月光る夜   作:案院運

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白鯨〜怠惰12

 

SIDE スバル

 

 白鯨が、消えた。

 

 夜払いによって照らされた空には、つい先ほどまであの巨大な魔獣が浮かんでいたはずだった。ところが今は、霧の名残が漂うばかりで、白い巨体は影も形もない。

 

「……おいおい、どこ行きやがった?」

 

 俺は呆然と夜空を見上げた。あれほど巨大な化け物が、何の前触れもなく姿を消す。そんなことがあってたまるか。

 

 だが、現実に白鯨の姿は見当たらない。周囲の兵士たちも困惑したように空を見上げ、互いに声を掛け合っていた。

 

「白鯨はどこだ!?」

 

「霧の中か!? それとも逃げたのか!?」

 

「馬鹿を言うな! あの巨体がそう簡単に逃げられるものか!」

 

 飛び交う怒号に、俺は思わず顔をしかめた。

 

 ……逃げた?

 

 いや、違う。

 

 あの化け物が、ここまで追い詰められて尻尾を巻いたとは思えない。むしろ、さっきの不気味な鳴き声を思い出すと、嫌な予感しかしなかった。

 

「全軍、警戒を解くな!」

 

 クルシュさんの声が戦場に響いた。

 

「白鯨が討ち取られたわけではない! 各隊、周囲を警戒し、陣形を維持せよ!」

 

 その号令に、兵士たちが再び武器を構える。さすがに場数を踏んだ討伐隊だけあって、混乱が広がり切る前に統制を取り戻しつつあった。

 

 しかし、肝心の敵が見えない。

 

「……レム、何かわかるか?」

 

「申し訳ありません。レムにも、白鯨の気配が掴めません」

 

 レムは鉄球を握り直しながら、警戒するように周囲を見渡した。

 

「ただ……」

 

「ただ?」

 

「嫌な気配がします。先ほどまでとは、何かが違うような……」

 

 その言葉に、俺は唾を呑み込んだ。

 

 レムの勘は、馬鹿にできない。鬼族である彼女の感覚は、俺なんかとは比べものにならないほど鋭いのだ。

 

 そして何より、俺自身も同じことを感じていた。

 

 何かが、おかしい。

 

     ◇◇◇

 

 最初に異変に気づいたのは、空を警戒していた兵士の一人だった。

 

「……おい、あれは何だ?」

 

 その声に、周囲の視線が集まる。

 

 俺もつられて顔を上げた。

 

 霧の向こう、夜払いの光が届く空の一角に、白い影が浮かんでいる。

 

「……いた!」

 

 思わず声を上げた。

 

 だが、その直後だった。

 

「待て……! あっちにもいるぞ!」

 

 別の兵士が、反対側の空を指差した。

 

 俺は慌てて振り向く。

 

 そこにも、白い影があった。

 

 ……は?

 

 俺は目を瞬かせた。

 

 右に一体。左に一体。

 

 見間違いかと思い、何度も視線を往復させる。だが、どちらも確かに存在していた。

 

「……おい、レム」

 

「はい」

 

「俺、目がおかしくなったのかな」

 

「……いいえ」

 

 レムの声が、わずかに強張った。

 

「レムにも、二体見えています」

 

 その返事を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。

 

 いやいやいや。

 

 待て待て待て。

 

 白鯨ってのは、確か一匹しかいないんじゃなかったのか?

 

 四百年間も暴れ回っていた伝説の魔獣が、実は二匹いましたなんて話、聞いてねえぞ。

 

 だが、悪夢はそこで終わらなかった。

 

「――三体目だ!!」

 

 誰かの叫び声が、夜空に響き渡った。

 

 俺は、ゆっくりと首を巡らせた。

 

 そして見た。

 

 夜空の別の方角に、もう一つの白い巨体が浮かび上がっているのを。

 

「…………」

 

 言葉が出なかった。

 

 三体。

 

 白鯨が、三体。

 

 冗談じゃない。あんな化け物が一体いるだけでも、これだけ苦戦しているというのに。

 

「……ふざけんなよ」

 

 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 

「一匹でも十分お腹いっぱいだってのに、三匹セットでお届けとか、誰が注文したんだよ……!」

 

 誰も答えなかった。

 

 当然だ。

 

 周囲の兵士たちも、俺と同じように夜空を見上げている。ある者は呆然とし、ある者は武器を握る手を震わせていた。

 

 それでも、誰一人として逃げ出そうとはしなかった。

 

 ここに集まったのは、白鯨を討つために覚悟を決めた者たちだ。

 

 だが、覚悟だけでどうにかなる相手ではないことも、誰もが理解していた。

 

     ◇◇◇

 

「……三体、だと?」

 

 クルシュさんの声にも、さすがに驚愕が滲んでいた。

 

 彼女は愛竜の背から夜空を見上げ、三つの白い影を順に見据える。

 

「報告にあった白鯨は、一体のみのはず……。これは一体、どういうことだ?」

 

 その疑問に答えられる者はいなかった。

 

 ヴィルヘルムさんもまた、剣を構えたまま夜空を睨んでいる。

 

「……三体、ですか」

 

 低く呟いた老剣士の声には、驚きよりも鋭い警戒が込められていた。

 

 俺は思わず、ヴィルヘルムさんの横顔を見た。

 

 あの人にとって、白鯨は妻の仇だ。

 

