月光る夜   作:案院運

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すみません1個前の話飛ばしました。


白鯨〜怠惰4

 

SIDE レム

 

「……スバルくん?」

 

 返事はなかった。

 

 目の前の少年は、ただ笑っていた。何か楽しいことがあったわけでも、誰かに冗談を言われたわけでもない。頬を涙で濡らしながら、喉の奥から掠れた笑い声を漏らしている。

 

「……あ、はは……」

 

 レムは困惑していた。つい先ほどまで、スバルは普段通りだったはずだ。少なくとも、彼が突然こんな状態になるような出来事は何も起きていない。それなのに、目の前の少年はまるで別人だった。

 

「スバルくん、どうしたんですか? どこか痛むんですか?」

 

 肩に手を添え、顔を覗き込む。スバルの瞳が動いたが、その視線はレムを捉えているようで、どこか遠くを見ているようでもあった。

 

「……レム」

 

「はい。レムはここにいますよ」

 

「……生きてる」

 

「……はい?」

 

 聞き返すと、スバルは震える手を伸ばしてきた。頬に触れた指先は驚くほど冷たく、その手つきは、何か壊れやすいものを確かめるように慎重だった。

 

「……あったかい」

 

 その声は、泣き出す寸前の子供のようだった。

 

 レムは胸の奥が締めつけられるのを感じた。何があったのかはわからない。けれど、今のスバルを一人にしてはいけない。それだけは、はっきりとわかった。

 

「……スバルくん」

 

 レムは彼の手を取り、両手で包み込んだ。

 

「大丈夫です。レムは、どこにも行きませんから」

 

 その言葉を聞いた途端、スバルの表情が歪んだ。

 

「……だめだ」

 

「スバルくん?」

 

「……行くな。どこにも、行くなよ……」

 

 レムは静かに頷いた。

 

「はい。約束します」

 

 スバルは何度も頷いた。まるで、その約束を自分自身に言い聞かせるように。やがて笑い声は止まったが、彼の瞳に光が戻ることはなかった。

 

 レムはその手を握ったまま、ただ彼のそばに寄り添った。

 

     ◇◇◇

 

 クルシュ邸へ戻ってからも、スバルの様子は変わらなかった。

 

 食事を前にしても手をつけず、誰かが話しかけても反応しない。時折、何かに怯えるように肩を震わせ、レムの姿が見えなくなると途端に呼吸を乱した。

 

 フェリスによる診察でも、明確な原因はわからなかった。

 

「……身体の方は、特別悪くなってるわけじゃないんだけどにゃあ」

 

 診察を終えたフェリスが、困ったように耳を伏せる。

 

「むしろ、傷は順調に治ってるくらい。なのに、こっちの呼びかけにはほとんど反応しないし……」

 

「……治りますか?」

 

 レムが尋ねると、フェリスはすぐには答えなかった。

 

「心の問題って、魔法で簡単に治せるものじゃないからね。何があったのか、少しでもわかればいいんだけど……」

 

 レムは寝台に腰掛けるスバルを見た。彼は窓の外を眺めていた。そこにはいつもの軽口も、ふざけた笑顔もない。

 

「……スバルくん」

 

 呼びかけても、返事はなかった。

 

 レムは唇を噛んだ。何があったのだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。自分が少し目を離した間に、彼は一体何を見たというのか。

 

「……レムちゃん」

 

 フェリスが静かに声をかける。

 

「今は、無理に何かさせようとしない方がいいと思う。少し休ませてあげて」

 

「……はい」

 

 レムは頷いた。けれど、その言葉だけで安心することはできなかった。スバルの心が、今もどこか遠くに置き去りにされているように思えたからだ。

 

 翌日、レムはクルシュのもとを訪ねた。スバルをロズワール邸へ連れ帰りたい。そう申し出たレムに、クルシュは厳しい表情を向けた。

 

「……今の彼を移動させるのか?」

 

「はい」

 

「フェリスから話は聞いている。心身ともに、決して良い状態ではないそうだな」

 

「……承知しています」

 

 レムは深く頭を下げた。

 

「ですが、スバルくんはエミリア様のことを、とても気にかけていました。お屋敷へ戻れば、少しは落ち着かれるかもしれません」

 

 クルシュは腕を組み、しばらく考え込んだ。

 

「エリス卿も、あちらにいるのだったな」

 

「はい。エリス様とベアトリス様も、お屋敷にいらっしゃいます」

 

「……そうか。彼ならば、何か力になれるかもしれん。しかし、道中の安全は保証できないぞ」

 

「レムが、必ずお守りします」

 

 迷いのない返答だった。

 

 クルシュはレムを見つめた後、静かに頷いた。

 

「わかった。だが、くれぐれも無理はするな。状況が悪ければ、すぐに引き返すのだ」

 

「ありがとうございます」

 

 レムはもう一度頭を下げた。

 

 彼女には、どうしても確かめたいことがあった。スバルが何を恐れているのか、どうして突然変わってしまったのか。その答えが見つからなくても、せめて彼が安心して眠れる場所へ連れて帰ってあげたかった。

 

     ◇◇◇

 

