SIDE スバル
白鯨が、消えた。
夜払いによって照らされた空には、つい先ほどまであの巨大な魔獣が浮かんでいたはずだった。ところが今は、霧の名残が漂うばかりで、白い巨体は影も形もない。
「……おいおい、どこ行きやがった?」
俺は呆然と夜空を見上げた。あれほど巨大な化け物が、何の前触れもなく姿を消す。そんなことがあってたまるか。
だが、現実に白鯨の姿は見当たらない。周囲の兵士たちも困惑したように空を見上げ、互いに声を掛け合っていた。
「白鯨はどこだ!?」
「霧の中か!? それとも逃げたのか!?」
「馬鹿を言うな! あの巨体がそう簡単に逃げられるものか!」
飛び交う怒号に、俺は思わず顔をしかめた。
……逃げた?
いや、違う。
あの化け物が、ここまで追い詰められて尻尾を巻いたとは思えない。むしろ、さっきの不気味な鳴き声を思い出すと、嫌な予感しかしなかった。
「全軍、警戒を解くな!」
クルシュさんの声が戦場に響いた。
「白鯨が討ち取られたわけではない! 各隊、周囲を警戒し、陣形を維持せよ!」
その号令に、兵士たちが再び武器を構える。さすがに場数を踏んだ討伐隊だけあって、混乱が広がり切る前に統制を取り戻しつつあった。
しかし、肝心の敵が見えない。
「……レム、何かわかるか?」
「申し訳ありません。レムにも、白鯨の気配が掴めません」
レムは鉄球を握り直しながら、警戒するように周囲を見渡した。
「ただ……」
「ただ?」
「嫌な気配がします。先ほどまでとは、何かが違うような……」
その言葉に、俺は唾を呑み込んだ。
レムの勘は、馬鹿にできない。鬼族である彼女の感覚は、俺なんかとは比べものにならないほど鋭いのだ。
そして何より、俺自身も同じことを感じていた。
何かが、おかしい。
◇◇◇
最初に異変に気づいたのは、空を警戒していた兵士の一人だった。
「……おい、あれは何だ?」
その声に、周囲の視線が集まる。
俺もつられて顔を上げた。
霧の向こう、夜払いの光が届く空の一角に、白い影が浮かんでいる。
「……いた!」
思わず声を上げた。
だが、その直後だった。
「待て……! あっちにもいるぞ!」
別の兵士が、反対側の空を指差した。
俺は慌てて振り向く。
そこにも、白い影があった。
……は?
俺は目を瞬かせた。
右に一体。左に一体。
見間違いかと思い、何度も視線を往復させる。だが、どちらも確かに存在していた。
「……おい、レム」
「はい」
「俺、目がおかしくなったのかな」
「……いいえ」
レムの声が、わずかに強張った。
「レムにも、二体見えています」
その返事を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。
いやいやいや。
待て待て待て。
白鯨ってのは、確か一匹しかいないんじゃなかったのか?
四百年間も暴れ回っていた伝説の魔獣が、実は二匹いましたなんて話、聞いてねえぞ。
だが、悪夢はそこで終わらなかった。
「――三体目だ!!」
誰かの叫び声が、夜空に響き渡った。
俺は、ゆっくりと首を巡らせた。
そして見た。
夜空の別の方角に、もう一つの白い巨体が浮かび上がっているのを。
「…………」
言葉が出なかった。
三体。
白鯨が、三体。
冗談じゃない。あんな化け物が一体いるだけでも、これだけ苦戦しているというのに。
「……ふざけんなよ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
「一匹でも十分お腹いっぱいだってのに、三匹セットでお届けとか、誰が注文したんだよ……!」
誰も答えなかった。
当然だ。
周囲の兵士たちも、俺と同じように夜空を見上げている。ある者は呆然とし、ある者は武器を握る手を震わせていた。
それでも、誰一人として逃げ出そうとはしなかった。
ここに集まったのは、白鯨を討つために覚悟を決めた者たちだ。
だが、覚悟だけでどうにかなる相手ではないことも、誰もが理解していた。
◇◇◇
「……三体、だと?」
クルシュさんの声にも、さすがに驚愕が滲んでいた。
彼女は愛竜の背から夜空を見上げ、三つの白い影を順に見据える。
「報告にあった白鯨は、一体のみのはず……。これは一体、どういうことだ?」
その疑問に答えられる者はいなかった。
ヴィルヘルムさんもまた、剣を構えたまま夜空を睨んでいる。
「……三体、ですか」
低く呟いた老剣士の声には、驚きよりも鋭い警戒が込められていた。
俺は思わず、ヴィルヘルムさんの横顔を見た。
あの人にとって、白鯨は妻の仇だ。
十四年間、ただ一匹の魔獣を討つために生きてきたと言っても過言ではない。
それが、今になって三体現れた。
何を思っているのか、俺には想像もつかなかった。
だが、老剣士は動揺を表に出さなかった。
「クルシュ様」
「何だ、ヴィルヘルム」
「いずれが本物であろうと、斬るべき敵であることに変わりはありません」
その言葉に、クルシュさんは一瞬だけ目を細めた。
そして、力強く頷く。
「……その通りだ」
彼女は剣を掲げた。
「全軍、怯むな! 敵が三体に増えたとて、我々の目的は変わらん! 白鯨を討ち、この街道に平穏を取り戻すのだ!」
その号令に、兵士たちが応える。
「おおおおおおッ!!」
雄叫びが夜空に響き渡った。
俺はその光景を見ながら、思わず息を吐いた。
……すげえな。
あんな状況でも、兵士たちを奮い立たせることができる。
これが、人の上に立つ者の力なのか。
俺には、とても真似できそうにない。
だが。
「……待てよ」
ふと、頭の片隅に引っかかるものがあった。
三体。
白鯨が三体。
それは本当に、三匹いるということなのか?
