SIDE スバル
人間ってのは、どれだけ泣いたら涙が枯れるんだろうな。
そんなくだらないことを考えながら、俺は自分の膝を見つめていた。握りしめた拳は情けないくらい震えていて、力を込めても止まってくれない。隣にはレムがいる。何度も目の前で失ったはずの少女が、今は何事もなかったように俺の手を握ってくれていた。
温かい。その温もりが嬉しくて、同時に恐ろしかった。
「……スバルくん」
レムの声に顔を上げる。彼女は心配そうに眉を寄せていたが、無理に笑顔を作ろうとはしなかった。ただ、俺が何かを話し始めるのを待っている。
「……レム。頼みがある」
「はい。レムにできることなら、何でも」
「俺と、逃げてくれないか」
口にした瞬間、胸の奥に詰まっていた何かが少しだけ軽くなった気がした。ずっと考えていたことだった。もうエミリアのところへ戻らない。魔女教とも、白鯨とも戦わない。王都を離れて、誰も俺たちを知らない土地へ行く。そこで働いて、飯を食って、眠って、ただ普通に暮らす。
そんな未来を想像しただけで、涙が出そうになった。
「俺さ、もう疲れたんだよ。頑張ったって何にもならねえし、助けようとしたって誰も助けられねえ。だったら、最初から何もしなきゃいいんじゃねえかって……」
レムは黙って聞いていた。
「レムと二人なら、何とかなるだろ。俺、力仕事は向いてねえかもしんないけど、働くからさ。料理だって覚えるし、掃除だってする。お前が嫌がることはしねえ。だから……」
そこで言葉が途切れた。レムの瞳が、まっすぐ俺を見ていたからだ。
「……スバルくんは、それで幸せになれますか?」
「……なれるさ」
「本当に?」
「……ああ」
答えた声が、自分でも驚くほど頼りなかった。
レムは少しだけ目を伏せた。
「レムは、スバルくんと一緒にいられたら嬉しいです。どこか遠くへ行って、二人で暮らす未来を想像したこともあります」
心臓が跳ねた。なら、と言いかけた俺を、レムは静かな声で遮った。
「でも、今のスバルくんを連れて行くことはできません」
「……なんでだよ」
「スバルくんが、今も誰かのことを心配しているからです」
俺は思わず顔を背けた。
「……そんなことねえよ」
「あります。スバルくんは、お屋敷へ戻るのが怖いんですよね。それでも、エミリア様や皆さんがどうなってしまうのか、ずっと気にかけているんです」
「……わかったようなこと言うなよ」
声が荒くなった。レムが悪いわけじゃない。そんなことはわかっているのに、止められなかった。
「お前に何がわかるんだよ! 俺がどんだけ頑張って、どんだけ失敗したか! 何回……何回、目の前で……!」
言えない。肝心なところだけ、喉が締めつけられる。死に戻りについて話そうとするたびに訪れる、あの嫌な感覚が頭をよぎった。
俺は口を閉ざし、拳を握りしめた。
「……ごめん」
「謝らないでください」
「……怒鳴っちまった」
「はい。少し怖かったです」
正直な返答に、思わず顔を上げる。レムは困ったように微笑んだ。
「でも、スバルくんがレムに怒っているわけではないことくらい、わかります」
俺は何も言えなかった。こんな状態の俺にまで、こいつは優しい。だから余計に、自分が嫌になる。
「……なあ、レム」
「はい」
「エリスってさ、すげえよな」
突然の話題に、レムが目を瞬かせた。
「……エリス様、ですか?」
「ああ。強くて、頭も回って、誰からも頼りにされてさ。態度はでけえし、口は悪いし、たまに何考えてんのかわかんねえけど……それでも、あいつがいると何とかなる気がすんだよ」
思い浮かぶのは、銀色の髪を揺らして笑う男の姿だった。
王都の騎士たちに囲まれても、まるで物怖じしない。ラインハルトやユリウスと肩を並べ、エミリアの隣に立つことを誰にも疑問に思わせない。自分の言葉に責任を持ち、気に入らない相手には平気で噛みつくくせに、誰かが困っていれば最後には必ず手を貸す。
俺が憧れた騎士の姿が、そこにあった。
「俺、あいつのこと好きなんだよ」
「……はい」
