月光る夜   作:案院運

41 / 43
白鯨〜怠惰13

 

SIDE スバル

 

 三体の白鯨が、夜空を泳いでいた。

 

 夜払いの光に照らされた白い巨体は、どれもが悪夢そのものだった。一体が地上へ向かって突進し、もう一体が霧を吐き出して討伐隊の陣形を崩す。そのたびに兵士たちは吹き飛ばされ、地竜の悲鳴が戦場に響き渡る。そして、残る一体。そいつだけは、遥か上空を悠々と泳いでいた。

 

「……ふざけんなよ」

 

 俺は思わず呟いた。一体でも手に負えなかった化け物が、三体。兵士たちの攻撃は分散し、せっかく与えた傷も、後から現れた二体には見当たらない。これでは、どれだけ戦っても終わりが見えない。

 

「――第五隊、後退しろ!」「無理です! 負傷者が多すぎます!」「魔法を撃て! 接近させるな!」

 

 怒号が飛び交う。だが、兵士たちの動きは明らかに鈍っていた。魔法を放つ者の数も減り、武器を握る手には疲労が滲んでいる。

 

 そして、とうとう。

 

「……もう、無理だ」

 

 誰かが、そう呟いた。

 

 俺が振り向くと、一人の兵士が地面に膝をついていた。剣は手から滑り落ち、男は震える両手で頭を抱えている。

 

「勝てるわけがねえ……。一体でも、あんなに強かったのに……」

 

 その言葉に、周囲の兵士たちが俯いた。

 

「三体だぞ……? あんな化け物が、三体もいるんだぞ……!」

 

「仲間が消えても、誰だったのか思い出せねえんだ……」

 

「俺たち、何のために戦ってるんだよ……」

 

 一人、また一人と、武器を下ろしていく。ある者は地面に座り込み、ある者は空を見上げたまま動かなくなった。逃げ出す気力さえ残っていないのか、ただ呆然と白鯨を見つめている。

 

 その光景に、俺は言葉を失った。……わかる。嫌になるほど、わかる。どれだけ頑張っても届かない。何度立ち上がっても、目の前の現実に叩きのめされる。自分の力ではどうにもならないと理解した瞬間、身体が動かなくなる。俺だって、何度もそうなった。だから、簡単に立てとは言えなかった。

 

「……スバルくん」

 

 隣で、レムが小さく俺の名を呼んだ。その声に顔を上げると、彼女は心配そうにこちらを見つめていた。

 

「……大丈夫だ」

 

 俺は、無理やり笑った。

 

「まだ、終わっちゃいねえよ」

 

 そう答えたものの、何か策があるわけじゃない。それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。だって、俺はもう一度、やり直すと決めたのだから。

 

     ◇◇◇

 

「――顔を上げよ!!」

 

 戦場に、凛とした声が響き渡った。クルシュさんだった。

 

 愛竜の背に跨がった彼女は、剣を掲げ、膝をついた兵士たちを見下ろしている。その表情には、怒りが浮かんでいた。

 

「何をしている! 我らは何のために、この地へ集ったのだ!」

 

 その声に、兵士たちが顔を上げる。

 

「白鯨が三体に増えたから何だ! 恐怖に屈し、武器を捨てるためにここへ来たのか!」

 

 誰も答えなかった。だが、クルシュさんは構わず言葉を続ける。

 

「我らが討つべき敵は、四百年間、人々を苦しめ続けた魔獣だ! その脅威を知りながら、なお剣を取ったのではなかったか!」

 

 剣を掲げたまま、彼女は夜空を指差した。

 

「見よ! あれが我らの敵だ! 恐ろしいか! ならば恐れよ! だが、恐怖を理由に膝を折ることだけは許さん!」

 

 その言葉に、兵士たちの表情が変わり始める。

 

「我らの背後には、守るべき者たちがいる! 家族が、友が、帰りを待つ者たちがいる! ここで我らが退けば、あの魔獣は再び人々を呑み込み続けるだろう!」

 

 クルシュさんは、剣を振り下ろした。

 

「立て!! 剣を取れ!! 我らは、白鯨を討つためにここへ来たのだ!!」

 

 その声が、戦場に響き渡った。

 

 しばしの沈黙。そして、一人の兵士が震える手で剣を拾い上げた。

 

「……そうだ」

 

 別の兵士が、ゆっくりと立ち上がる。

 

「俺たちは……白鯨を倒しに来たんだ……!」

 

