月光る夜   作:案院運

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白鯨~怠惰7

 

SIDE スバル

 

 扉が開く。

 

 それだけのことが、今の俺にはやけに長く感じられた。

 

 応接室に差し込む廊下の光。その向こうから姿を現したのは、小柄な少女と、落ち着いた雰囲気を纏った中年の男だった。

 

「いやぁ、堪忍なぁ。急に押しかけてしもて」

 

 柔らかな笑みを浮かべ、少女が軽く頭を下げる。

 

 紫色の髪に、商人らしい抜け目のなさを感じさせる瞳。見た目だけなら可憐なお嬢様だが、その中身が相当に手強いことを、俺はすでに知っている。

 

 アナスタシア・ホーシン。

 

 王選候補者の一人にして、カララギの大商会『ホーシン商会』を率いる女傑だ。

 

 そして、その隣に立つ男は――。

 

「お久しぶりですな、クルシュ様」

 

「ラッセル・フェロー殿……」

 

 クルシュさんが、わずかに目を見開いた。

 

 王都の商業組合において大きな影響力を持つ男、ラッセル・フェロー。

 

 俺にとっては、数日前にようやく話を聞いてもらえた相手であり、今回の交渉を成立させるための重要人物でもあった。

 

「アナスタシア殿に、ラッセル殿か。これはまた、随分と珍しい組み合わせだな」

 

「ふふ。うちらも、たまたま話が合うことがありましてなぁ」

 

 アナスタシアはそう言って、ちらりとこちらを見る。

 

「なぁ、スバルくん?」

 

「……どうも。お待ちしてました」

 

 俺が頭を下げると、フェリスがぎょっとした顔をした。

 

「ちょ、ちょっと待って! スバルきゅん、まさかこの二人が来るって知ってたの!?」

 

「……まあな」

 

「まあな、じゃないでしょ!?」

 

 うるせえな。こっちだって、今すぐ叫びたいくらい緊張してんだよ。

 

 予定通り来てくれたことには心底安心したが、それで交渉が成功するわけじゃない。

 

 むしろ、ここからが本番だ。

 

「……ナツキ・スバル」

 

 クルシュさんが、静かに俺の名を呼んだ。

 

「説明してもらおうか」

 

「……はい」

 

 俺は姿勢を正す。

 

「実は、クルシュさんのところに来る前に、アナスタシアさんとラッセルさんにも話をしてたんです」

 

「ほう」

 

「白鯨討伐に協力することで、商人たちにも利益が生まれるんじゃないかって」

 

 クルシュさんの視線が、アナスタシアへ移る。

 

「アナスタシア殿。卿も、その話を承知しているのか?」

 

「もちろんや。せやなかったら、わざわざここまで来ぇへんよ」

 

 アナスタシアは笑った。

 

「もっとも、うちはまだ何も約束してへんけどなぁ」

 

 ……ですよねー。

 

 わかってた。わかってたけど、改めて言われると胃が痛い。

 

「ナツキ殿からは、なかなか興味深い話を聞かせていただきました」

 

 ラッセルさんが口を開く。

 

「ただし、私も同様です。商業組合を代表して、無条件の協力を約束できる立場ではありません」

 

「……はい。それも承知してます」

 

「ならば、よいでしょう」

 

 ラッセルさんは小さく頷いた。

 

「本日は、その話が現実に検討する価値を持つかどうか、確かめに参りました」

 

 俺は胸の内で、そっと息を吐いた。

 

 よかった。

 

 少なくとも、話を聞いてもらえるところまでは来た。

 

     ◇◇◇

 

「そもそも、白鯨っちゅう存在は商人にとって厄介なもんなんよ」

 

 席を用意されたアナスタシアが、そう切り出した。

 

 クルシュさんの許可を得て、俺たちの交渉は思いがけず大人数になった。

 

 王選候補者が二人。王都の商業組合に顔の利く男が一人。そして、騎士や使用人たち。

 

 ……何この面子。

 

 俺、場違いにもほどがあるだろ。

 

「街道を使う商人にとって、荷物が届かへんいうんは死活問題や。白鯨の出現を警戒して遠回りすることもあるし、護衛を増やさなあかんこともある。運が悪かったら、荷も人も丸ごと失う」

 

「それは理解している」

 

 クルシュさんが頷いた。

 