俺は改めて夜空を見上げた。
三つの巨体は、それぞれ別の方向へ泳ぎ始めている。どれも同じ姿をしており、見た目だけでは区別がつかない。
けれど、何かがおかしい。
何か、決定的な違和感がある。
「……レム」
「はい?」
「ちょっと、あいつらの動きを見ててくれ」
「……わかりました」
レムが頷き、俺たちは三体の白鯨を注意深く観察し始めた。
◇◇◇
戦闘は、再び激しさを増していた。
三体の白鯨は、それぞれ別の方向から討伐隊へ襲いかかる。
一体が巨体を振るって地上を薙ぎ払い、もう一体が霧を吐き出して兵士たちの視界を奪う。そして残る一体が、上空から戦場を見下ろすように旋回していた。
「くそっ! どれを狙えばいいんだ!?」
「攻撃を集中させろ!」
「無理だ! 別々に動いている!」
怒号が飛び交う。
兵士たちは必死に応戦しているが、敵が三体に増えたことで、攻撃はどうしても分散してしまう。
しかも、白鯨の動きは相変わらず素早い。
あれだけの巨体で、どうしてあんな機敏に動けるのか。
俺は思わず歯噛みした。
「……レム、何かわかったか?」
「……申し訳ありません。まだ、はっきりとは」
レムは悔しそうに眉を寄せた。
「ですが、スバルくん。少し、気になることがあります」
「気になること?」
「……あの三体、どれも同じように見えるのですが……」
レムは言葉を選ぶように、一度口を閉じた。
「どこか、違和感があるのです」
その言葉に、俺は目を細めた。
違和感。
そうだ。
俺も、ずっと同じことを感じていた。何かがおかしい。だが、その正体がわからない。
「……くそっ、なんだってんだよ」
俺は頭を掻きむしった。
考えろ。
考えろ、ナツキ・スバル。
お前には剣もない。魔法だって、ろくに使えない。だったら、せめて頭ぐらい使え。ここで何もできなかったら、何のためにここまで来たんだ。
俺は再び夜空を見上げた。三体の白鯨が、夜払いの光を浴びながら空を泳いでいる。そのうちの一体が、兵士たちの攻撃を受けて大きく身を捩った。
……ん?
俺は、思わず目を凝らした。
今の、何かおかしくなかったか?
攻撃を受けたはずなのに、あの白鯨はほとんど動きを鈍らせていないいや、それだけじゃない。
「……レム」
「はい?」
「……あいつら、傷の付き方が違わねえか?」
俺の言葉に、レムが目を見開いた。
そして、三体の白鯨を順に見つめる。
「……確かに」
小さく呟いたレムの声が、わずかに震えた。
「スバルくん。あの白鯨たち……」
その先の言葉を、俺は聞かなかった。
いや。
聞く必要がなかった。俺の頭の中で、何かが繋がり始めていたからだ。
――三体。
――同じ姿。
――だが、傷の付き方が違う。
そして、何より。
あの化け物は、四百年間も誰にも討ち取られなかった。それほどの存在が、今になって突然三体現れたというのか?
……違う。
きっと、そうじゃない。
「……まさか」
俺は、ゆっくりと息を呑んだ。もし、俺の考えが正しければ。あの三体のうち、本当に倒さなければならない相手は――。
「……クルシュさん!!」
俺は叫んだ。
その声が、戦場の喧騒を切り裂く。まだ確信はない。だが、確かめる価値はある。そして、もし俺の考えが正しかったなら。この戦いを終わらせるための、突破口になるかもしれない。
――