SIDE エリス
禁書庫という場所は、相変わらず時間の流れがわからなくなる。
窓のない室内には、天井近くまで伸びた書架が整然と並び、古びた紙と革の匂いが満ちていた。外の陽射しも風の音も届かない。聞こえるのは、時折めくられるページの音と、膝の上に座る少女の小さな声くらいだ。
「……エリス。さっきから同じところばかり読んでいるかしら」
「あ?」
「……もう三度目なのよ」
ベアトリスが呆れたように俺を見上げた。
俺は手元の本へ視線を戻す。
陰属性の術式について記された専門書。その一節に、どうにも気になる記述があった。
「いや、ここの構造が妙でな」
「……どこなのよ?」
「ここだ」
俺は本の端に描かれた魔法陣を指差した。
「陰属性の術式なのに、陽属性の補助術式に似た構造が組み込まれてる」
「……ふむ」
ベアトリスが身を乗り出す。
金色の巻き髪が俺の腕に触れた。
「……よく気づいたかしら」
「俺を誰だと思ってんだ?」
「……自信過剰な騎士なのよ」
「おい」
ベアトリスは小さく笑った。
「……けれど、間違ってはいないかしら。これは陰属性の干渉を安定させるために、陽属性の術式を応用したものなのよ」
「へえ。そんな使い方もできんのか」
「……ただし、普通の術者には扱えないかしら。二つの属性を同時に制御するのは、それだけ難しいのよ」
「普通の術者には、な」
俺が笑うと、ベアトリスは嫌そうに眉を寄せた。
「……まさか、試すつもりなのよ?」
「面白そうだろ?」
「……エリスは本当に無茶ばかりするかしら」
「無茶と挑戦は違うんだよ」
「……エリスの場合、その境界が曖昧なのよ」
失礼な奴だ。
もっとも、こいつの言うことにも一理ある。
陰魔法と陽魔法。
どちらも扱えるとはいえ、組み合わせれば何でもできるというわけじゃない。魔力の流れを誤れば術式が崩れるし、下手をすれば自分にまで影響が及ぶ。
だからこそ、研究する価値がある。
「……ま、今すぐ実戦で使うつもりはねえよ」
「……本当かしら?」
「信用ねえな」
「……日頃の行いなのよ」
ベアトリスはそう言って、俺の胸元へ背中を預け直した。
俺は苦笑しながら、その小さな頭を軽く撫でる。
「じゃあ、お前が付き合ってくれよ」
「……何に、かしら?」
「術式の研究。お前が見てりゃ、危ない時は止められるだろ」
ベアトリスは少しだけ目を見開いた。
それから、何やら考え込むように視線を落とす。
「……仕方ないから、付き合ってあげるのよ」
「おう。頼りにしてるぜ、ベティー」
「……っ」
小さな肩が、ぴくりと跳ねた。
「……そ、そんなこと、わざわざ言わなくてもわかっているかしら!」
「そうか?」
「……そうなのよ!」
顔を背けたベアトリスの耳が、わずかに赤くなっている。
……なんだ?
暑いのか?
