SIDE スバル
人生で一番緊張した瞬間はいつか。
そんな質問をされたなら、少し前までの俺は、間違いなく王選の場で大恥をかいた時だと答えていただろう。
だが、今なら別の答えを返す自信がある。
――王選候補者を相手に、同盟交渉を持ちかけようとしている今、この瞬間だ。
「……なあ、レム」
「はい、スバルくん」
「俺、今どんな顔してる?」
クルシュ邸の廊下を歩きながら尋ねると、隣を歩くレムがこちらを覗き込んだ。
「そうですね……少し緊張されているように見えます」
「少し? いやいや、少しどころじゃねえって。俺の心臓なんかさっきから全力疾走してんだけど」
「ふふ。大丈夫ですよ。スバルくんなら、きっとできます」
「……お前は本当に、俺を買い被りすぎなんだよなぁ」
そう言って苦笑する。けれど、その言葉に救われている自分がいるのも事実だった。
何しろ、これから俺がやろうとしているのは、単なるお願い事じゃない。
エミリア陣営とクルシュ陣営。王選候補者同士の同盟交渉だ。
しかも、俺は正式な騎士でもなければ、エミリアから交渉を任された使者でもない。むしろ王選の場で勝手に騎士を名乗り、あろうことか王国の騎士たちに喧嘩を売った大馬鹿者である。
……うん。改めて考えると、俺って相当やらかしてるよな。
「……エリスなら、こんな時でも平然としてんだろうな」
思わず零れた言葉に、レムが小さく首を傾げた。
「エリス様、ですか?」
「ああ。あいつ、相手が誰でも態度変えねえだろ。王選候補者だろうが偉い貴族だろうが、気に入らなきゃ平気で噛みつきそうだし」
「……ふふ。確かに、エリス様ならそうかもしれません」
「だろ? あの図太さ、ちょっと分けてほしいわ」
笑ってみせる。だが、すぐに首を振った。
違う。また、あいつと比べてどうする。
俺はエリスじゃない。そんなこと、最初からわかっている。あいつにはあいつのやり方があって、俺には俺のやり方がある。
それを、レムが教えてくれたばかりじゃないか。
「……よし」
俺は両頬を軽く叩いた。
「行くぞ、レム」
「はい!」
応接室の扉が、目の前に迫っていた。
◇◇◇
「エミリア陣営との同盟、か」
クルシュ・カルステンは、俺の申し出を聞いて静かに目を細めた。
応接室には、クルシュさんのほかにヴィルヘルムさんとフェリスがいる。俺の隣にはレム。全員の視線が、こちらへ向けられていた。
「はい。俺たちエミリア陣営は、クルシュさんの陣営と協力関係を結びたいと考えています」
「なるほど。だが、まず一つ確認させてもらおう。卿は、エミリア殿の代理としてこの場に立っているのか?」
来た。予想していた質問だった。それでも、実際に向けられると喉が渇く。
「……いいえ。俺はエミリアから、同盟交渉を任されたわけじゃありません」
「ほう」
「むしろ、今はあいつに顔を合わせづらい立場です。王選の時に、勝手なことをやらかしたんで」
フェリスが呆れたように肩をすくめた。
「それ、自分で言っちゃうんだ。スバルきゅん、あの時は本当にひどかったもんねぇ」
「うるせえよ、フェリス。俺だって反省してんだ」
「反省してる人の態度かにゃあ?」
「お前にだけは言われたくねえ!」
「……二人とも」
クルシュさんの一言で、俺たちは口を閉じた。
……怖え。フェリスの野郎、あとで覚えてろよ。
「卿が正式な代理人ではないのなら、同盟の話は成立せぬ。個人の判断で、王選候補者の陣営を動かすことはできないからな」
「……はい。それはわかってます。だから、レムに協力してもらいます」
俺が隣を見ると、レムが一歩前へ出た。
「クルシュ様。ロズワール・L・メイザース辺境伯に仕える使用人、レムと申します」
「承知している。続けよ」
「はい。レムは、王都滞在中における一部の交渉について、ロズワール様より裁量を預かっております」
クルシュさんの目が、わずかに鋭くなった。
「……つまり、卿はこの話をエミリア陣営の正式な交渉として扱えると?」
「はい。ただし、レムの権限でお約束できる範囲に限ります。陣営全体の将来に関わる事項については、ロズワール様の承認が必要となります」
俺は思わずレムを見た。落ち着いた声に、淀みのない説明。いつも俺の隣で微笑んでくれる少女とは、また違う顔だった。
……すげえ。俺一人だったら、ここでもう追い返されてたな。
「なるほど。ロズワール辺境伯も、なかなか興味深い権限の与え方をする。よかろう。では、交渉の内容を聞こう」
「ありがとうございます」
「ただし、ナツキ・スバル。卿自身に、その交渉を進めるだけの器量があるかどうかは、これから見極めさせてもらう」
その言葉に、思わず苦笑した。エリスだったら、ここで不敵に笑って「好きにしろ」とでも言うんだろうな。
でも、俺は違う。
