせいで。
さっきまで忘れようとしていた光景が、鮮明に蘇る。俺の腕の中で息絶えたエミリアと、目の前に横たわるレム。その二人の姿が、頭の中で重なった。
「……はは……」
おかしかった。
何もかもが、おかしかった。
「……帰ろう、レム」
彼女の身体を抱き上げようとする。けれど、腕に力が入らなかった。何度持ち上げようとしても、膝が崩れ、地面へ倒れ込んでしまう。
それでも、俺は繰り返した。
レムを連れて帰らなければならない。エリスに会えば、きっと何とかしてくれる。あいつは強いから。俺と違って、何でもできるから。
「……なんでだよ……」
涙が落ちた。
「……なんで、俺は……」
何もできない。
何一つ。
俺は地面に額を押しつけた。土の匂いが鼻を刺し、喉の奥から嗚咽が込み上げる。
どれだけ泣いても、レムは起きなかった。
◇◇◇
夜になった。
森は静まり返り、昼間の戦いが嘘だったかのように、虫の声さえ聞こえなかった。
俺はレムのそばから動けなかった。いや、動こうとする理由を見つけられなかった。
屋敷へ戻る? エリスに助けを求める?
何を助けてもらう?
レムは、もう。
「…………」
ふと、地面に白いものが落ちた。
雪だった。
俺はゆっくりと顔を上げる。季節外れの雪が、暗い空から静かに降り始めていた。
「……また、か」
笑いが漏れた。
知っている。この寒さを。この、世界が凍りついていく感覚を。
森の奥から、低い音が響いた。巨大な何かが大地を踏みしめるような音に続き、凄まじい冷気が押し寄せてくる。
「……パック……?」
返事はなかった。
ただ、木々が凍りついていく。
遠くで光が走り、遅れて轟音が響いた。森の向こうでは、誰かが戦っているらしい。
エリスだろうか。
ベティーだろうか。
あいつらは今も、何かを守ろうとしているのだろうか。
俺はレムの身体を抱き寄せた。冷え切った頬に触れると、ほんの少し前まで彼女が笑っていたことが、どうしようもなく信じられなかった。
「……寒いな、レム」
答えは返ってこない。
俺は彼女の髪を撫でた。
「……今度こそ、守るからさ」
自分の言葉が、ひどく空虚に聞こえた。
雪が降り積もり、身体の感覚が少しずつ失われていく。指先から始まった冷たさは、やがて腕へ、胸へと広がっていった。
それでも俺は、レムを抱き締めたまま目を閉じた。
もう、彼女を一人にしたくなかった。
◇◇◇
人の声が聞こえた。
馬車の車輪が石畳を叩く音。遠くから聞こえる商人たちの呼び声。そして、すぐそばから聞こえてくる、あまりにも懐かしい声。
「……スバルくん?」
俺はゆっくりと顔を上げた。
青い髪。優しい瞳。心配そうにこちらを見つめる少女。
「……どうしました?」
レムが、そこにいた。
生きている。笑っている。そして、俺を見ている。
「……レム」
「はい?」
俺は彼女を見つめたまま、何も言えなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。さっきまで腕の中で冷たくなっていたはずの少女が、今は目の前で息をしている。
その事実を理解した途端、喉の奥から奇妙な音が漏れた。
「……あ」
笑い声だった。
「……あは」
レムの表情が変わる。
「……スバルくん?」
俺は笑い続けた。自分でも、なぜ笑っているのかわからなかった。涙が頬を伝い、呼吸が乱れているのに、口元だけが勝手に歪んでいく。
レムが慌てて俺の肩に手を置いた。
温かかった。
その温もりに触れた瞬間、俺はようやく理解した。
また、戻ってきたのだ。
レムが死ぬ前へ。エミリアが死ぬ前へ。誰も失っていない、あの時間へ。
なのに、俺の頭の中には、レムの悲鳴がまだ響いていた。
「……スバルくん、大丈夫ですか?」
心配そうな声が聞こえる。
俺は答えようとした。
けれど、何を言えばいいのかわからない。
目の前のレムは生きている。それなのに、俺は彼女が死んだ瞬間を知っている。
その二つがどうしても噛み合わず、俺はただ、彼女の顔を見つめ続けた。
「……あ、はは……」
レムが何度も名前を呼んでくれた。
俺はその声を聞きながら、いつまでも笑っていた。