SIDE レム
「……スバルくん?」
返事はなかった。
目の前の少年は、ただ笑っていた。何か楽しいことがあったわけでも、誰かに冗談を言われたわけでもない。頬を涙で濡らしながら、喉の奥から掠れた笑い声を漏らしている。
「……あ、はは……」
レムは困惑していた。つい先ほどまで、スバルは普段通りだったはずだ。少なくとも、彼が突然こんな状態になるような出来事は何も起きていない。それなのに、目の前の少年はまるで別人だった。
「スバルくん、どうしたんですか? どこか痛むんですか?」
肩に手を添え、顔を覗き込む。スバルの瞳が動いたが、その視線はレムを捉えているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。
「……レム」
「はい。レムはここにいますよ」
「……生きてる」
「……はい?」
聞き返すと、スバルは震える手を伸ばしてきた。頬に触れた指先は驚くほど冷たく、その手つきは、何か壊れやすいものを確かめるように慎重だった。
「……あったかい」
その声は、泣き出す寸前の子供のようだった。
レムは胸の奥が締めつけられるのを感じた。何があったのかはわからない。けれど、今のスバルを一人にしてはいけない。それだけは、はっきりとわかった。
「……スバルくん」
レムは彼の手を取り、両手で包み込んだ。
「大丈夫です。レムは、どこにも行きませんから」
その言葉を聞いた途端、スバルの表情が歪んだ。
「……だめだ」
「スバルくん?」
「……行くな。どこにも、行くなよ……」
レムは静かに頷いた。
「はい。約束します」
スバルは何度も頷いた。まるで、その約束を自分自身に言い聞かせるように。やがて笑い声は止まったが、彼の瞳に光が戻ることはなかった。
レムはその手を握ったまま、ただ彼のそばに寄り添った。
◇◇◇
クルシュ邸へ戻ってからも、スバルの様子は変わらなかった。
食事を前にしても手をつけず、誰かが話しかけても反応しない。時折、何かに怯えるように肩を震わせ、レムの姿が見えなくなると途端に呼吸を乱した。
フェリスによる診察でも、明確な原因はわからなかった。
「……身体の方は、特別悪くなってるわけじゃないんだけどにゃあ」
診察を終えたフェリスが、困ったように耳を伏せる。
「むしろ、傷は順調に治ってるくらい。なのに、こっちの呼びかけにはほとんど反応しないし……」
「……治りますか?」
レムが尋ねると、フェリスはすぐには答えなかった。
「心の問題って、魔法で簡単に治せるものじゃないからね。何があったのか、少しでもわかればいいんだけど……」
レムは寝台に腰掛けるスバルを見た。彼は窓の外を眺めていた。そこにはいつもの軽口も、ふざけた笑顔もない。
「……スバルくん」
呼びかけても、返事はなかった。
レムは唇を噛んだ。何があったのだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。自分が少し目を離した間に、彼は一体何を見たというのか。
「……レムちゃん」
フェリスが静かに声をかける。
「今は、無理に何かさせようとしない方がいいと思う。少し休ませてあげて」
「……はい」
レムは頷いた。けれど、その言葉だけで安心することはできなかった。スバルの心が、今もどこか遠くに置き去りにされているように思えたからだ。
翌日、レムはクルシュのもとを訪ねた。スバルをロズワール邸へ連れ帰りたい。そう申し出たレムに、クルシュは厳しい表情を向けた。
「……今の彼を移動させるのか?」
「はい」
「フェリスから話は聞いている。心身ともに、決して良い状態ではないそうだな」
「……承知しています」
レムは深く頭を下げた。
「ですが、スバルくんはエミリア様のことを、とても気にかけていました。お屋敷へ戻れば、少しは落ち着かれるかもしれません」
クルシュは腕を組み、しばらく考え込んだ。
「エリス卿も、あちらにいるのだったな」
「はい。エリス様とベアトリス様も、お屋敷にいらっしゃいます」
「……そうか。彼ならば、何か力になれるかもしれん。しかし、道中の安全は保証できないぞ」
「レムが、必ずお守りします」
迷いのない返答だった。
クルシュはレムを見つめた後、静かに頷いた。
「わかった。だが、くれぐれも無理はするな。状況が悪ければ、すぐに引き返すのだ」
「ありがとうございます」
レムはもう一度頭を下げた。
