月光る夜   作:案院運

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白鯨〜怠惰5

 

 

SIDE スバル

 

 人間ってのは、どれだけ泣いたら涙が枯れるんだろうな。

 

 そんなくだらないことを考えながら、俺は自分の膝を見つめていた。握りしめた拳は情けないくらい震えていて、力を込めても止まってくれない。隣にはレムがいる。何度も目の前で失ったはずの少女が、今は何事もなかったように俺の手を握ってくれていた。

 

 温かい。その温もりが嬉しくて、同時に恐ろしかった。

 

「……スバルくん」

 

 レムの声に顔を上げる。彼女は心配そうに眉を寄せていたが、無理に笑顔を作ろうとはしなかった。ただ、俺が何かを話し始めるのを待っている。

 

「……レム。頼みがある」

 

「はい。レムにできることなら、何でも」

 

「俺と、逃げてくれないか」

 

 口にした瞬間、胸の奥に詰まっていた何かが少しだけ軽くなった気がした。ずっと考えていたことだった。もうエミリアのところへ戻らない。魔女教とも、白鯨とも戦わない。王都を離れて、誰も俺たちを知らない土地へ行く。そこで働いて、飯を食って、眠って、ただ普通に暮らす。

 

 そんな未来を想像しただけで、涙が出そうになった。

 

「俺さ、もう疲れたんだよ。頑張ったって何にもならねえし、助けようとしたって誰も助けられねえ。だったら、最初から何もしなきゃいいんじゃねえかって……」

 

 レムは黙って聞いていた。

 

「レムと二人なら、何とかなるだろ。俺、力仕事は向いてねえかもしんないけど、働くからさ。料理だって覚えるし、掃除だってする。お前が嫌がることはしねえ。だから……」

 

 そこで言葉が途切れた。レムの瞳が、まっすぐ俺を見ていたからだ。

 

「……スバルくんは、それで幸せになれますか?」

 

「……なれるさ」

 

「本当に?」

 

「……ああ」

 

 答えた声が、自分でも驚くほど頼りなかった。

 

 レムは少しだけ目を伏せた。

 

「レムは、スバルくんと一緒にいられたら嬉しいです。どこか遠くへ行って、二人で暮らす未来を想像したこともあります」

 

 心臓が跳ねた。なら、と言いかけた俺を、レムは静かな声で遮った。

 

「でも、今のスバルくんを連れて行くことはできません」

 

「……なんでだよ」

 

「スバルくんが、今も誰かのことを心配しているからです」

 

 俺は思わず顔を背けた。

 

「……そんなことねえよ」

 

「あります。スバルくんは、お屋敷へ戻るのが怖いんですよね。それでも、エミリア様や皆さんがどうなってしまうのか、ずっと気にかけているんです」

 

「……わかったようなこと言うなよ」

 

 声が荒くなった。レムが悪いわけじゃない。そんなことはわかっているのに、止められなかった。

 

「お前に何がわかるんだよ! 俺がどんだけ頑張って、どんだけ失敗したか! 何回……何回、目の前で……!」

 

 言えない。肝心なところだけ、喉が締めつけられる。死に戻りについて話そうとするたびに訪れる、あの嫌な感覚が頭をよぎった。

 

 俺は口を閉ざし、拳を握りしめた。

 

「……ごめん」

 

「謝らないでください」

 

「……怒鳴っちまった」

 

「はい。少し怖かったです」

 

 正直な返答に、思わず顔を上げる。レムは困ったように微笑んだ。

 

「でも、スバルくんがレムに怒っているわけではないことくらい、わかります」

 

 俺は何も言えなかった。こんな状態の俺にまで、こいつは優しい。だから余計に、自分が嫌になる。

 

「……なあ、レム」

 

「はい」

 

「エリスってさ、すげえよな」

 

 突然の話題に、レムが目を瞬かせた。

 

「……エリス様、ですか?」

 

「ああ。強くて、頭も回って、誰からも頼りにされてさ。態度はでけえし、口は悪いし、たまに何考えてんのかわかんねえけど……それでも、あいつがいると何とかなる気がすんだよ」

 

 思い浮かぶのは、銀色の髪を揺らして笑う男の姿だった。

 

 王都の騎士たちに囲まれても、まるで物怖じしない。ラインハルトやユリウスと肩を並べ、エミリアの隣に立つことを誰にも疑問に思わせない。自分の言葉に責任を持ち、気に入らない相手には平気で噛みつくくせに、誰かが困っていれば最後には必ず手を貸す。