「友達だと思ってる。向こうがどう思ってるかは知らねえけど、俺はそう思ってるんだ。だからさ、あいつがみんなに頼られてんのを見ると、嬉しいんだよ。本当に」
そこで、笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。
「……なのに、腹が立つんだ」
レムは黙っていた。
「俺だって頑張ってんのに、誰も俺を見てくれねえ。エリスがちょっと笑えばみんな安心して、あいつが一言言えばみんな納得する。俺が同じこと言ったって、誰も信じてくれねえのに」
王選の場での出来事が蘇る。あの日、俺はエミリアのためだと叫んだ。けれど、誰も認めてくれなかった。エリスは俺を止め、ユリウスは俺を叩きのめした。
そして最後に、エリスは手を差し伸べてくれた。
俺は、その手を振り払った。
「……最低だろ、俺」
「……どうしてですか?」
「どうしてって……友達に嫉妬してんだぞ。あいつが悪いことなんか何もしてねえのに、勝手に比べて、勝手に惨めになって……挙げ句の果てに、助けようとしてくれた手まで払いのけた」
あの時のエリスの顔を思い出す。怒っていたのか、呆れていたのか。少なくとも、俺が望んでいたような顔ではなかった。
「エリスなら、きっと全部守れるんだろうな」
口から零れた言葉は、自分でも驚くほど苦々しかった。
「魔女教だろうが、白鯨だろうが、あいつなら何とかしちまうんだろ。俺みたいに何度も失敗したりしねえ。誰かが死ぬまで何もできないなんてこと、絶対に……」
「スバルくん」
レムの声が、俺の言葉を止めた。
「エリス様は、とても強い方です」
「……ああ」
「レムも、心から尊敬しています。エミリア様のことも、お屋敷の皆さんのことも、いつも大切にしてくださいますから」
レムはそこで少し考えるように首を傾げた。
「でも、エリス様が何でもできる方だとは、レムは思いません」
「……は?」
「だって、エリス様はお料理があまりお上手ではありませんし、お部屋も時々散らかしたままです。それに、ベアトリス様のお気持ちには、驚くほど鈍感です」
「……いや、そういう話じゃなくて」
「ふふ。そうですね」
レムが小さく笑った。こんな状況なのに、つられて俺も口元を緩めそうになる。
「でも、レムは本当にそう思うんです。エリス様は立派な騎士ですが、エリス様にできないこともあります。きっと、たくさん」
「……あいつにできねえことなんか、俺にできるわけねえだろ」
「そんなことはありません」
レムは即座に否定した。
「エリス様は、レムの手を取ってくださったことがあります。困っていたら助けてくださいますし、頼めばきっと、どんな敵からでも守ろうとしてくださいます」
そこで、彼女は俺の手を少し強く握った。
「でも、レムが自分を嫌いになっていた時、そんなレムを必要だと言ってくださったのは、スバルくんです」
俺は息を呑んだ。
「レムが自分には何の価値もないと思っていた時、スバルくんは笑って、レムのことを褒めてくださいました。レムが忘れようとしていた気持ちを、思い出させてくれました」
「……そんなの、大したことじゃ」
「大したことです」
今度は、少しだけ強い声だった。
「少なくとも、レムにとっては」
レムは俺の手を握ったまま、まっすぐこちらを見つめていた。
「エリス様がいらっしゃるから、スバルくんが必要なくなるわけではありません。スバルくんがエリス様ほど強くないからといって、スバルくんのしてきたことが消えてしまうわけでもありません」
消えてしまう。
その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
俺のしてきたことは、何度も消えている。助けたはずの誰かが、俺を知らない顔で見つめる。命懸けで掴んだ結果が、何もなかったことになる。
レムは、そんなことを知らない。
知らないまま、俺に言ってくれている。
「……でもさ」
俺は俯いた。
「俺、もう何にも残ってねえんだよ。頑張ったって証拠もねえ。誰かに認めてもらえるようなことも、何一つ……」