「……望むところです。俺の話、最後まで聞いてください」
◇◇◇
「白鯨の出現場所と時刻を知っている?」
俺が切り札を明かした瞬間、応接室の空気が変わった。
クルシュさんは表情を崩さなかったが、ヴィルヘルムさんの目には明らかな変化があった。フェリスも、先ほどまでの軽い調子を消している。
「場所はフリューゲルの大樹付近。出現する時間も、かなり正確に絞れています」
「……ナツキ殿。その情報、どちらでお知りになられた?」
ヴィルヘルムさんの質問に、俺は一度だけ唾を飲み込んだ。
「……情報源については、詳しく話せません」
「ちょっとぉ。それじゃ信用しろって方が無理じゃにゃい?」
「わかってるよ。だから、信じてもらうための材料を持ってきたんだ」
俺はポケットから携帯電話を取り出した。黒い小さな機械に、全員の視線が集まる。
「……それは?」
「ミーティアです。俺の故郷にあった道具で、時間を正確に測れる。こっちじゃ珍しいだろうけど、少なくとも俺は、これが示す時間を信用してる」
「ほう。ミーティアか」
「はい。こいつを使えば、白鯨が現れると俺が予測している時刻を、正確に示せます」
クルシュさんはしばらく俺を見つめた。
「卿は、随分と奇妙な話をするな」
「自覚はあります」
「そのミーティアが正確に時を刻むとしても、白鯨の出現を証明するものではあるまい。情報源を明かせず、出現を予測する仕組みも説明できぬ。それでも我々に兵を動かせというのか?」
「……いいえ」
俺は首を振った。
「正確には、もう動かしてるんじゃないですか?」
その瞬間、応接室の空気が変わった。
「……どういう意味だ、ナツキ・スバル」
クルシュさんの声が、わずかに低くなる。ヴィルヘルムさんは無言のまま、こちらを見つめていた。
「俺、ここでフェリスに治療してもらってたじゃないですか。その間、ずっと気になってたんです。やけに人の出入りが多いなって」
「……続けよ」
「最初は、王選候補者の屋敷だから忙しいんだろうなって思ってました。でも、武装した人間が出入りしてたり、馬車で大量の物資が運び込まれてたり。どう見ても普通の生活用品じゃないものまであった」
クルシュさんは答えない。
「王選が始まったばっかりのこの時期に、わざわざあれだけの準備をする理由って何だろうって考えたんです」
俺は一度、息を吸った。
「……クルシュさん。あんたたち、最初から白鯨を討伐するつもりだったんじゃないですか?」
沈黙が落ちた。
誰も口を開かなかった。ただ、ヴィルヘルムさんの目が、わずかに細められる。
「……なるほど。卿は、なかなか面白いところに目をつける」
「……当たり、ですか?」
「少なくとも、卿が何も考えずにこの場へ来たわけではないことは理解した」
否定しない。つまり、そういうことだ。
「だったら、話は早いです。クルシュさんたちは白鯨を倒すための戦力を持ってる。でも、いつどこに現れるかまではわからない」
俺は机の上に置いたミーティアを指差した。
「俺はその逆です。戦力はない。でも、白鯨が現れる場所と時間を知ってる。だったら、お互いに足りないものを補い合えばいいじゃないですか」
再び沈黙が落ちる。やがて、ヴィルヘルムさんが小さく息を吐いた。
「……なるほど。確かに、筋は通っておりますな」
「卿の推測について、今ここで肯定するつもりはない。だが、仮に我々が白鯨討伐を企図していたとしても、それだけで卿の情報を信用する理由にはならぬ」
「……わかってます」
「兵を動かす以上、失敗すれば多くの者に責任が及ぶ。卿の言葉一つで決断できるほど、軽い話ではないのだ」
「はい。だからこそ、俺は交渉に来たんです」
クルシュさんの目が、わずかに細められる。
「ただ信じてくれってお願いするだけなら、ここまで来る必要はありません。俺は、クルシュさんたちにも利益のある話を持ってきたつもりです」
「……なるほど」
クルシュさんは静かに笑った。
「卿の話、少しばかり興味が湧いてきた」
◇◇◇
「ところで、ナツキ・スバル。卿に一つ尋ねたい」
「……何でしょう?」
白鯨の情報について一通り説明を終えたところで、クルシュさんが不意に話題を変えた。
「エリス・フォン・フェンウィック卿は、今回の件に関与しているのか?」
「……エリス?」
予想もしていなかった名前に、思わず間の抜けた声が出た。
「えっと……いや、今回の話にあいつは関わってませんけど」
「そうか。彼が関与しているのであれば、また違った判断もできたのだがな」
「……それって、どういう意味です?」
「言葉通りだ。彼の実績と信用は、王国において決して軽いものではない」
……マジかよ。
いや、エリスがすごい奴なのは知ってる。知ってるけどさ。他所の陣営の王選候補者にまで、そんなこと言われるレベルなの?