禁書庫はいつも同じくらいの室温のはずだが。
「……ベティー、暑いなら降りるか?」
「……降りないのよ!」
「お、おう」
なんで怒られたんだ、俺。
まったく、女心ってのは難しい。
◇◇◇
それから数日。
屋敷での生活は、相変わらず穏やかに続いていた。
ロズワールは聖域へ赴いたまま戻らず、ラムが屋敷の仕事を取り仕切っている。
あの道化師がいないおかげで静かなものだが、その分、細々とした判断を求められる機会は増えていた。
特にエミリアは、以前よりも積極的に屋敷の仕事へ関わるようになっている。
今日も朝から、ラムと一緒に領内の報告書を確認していた。
「……エリス、ちょっといい?」
昼前。
執務室で書類を眺めていた俺に、エミリアが声をかけてきた。
「ん? どうした?」
「村の人たちから、お願いが届いてるの」
エミリアは一枚の書類を差し出した。
内容は、近隣の村へ続く道の補修についてだった。
先日の雨で一部の路面が崩れ、荷車の通行に支障が出ているらしい。
「……なるほどな」
「ラムに聞いたら、修繕のための人手は集められるって。でも、ほかの仕事もあるから、すぐには難しいみたいで」
「ふむ」
俺は書類を机へ置いた。
「で、お前はどうしたい?」
エミリアは少しだけ考え込んだ。
「……全部を一度に直すのは難しいと思う。でも、村の人たちが困ってるなら、できるだけ早く何とかしたい」
「具体的には?」
「荷車が通れない場所を先に直して、それ以外は人手に余裕ができてからお願いしようと思ってるの」
俺は頷いた。
「いいんじゃねえか」
「……本当?」
「ああ。優先順位もちゃんと考えてる。悪くねえ判断だ」
エミリアの表情が、ぱっと明るくなった。
「よかった……!」
「ただし、現場の状態は確認しとけよ。書類に書いてあるより酷い場合もあるからな」
「うん! ラムにも相談してみる」
エミリアは嬉しそうに頷いた。
その姿を見送りながら、俺は小さく笑う。
……少しずつ、変わってきたな。
以前なら、何をするにも周囲の顔色を窺っていた。
だが今は、自分で考え、判断しようとしている。
もちろん、まだ危なっかしいところもある。
それでも。
自分の足で立とうとする奴を、俺は嫌いじゃない。
◇◇◇
その日の午後。
俺は屋敷の裏手にある訓練場で、木杭を相手に鞭を振るっていた。
乾いた破裂音が響く。
鞭の先端が杭の表面を正確に打ち抜き、細かな木屑が舞った。
「……ふむ」
悪くない。
だが、もう少し踏み込みを速くできる。
俺は鞭を引き戻し、今度は陽属性の魔力を巡らせた。
身体の動きを補助しながら、足元に陰属性の術式を展開する。
影が伸び、杭の根元へ絡みつく。
その瞬間、俺は踏み込んだ。
鋭い音とともに鞭が走り、杭の上部を打ち据える。
「……よし」
俺は軽く息を吐いた。
その時だった。
「エリス様」
訓練場の入口から、ラムの声が響いた。
「ん?」
振り返ると、ラムがこちらへ歩いてくる。
普段と変わらない表情だが、その足取りはいつもより少し速かった。
「どうした?」
「王都より、使者が到着いたしました」
「……王都?」
俺は眉を上げた。
「誰からだ?」
「クルシュ・カルステン公爵家からでございます」
……ほう?
クルシュ・カルステン。
王選候補者の一人にして、カルステン公爵家の当主。
王都で顔を合わせたことはあるが、わざわざこの屋敷へ使者を寄越すような間柄ではない。
「用件は?」
「エミリア様宛ての親書をお持ちとのことです。詳細は、直接お伝えしたいと」
「……なるほどな」
俺は鞭を腰へ戻した。
「エミリアは?」
「すでにお知らせしております。応接室にてお待ちです」
「わかった。俺も行く」
「承知いたしました」
ラムが一礼する。
俺は歩きながら、頭の中で考えを巡らせた。
クルシュ陣営からの親書。
王選候補者同士の連絡としては、別に珍しいことでもない。
だが、なぜ今なのか。
しかも、ロズワールが不在のこの時期に。
……嫌な予感、というほどじゃない。
ただ、少し気になる。
◇◇◇
応接室へ入ると、エミリアが椅子に座っていた。
その向かいには、カルステン家の紋章を身につけた男が立っている。