 やがて、あちこちから声が上がり始めた。

 

「おおおおおおッ!!」

 

 雄叫びが、夜空を震わせる。

 

 俺はその光景を見ながら、思わず息を呑んだ。……すげえ。あれほど絶望していた兵士たちが、再び武器を握っている。恐怖が消えたわけじゃない。それでも、前を向こうとしている。これが、クルシュ・カルステンという人間の力なのか。

 

     ◇◇◇

 

「……クルシュさん」

 

 俺は、彼女のもとへ歩み寄った。

 

「卿か。どうした?」

 

「……なあ、この状況、おかしくねえか?」

 

 クルシュさんが眉を寄せる。

 

「何を当たり前のことを。白鯨が突然三体に増えたのだ。異常でないはずがなかろう」

 

「だよな。しかも、三体全部を討伐するなんて、正直厳しいだろ?」

 

「……ああ。兵の疲労も限界に近い。このままでは、我々が先に力尽きる」

 

 俺は頷いた。

 

「……でもさ、俺の考えが正しけりゃ、倒すのは一体だけでいいはずなんだ」

 

「……何?」

 

 クルシュさんの目が細められた。

 

 俺は、夜空を指差した。

 

「分身二体にビシバシ戦わせて、ひとり悠々と空を泳いでるあいつは、一体何をしてると思う?」

 

 クルシュさんは、ゆっくりと夜空を見上げた。

 

 三体の白鯨。そのうち、二体は地上へ向かって攻撃を繰り返している。だが、残る一体は、遥か上空を旋回しているだけだった。

 

「……なるほど」

 

 クルシュさんが、静かに呟いた。

 

「卿は、あれが本体だと言いたいのだな?」

 

「ああ。分身を戦わせて、本体は安全な場所から様子を見てる。そう考えたほうが、自然じゃねえか?」

 

 クルシュさんは、しばし沈黙した。そして、ゆっくりと頷く。

 

「……筋は通っている。あれほどの魔獣が、無意味に戦力を分散させるとは考えにくい」

 

「だろ?」

 

「だが、問題はあの高度だ」

 

 クルシュさんは、上空の白鯨を睨みつけた。

 

「我々の攻撃では、容易に届かぬ」

 

「……ああ」

 

 俺は歯噛みした。ようやく突破口が見えたというのに、肝心の相手が手の届かない場所にいる。

 

 どうする? どうすれば、あんな高い場所にいる化け物を引きずり下ろせる?

 

 そのとき、俺の視線がレムへ向いた。青い髪。小柄な身体。そして、その手に握られた鉄球。……いや。鉄球じゃない。レムには、もう一つの武器がある。

 

「……レム」

 

「はい?」

 

「アル・ヒューマって、どれくらい遠くまで届く?」

 

 レムは一瞬だけ目を丸くした。

 

「……距離にもよりますが、魔力を込めれば、かなり遠くまで飛ばせます」

 

「……そっか」

 

 俺は、ゆっくりと笑った。

 

「なら、いけるかもしれねえ」

 

     ◇◇◇

 

「――スバルくん、本当にやるのですか?」

 

 レムの声には、明らかな不安が滲んでいた。

 

 俺は、そんな彼女へ笑ってみせる。

 

「大丈夫だって。ちょっと高いところへ行くだけだ」

 

「……ちょっと、ではありません」

 

「……ですよねー」

 

 俺は苦笑した。正直に言えば、怖い。めちゃくちゃ怖い。これからやろうとしていることは、どう考えても正気の沙汰じゃない。だが、ほかに方法があるのかと聞かれれば、俺には思いつかなかった。

 

「……レム、頼む」

 

 俺は、真剣な表情で彼女を見た。

 

「俺を、あいつのところまで運んでくれ」

 

 レムは、しばらく俺を見つめていた。そして、静かに頷く。

 

「……わかりました。レムは、スバルくんを信じています」

 

 その言葉に、俺は大きく息を吐いた。

 

「……ありがとな」

 

 俺たちは、夜空を見上げた。遥か上空を泳ぐ白鯨は、地上で繰り広げられる戦闘など意に介さない様子で、悠然と旋回を続けていた。

 

 ……今に見てろよ。

 

 俺は、拳を握り締めた。お前が安全な場所にいるつもりなら、その考えをぶっ壊してやる。

 

「――レム!」

 

「はい!」

 

 レムが両手を掲げた。周囲の空気が、急激に冷え込んでいく。大気中の水分が凍りつき、巨大な氷塊が形成され始めた。

 

「――アル・ヒューマ!!」

 

 レムの叫びとともに、氷塊が夜空へと放たれた。

 

 凄まじい速度で上昇する氷の塊。その上に、俺は乗っていた。

 

「うおおおおおおおおおッ!!」

 

 風が顔面を叩く。身体が猛烈な勢いで空へと持ち上げられていく。……やっべえ!! これ、想像してたより遥かに怖え!!