 

 俺が憧れた騎士の姿が、そこにあった。

 

「俺、あいつのこと好きなんだよ」

 

「……はい」

 

「友達だと思ってる。向こうがどう思ってるかは知らねえけど、俺はそう思ってるんだ。だからさ、あいつがみんなに頼られてんのを見ると、嬉しいんだよ。本当に」

 

 そこで、笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。

 

「……なのに、腹が立つんだ」

 

 レムは黙っていた。

 

「俺だって頑張ってんのに、誰も俺を見てくれねえ。エリスがちょっと笑えばみんな安心して、あいつが一言言えばみんな納得する。俺が同じこと言ったって、誰も信じてくれねえのに」

 

 王選の場での出来事が蘇る。あの日、俺はエミリアのためだと叫んだ。けれど、誰も認めてくれなかった。エリスは俺を止め、ユリウスは俺を叩きのめした。

 

 そして最後に、エリスは手を差し伸べてくれた。

 

 俺は、その手を振り払った。

 

「……最低だろ、俺」

 

「……どうしてですか?」

 

「どうしてって……友達に嫉妬してんだぞ。あいつが悪いことなんか何もしてねえのに、勝手に比べて、勝手に惨めになって……挙げ句の果てに、助けようとしてくれた手まで払いのけた」

 

 あの時のエリスの顔を思い出す。怒っていたのか、呆れていたのか。少なくとも、俺が望んでいたような顔ではなかった。

 

「エリスなら、きっと全部守れるんだろうな」

 

 口から零れた言葉は、自分でも驚くほど苦々しかった。

 

「魔女教だろうが、白鯨だろうが、あいつなら何とかしちまうんだろ。俺みたいに何度も失敗したりしねえ。誰かが死ぬまで何もできないなんてこと、絶対に……」

 

「スバルくん」

 

 レムの声が、俺の言葉を止めた。

 

「エリス様は、とても強い方です」

 

「……ああ」

 

「レムも、心から尊敬しています。エミリア様のことも、お屋敷の皆さんのことも、いつも大切にしてくださいますから」

 

 レムはそこで少し考えるように首を傾げた。

 

「でも、エリス様が何でもできる方だとは、レムは思いません」

 

「……は?」

 

「だって、エリス様はお料理があまりお上手ではありませんし、お部屋も時々散らかしたままです。それに、ベアトリス様のお気持ちには、驚くほど鈍感です」

 

「……いや、そういう話じゃなくて」

 

「ふふ。そうですね」

 

 レムが小さく笑った。こんな状況なのに、つられて俺も口元を緩めそうになる。

 

「でも、レムは本当にそう思うんです。エリス様は立派な騎士ですが、エリス様にできないこともあります。きっと、たくさん」

 

「……あいつにできねえことなんか、俺にできるわけねえだろ」

 

「そんなことはありません」

 

 レムは即座に否定した。

 

「エリス様は、レムの手を取ってくださったことがあります。困っていたら助けてくださいますし、頼めばきっと、どんな敵からでも守ろうとしてくださいます」

 

 そこで、彼女は俺の手を少し強く握った。

 

「でも、レムが自分を嫌いになっていた時、そんなレムを必要だと言ってくださったのは、スバルくんです」

 

 俺は息を呑んだ。

 

「レムが自分には何の価値もないと思っていた時、スバルくんは笑って、レムのことを褒めてくださいました。レムが忘れようとしていた気持ちを、思い出させてくれました」

 

「……そんなの、大したことじゃ」

 

「大したことです」

 

 今度は、少しだけ強い声だった。

 

「少なくとも、レムにとっては」

 

 レムは俺の手を握ったまま、まっすぐこちらを見つめていた。

 

「エリス様がいらっしゃるから、スバルくんが必要なくなるわけではありません。スバルくんがエリス様ほど強くないからといって、スバルくんのしてきたことが消えてしまうわけでもありません」

 

 消えてしまう。

 

 その言葉が、胸の奥に突き刺さった。

 

 俺のしてきたことは、何度も消えている。助けたはずの誰かが、俺を知らない顔で見つめる。命懸けで掴んだ結果が、何もなかったことになる。

 

 レムは、そんなことを知らない。

 

 知らないまま、俺に言ってくれている。

 

「……でもさ」

 

 俺は俯いた。

 