彼女には、どうしても確かめたいことがあった。スバルが何を恐れているのか、どうして突然変わってしまったのか。その答えが見つからなくても、せめて彼が安心して眠れる場所へ連れて帰ってあげたかった。
◇◇◇
SIDE スバル
竜車の揺れが、身体に伝わってくる。
窓の外では、見覚えのある景色が流れていた。木々の間から差し込む陽光も、地竜の足音も、何もかもが以前と同じだった。
違うのは、俺だけだった。
「……スバルくん」
隣から声がした。レムだ。
「もう少しで休憩できますからね」
俺はゆっくりと顔を動かした。青い髪の少女が、心配そうにこちらを見ている。
生きている。また、生きている。
けれど、彼女の顔を見るたびに、あの光景が浮かんでくる。折れ曲がった腕。地面に広がる青い髪。動かなくなった、小さな身体。
「……あ」
喉から声が漏れた。
「スバルくん?」
レムが身を乗り出す。その瞬間、俺は反射的に身体を引いてしまった。
彼女の手が止まる。
「……ごめんなさい」
悲しそうな声だった。
違う。謝るのは俺の方だ。お前は何も悪くない。悪いのは全部俺だ。
そう言いたかったのに、言葉が出なかった。喉の奥で何かが引っかかり、口を開いても息が漏れるだけだった。
俺は膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みだけが、妙にはっきりしていた。
竜車が小さく揺れた。
レムはそれ以上何も言わず、俺の隣に座っていた。時折、こちらの様子を窺う気配がする。そのたびに何かを伝えようと思うのに、言葉が見つからなかった。
やがて竜車は森の近くで一度止まった。御者が地竜を休ませている間、レムは水を汲みに行くと言った。
「すぐ戻りますから、ここで待っていてくださいね」
俺は答えなかった。
レムは少し困ったように微笑むと、俺の肩に毛布をかけてくれた。
「……寒くありませんか?」
返事がないことを確かめると、彼女は立ち上がった。その背中が遠ざかり、青い髪が木々の向こうへ消えようとした瞬間、心臓が跳ねた。
行くな。
行くな。
行くな。
俺は立ち上がろうとしたが、足がもつれ、竜車の床へ倒れ込んだ。
「……レ、ム……!」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
レムが振り返る。
「スバルくん!?」
彼女が駆け戻ってくると、俺はその服を掴んだ。必死に、離さないように。
「……い、くな……」
レムが息を呑んだ。
「……スバルくん」
「……いくな……」
それしか言えなかった。
レムは膝をつき、俺の手をそっと握った。
「……はい。行きません。レムは、スバルくんのそばにいます」
俺は何度も頷いた。彼女の服を掴んだまま、子供のように。
レムはそんな俺を責めることなく、ただ優しく背中を撫でてくれた。
◇◇◇
夜が近づいていた。
竜車は山道を進んでいる。前とは違う道。白鯨のいた場所を避けた道。それでも、胸の奥の不安は消えなかった。
レムが隣にいる。それだけが、今の俺を繋ぎ止めていた。
「……スバルくん」
彼女がそっと声をかける。
「お屋敷に着いたら、エミリア様にお会いしましょうね」
エミリア。その名前を聞いた瞬間、身体が震えた。
俺の腕の中で死んだ少女。何も知らずに、俺を心配してくれた少女。
「……それから、エリス様にも」
レムは続けた。
「きっと、スバルくんのことを心配していらっしゃいますよ」
エリス。
銀色の髪。不敵な笑み。いつだって、誰よりも堂々としている男。
『お前、そんな顔してどうした?』
そんな声が頭の中に響いた。
俺は、あいつに会いたかった。会って、助けてくれと言いたかった。けれど、同時に怖かった。
あいつの前に立てば、自分がどれほど惨めなのか、嫌でも思い知らされる気がしたからだ。
そんなことを考えているうちに、竜車が突然止まった。
「……?」
御者の声がした。
「お、おい……なんだ、あれ……?」
レムが窓の外を見る。その表情が、険しくなった。
「……スバルくん」
彼女は立ち上がった。
「ここで待っていてください」
その言葉を聞いた瞬間、俺は首を振った。
嫌だ。行くな。また、いなくなる。
「……スバルくん」
レムが俺の頬に触れた。
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
その笑顔を、俺は知っていた。
白い霧の中で見た笑顔と、同じだった。
黒い外套の男たちが、街道を塞いでいた。
魔女教徒。
その姿を見た瞬間、俺の呼吸が止まった。