SIDE スバル

 

 竜車の揺れが、身体に伝わってくる。

 

 窓の外では、見覚えのある景色が流れていた。木々の間から差し込む陽光も、地竜の足音も、何もかもが以前と同じだった。

 

 違うのは、俺だけだった。

 

「……スバルくん」

 

 隣から声がした。レムだ。

 

「もう少しで休憩できますからね」

 

 俺はゆっくりと顔を動かした。青い髪の少女が、心配そうにこちらを見ている。

 

 生きている。また、生きている。

 

 けれど、彼女の顔を見るたびに、あの光景が浮かんでくる。折れ曲がった腕。地面に広がる青い髪。動かなくなった、小さな身体。

 

「……あ」

 

 喉から声が漏れた。

 

「スバルくん?」

 

 レムが身を乗り出す。その瞬間、俺は反射的に身体を引いてしまった。

 

 彼女の手が止まる。

 

「……ごめんなさい」

 

 悲しそうな声だった。

 

 違う。謝るのは俺の方だ。お前は何も悪くない。悪いのは全部俺だ。

 

 そう言いたかったのに、言葉が出なかった。喉の奥で何かが引っかかり、口を開いても息が漏れるだけだった。

 

 俺は膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みだけが、妙にはっきりしていた。

 

 竜車が小さく揺れた。

 

 レムはそれ以上何も言わず、俺の隣に座っていた。時折、こちらの様子を窺う気配がする。そのたびに何かを伝えようと思うのに、言葉が見つからなかった。

 

 やがて竜車は森の近くで一度止まった。御者が地竜を休ませている間、レムは水を汲みに行くと言った。

 

「すぐ戻りますから、ここで待っていてくださいね」

 

 俺は答えなかった。

 

 レムは少し困ったように微笑むと、俺の肩に毛布をかけてくれた。

 

「……寒くありませんか?」

 

 返事がないことを確かめると、彼女は立ち上がった。その背中が遠ざかり、青い髪が木々の向こうへ消えようとした瞬間、心臓が跳ねた。

 

 行くな。

 

 行くな。

 

 行くな。

 

 俺は立ち上がろうとしたが、足がもつれ、竜車の床へ倒れ込んだ。

 

「……レ、ム……!」

 

 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。

 

 レムが振り返る。

 

「スバルくん!?」

 

 彼女が駆け戻ってくると、俺はその服を掴んだ。必死に、離さないように。

 

「……い、くな……」

 

 レムが息を呑んだ。

 

「……スバルくん」

 

「……いくな……」

 

 それしか言えなかった。

 

 レムは膝をつき、俺の手をそっと握った。

 

「……はい。行きません。レムは、スバルくんのそばにいます」

 

 俺は何度も頷いた。彼女の服を掴んだまま、子供のように。

 

 レムはそんな俺を責めることなく、ただ優しく背中を撫でてくれた。

 

     ◇◇◇

 

 夜が近づいていた。

 

 竜車は山道を進んでいる。前とは違う道。白鯨のいた場所を避けた道。それでも、胸の奥の不安は消えなかった。

 

 レムが隣にいる。それだけが、今の俺を繋ぎ止めていた。

 

「……スバルくん」

 

 彼女がそっと声をかける。

 

「お屋敷に着いたら、エミリア様にお会いしましょうね」

 

 エミリア。その名前を聞いた瞬間、身体が震えた。

 

 俺の腕の中で死んだ少女。何も知らずに、俺を心配してくれた少女。

 

「……それから、エリス様にも」

 

 レムは続けた。

 

「きっと、スバルくんのことを心配していらっしゃいますよ」

 

 エリス。

 

 銀色の髪。不敵な笑み。いつだって、誰よりも堂々としている男。

 

『お前、そんな顔してどうした?』

 

 そんな声が頭の中に響いた。

 

 俺は、あいつに会いたかった。会って、助けてくれと言いたかった。けれど、同時に怖かった。

 

 あいつの前に立てば、自分がどれほど惨めなのか、嫌でも思い知らされる気がしたからだ。

 

 そんなことを考えているうちに、竜車が突然止まった。

 

「……?」

 

 御者の声がした。

 

「お、おい……なんだ、あれ……?」

 

 レムが窓の外を見る。その表情が、険しくなった。

 

「……スバルくん」

 

 彼女は立ち上がった。

 

「ここで待っていてください」

 

 その言葉を聞いた瞬間、俺は首を振った。

 

 嫌だ。行くな。また、いなくなる。

 

「……スバルくん」

 

 レムが俺の頬に触れた。

 

「大丈夫です。すぐ戻りますから」

 

 その笑顔を、俺は知っていた。

 

 白い霧の中で見た笑顔と、同じだった。

 

 黒い外套の男たちが、街道を塞いでいた。

 

 魔女教徒。

 

 その姿を見た瞬間、俺の呼吸が止まった。

 

 レムは竜車の前へ出ると、鉄球を構えて敵を睨みつけた。

 

「……スバルくんには、指一本触れさせません」

 

 黒い外套が動く。レムの鉄球が唸り、悲鳴が響く。木々が折れ、土埃が舞い上がった。

 