「俺、もう何にも残ってねえんだよ。頑張ったって証拠もねえ。誰かに認めてもらえるようなことも、何一つ……」

 

「レムがいます」

 

 顔を上げた。

 

「レムは、スバルくんに助けていただいたことを覚えています。スバルくんが笑ってくださったことも、怒ってくださったことも、全部」

 

 レムの瞳が、少し潤んでいた。

 

「それでは、足りませんか?」

 

「……ずるいだろ、お前」

 

「はい。レムは、少しずるいんです」

 

 彼女はそう言って笑った。

 

 俺は堪えきれず、顔を覆った。涙が指の隙間から零れ落ちる。情けなくて、悔しくて、どうしようもなかった。

 

「……俺、あいつみたいになりたかったんだよ」

 

「はい」

 

「エリスみたいに、堂々としてたかった。エミリアの隣に立って、誰にも文句言わせねえくらい、すげえ奴になりたかった」

 

「はい」

 

「でも、なれなかった。何にもできねえまま、みんなを失って……俺だけ、こうして生きてる」

 

 レムは俺の言葉を否定しなかった。ただ、俺が話し終えるまで、ずっと手を握っていてくれた。

 

「……スバルくん」

 

 やがて、彼女が口を開いた。

 

「レムは、スバルくんにエリス様になってほしいわけではありません」

 

 静かな声だった。

 

「スバルくんがスバルくんのままで、もう一度笑ってくださるなら、それが一番嬉しいです」

 

「……俺のままで?」

 

「はい」

 

「……こんな、どうしようもねえ俺でも?」

 

「はい。レムが知っているスバルくんは、失敗もしますし、無茶もします。時々、とても格好悪いです」

 

「……そこまで言う?」

 

「でも、誰かのために本気で怒れる方です。自分が傷ついても、他の人を笑わせようとする方です。レムは、そんなスバルくんに何度も救われました」

 

 レムは一度だけ目を伏せ、それから、少し照れくさそうに微笑んだ。

 

「ですから、エリス様の背中ばかり見ていないでください。スバルくんのことを見ている人も、ちゃんといるんです」

 

 俺は何も言えなかった。

 

 ずっと、エリスの背中を追いかけていた。

 

 あいつが認められるたびに、自分が否定されたような気がしていた。あいつがエミリアの隣に立つたびに、そこに立てない自分が惨めだった。

 

 でも、違ったんだ。

 

 あいつがそこに立っていることと、俺が何者なのかは、本当は何の関係もなかった。

 

「……俺さ」

 

 涙を拭いながら、口を開く。

 

「エリスに、ひでえこと言ったんだよ。あいつには俺の気持ちなんかわかんねえって」

 

「……はい」

 

「でも、わかんねえのは当たり前なんだよな。俺、何にも話してねえんだから」

 

 レムは静かに頷いた。

 

「……帰ったら、謝らなきゃな」

 

「きっと、エリス様は許してくださいますよ」

 

「いや、どうだろうな。あいつ、絶対『今さらかよ』とか言って笑うぞ」

 

「……ふふ。そうかもしれません」

 

 思い浮かべると、妙にしっくりきた。エリスはきっと、俺がどれだけ深刻な顔をして謝ったところで、いつもの調子で茶化してくるに違いない。

 

 それでもいい。

 

 もう一度、あいつと普通に話したかった。

 

 友達として。

 

「……レム」

 

「はい」

 

「俺、やっぱり逃げらんねえわ」

 

 自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出た。

 

「エミリアを助けたい。屋敷のみんなも、村の連中も。それに……お前にも、もう二度とあんな目に遭ってほしくねえ」

 

 レムは少し驚いた顔をした後、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……はい」

 

「でも、俺一人じゃ無理だ。何をどうしたって、あいつらには勝てねえ」

 

「でしたら、誰かに助けてもらいましょう」

 

「……簡単に言うなよ」

 

「簡単ではありません。でも、スバルくんは一人ではありませんから」

 

 その言葉を聞いて、俺はようやく気づいた。

 

 俺はずっと、一人で何とかしようとしていた。エリスみたいに強くなりたくて、エリスみたいに誰かを守りたくて、何もかも自分で背負い込んでいた。

 

 でも、あいつだって一人じゃない。

 

 ベアトリスがいて、エミリアがいて、ラムがいる。ラインハルトやユリウスだって、あいつを信頼している。

 

 だったら、俺はどうだ?

 

 俺には、何がある?

