月光る夜   作:案院運

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白鯨〜怠惰9

 

SIDE エリス

 

 禁書庫という場所は、相変わらず時間の流れがわからなくなる。

 

 窓のない室内には、天井近くまで伸びた書架が整然と並び、古びた紙と革の匂いが満ちていた。外の陽射しも風の音も届かない。聞こえるのは、時折めくられるページの音と、膝の上に座る少女の小さな声くらいだ。

 

「……エリス。さっきから同じところばかり読んでいるかしら」

 

「あ?」

 

「……もう三度目なのよ」

 

 ベアトリスが呆れたように俺を見上げた。

 

 俺は手元の本へ視線を戻す。

 

 陰属性の術式について記された専門書。その一節に、どうにも気になる記述があった。

 

「いや、ここの構造が妙でな」

 

「……どこなのよ?」

 

「ここだ」

 

 俺は本の端に描かれた魔法陣を指差した。

 

「陰属性の術式なのに、陽属性の補助術式に似た構造が組み込まれてる」

 

「……ふむ」

 

 ベアトリスが身を乗り出す。

 

 金色の巻き髪が俺の腕に触れた。

 

「……よく気づいたかしら」

 

「俺を誰だと思ってんだ?」

 

「……自信過剰な騎士なのよ」

 

「おい」

 

 ベアトリスは小さく笑った。

 

「……けれど、間違ってはいないかしら。これは陰属性の干渉を安定させるために、陽属性の術式を応用したものなのよ」

 

「へえ。そんな使い方もできんのか」

 

「……ただし、普通の術者には扱えないかしら。二つの属性を同時に制御するのは、それだけ難しいのよ」

 

「普通の術者には、な」

 

 俺が笑うと、ベアトリスは嫌そうに眉を寄せた。

 

「……まさか、試すつもりなのよ?」

 

「面白そうだろ?」

 

「……エリスは本当に無茶ばかりするかしら」

 

「無茶と挑戦は違うんだよ」

 

「……エリスの場合、その境界が曖昧なのよ」

 

 失礼な奴だ。

 

 もっとも、こいつの言うことにも一理ある。

 

 陰魔法と陽魔法。

 

 どちらも扱えるとはいえ、組み合わせれば何でもできるというわけじゃない。魔力の流れを誤れば術式が崩れるし、下手をすれば自分にまで影響が及ぶ。

 

 だからこそ、研究する価値がある。

 

「……ま、今すぐ実戦で使うつもりはねえよ」

 

「……本当かしら?」

 

「信用ねえな」

 

「……日頃の行いなのよ」

 

 ベアトリスはそう言って、俺の胸元へ背中を預け直した。

 

 俺は苦笑しながら、その小さな頭を軽く撫でる。

 

「じゃあ、お前が付き合ってくれよ」

 

「……何に、かしら?」

 

「術式の研究。お前が見てりゃ、危ない時は止められるだろ」

 

 ベアトリスは少しだけ目を見開いた。

 

 それから、何やら考え込むように視線を落とす。

 

「……仕方ないから、付き合ってあげるのよ」

 

「おう。頼りにしてるぜ、ベティー」

 

「……っ」

 

 小さな肩が、ぴくりと跳ねた。

 

「……そ、そんなこと、わざわざ言わなくてもわかっているかしら!」

 

「そうか?」

 

「……そうなのよ!」

 

 顔を背けたベアトリスの耳が、わずかに赤くなっている。

 

 ……なんだ?

 

 暑いのか?

 

 禁書庫はいつも同じくらいの室温のはずだが。

 

「……ベティー、暑いなら降りるか?」

 

「……降りないのよ!」

 

「お、おう」

 

 なんで怒られたんだ、俺。

 

 まったく、女心ってのは難しい。

 

     ◇◇◇

 

 それから数日。

 

 屋敷での生活は、相変わらず穏やかに続いていた。

 

 ロズワールは聖域へ赴いたまま戻らず、ラムが屋敷の仕事を取り仕切っている。

 

 あの道化師がいないおかげで静かなものだが、その分、細々とした判断を求められる機会は増えていた。

 

 特にエミリアは、以前よりも積極的に屋敷の仕事へ関わるようになっている。

 

 今日も朝から、ラムと一緒に領内の報告書を確認していた。

 

「……エリス、ちょっといい?」

 

 昼前。

 

 執務室で書類を眺めていた俺に、エミリアが声をかけてきた。

 

「ん? どうした?」

 

「村の人たちから、お願いが届いてるの」

 