「確かに、エリス殿であれば申し分ありませんな」
それまで黙っていたヴィルヘルムさんが、静かに口を開いた。
「鞭を自在に操る技量に加え、陰と陽、二系統の魔法を使いこなす。あの若さで積み上げた武功も含め、実に末恐ろしい御仁です」
「……へえ。ヴィルヘルムさん、あいつのこと随分買ってるんですね」
「無論です。加えて、あの大精霊ベアトリス殿との連携もある。戦力として考えるならば、私の孫と比べても決して引けを取らぬでしょう」
「……そっか。まあ、エリスだもんな」
……ん?
ちょっと待て。
「……孫?」
「はい」
「ヴィルヘルムさん、お孫さんいるんですか?」
「おりますな」
「へえー! いやぁ、初耳ですよ! ちなみに、どんな人なんです?」
何気なく尋ねた俺に、ヴィルヘルムさんは一瞬だけ目を伏せた。
「……ラインハルト・ヴァン・アストレア。私の孫です」
「…………」
ラインハルト。
ラインハルト・ヴァン・アストレア。
赤毛のイケメン。剣聖。歩くチート兵器。
「…………え?」
俺はゆっくりとヴィルヘルムさんを見た。
「……ええええええええええええええええっ!?」
「うるさいにゃあ!?」
フェリスが両耳を押さえた。
「いやいやいや! ちょっと待って!? ラインハルトって、あのラインハルト!? 剣聖の!?」
「はい」
「マジで!? ヴィルヘルムさん、あいつのおじいちゃんだったの!?」
「……左様です」
「いや、待って! でもヴィルヘルムさんって、トリアスって名前じゃなかったっけ!?」
俺がそう尋ねると、ヴィルヘルムさんは一瞬だけ目を伏せた。
「……事情がありましてな。今は、妻の家名ではなく、元の姓を名乗っております」
「……あ、そうなんですか」
その声には、どこか寂しげな響きがあった。
いつも穏やかで、何事にも動じないヴィルヘルムさんが見せた、ほんの一瞬の陰り。
……なんか、あんまり突っ込まない方がよさそうだな。
「……ま、まあ、とにかく驚きましたよ! まさかあのラインハルトのおじいちゃんだったなんて!」
「……左様ですな」
ヴィルヘルムさんは静かに頷いた。けれど、その表情はどこか複雑そうだった。
「……ふふ」
クルシュさんが小さく笑った。
「驚くのも無理はない。だが、今はその話をしている場合ではないな」
「……あ、はい。すみません」
俺は慌てて姿勢を正した。
「では、改めて尋ねよう。卿の持ち込んだ白鯨の情報。それはエリス卿から得たものではないのだな?」
「……はい」
「間違いないか?」
「間違いありません。エリスは関係ないです」
クルシュさんは俺の目をじっと見つめた。そして、静かに頷く。
「……なるほど。偽りはないようだ」
「……え?」
「私には風見の加護がある。風の流れから、相手の言葉に偽りがあるかどうかを見極めることができる」
……は?
ちょっと待て。何その便利機能。
「え、じゃあ俺が嘘ついたらバレるってことですか!?」
「必ずしも全てを見抜けるわけではない。だが、卿の今の言葉に虚偽は感じられなかった」
「……マジかよ」
俺は額に手を当てた。この世界、マジで反則みたいな能力持ってる奴多すぎない?