男は俺の姿を認めると、丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります。カルステン公爵家より参りました使者にございます」
「おう。エリス・フォン・フェンウィックだ」
「存じ上げております。王国近衛騎士としてのご高名は、かねがね」
「そりゃどうも。で、クルシュから何の用だ?」
「エリス」
エミリアが小さく俺の名前を呼ぶ。
「ん?」
「もう少し丁寧に……」
「……ああ、悪い悪い」
俺が肩をすくめると、使者は気にした様子もなく懐から封書を取り出した。
「こちらを、エミリア様へお届けするよう仰せつかっております」
「……ありがとう」
エミリアが封書を受け取る。
「恐れ入りますが、私はこのまま王都へ戻らねばなりません。お返事につきましては、後日改めてお預かりいたします」
「そうなの? 遠くまで来てもらったのに……」
「お気遣い、痛み入ります。ですが、ほかにも務めがございますので」
男は丁寧に一礼した。
「それでは、失礼いたします」
「ああ。ご苦労さん」
俺が片手を上げると、使者はもう一度頭を下げ、応接室を後にした。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺はエミリアの手元へ視線を向けた。
「……で、何の用なんだろうな」
「うん。私も、ちょっと気になる」
エミリアは封書を見つめた。
カルステン家の紋章が刻まれた封蝋。
王選候補者から届いた正式な親書だ。
俺は椅子へ腰を下ろし、エミリアが封を切るのを待った。
そして。
「……え?」
手紙を広げたエミリアの手が止まった。
「……どうした?」
「……エリス、これ……」
差し出された紙を受け取り、俺は目を落とした。
……。
「……は?」
そこには、何も書かれていなかった。
一文字も。
ただの白紙だった。
「……おいおい」
俺は思わず眉をひそめた。
「……なんだ、こりゃ」
俺は紙を裏返した。
何もない。
透かしてみても、文字らしきものは見当たらない。
「……エリス」
エミリアが不安そうにこちらを見る。
「……これって、どういうことなのかな」
「……さあな」
俺は白紙の親書を眺めた。
クルシュ・カルステン。
あの女が、わざわざ白紙の親書を送りつけるような真似をするか?
……いや。
少なくとも、俺の知る限りでは、そんなくだらない嫌がらせをするような女じゃない。
「……何かの手違いか、それとも……」
俺はそこで言葉を切った。
確かなことは何もわからない。
憶測で騒いでも仕方がない。
「……ラム」
「はい」
「お前も見てくれ」
俺は白紙の親書をラムへ差し出した。
ラムはそれを受け取り、静かに目を通す。
「……白紙、ですか」
「ああ」
「……少なくとも、正式な親書としては異常かと」
「だよな」
ラムは封筒にも目を向けた。
「……封蝋は、カルステン家のものに見受けられます」
「……ふむ」
「ですが、差出人が意図して白紙を送ったとは限りません」
俺は口元を緩めた。
「……へえ。俺と同じ考えか」
「エリス様と意見が一致するのは、少々不本意ですが」
「おい」
ラムは平然とした顔で親書を封筒へ戻した。
「まずは、届いた時の状態を確認すべきでしょう。封蝋や封筒に不審な点がないか、使者にも確認いたします」
「……使者なら、もう帰ったぞ」
「……そうでしたか」
ラムは一瞬だけ眉をひそめた。
「それでは、すぐに確認することは難しいですね」
「ああ」
俺は頷いた。
「それと、屋敷の警備を少し強めておけ」
「承知いたしました」
ラムが一礼する。
エミリアは二人のやり取りを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……私も、クルシュ様がこんなことをするとは思えない」
「なら、最初から喧嘩腰になる必要はねえな」
「……うん。まずは、何があったのか確かめたい」
俺は口元を緩めた。
「上出来だ、お姫様」
「もう、エリスったら!」
エミリアが少しだけ頬を膨らませる。
その様子を見て、俺は小さく笑った。
……さて。
白紙の親書、か。
誰が、何のために。
そんなものを、わざわざ送りつけたのか。
今はまだ、何もわからない。
だが。
「……面倒なことになりそうだな」
俺は小さく呟いた。
窓の外では、穏やかな風が木々を揺らしていた。