SIDE スバル
フリューゲルの大樹が、夜空を貫くようにそびえ立っていた。
その巨大な幹の下、数百もの人間が息を潜めている。鎧の擦れる音、地竜の鼻息、時折吹き抜ける夜風。それ以外に聞こえるものはほとんどなかった。
クルシュ・カルステン率いる討伐隊。アナスタシア陣営から派遣された『鉄の牙』の傭兵団。そして、長年にわたり白鯨への復讐を胸に秘めてきた剣鬼。
その全員が、たった一頭の魔獣を討つために集まっている。
「……そろそろだな」
俺は手の中にある携帯電話へと目を落とした。
この世界では『ミーティア』と呼ばれる、元の世界から持ち込んだ文明の利器。電話としての役割は果たせなくなったが、時計としての機能だけは今も健在だった。
画面に表示されているのは、午後三時。
現地ではすでに真夜中だというのに、こいつだけは日本にいた頃と変わらない時間を刻んでいる。
俺は携帯を握り直し、暗い夜空を見上げた。まだ、何も見えない。けれど、間違いなく現れる,そのために、ここまで来たのだから。
「スバルくん」
隣に立つレムが、静かに声をかけてきた。
「もうすぐ、ですか?」
「ああ。あと少しだ」
レムは小さく頷くと、手にした鉄球の柄を握り直した。その表情に迷いはない。
俺とは大違いだ。正直に言えば、心臓はさっきからうるさいくらいに鳴っているし、手のひらには嫌な汗が滲んでいる。
これから相手にするのは、四百年もの間、誰にも討ち取れなかった怪物だ。
怖くないわけがない。
それでも、逃げるつもりはなかった。
ここまで来るために、どれだけの人間が力を貸してくれたと思っている。クルシュさんも、アナスタシアさんも、ラッセルさんも。そして、隣にいるレムも。
俺一人じゃ、何一つ成し遂げられなかった。だからこそ、ここで逃げ出すわけにはいかない。俺は再び携帯電話へと目を落とした。
数字が、一つ進んだ。
――ピピピピピッ!!
「うおっ!?」
静寂を破った電子音に、思わず肩が跳ねた。周囲の兵士たちも、一斉にこちらへ視線を向ける。
……そうだった。
アラーム、設定してたんだった。
「スバルくん?」
「お、おう。時間だ」
慌ててアラームを止め、俺は夜空を見上げた。だが、そこには何もない。
満天の星。
静かな夜風。
そして、巨大なフリューゲルの大樹。
「…………」
数秒が過ぎる。さらに、十数秒。
……おいおい。
まさか、来ないなんてことはないよな?
ここまで大勢の人間を集めておいて、白鯨が現れませんでした、なんてことになったら。想像するだけで、胃が痛くなる。
そんな俺の不安をよそに、レムが静かに口を開いた。
「……スバルくん」
「ん?」
「何か、来ます」
その声に、俺は顔を上げた。
最初に異変を感じたのは、地竜たちだった。
低く唸る声があちこちから上がり、落ち着きを失った地竜が足元の土を掻き始める。
続いて、風が変わった。
夜の街道を吹き抜けていた風が、ふっと途絶える。
そして。
夜空の一角が、白く霞んだ。
◇◇◇
――霧。
何もない空間から、滲み出すように白い霧が広がっていく。それは瞬く間に星々の光を覆い隠し、夜空に巨大な影を浮かび上がらせた。
白い体躯。
空を泳ぐ、巨大な鯨。
その姿を目にした瞬間、全身の血が冷たくなったような気がした。
「……でっけえ」
思わず、そんな間抜けな言葉が漏れる。知っていた。こいつが現れることも、その姿も。
けれど、実際に目の当たりにすると、あまりにも現実離れしていた。巨大な体が、ゆっくりと夜空を泳いでいる。その尾が動くたび、周囲の霧が大きく揺らいだ。
あれが、白鯨。
三大魔獣の一角。
四百年もの間、人々を恐怖に陥れてきた災厄。
「スバルくん」
レムの声に、俺は顔を向けた。