「白鯨が長年にわたり、街道を行き交う人々の脅威となってきたことは周知の事実だ」

 

「せやろ? ほな、その白鯨がおらんようになったらどうなると思う?」

 

「……街道の安全性が高まり、交易が活発になる」

 

「そういうことや」

 

 アナスタシアは満足そうに微笑んだ。

 

「荷を運ぶ時間も、護衛に払うお金も、今より抑えられるかもしれへん。商人にとっては、えらい大きな話やで」

 

 その説明を聞きながら、俺は数日前のことを思い出していた。

 

 最初にアナスタシアさんへ話を持ちかけた時、彼女は俺の言葉を聞いて笑っていた。

 

 ただし、好意的な意味じゃない。

 

『スバルくん。それ、うちに何の得があるん?』

 

 あの時の一言は、今でも耳に残っている。

 

 白鯨を倒したい。

 

 みんなを助けたい。

 

 そんなことを並べた俺に、彼女は少しも頷いてくれなかった。

 

『ええこと言うてるとは思うよ。でもな、うちは商人や。人を動かすんも、物を用意するんも、全部お金がかかる。気持ちだけでは商売にならへんのよ』

 

 正論だった。

 

 腹が立つくらい、正しい言葉だった。

 

 だから、俺は考えた。

 

 どうすれば、この人たちが協力する理由を作れるのか。

 

 その答えの一つが、白鯨討伐によって生まれる利益だった。

 

「……しかし」

 

 クルシュさんの声で、俺は思考を現実へ戻した。

 

「白鯨を討伐することで交易が活発になるとしても、それは成功した場合の利益だ。討伐に失敗すれば、出資した者は損失を被る」

 

「そら、そうやね」

 

「しかも、白鯨の討伐は容易ではない。過去に幾度となく討伐が試みられ、その多くが失敗している」

 

 クルシュさんはアナスタシアを見据えた。

 

「卿ほどの商人が、その危険を理解していないとは思えぬが?」

 

「もちろん理解してるよ」

 

 アナスタシアは、あっさりと頷いた。

 

「せやから、今日はその危険をどこまで減らせるんか、聞きに来たんや」

 

 そして、視線が俺へ向く。

 

「なぁ、スバルくん?」

 

「……はい」

 

「うちに言うたこと、ここでもちゃんと説明してくれる?」

 

 来た。

 

 俺は膝の上で握っていた拳を、ゆっくりと開いた。

 

「……白鯨が現れる場所と時間については、さっきクルシュさんに説明しました」

 

「うん。それは聞いとる」

 

「ただ、それだけじゃ倒せないってこともわかってます。だから、クルシュさんたちの戦力が必要なんです」

 

 俺はクルシュさんを見る。

 

「そして、兵士たちを動かすためには、武器や食料、輸送手段が必要になる。そこを商人の人たちに協力してもらえれば、討伐の準備をもっと整えられると思うんです」

 

「……なるほど」

 

 ラッセルさんが静かに頷いた。

 

「戦力と物資の調達を分け、それぞれに適した者が負担する。考え方としては、決して悪くありません」

 

「ありがとうございます」

 

「ですが、問題はその先です」

 

 ……ですよね。

 

「商人は、利益があると判断すれば金を出します。しかし、その利益が不確かなままでは、出資を決めることはできません」

 

「……はい」

 

「ナツキ殿。あなたは、白鯨が現れる場所と時刻を知っているとおっしゃった。それは、確かな情報なのですか?」

 

 部屋中の視線が集まる。

 

 俺は唇を噛んだ。

 

「……はい。俺は、そう確信しています」

 

「根拠は?」

 

「……詳しくは話せません」

 

 ラッセルさんの表情は変わらなかった。

 

「それでは、信用を得るのは難しいでしょうな」

 

「……わかってます」

 

 俺は俯きかけて、踏みとどまった。

 

 ここで諦めたら、何のためにここまで来たのかわからない。

 

「でも、俺の言ってることが本当だったら、白鯨を待ち伏せできるんです」

 

「……待ち伏せ、ですか」

 

「はい。出現場所がわからないまま探し回る必要はない。最初から、戦う場所を決めて準備できる」

 

 俺は顔を上げた。

 

「もちろん、それで絶対勝てるなんて言いません。でも、今までよりはずっと有利に戦えるはずです」

 

 沈黙。

 