 

 剣も魔法も、あいつらには敵わない。金も地位もない。人脈だって、たいしたものじゃない。

 

 けれど。

 

「……待てよ」

 

 ふと、頭の中に一つの光景が浮かんだ。

 

 白い霧。遠ざかっていく竜車。地面を転がる俺の身体。

 

 そして、ポケットから飛び出した携帯電話。

 

 衝撃で開いた画面に表示されていた数字を、俺は確かに見ていた。

 

「……あの時……」

 

「スバルくん?」

 

 レムが不思議そうに首を傾げる。

 

 俺は答えず、記憶を辿った。

 

 携帯を拾い上げた時、街道の向こうに巨大な樹が見えた。夜空を覆うほどの枝葉。レムから名前を聞いたことのある、あの大樹。

 

 フリューゲルの大樹。

 

 その近くに、白鯨がいた。

 

 俺は、あいつが現れる場所を知っている。

 

 そして、あの時携帯に表示されていた時刻も。

 

「……おいおい」

 

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 

 今まで何をしていたんだ、俺は。

 

 白鯨に遭遇した。逃げた。仲間を失った。あの化け物がどこに現れるのか、身をもって知ったじゃないか。

 

 それなのに、俺はずっと、あいつから逃げることばかり考えていた。

 

「……スバルくん?」

 

「レム。ちょっと聞きたいことがある」

 

「はい。何でしょう?」

 

「白鯨って、何年も討伐されてねえんだよな?」

 

「……はい。多くの方が討伐を試みましたが、今もなお大きな被害を出し続けています」

 

「じゃあさ……もし、白鯨が現れる場所と時間がわかってたら、どうなる?」

 

 レムが目を見開いた。

 

「……それは……」

 

 彼女は言葉を探すように、少し考え込んだ。

 

「もし確かな情報であれば、討伐隊を事前に配置することも可能かもしれません。ですが、白鯨の出現を正確に予測することなど……」

 

「……できるかもしれねえ」

 

 俺は呟いた。

 

 レムが息を呑む。

 

「スバルくん……?」

 

「いや、まだわかんねえ。俺の記憶違いかもしんねえし、どうやって信じてもらうかも考えなきゃなんねえ。でも……」

 

 そこで、俺は初めて、少しだけ笑った。

 

「……やれることが、あるかもしれねえ」

 

 レムは俺を見つめていた。

 

 俺は膝の上に置いた携帯電話を握りしめた。今まで、ただの懐かしい持ち物だったそれが、突然違う意味を持ち始めていた。

 

 エリスは強い。

 

 きっと、俺が何十人集まったって敵わないくらい強い。

 

 でも、あいつだって知らないことがある。

 

 どれだけ強くても、知らない敵の居場所を当てることはできない。

 

 だったら、俺が教えればいい。

 

 あいつにできることを、俺が無理にやる必要なんてない。

 

 俺にしかわからないことを、俺が伝えればいいんだ。

 

「……レム」

 

「はい」

 

「悪い。さっきの話、取り消していいか?」

 

「……逃げるお話ですか?」

 

「ああ。勝手なこと言って、ほんとごめん」

 

 レムは少しだけ寂しそうに微笑んだ。それでも、すぐにいつもの優しい表情に戻る。

 

「……はい。わかりました」

 

「俺、もう一回やってみるよ」

 

 言葉にすると、まだ怖かった。失敗するかもしれない。また誰かを失うかもしれない。今度こそ、本当に立ち上がれなくなるかもしれない。

 

 それでも、隣にはレムがいる。

 

 そして、帰る場所には、俺が憧れた騎士がいる。

 

 今度は、あいつの背中を追いかけるだけじゃなくていい。

 

「……エリスの野郎、帰ったら驚かせてやる」

 

「ふふ。どんなことでしょう?」

 

「決まってんだろ。あいつに言わせてやんだよ。『お前、やるじゃねえか』ってな」

 

 レムが笑った。

 

 俺も笑った。

ひどく久しぶりに、心から笑えた気がした。

 

 窓の外では、夕暮れの光が街並みを赤く染めている。世界はまだ、何も変わっていない。白鯨も魔女教も、相変わらず俺たちの前に立ちはだかっている。

 

 それでも、俺はもう一度、立ち上がることにした。

 何度失敗しても、何度膝をついても。

 今度は、一人で全部背負おうとはしない。

 レムと一緒に。助けてくれる誰かと一緒に。

 俺にできることから、始めよう。

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