その瞳に恐怖がないわけではない。けれど、それ以上に強い決意が宿っていた。
俺は頷く。
「……レム、頼む」
「はい!」
レムが一歩前へ出る。
小柄な身体から、凄まじい勢いでマナが溢れ出した。周囲の空気が急激に冷え込み、白い吐息が夜の闇に溶けていく。
彼女が両手を掲げると、その頭上に巨大な氷塊が形成され始めた。
見る間に膨れ上がる氷の結晶。
鋭く尖ったそれは、まるで巨大な槍のようだった。
「――アル・ヒューマ!!」
レムの声が、夜空に響いた。
次の瞬間、巨大な氷塊が白鯨へ向かって放たれる。
大気を引き裂く轟音。
白鯨が、わずかに巨体を動かした。
だが、遅い。
――直撃。
凄まじい衝撃音が響き渡り、氷の破片が四方へ飛び散った。
白い巨体が揺らぐ。
直後、夜空を震わせるような咆哮が響き渡った。
「……よっしゃあああッ!!」
俺は思わず拳を突き上げた。
当たった。
確かに、当たったのだ。
そして、その一撃を合図にしたかのように。
「――総員!! あのバカ共に続けーッ!!」
クルシュさんの声が、戦場に響き渡った。
◇◇◇
「各隊、散開!! 攻撃開始!!」
号令とともに、討伐隊が一斉に動き出した。
地竜に跨がった騎士たちが左右へ展開し、魔法砲を扱う兵士たちが次々と攻撃態勢を整える。
鉄の牙の傭兵団も、持ち前の機動力を活かして戦場へ散っていった。
まさしく、先手必勝。
敵に態勢を整えさせる前に、持てる火力を叩き込む。
「魔法、放てええええッ!!」
次の瞬間、無数の光が夜空へと打ち上げられた。
火炎、氷塊、風の刃。
色とりどりの魔法が白鯨へと殺到し、その巨体に次々と炸裂する。
轟音が重なり、夜空が一瞬にして昼間のように明るくなった。
だが、その明るさは長く続かない。
爆炎が消えれば、再び夜の闇が戦場を覆い始める。
そこで。
「――夜払い、放て!!」
クルシュさんの号令が響いた。
兵士たちが、用意していた魔鉱石を夜空へと打ち上げる。
次の瞬間、頭上で無数の光が弾けた。
白く眩い光。
それが夜空のあちこちに浮かび上がり、周囲を昼間のように照らし出していく。
「うおっ、眩しっ!?」
思わず目を細める。
だが、すぐにその意味を理解した。
夜空を泳ぐ白鯨。
暗闇に紛れれば、その巨体であっても姿を見失う可能性がある。
しかし、これだけ明るければ話は別だ。
白い巨体が、夜空にはっきりと浮かび上がっている。
「……なるほどな」
俺は感心したように呟いた。
単純な力押しじゃない。
討伐隊は、この戦いのためにできる限りの準備を整えてきたのだ。
「攻撃を続けろ!!」
クルシュさんの声が響く。
魔法砲が、再び火を噴いた。
白鯨の体表に、次々と傷が刻まれていく。
白い皮膚を赤い血が染め、巨大な体がわずかに揺らいだ。
だが。
「……マジかよ」
俺は思わず呻いた。
あれだけの攻撃を浴びながら、白鯨はなお空を泳ぎ続けている。
巨体ゆえに動きは緩慢に見えるが、その生命力は尋常ではない。
普通の魔獣なら、とっくに消し炭になっているはずだ。
それなのに。
「……なんつう頑丈さだよ」
思わず漏れた言葉をかき消すように、再び轟音が響いた。
そして、その総攻撃の最中。
クルシュさんが、静かに剣を構え直した。
「…………」
その姿に、俺は思わず目を奪われた。
先ほどまで全軍を鼓舞していた指揮官の顔ではない。
一人の剣士として、目の前の敵を見据える鋭い眼差し。
彼女は、愛竜の背で剣を振りかぶった。
次の瞬間、剣が振り抜かれる。
何もないはずの空間を、何かが駆け抜けた。
目には見えない。
けれど、確かに存在する斬撃。
それが夜空を一直線に走り、白鯨の巨体へと到達した。
――斬ッ!!