 ラッセルさんは、しばらく考え込むように目を伏せていた。

 

「……なるほど」

 

 そして、ゆっくりと頷く。

 

「少なくとも、検討する価値はありそうです」

 

 その言葉に、俺の心臓が跳ねた。

 

 ……よし。

 

 まだだ。まだ喜ぶな。

 

     ◇◇◇

 

「では、具体的な話に移ろう」

 

 クルシュさんが口を開いた。

 

「アナスタシア殿。卿の陣営は、何を提供できる?」

 

「せやなぁ。うちの商会が持っとる輸送網と、物資の調達能力。そこらへんは役に立つと思うよ」

 

「兵力については?」

 

「うちにも護衛はおるけど、白鯨相手にどこまで出せるかは別の話やな。商会を守る人間まで全部連れていくわけにはいかへんし」

 

「当然だ」

 

「ただ、物資の輸送や集積、それから討伐後の流通については、うちの得意分野や」

 

 アナスタシアはそこで、にっこりと笑った。

 

「もちろん、ただ働きする気はあらへんけど」

 

 ……出たよ、商人スマイル。

 

「では、卿の望む対価は?」

 

「まずは、費用の負担についてきっちり決めたいなぁ。それから、討伐が成功した場合の商売の話も、相談させてもらいたいところやね」

 

「討伐後の商売?」

 

「白鯨が消えたら、街道を通る荷の流れが変わるやろ? その時に、うちの商会が新しい取引を始めやすいようにしてもらえたら、ありがたいなぁ」

 

 クルシュさんは、すぐには答えなかった。

 

「……それは、私の一存で決められることばかりではないな」

 

「わかっとるよ。せやから、今ここで全部決めようとは思ってへん」

 

「なるほど」

 

 アナスタシアは笑みを深めた。

 

「まずは、お互いにどこまで出せるか。そこを決めてからやね」

 

 ……すげえ。

 

 さっきまで俺が必死に話していた内容が、あっという間に具体的な交渉へ変わっていく。

 

 同じように利益の話をしているはずなのに、俺とは全然違う。

 

 クルシュさんもアナスタシアも、相手が何を望んでいて、どこまで譲れるのかを探っている。

 

 その会話に、俺はなかなか口を挟めなかった。

 

「ラッセル殿。商業組合としてはどうだ?」

 

「私個人としては、白鯨討伐による経済的な利益は十分に理解しております」

 

 ラッセルさんは穏やかな声で答えた。

 

「ただし、組合に所属する商人たちへ協力を求めるとなれば、相応の説明が必要です。誰が費用を負担し、失敗した場合にどう扱うのか。それを曖昧にはできません」

 

「もっともだ」

 

「また、物資を集めるには時間がかかります。ナツキ殿の情報が正しいとして、討伐までにどれほどの猶予があるのか。それも重要ですな」

 

 その言葉に、俺は思わず身を乗り出した。

 

「時間については、俺が伝えた通りです。そこから逆算すれば、準備に使える日数もわかります」

 

「ふむ……」

 

 ラッセルさんは顎に手を当てた。

 

「それならば、まずは必要な物資と数量を整理するべきでしょう。調達できるかどうかは、その一覧を見て判断できます」

 

「……!」

 

 思わず、顔が明るくなった。

 

「じゃあ……!」

 

「勘違いなさらぬように」

 

 ラッセルさんは、俺を見て小さく笑った。

 

「私は、協力を約束したわけではありません。ただ、商売として成立する可能性があるならば、検討を進めるべきだと申し上げているのです」

 

「……はい!」

 

 それでも、十分だった。

 

 何もなかったところに、ようやく道が見え始めたのだから。

 

「……ふむ」

 

 それまで黙って話を聞いていたヴィルヘルムさんが、静かに口を開いた。

 

「クルシュ様。差し出がましいようですが、一つよろしいでしょうか」

 

「構わぬ。申せ」

 

「もし、白鯨の出現場所と時刻が正しいのであれば、討伐の機会としては、これ以上ないほど貴重なものとなりましょう」

 

 その声は、いつも通り落ち着いていた。

 

 けれど、俺にはわかった。

 

 ヴィルヘルムさんの目の奥に、静かな炎が灯っている。

 

「……白鯨は、長きにわたり多くの命を奪ってきました」

 

 彼は一度、目を伏せた。

 