 エミリアは一枚の書類を差し出した。

 

 内容は、近隣の村へ続く道の補修についてだった。

 

 先日の雨で一部の路面が崩れ、荷車の通行に支障が出ているらしい。

 

「……なるほどな」

 

「ラムに聞いたら、修繕のための人手は集められるって。でも、ほかの仕事もあるから、すぐには難しいみたいで」

 

「ふむ」

 

 俺は書類を机へ置いた。

 

「で、お前はどうしたい?」

 

 エミリアは少しだけ考え込んだ。

 

「……全部を一度に直すのは難しいと思う。でも、村の人たちが困ってるなら、できるだけ早く何とかしたい」

 

「具体的には?」

 

「荷車が通れない場所を先に直して、それ以外は人手に余裕ができてからお願いしようと思ってるの」

 

 俺は頷いた。

 

「いいんじゃねえか」

 

「……本当?」

 

「ああ。優先順位もちゃんと考えてる。悪くねえ判断だ」

 

 エミリアの表情が、ぱっと明るくなった。

 

「よかった……!」

 

「ただし、現場の状態は確認しとけよ。書類に書いてあるより酷い場合もあるからな」

 

「うん! ラムにも相談してみる」

 

 エミリアは嬉しそうに頷いた。

 

 その姿を見送りながら、俺は小さく笑う。

 

 ……少しずつ、変わってきたな。

 

 以前なら、何をするにも周囲の顔色を窺っていた。

 

 だが今は、自分で考え、判断しようとしている。

 

 もちろん、まだ危なっかしいところもある。

 

 それでも。

 

 自分の足で立とうとする奴を、俺は嫌いじゃない。

 

     ◇◇◇

 

 その日の午後。

 

 俺は屋敷の裏手にある訓練場で、木杭を相手に鞭を振るっていた。

 

 乾いた破裂音が響く。

 

 鞭の先端が杭の表面を正確に打ち抜き、細かな木屑が舞った。

 

「……ふむ」

 

 悪くない。

 

 だが、もう少し踏み込みを速くできる。

 

 俺は鞭を引き戻し、今度は陽属性の魔力を巡らせた。

 

 身体の動きを補助しながら、足元に陰属性の術式を展開する。

 

 影が伸び、杭の根元へ絡みつく。

 

 その瞬間、俺は踏み込んだ。

 

 鋭い音とともに鞭が走り、杭の上部を打ち据える。

 

「……よし」

 

 俺は軽く息を吐いた。

 

 その時だった。

 

「エリス様」

 

 訓練場の入口から、ラムの声が響いた。

 

「ん?」

 

 振り返ると、ラムがこちらへ歩いてくる。

 

 普段と変わらない表情だが、その足取りはいつもより少し速かった。

 

「どうした?」

 

「王都より、使者が到着いたしました」

 

「……王都?」

 

 俺は眉を上げた。

 

「誰からだ?」

 

「クルシュ・カルステン公爵家からでございます」

 

 ……ほう?

 

 クルシュ・カルステン。

 

 王選候補者の一人にして、カルステン公爵家の当主。

 

 王都で顔を合わせたことはあるが、わざわざこの屋敷へ使者を寄越すような間柄ではない。

 

「用件は?」

 

「エミリア様宛ての親書をお持ちとのことです。詳細は、直接お伝えしたいと」

 

「……なるほどな」

 

 俺は鞭を腰へ戻した。

 

「エミリアは?」

 

「すでにお知らせしております。応接室にてお待ちです」

 

「わかった。俺も行く」

 

「承知いたしました」

 

 ラムが一礼する。

 

 俺は歩きながら、頭の中で考えを巡らせた。

 

 クルシュ陣営からの親書。

 

 王選候補者同士の連絡としては、別に珍しいことでもない。

 

 だが、なぜ今なのか。

 

 しかも、ロズワールが不在のこの時期に。

 

 ……嫌な予感、というほどじゃない。

 

 ただ、少し気になる。

 

     ◇◇◇

 

 応接室へ入ると、エミリアが椅子に座っていた。

 

 その向かいには、カルステン家の紋章を身につけた男が立っている。

 

 男は俺の姿を認めると、丁寧に頭を下げた。

 

「お初にお目にかかります。カルステン公爵家より参りました使者にございます」

 

「おう。エリス・フォン・フェンウィックだ」

 

「存じ上げております。王国近衛騎士としてのご高名は、かねがね」

 

「そりゃどうも。で、クルシュから何の用だ?」

 

「エリス」

 