……いや、今はそんなこと考えてる場合じゃねえ。
「……だったら、ちょうどいいです」
「ほう?」
「今回の話にエリスは関わってません。あいつの名前を使って、信用してもらうつもりもないです」
クルシュさんの目が、わずかに細められる。
「俺が持ってきた情報です。だから、俺自身の話を聞いてください」
少しだけ、声が震えた。けれど、目は逸らさなかった。
「俺はエリスみたいに強くないし、あいつほどの実績もありません。でも、だからって何もできないわけじゃない。白鯨を倒すために、俺なりに考えて、ここに来たんです」
クルシュさんは、しばらく黙って俺を見つめていた。やがて、小さく笑う。
「……よかろう。卿の言葉に偽りがないことは、私の加護が示している。だが、それだけで情報の正しさまで保証されるわけではない」
「……はい」
「それでも、卿が自らの意思でここに立っていることは理解した。では、聞かせてもらおう。ナツキ・スバル」
「……はい!」
「エリス卿ではなく、卿自身が用意した交渉材料とやらを」
◇◇◇
「白鯨討伐後、ロズワール領へ向かうための協力をお願いします」
俺が望む見返りを告げると、クルシュさんは静かに目を細めた。
「ロズワール領?」
「はい。近いうちに、魔女教が動く可能性があります。俺は、それを止めたい」
フェリスが険しい顔をした。
「……魔女教って、本気で言ってるの?」
「本気だよ」
「それも情報源は秘密?」
「……悪い」
「スバルきゅんさぁ……」
「わかってる。怪しい話ばっかしてるってのは。でも、放っておけないんだ」
クルシュさんは腕を組んだ。
「つまり、卿は白鯨討伐に関する情報を提供する代わりに、魔女教への対処に協力してほしいと」
「はい。それが、俺たちの望む同盟の条件です」
「……なるほど」
クルシュさんは目を閉じた。しばらく、誰も口を開かなかった。
「……一つ、聞こう。卿は、なぜそこまでしてエミリア殿を守ろうとする?」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
エミリアの顔が浮かぶ。俺を心配してくれた顔。怒った顔。悲しそうに俯いた顔。そして、最後に交わした言葉。
「……俺が、あいつを好きだからです」
口にしてから、少しだけ笑った。
「でも、それだけじゃない。あいつのことを大事に思ってる奴らが、他にもいるんです」
エリス。ベアトリス。ラム。村の人たち。
みんなが、あそこにいる。
「俺が何もしなかったら、そいつらまで危険な目に遭うかもしれない。だから、助けたいんです」
クルシュさんは黙って聞いていた。
「……それに、俺、友達にひでえこと言っちまったんですよ」
「友達?」
「はい。すげえ強くて、何でもできるように見える奴で……俺、ずっとそいつに憧れてたんです」
フェリスが何かに気づいたような顔をした。
「……もしかして、エリスのこと?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「エリスです。あいつ、俺がどうしようもねえことした時も、最後には手を差し伸べてくれたんです。でも、俺はそれを振り払った」
あの日の光景が蘇る。
エリスは怒っていた。それでも、俺を見捨てようとはしなかった。
「……だから、今度はちゃんと向き合いたいんです。エリスに全部任せるんじゃなくて、俺にもできることをやってから、あいつに会いたい」
クルシュさんはしばらく俺を見つめていた。やがて、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……なるほど。卿の覚悟は理解した」
心臓が跳ねた。
「では……!」
「だが、同盟は感情だけで結べるものではない」
俺は口を閉じた。クルシュさんの言葉は、正しかった。
「卿の事情は理解した。だが、我々にも背負うものがある。白鯨討伐には多くの兵と物資が必要だ。その対価を、エミリア陣営は何によって保証する?」
……来た。
ここが、一番の難所だ。
俺は隣を見た。レムが小さく頷いた。
「その点につきましては、レムからご説明いたします」
彼女は一歩前へ出た。
「ロズワール領には、魔鉱石の採掘が見込まれる土地がございます。採掘権に関する取り決めを、同盟の条件として提示することが可能です」
フェリスが目を丸くした。
「……へえ。ずいぶん大きな話を持ってきたんだね」
クルシュさんも、わずかに表情を変えた。
「魔鉱石の採掘権か。確かに、交渉材料としては十分な価値がある」