「私もまた、あの魔獣に対し、果たすべきことがございます」

 

 部屋の空気が、わずかに重くなる。

 

 誰も軽々しく口を開かなかった。

 

「……承知している、ヴィルヘルム」

 

 クルシュさんが静かに答えた。

 

「卿の願いも、私が背負うべき責務も、忘れてはいない」

 

「……ありがとうございます」

 

 ヴィルヘルムさんは深く頭を下げた。

 

 俺は、そのやり取りを黙って見つめていた。

 

 この人が白鯨を憎む理由を、俺はまだ詳しく知らない。

 

 けれど、その言葉に込められた重さだけは、痛いほど伝わってきた。

 

     ◇◇◇

 

「……ナツキ・スバル」

 

 しばらくして、クルシュさんが俺を呼んだ。

 

「はい」

 

「卿の提案について、理解はした」

 

 俺は背筋を伸ばす。

 

「白鯨の出現に関する情報を提供し、我々が討伐の主力を担う。そしてアナスタシア殿やラッセル殿の協力によって、物資と輸送の不足を補う」

 

「……はい」

 

「その上で、討伐後にはロズワール領へ向かい、魔女教への対処に協力してほしい。卿の望みは、そういうことだな?」

 

「その通りです」

 

 クルシュさんは静かに頷いた。

 

「筋道は見えた。だが、現段階では、まだ正式な同盟を結ぶことはできぬ」

 

 胸が、少しだけ沈んだ。

 

「……やっぱり、ダメですか?」

 

「そうではない」

 

 クルシュさんは首を振った。

 

「卿の提案を、真剣に検討する価値があると判断したのだ」

 

「……え?」

 

「ただし、確認すべきことが多い。白鯨討伐の戦力、物資の調達、各陣営の負担。そして、エミリア陣営との正式な契約」

 

 彼女は俺を真っ直ぐに見据えた。

 

「これらを詰めずに同盟を結ぶことはできぬ。だが、条件が整えば、我々が協力する道はある」

 

 ……条件が整えば。

 

 その言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んでいく。

 

 拒絶じゃない。

 

 少なくとも、門前払いではなくなった。

 

「……ありがとうございます!」

 

 俺は勢いよく頭を下げた。

 

「まだ礼を言われる段階ではないぞ、ナツキ・スバル」

 

「わかってます! でも、それでも……!」

 

 言葉がうまく出てこなかった。

 

 ここまで来るのに、どれだけ苦労しただろう。

 

 何度も断られた。

 

 何度も疑われた。

 

 それでも、レムが支えてくれた。アナスタシアさんが話を聞いてくれた。ラッセルさんが、検討する価値を認めてくれた。

 

 そして今、クルシュさんが交渉を続けると言ってくれている。

 

「……スバルくん」

 

 隣から、優しい声が聞こえた。

 

 顔を上げると、レムが微笑んでいた。

 

「よかったですね」

 

「……ああ」

 

 俺は、小さく頷いた。

 

「……本当に、よかった」

 

 その時だった。

 

「なぁ、スバルくん」

 

 アナスタシアが、こちらへ声をかけてきた。

 

「……はい?」

 

「一つだけ、聞いてもええ?」

 

「何でしょう?」

 

 彼女は笑っていた。

 

 けれど、その目は少しも笑っていなかった。

 

「スバルくん、なんでそこまでして白鯨を倒したいん?」

 

「……え?」

 

「さっきから聞いとったけど、スバルくん自身には、あんまり得がないように思えるんよ」

 

 ……ああ。

 

 そういうことか。

 

「白鯨を倒したら、クルシュさんたちは名誉を得られる。商人たちは街道を使いやすくなる。でも、スバルくんは?」

 

 アナスタシアは小さく首を傾げた。

 

「エミリア様を守りたい。それはわかる。でも、そこまで必死になる理由が、うちにはまだようわからへん」

 

 俺は、しばらく黙っていた。

 

 理由なんて、いくらでもある。

 

 エミリアを助けたい。

 

 レムを守りたい。

 

 村の人たちを死なせたくない。

 

 ベアトリスも、ラムも、ロズワール邸のみんなも。

 

 そして――。

 

「……友達に、胸を張って会いたいんです」

 

 俺は、ゆっくりと答えた。

 

「……友達?」

 