「レムがいます」
顔を上げた。
「レムは、スバルくんに助けていただいたことを覚えています。スバルくんが笑ってくださったことも、怒ってくださったことも、全部」
レムの瞳が、少し潤んでいた。
「それでは、足りませんか?」
「……ずるいだろ、お前」
「はい。レムは、少しずるいんです」
彼女はそう言って笑った。
俺は堪えきれず、顔を覆った。涙が指の隙間から零れ落ちる。情けなくて、悔しくて、どうしようもなかった。
「……俺、あいつみたいになりたかったんだよ」
「はい」
「エリスみたいに、堂々としてたかった。エミリアの隣に立って、誰にも文句言わせねえくらい、すげえ奴になりたかった」
「はい」
「でも、なれなかった。何にもできねえまま、みんなを失って……俺だけ、こうして生きてる」
レムは俺の言葉を否定しなかった。ただ、俺が話し終えるまで、ずっと手を握っていてくれた。
「……スバルくん」
やがて、彼女が口を開いた。
「レムは、スバルくんにエリス様になってほしいわけではありません」
静かな声だった。
「スバルくんがスバルくんのままで、もう一度笑ってくださるなら、それが一番嬉しいです」
「……俺のままで?」
「はい」
「……こんな、どうしようもねえ俺でも?」
「はい。レムが知っているスバルくんは、失敗もしますし、無茶もします。時々、とても格好悪いです」
「……そこまで言う?」
「でも、誰かのために本気で怒れる方です。自分が傷ついても、他の人を笑わせようとする方です。レムは、そんなスバルくんに何度も救われました」
レムは一度だけ目を伏せ、それから、少し照れくさそうに微笑んだ。
「ですから、エリス様の背中ばかり見ていないでください。スバルくんのことを見ている人も、ちゃんといるんです」
俺は何も言えなかった。
ずっと、エリスの背中を追いかけていた。
あいつが認められるたびに、自分が否定されたような気がしていた。あいつがエミリアの隣に立つたびに、そこに立てない自分が惨めだった。
でも、違ったんだ。
あいつがそこに立っていることと、俺が何者なのかは、本当は何の関係もなかった。
「……俺さ」
涙を拭いながら、口を開く。
「エリスに、ひでえこと言ったんだよ。あいつには俺の気持ちなんかわかんねえって」
「……はい」
「でも、わかんねえのは当たり前なんだよな。俺、何にも話してねえんだから」
レムは静かに頷いた。
「……帰ったら、謝らなきゃな」
「きっと、エリス様は許してくださいますよ」
「いや、どうだろうな。あいつ、絶対『今さらかよ』とか言って笑うぞ」
「……ふふ。そうかもしれません」
思い浮かべると、妙にしっくりきた。エリスはきっと、俺がどれだけ深刻な顔をして謝ったところで、いつもの調子で茶化してくるに違いない。
それでもいい。
もう一度、あいつと普通に話したかった。
友達として。
「……レム」
「はい」
「俺、やっぱり逃げらんねえわ」
自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。
「エミリアを助けたい。屋敷のみんなも、村の連中も。それに……お前にも、もう二度とあんな目に遭ってほしくねえ」
レムは少し驚いた顔をした後、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい」
「でも、俺一人じゃ無理だ。何をどうしたって、あいつらには勝てねえ」
「でしたら、誰かに助けてもらいましょう」
「……簡単に言うなよ」
「簡単ではありません。でも、スバルくんは一人ではありませんから」
その言葉を聞いて、俺はようやく気づいた。
俺はずっと、一人で何とかしようとしていた。エリスみたいに強くなりたくて、エリスみたいに誰かを守りたくて、何もかも自分で背負い込んでいた。
でも、あいつだって一人じゃない。
ベアトリスがいて、エミリアがいて、ラムがいる。ラインハルトやユリウスだって、あいつを信頼している。
だったら、俺はどうだ?