「はい。ただし、正式な契約にはロズワール様の承認が必要となります。レムの一存で全てを確約することはできません」
「当然だろう。むしろ、その点を明確にする姿勢は評価できる」
クルシュさんは頷いた。俺は内心で胸を撫で下ろした。
「……しかし、それでも、まだ足りぬな」
「……え?」
「魔鉱石の採掘権は魅力的な条件だ。だが、それはあくまで討伐が成功した場合の話。そして卿の情報が正しかったとしても、白鯨を討ち取れる保証はない」
……くそ。
やっぱり、そう簡単にはいかないか。
「それに、白鯨討伐には相応の兵力が必要となる。我が陣営だけで全てを賄うとなれば、負担は決して小さくない」
クルシュさんは俺を見据えた。
「卿の提案は理解した。だが、現状では我々が背負う危険に対し、保証が不十分だ」
俺は唇を噛んだ。
正論だった。白鯨が現れる場所を知っている。それだけで討伐できるほど、あの化け物は甘くない。
俺は知っている。あいつがどれほど恐ろしい存在なのか。どれほど理不尽に、人の命を奪っていくのか。
だからこそ、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「……クルシュさん。一つ、確認してもいいですか?」
「構わぬ」
「もし、白鯨討伐に必要な物資と人手を、別のところから確保できるとしたら?」
クルシュさんの眉が、わずかに動いた。
「……ほう?」
「それなら、話は変わりますか?」
フェリスが首を傾げる。
「ちょっと待って。スバルきゅん、何言ってるの? そんな都合よく人手や物資が集まるわけないでしょ?」
「……まあ、普通はそうだよな」
俺は苦笑した。
「だが、卿はそうではないと言いたげだな」
クルシュさんの言葉に、俺は顔を上げた。
「……はい。実は、もう一つ話があるんです」
「……聞こう」
俺はゆっくりと息を吸った。
「クルシュさん。白鯨討伐って、あんたたちだけの問題じゃないですよね?」
「……どういう意味だ?」
「白鯨がいるせいで困ってるのは、なにも騎士や兵士だけじゃない。街道を通れない商人も、荷物が届かなくて困ってる人たちもいる。だったら、そいつらにとっても白鯨討伐は利益になるはずです」
クルシュさんは黙って聞いている。
「……つまり、卿は」
「はい。白鯨討伐に協力したいと思う奴らは、他にもいるんじゃないかってことです」
フェリスが呆れたように息を吐いた。
「だからって、そんな簡単に協力してもらえるわけないでしょ。相手だって商売なんだから」
「……そうだな。だから、ちゃんと利益のある話をしなきゃいけない」
クルシュさんが、わずかに目を細めた。
「……ナツキ・スバル。卿は、何を考えている?」
俺は小さく笑った。今度は、強がりじゃなかった。
「……ちょっとだけ、俺にも考えがあるんですよ」
その言葉に、クルシュさんはしばらく俺を見つめていた。
「どうやら、卿を少々見くびっていたようだ。無論、まだ何も証明されてはいないがな」
「……へへ」
「よかろう。卿の言う、最後の一手とやらを見せてもらおう」
俺は拳を握った。
……よし。ここまでは、予定通りだ。
あとは、あの人たちが約束通り動いてくれれば。
そう思った、その時だった。
応接室の外から、控えめな足音が聞こえてきた。続いて、扉を叩く音。
「クルシュ様。お客様がお見えになりました」
使用人の声が響く。
「客人? 今は取り込み中のはずだが」
「それが……どうしてもお目通りを願いたいと」
「……名は?」
使用人が告げた名前を聞いた瞬間、クルシュさんの表情が、わずかに変わった。
「……ほう」
そして、ゆっくりと俺へ視線を戻す。
「ナツキ・スバル」
「……はい」
「どうやら、卿の言う最後の一手とやらが、姿を現したようだな」
俺は小さく息を吐いた。
……来た。間に合った。
心臓が、再び激しく脈打ち始める。けれど、今度は緊張だけじゃなかった。
期待。不安。そして、ほんの少しの自信。
俺は扉を見つめた。
エリス。お前なら、こんな時どうする?
きっと、偉そうに笑うんだろうな。全部わかってたみたいな顔して。
……でも、今回は俺の番だ。
お前みたいに強くなくても、お前みたいに何でもできなくても、俺にだってできることがある。
だから、今度こそちゃんと胸を張ってお前に会いに行く。
俺は小さく笑った。
「……さて」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「交渉、第二ラウンドといきますか」