 エミリアが小さく俺の名前を呼ぶ。

 

「ん?」

 

「もう少し丁寧に……」

 

「……ああ、悪い悪い」

 

 俺が肩をすくめると、使者は気にした様子もなく懐から封書を取り出した。

 

「こちらを、エミリア様へお届けするよう仰せつかっております」

 

「……ありがとう」

 

 エミリアが封書を受け取る。

 

「恐れ入りますが、私はこのまま王都へ戻らねばなりません。お返事につきましては、後日改めてお預かりいたします」

 

「そうなの? 遠くまで来てもらったのに……」

 

「お気遣い、痛み入ります。ですが、ほかにも務めがございますので」

 

 男は丁寧に一礼した。

 

「それでは、失礼いたします」

 

「ああ。ご苦労さん」

 

 俺が片手を上げると、使者はもう一度頭を下げ、応接室を後にした。

 

 扉が閉まる。

 

 足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺はエミリアの手元へ視線を向けた。

 

「……で、何の用なんだろうな」

 

「うん。私も、ちょっと気になる」

 

 エミリアは封書を見つめた。

 

 カルステン家の紋章が刻まれた封蝋。

 

 王選候補者から届いた正式な親書だ。

 

 俺は椅子へ腰を下ろし、エミリアが封を切るのを待った。

 

 そして。

 

「……え?」

 

 手紙を広げたエミリアの手が止まった。

 

「……どうした?」

 

「……エリス、これ……」

 

 差し出された紙を受け取り、俺は目を落とした。

 

 ……。

 

「……は?」

 

 そこには、何も書かれていなかった。

 

 一文字も。

 

 ただの白紙だった。

 

「……おいおい」

 

 俺は思わず眉をひそめた。

 

「……なんだ、こりゃ」

 

 俺は紙を裏返した。

 

 何もない。

 

 透かしてみても、文字らしきものは見当たらない。

 

「……エリス」

 

 エミリアが不安そうにこちらを見る。

 

「……これって、どういうことなのかな」

 

「……さあな」

 

 俺は白紙の親書を眺めた。

 

 クルシュ・カルステン。

 

 あの女が、わざわざ白紙の親書を送りつけるような真似をするか?

 

 ……いや。

 

 少なくとも、俺の知る限りでは、そんなくだらない嫌がらせをするような女じゃない。

 

「……何かの手違いか、それとも……」

 

 俺はそこで言葉を切った。

 

 確かなことは何もわからない。

 

 憶測で騒いでも仕方がない。

 

「……ラム」

 

「はい」

 

「お前も見てくれ」

 

 俺は白紙の親書をラムへ差し出した。

 

 ラムはそれを受け取り、静かに目を通す。

 

「……白紙、ですか」

 

「ああ」

 

「……少なくとも、正式な親書としては異常かと」

 

「だよな」

 

 ラムは封筒にも目を向けた。

 

「……封蝋は、カルステン家のものに見受けられます」

 

「……ふむ」

 

「ですが、差出人が意図して白紙を送ったとは限りません」

 

 俺は口元を緩めた。

 

「……へえ。俺と同じ考えか」

 

「エリス様と意見が一致するのは、少々不本意ですが」

 

「おい」

 

 ラムは平然とした顔で親書を封筒へ戻した。

 

「まずは、届いた時の状態を確認すべきでしょう。封蝋や封筒に不審な点がないか、使者にも確認いたします」

 

「……使者なら、もう帰ったぞ」

 

「……そうでしたか」

 

 ラムは一瞬だけ眉をひそめた。

 

「それでは、すぐに確認することは難しいですね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

「それと、屋敷の警備を少し強めておけ」

 

「承知いたしました」

 

 ラムが一礼する。

 

 エミリアは二人のやり取りを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

 

「……私も、クルシュ様がこんなことをするとは思えない」

 

「なら、最初から喧嘩腰になる必要はねえな」

 

「……うん。まずは、何があったのか確かめたい」

 

 俺は口元を緩めた。

 

「上出来だ、お姫様」

 

「もう、エリスったら!」

 

 エミリアが少しだけ頬を膨らませる。

 

 その様子を見て、俺は小さく笑った。

 

 ……さて。

 

 白紙の親書、か。

 

 誰が、何のために。

 そんなものを、わざわざ送りつけたのか。

 今はまだ、何もわからない。

 だが。

 

「……面倒なことになりそうだな」

 

 俺は小さく呟いた。

 窓の外では、穏やかな風が木々を揺らしていた。

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