 俺は竜車の中で、ただその光景を見ていた。

 

 逃げろ。

 

 そう叫びたかった。

 

 けれど、身体が言うことを聞かない。

 

 その時、魔女教徒の一人が、懐から何かを取り出した。小さな筒のようなものだった。

 

 次の瞬間、鋭い音が響き渡った。

 

 笛の音。

 

 森の奥から、別の音が返ってきた。

 

 レムの表情が変わった。

 

「……っ!」

 

 彼女はすぐさま竜車へ戻ってきた。

 

「スバルくん、逃げます!」

 

 レムは俺の腕を掴むと、御者に向かって叫んだ。

 

「このまま走ってください! 全速力で!」

 

 竜車が勢いよく動き出す。車輪が石を跳ね、身体が大きく揺れた。

 

 後方から怒号が聞こえる。

 

 レムは窓から身を乗り出し、追いすがる魔女教徒へ鉄球を振るった。木々の間を抜けながら、竜車は必死に逃走を続けた。

 

 しばらくして、追っ手の姿が見えなくなった。

 

 レムが安堵の息を漏らす。

 

「……なんとか、振り切れましたね」

 

 その言葉に、俺は少しだけ顔を上げた。

 

 逃げられた。

 

 今度は、逃げられたのか。

 

 そう思った直後だった。

 

 竜車の前方で、轟音が響いた。

 

 地面が爆ぜ、地竜が悲鳴を上げる。車体が横転し、俺たちは荷台の中へ投げ出された。

 

「――っ!」

 

 レムが俺を抱き寄せる。衝撃から庇うように、その小さな身体で覆い被さってきた。

 

 激しい音とともに、竜車が地面を滑る。

 

 ようやく動きが止まった時、俺はレムの腕の中にいた。

 

「……レム……?」

 

 彼女は答えなかった。

 

 俺を抱き締めたまま、動かない。

 

 額から赤いものが流れ落ち、青い髪を濡らしていた。

 

「……レム?」

 

 俺は彼女の肩に触れた。

 

 その身体が、ゆっくりと傾く。

 

 俺の胸元へ、重みが落ちてきた。

 

「……あ」

 

 呼吸が、止まった。

 

 まただ。

 

 また、俺の目の前で。

 

「……レム……」

 

 今度はペテルギウスの姿も、見えない手もなかった。ただ、壊れた竜車の中で、レムが動かなくなっていた。

 

 俺は彼女の身体を抱き締めた。まだ温かかった。

 

「……起きろよ……」

 

 返事はない。

 

「……レム……起きろって……」

 

 俺は何度も名前を呼んだ。けれど、彼女の瞳が開くことはなかった。

 

 外から足音が聞こえる。魔女教徒たちが近づいてきているのだろう。

 

 それでも、俺は動かなかった。

 

 逃げることも、助けを求めることもできなかった。

 

 ただ、レムを抱き締め続けた。

 

 やがて、壊れた竜車の隙間から黒い外套が覗いた。

 

「……生き残りがいるぞ」

 

 誰かの声がした。

 

 俺は顔を上げなかった。

 

 もう、何も見たくなかった。

 

 足音が近づき、誰かが俺の肩を掴んだ。

 

 その手を振り払う気力さえ、残っていなかった。

 

「……レム……」

 

 俺は、彼女の名前を呼んだ。

 

 次の瞬間、首筋に冷たいものが触れた。

 

 鋭い痛みが走り、視界が傾く。

 

 それでも最後まで、俺はレムの身体を離さなかった。

 

     ◇◇◇

 

 ――声が聞こえた。

 

「……スバルくん?」

 

 俺は目を開けた。

 

 青い髪の少女が、目の前にいた。

 

 レム。

 

 また、生きている。

 

「……どうしました?」

 

 彼女が首を傾げる。

 

 俺はしばらく、その顔を見つめていた。

 

 何も言えなかった。けれど、今度は笑わなかった。

 

 ただ、涙が一筋、頬を伝った。

 

「……スバルくん?」

 

 レムが心配そうに手を伸ばしてくる。

 

 俺はその手を握った。

 

 温かかった。

 

 何度失っても、彼女はこうして戻ってくる。けれど、俺の中には、失った記憶だけが積み重なっていく。

 

「……レム」

 

「はい」

 

「……俺さ」

 

 言葉が詰まった。

 

 何を言えばいいのか、わからない。

 

 ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。

 

 もう、誰も死なせたくない。

 

 エミリアも、レムも、誰一人。

 

 けれど、俺に何ができるというのだろう。どれだけ必死になっても、何度やり直しても、結局は同じ結末に辿り着いてしまう。

 

「……俺、もう……」

 

 声が震えた。

 

 レムが、じっと俺を見つめていた。

 

 俺は彼女の手を握りしめたまま、俯いた。

 

「……もう、嫌だ……」

 

 その言葉だけが、ようやく口から零れ落ちた。

 

 何度もやり直せる。

 何度でも、失ったものを取り戻せる。

 それなのに、どうして俺は、何一つ守れないのだろう。

 俺はレムの手を握ったまま、声を殺して泣いた。

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