レムは竜車の前へ出ると、鉄球を構えて敵を睨みつけた。
「……スバルくんには、指一本触れさせません」
黒い外套が動く。レムの鉄球が唸り、悲鳴が響く。木々が折れ、土埃が舞い上がった。
俺は竜車の中で、ただその光景を見ていた。
逃げろ。
そう叫びたかった。
けれど、身体が言うことを聞かない。
その時、魔女教徒の一人が、懐から何かを取り出した。小さな筒のようなものだった。
次の瞬間、鋭い音が響き渡った。
笛の音。
森の奥から、別の音が返ってきた。
レムの表情が変わった。
「……っ!」
彼女はすぐさま竜車へ戻ってきた。
「スバルくん、逃げます!」
レムは俺の腕を掴むと、御者に向かって叫んだ。
「このまま走ってください! 全速力で!」
竜車が勢いよく動き出す。車輪が石を跳ね、身体が大きく揺れた。
後方から怒号が聞こえる。
レムは窓から身を乗り出し、追いすがる魔女教徒へ鉄球を振るった。木々の間を抜けながら、竜車は必死に逃走を続けた。
しばらくして、追っ手の姿が見えなくなった。
レムが安堵の息を漏らす。
「……なんとか、振り切れましたね」
その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。
逃げられた。
今度は、逃げられたのか。
そう思った直後だった。
竜車の前方で、轟音が響いた。
地面が爆ぜ、地竜が悲鳴を上げる。車体が横転し、俺たちは荷台の中へ投げ出された。
「――っ!」
レムが俺を抱き寄せる。衝撃から庇うように、その小さな身体で覆い被さってきた。
激しい音とともに、竜車が地面を滑る。
ようやく動きが止まった時、俺はレムの腕の中にいた。
「……レム……?」
彼女は答えなかった。
俺を抱き締めたまま、動かない。
額から赤いものが流れ落ち、青い髪を濡らしていた。
「……レム?」
俺は彼女の肩に触れた。
その身体が、ゆっくりと傾く。
俺の胸元へ、重みが落ちてきた。
「……あ」
呼吸が、止まった。
まただ。
また、俺の目の前で。
「……レム……」
今度はペテルギウスの姿も、見えない手もなかった。ただ、壊れた竜車の中で、レムが動かなくなっていた。
俺は彼女の身体を抱き締めた。まだ温かかった。
「……起きろよ……」
返事はない。
「……レム……起きろって……」
俺は何度も名前を呼んだ。けれど、彼女の瞳が開くことはなかった。
外から足音が聞こえる。魔女教徒たちが近づいてきているのだろう。
それでも、俺は動かなかった。
逃げることも、助けを求めることもできなかった。
ただ、レムを抱き締め続けた。
やがて、壊れた竜車の隙間から黒い外套が覗いた。
「……生き残りがいるぞ」
誰かの声がした。
俺は顔を上げなかった。
もう、何も見たくなかった。
足音が近づき、誰かが俺の肩を掴んだ。
その手を振り払う気力さえ、残っていなかった。
「……レム……」
俺は、彼女の名前を呼んだ。
次の瞬間、首筋に冷たいものが触れた。
鋭い痛みが走り、視界が傾く。
それでも最後まで、俺はレムの身体を離さなかった。
◇◇◇
――声が聞こえた。
「……スバルくん?」
俺は目を開けた。
青い髪の少女が、目の前にいた。
レム。
また、生きている。
「……どうしました?」
彼女が首を傾げる。
俺はしばらく、その顔を見つめていた。
何も言えなかった。けれど、今度は笑わなかった。
ただ、涙が一筋、頬を伝った。
「……スバルくん?」
レムが心配そうに手を伸ばしてくる。
俺はその手を握った。
温かかった。
何度失っても、彼女はこうして戻ってくる。けれど、俺の中には、失った記憶だけが積み重なっていく。
「……レム」
「はい」
「……俺さ」
言葉が詰まった。
何を言えばいいのか、わからない。
ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。
もう、誰も死なせたくない。
エミリアも、レムも、誰一人。
けれど、俺に何ができるというのだろう。どれだけ必死になっても、何度やり直しても、結局は同じ結末に辿り着いてしまう。
「……俺、もう……」
声が震えた。
レムが、じっと俺を見つめていた。
俺は彼女の手を握りしめたまま、俯いた。
「……もう、嫌だ……」
その言葉だけが、ようやく口から零れ落ちた。
何度もやり直せる。
何度でも、失ったものを取り戻せる。
それなのに、どうして俺は、何一つ守れないのだろう。
俺はレムの手を握ったまま、声を殺して泣いた。