白い体表が、深々と切り裂かれる。
鮮血が夜空へ舞った。
「……は?」
俺は、思わず間抜けな声を漏らした。
遠い。
あまりにも遠い。
普通の剣なら、絶対に届かない距離だ。
それなのに、クルシュさんの一振りは確かに白鯨を斬りつけた。
「……いやいや、どうなってんだよ。あんな距離から剣が届くとか、反則だろ」
思わず乾いた笑いが漏れる俺に、レムが静かに答えた。
「『百人一太刀』。クルシュ様が得意とされる、間合いを無視した不可視の剣技です。剣の届かない距離にいる相手さえ斬り伏せることができると聞いています」
「……マジかよ。なんでもありだな、この世界」
エリスの鞭も大概だと思っていたが、こっちはこっちで常識外れにも程がある。
しかも、クルシュさんはそこで攻撃を止めなかった。
「――続け!!」
再び剣が振るわれる。
不可視の斬撃が夜空を走り、白鯨の巨体に新たな傷を刻んだ。
その姿を見た兵士たちの士気が、一気に高まっていく。
「カルステン公が傷を負わせたぞ!!」
「いける!! 俺たちでもやれる!!」
「撃て!! 撃ち続けろ!!」
歓声と怒号が、戦場を満たした。
だが、その熱狂の中で。
一人だけ、静かに動き出した男がいた。
◇◇◇
ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。
老剣士は、すでに剣を抜いていた。
その横顔に、普段の穏やかな笑みはない。
ただ、目の前の白い怪物を見据えている。
その眼差しには、言葉では言い表せないほどの感情が宿っていた。
怒り。
悲しみ。
後悔。
そして、十四年という歳月をかけてなお消えることのなかった執念。
「…………」
俺は、声をかけなかった。もう、言葉は交わしている。
ここへ来る前に、互いの覚悟を確かめ合った。
だから今は、ただ見送るだけだ。
ヴィルヘルムさんが、地面を蹴った。
次の瞬間、その姿が視界から消えた。
「……え?」
いや、消えたんじゃない。
速すぎるのだ。
常人の目では追いきれない速度で、老剣士は戦場を駆け抜けていた。
地面を蹴り、跳躍し、白鯨の巨体へ向かって一気に距離を詰めていく。
そして。
「――――ッ!!」
銀光が、夜空を走った。
剣が白い肉を切り裂き、鮮血が散る。
白鯨の咆哮が、夜を震わせた。
だが、老剣士は止まらない。
一撃、二撃、三撃。
その剣は、まるで舞うように白鯨の体表を斬り裂いていく。
「……すげえ」
俺は、ただ呆然と呟いた。 あれが、剣鬼。 ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。
剣を振るうことに、その生涯を捧げた男。その姿には、恐ろしいほどの美しさがあった。
だが、白鯨とてただ斬られているだけではない。
巨大な尾が、ゆっくりと持ち上がった。
「――ッ!!」
嫌な予感がした。
次の瞬間、白鯨の尾が凄まじい勢いで振り抜かれる。
大気が唸り、暴風が巻き起こった。
その一撃は、まるで巨大な城壁が横薙ぎに迫ってくるかのようだった。
「ヴィルヘルムさん!!」
俺の叫びと同時に、老剣士の身体が宙を舞った。
――いや、違う。
自ら跳んだのだ。
迫り来る尾の一撃を紙一重でかわし、そのまま空中で身体を捻る。
そして、再び白鯨の体表へと剣を突き立てた。
「……化け物かよ、あの爺さん」
思わず、そんな言葉が漏れた。
もちろん、褒め言葉だ。
だが、戦況は決して楽観できるものではなかった。
◇◇◇
白鯨が、再び咆哮した。今度のそれは、先ほどまでとは明らかに違っていた。
怒り。
苛立ち。
自分を傷つける小さな存在たちへの、明確な敵意。巨大な口が、ゆっくりと開かれていく。
「……っ!」
俺は、その光景に見覚えがあった。
あの口。
あの動き。
そして、周囲に広がり始める白い霧。
「――まずい!!」
背筋に、冷たいものが走った。
「みんな、避けろおおおおおおッ!!」
俺は、喉が裂けるほど叫んだ。
だが、白鯨の口から凄まじい勢いで霧が吐き出された。
白い奔流。
それが、地上へ向かって押し寄せる。
「各隊、退避!!」
クルシュさんの号令が響く。
兵士たちが必死にその場を離れていく。
地竜が駆け、魔法使いたちが防御魔法を展開する。
だが、全員が逃げ切れるわけではなかった。
「うわああああああッ!!」
悲鳴が上がる。白い霧が、戦場の一角を呑み込んだ。そして、そこにいたはずの兵士たちの姿が見えなくなった。
「…………」
俺は息を呑んだ。
ただ霧に隠れただけなのか。
それとも、あの恐ろしい能力がすでに発動してしまったのか。わからない。わからないことが、何より恐ろしかった。
隣で、レムが鉄球を握り締める。
「スバルくん……!」
「ああ……!」
俺は、震える拳を握った。
これが、白鯨。
四百年もの間、人々を恐怖に陥れてきた災厄。その力の一端を、俺たちは今、ようやく思い知らされたのだ。
だが。
「……まだだ」
俺は歯を食いしばった。
「まだ、終わっちゃいねえ」
夜空では、白鯨が再び巨体を翻している。
クルシュさんの号令が響き、ヴィルヘルムさんの剣が閃き、兵士たちが必死に持ち場を守っている。
誰も、諦めていない。
ならば、俺だって。
「……ここからだ」
俺は、夜空を睨みつけた。
「ここからが、本番だろうが……!」
白鯨が、再び咆哮する。
その声は、夜の街道を震わせた。四百年の災厄と、それに抗う人間たち。長きにわたる因縁の戦いは、まだ始まったばかりだった。