 十四年間、ただ一匹の魔獣を討つために生きてきたと言っても過言ではない。

 

 それが、今になって三体現れた。

 

 何を思っているのか、俺には想像もつかなかった。

 

 だが、老剣士は動揺を表に出さなかった。

 

「クルシュ様」

 

「何だ、ヴィルヘルム」

 

「いずれが本物であろうと、斬るべき敵であることに変わりはありません」

 

 その言葉に、クルシュさんは一瞬だけ目を細めた。

 

 そして、力強く頷く。

 

「……その通りだ」

 

 彼女は剣を掲げた。

 

「全軍、怯むな! 敵が三体に増えたとて、我々の目的は変わらん! 白鯨を討ち、この街道に平穏を取り戻すのだ!」

 

 その号令に、兵士たちが応える。

 

「おおおおおおッ!!」

 

 雄叫びが夜空に響き渡った。

 

 俺はその光景を見ながら、思わず息を吐いた。

 

 ……すげえな。

 

 あんな状況でも、兵士たちを奮い立たせることができる。

 

 これが、人の上に立つ者の力なのか。

 

 俺には、とても真似できそうにない。

 

 だが。

 

「……待てよ」

 

 ふと、頭の片隅に引っかかるものがあった。

 

 三体。

 

 白鯨が三体。

 

 それは本当に、三匹いるということなのか?

 

 俺は改めて夜空を見上げた。

 

 三つの巨体は、それぞれ別の方向へ泳ぎ始めている。どれも同じ姿をしており、見た目だけでは区別がつかない。

 

 けれど、何かがおかしい。

 

 何か、決定的な違和感がある。

 

「……レム」

 

「はい?」

 

「ちょっと、あいつらの動きを見ててくれ」

 

「……わかりました」

 

 レムが頷き、俺たちは三体の白鯨を注意深く観察し始めた。

 

     ◇◇◇

 

 戦闘は、再び激しさを増していた。

 

 三体の白鯨は、それぞれ別の方向から討伐隊へ襲いかかる。

 

 一体が巨体を振るって地上を薙ぎ払い、もう一体が霧を吐き出して兵士たちの視界を奪う。そして残る一体が、上空から戦場を見下ろすように旋回していた。

 

「くそっ! どれを狙えばいいんだ!?」

 

「攻撃を集中させろ!」

 

「無理だ! 別々に動いている!」

 

 怒号が飛び交う。

 

 兵士たちは必死に応戦しているが、敵が三体に増えたことで、攻撃はどうしても分散してしまう。

 

 しかも、白鯨の動きは相変わらず素早い。

 

 あれだけの巨体で、どうしてあんな機敏に動けるのか。

 

 俺は思わず歯噛みした。

 

「……レム、何かわかったか?」

 

「……申し訳ありません。まだ、はっきりとは」

 

 レムは悔しそうに眉を寄せた。

 

「ですが、スバルくん。少し、気になることがあります」

 

「気になること?」

 

「……あの三体、どれも同じように見えるのですが……」

 

 レムは言葉を選ぶように、一度口を閉じた。

 

「どこか、違和感があるのです」

 

 その言葉に、俺は目を細めた。

 

 違和感。

 

 そうだ。

 

 俺も、ずっと同じことを感じていた。何かがおかしい。だが、その正体がわからない。

 

「……くそっ、なんだってんだよ」

 

 俺は頭を掻きむしった。

 

 考えろ。

考えろ、ナツキ・スバル。

 

 お前には剣もない。魔法だって、ろくに使えない。だったら、せめて頭ぐらい使え。ここで何もできなかったら、何のためにここまで来たんだ。

 

 俺は再び夜空を見上げた。三体の白鯨が、夜払いの光を浴びながら空を泳いでいる。そのうちの一体が、兵士たちの攻撃を受けて大きく身を捩った。

 

 ……ん?

 

 俺は、思わず目を凝らした。

 

 今の、何かおかしくなかったか?

攻撃を受けたはずなのに、あの白鯨はほとんど動きを鈍らせていないいや、それだけじゃない。

 

「……レム」

 

「はい?」

 

「……あいつら、傷の付き方が違わねえか?」

 

 俺の言葉に、レムが目を見開いた。

 

 そして、三体の白鯨を順に見つめる。

 

「……確かに」

 

 小さく呟いたレムの声が、わずかに震えた。

 

「スバルくん。あの白鯨たち……」

 

 その先の言葉を、俺は聞かなかった。

 

 いや。

 

 聞く必要がなかった。俺の頭の中で、何かが繋がり始めていたからだ。

 

 ――三体。

 

 ――同じ姿。

 

 ――だが、傷の付き方が違う。

 

 そして、何より。

 

 あの化け物は、四百年間も誰にも討ち取られなかった。それほどの存在が、今になって突然三体現れたというのか?

 

 ……違う。

 

 きっと、そうじゃない。

 

「……まさか」

 

 俺は、ゆっくりと息を呑んだ。もし、俺の考えが正しければ。あの三体のうち、本当に倒さなければならない相手は――。

 

「……クルシュさん!!」

 

 俺は叫んだ。

 

 その声が、戦場の喧騒を切り裂く。まだ確信はない。だが、確かめる価値はある。そして、もし俺の考えが正しかったなら。この戦いを終わらせるための、突破口になるかもしれない。

 

              ――

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