俺には、何がある?
剣も魔法も、あいつらには敵わない。金も地位もない。人脈だって、たいしたものじゃない。
けれど。
「……待てよ」
ふと、頭の中に一つの光景が浮かんだ。
白い霧。遠ざかっていく竜車。地面を転がる俺の身体。
そして、ポケットから飛び出した携帯電話。
衝撃で開いた画面に表示されていた数字を、俺は確かに見ていた。
「……あの時……」
「スバルくん?」
レムが不思議そうに首を傾げる。
俺は答えず、記憶を辿った。
携帯を拾い上げた時、街道の向こうに巨大な樹が見えた。夜空を覆うほどの枝葉。レムから名前を聞いたことのある、あの大樹。
フリューゲルの大樹。
その近くに、白鯨がいた。
俺は、あいつが現れる場所を知っている。
そして、あの時携帯に表示されていた時刻も。
「……おいおい」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
今まで何をしていたんだ、俺は。
白鯨に遭遇した。逃げた。仲間を失った。あの化け物がどこに現れるのか、身をもって知ったじゃないか。
それなのに、俺はずっと、あいつから逃げることばかり考えていた。
「……スバルくん?」
「レム。ちょっと聞きたいことがある」
「はい。何でしょう?」
「白鯨って、何年も討伐されてねえんだよな?」
「……はい。多くの方が討伐を試みましたが、今もなお大きな被害を出し続けています」
「じゃあさ……もし、白鯨が現れる場所と時間がわかってたら、どうなる?」
レムが目を見開いた。
「……それは……」
彼女は言葉を探すように、少し考え込んだ。
「もし確かな情報であれば、討伐隊を事前に配置することも可能かもしれません。ですが、白鯨の出現を正確に予測することなど……」
「……できるかもしれねえ」
俺は呟いた。
レムが息を呑む。
「スバルくん……?」
「いや、まだわかんねえ。俺の記憶違いかもしんねえし、どうやって信じてもらうかも考えなきゃなんねえ。でも……」
そこで、俺は初めて、少しだけ笑った。
「……やれることが、あるかもしれねえ」
レムは俺を見つめていた。
俺は膝の上に置いた携帯電話を握りしめた。今まで、ただの懐かしい持ち物だったそれが、突然違う意味を持ち始めていた。
エリスは強い。
きっと、俺が何十人集まったって敵わないくらい強い。
でも、あいつだって知らないことがある。
どれだけ強くても、知らない敵の居場所を当てることはできない。
だったら、俺が教えればいい。
あいつにできることを、俺が無理にやる必要なんてない。
俺にしかわからないことを、俺が伝えればいいんだ。
「……レム」
「はい」
「悪い。さっきの話、取り消していいか?」
「……逃げるお話ですか?」
「ああ。勝手なこと言って、ほんとごめん」
レムは少しだけ寂しそうに微笑んだ。それでも、すぐにいつもの優しい表情に戻る。
「……はい。わかりました」
「俺、もう一回やってみるよ」
言葉にすると、まだ怖かった。失敗するかもしれない。また誰かを失うかもしれない。今度こそ、本当に立ち上がれなくなるかもしれない。
それでも、隣にはレムがいる。
そして、帰る場所には、俺が憧れた騎士がいる。
今度は、あいつの背中を追いかけるだけじゃなくていい。
「……エリスの野郎、帰ったら驚かせてやる」
「ふふ。どんなことでしょう?」
「決まってんだろ。あいつに言わせてやんだよ。『お前、やるじゃねえか』ってな」
レムが笑った。
俺も笑った。
ひどく久しぶりに、心から笑えた気がした。
窓の外では、夕暮れの光が街並みを赤く染めている。世界はまだ、何も変わっていない。白鯨も魔女教も、相変わらず俺たちの前に立ちはだかっている。
それでも、俺はもう一度、立ち上がることにした。
何度失敗しても、何度膝をついても。
今度は、一人で全部背負おうとはしない。
レムと一緒に。助けてくれる誰かと一緒に。
俺にできることから、始めよう。