「はい。俺の友達、すげえ奴なんですよ」

 

 思い浮かぶのは、銀青色の髪をした、一人の男。

 

 口が悪くて、態度がでかくて、いつだって自分のやりたいように生きている。

 

 なのに、不思議とみんなから頼りにされている。

 

 あいつがいるだけで、何とかなる気がする。

 

 そんな男だ。

 

「……そいつに、ずっと憧れてたんです」

 

 俺は小さく笑った。

 

「でも、憧れてるだけじゃダメなんだって、最近ようやく気づいたんですよ」

 

 アナスタシアは、黙って俺を見つめている。

 

「そいつみたいにはなれない。でも、俺にだってできることはある。だから、今回はそれを証明したいんです」

 

「……なるほどなぁ」

 

 アナスタシアは、少しだけ目を細めた。

 

「ずいぶんと、不器用な理由やね」

 

「……自覚してます」

 

「ふふ。せやけど、嫌いやないよ。そういうの」

 

 そう言って、彼女は笑った。

 

 俺は、少しだけ肩の力を抜いた。

 

 ……エリス。

 

 今頃、お前は何してんだろうな。

 

 きっと、相変わらず偉そうにしてんだろう。

 

 ベティーにお茶でも淹れてもらいながら、呑気に本を読んでるかもしれない。

 

 そんな光景を想像して、思わず苦笑した。

 

 ……待ってろよ。

 

 今度こそ、ちゃんと胸を張って会いに行くから。

 

     ◇◇◇

 

 その後も、交渉は続いた。

 

 具体的な物資の数量や輸送手段、費用負担について、クルシュさんとアナスタシアさん、ラッセルさんが意見を交わしていく。

 

 俺にできるのは、白鯨の出現に関する情報を整理し、必要な時に説明することくらいだった。

 

 ……正直、途中から難しい話が多すぎて、頭が痛くなってきたけどな。

 

 それでも、席を立つつもりはなかった。

 

 俺が始めた話だ。

 

 最後まで、責任を持って向き合わなきゃいけない。

 

「……ナツキ・スバル」

 

 やがて、クルシュさんが再び口を開いた。

 

「はい」

 

「卿には、まだ一つ重要な役目が残っている」

 

「……役目?」

 

「エミリア陣営との正式な合意だ。ロズワール辺境伯の承認を得ずして、我々は契約を結べぬ」

 

 ……そうだった。

 

 ここで話がまとまったとしても、エミリア陣営側の承認が必要になる。

 

「……わかってます」

 

「それと、卿の予測した日時に白鯨が現れなかった場合、我々が費やした準備は無駄になる可能性がある。その責任をどう扱うかも、決めねばならぬ」

 

「……はい」

 

「その上で、もう一度聞こう」

 

 クルシュさんが、真っ直ぐに俺を見る。

 

「卿は、本当に白鯨が現れると確信しているのだな?」

 

 俺は、一度だけ目を閉じた。

 

 白い霧。

 

 巨大な影。

 

 耳をつんざく咆哮。

 

 あの恐怖を、忘れられるはずがない。

 

「……はい」

 

 目を開く。

 

「必ず、現れます」

 

 クルシュさんは、しばらく俺を見つめていた。

 

「……よかろう」

 

 そして、静かに頷いた。

 

「ならば、我々もその可能性を前提に、準備を検討しよう」

 

 ……!

 

「ただし、正式な決定は条件が整ってからだ。卿も、それを忘れぬように」

 

「……はい!」

 

 俺は、深く頭を下げた。

 

 まだ、何も終わっていない。

 

 白鯨は倒していない。

 

 魔女教だって、これからだ。

 

 エミリアにも、エリスにも、まだ会えていない。

 

 それでも。

 

 ほんの少しだけ、前に進めた気がした。

 

 誰かの強さに頼るだけじゃなく、自分で考えて、自分の足で立って。

 

 俺は、ようやくここまで来た。

 

 ……なあ、エリス。

 

 お前が積み上げてきたものには、まだまだ届かない。

 

 それでも、俺だって。

 

 少しくらいは、積み上げられたんじゃねえかな。

 

 そんなことを考えながら、俺はもう一度、目の前の交渉へと向き直った。

 

 戦いは、まだ始まってすらいない。

 

 けれど、その戦いへ続く道が、今ようやく開かれようとしていた。

 

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