 

 だが、今さら降りることなんてできない。

 

 俺は必死に氷へしがみつき、夜空を見上げた。白鯨がこちらへ顔を向け、巨大な身体をわずかに傾けた。

 

「……っ!」

 

 氷塊が、白鯨のすぐ横を通り過ぎる。かわされた。

 

 だが。

 

「――そこだああああッ!!」

 

 俺は氷塊を蹴った。身体が宙へ投げ出される。一瞬、足元から何もかもが消えた。空。風。夜払いの光。そして、眼前に迫る白い巨体。

 

「うおおおおおッ!!」

 

 俺は必死に腕を伸ばし、白鯨の角へしがみついた。

 

「……っ、はあっ……!」

 

 心臓が馬鹿みたいな音を立てている。俺は必死に身体を引き上げ、角の上へと這い上がった。眼下には、霧に覆われた戦場が広がっていた。

 

 ……高え。とんでもなく高え。こんな場所から落ちたら、間違いなく死ぬ。

 

 だが、それでも俺は笑った。

 

 ……エリス。

 

 お前なら、こんな無茶をしても平然としてるんだろうな。あの傍若無人で、口が悪くて、それでも最後には全部どうにかしてしまう男。俺がずっと憧れてきた騎士。

 

 だけど、今日は違う。お前はここにいない。俺が自分の足で立って、自分の頭で考えて、ここまで来た。

 

 ――エリス、見とけよ。

 

 お前みたいに格好よくはできねえけど、俺だって、やるときゃやるんだぜ。

 

     ◇◇◇

 

 白鯨の角の上で、俺は大きく息を吸い込んだ。これから口にする言葉が、どれほど危険なものなのか。俺は誰よりもよく知っている。だが、ここまで来た以上、引き返すつもりはなかった。

 

「……なあ、白鯨」

 

 俺は、足元の巨大な魔獣へ語りかけた。

 

「お前、魔女の匂いが好きなんだろ?」

 

 当然、返事はない。ただ、白鯨の巨体がゆっくりと空を泳いでいる。

 

 俺は、口元を歪めた。

 

「だったら、たっぷり嗅がせてやるよ」

 

 そして。

 

「――俺は、死に戻りをしている」

 

 その瞬間、世界が止まった。音が消え、風が止まり、白鯨の巨体も、夜払いの光も、すべてが静止する。

 

 そして、俺の胸元へ、黒い手が伸びてきた。

 

「――――ッ!!」

 

 心臓を握り潰される。凄まじい激痛が全身を駆け抜けた。呼吸ができない。声も出ない。ただ、胸の奥を掻き毟られるような苦痛だけが、意識を埋め尽くしていく。

 

 ……知っていた。こうなることはわかっていた。それでも、俺はこの力を利用するしかなかった。

 

 やがて、黒い手が消える。止まっていた時間が、再び動き出した。

 

「……っ、はあっ……はあっ……!」

 

 俺は白鯨の角へしがみついた。全身から冷や汗が噴き出している。……痛え。何度経験しても慣れるもんじゃない。

 

 だが、目的は果たした。俺の身体から、濃密な魔女の瘴気が溢れ出しているはずだ。そして、それを感じ取れる存在が、今、俺の足元にいる。

 

 ――ォォォォォォォォォォォォン!!

 

 白鯨が咆哮した。その巨体が大きく身を捩る。俺は慌てて角へしがみついた。

 

「うおおっ!? ちょ、待て待て待て!!」

 

 白鯨が激しく身体を振るう。まるで、角にまとわりついた異物を振り落とそうとするかのように。だが、それだけではなかった。白鯨の動きが明らかに変わっている。それまで悠々と上空を泳いでいた巨体が、急激に高度を下げ始めたのだ。

 

「……へっ」

 

 俺は苦しげに笑った。

 

「……やっと、こっち向いたかよ」

 

 白鯨が再び咆哮する。そして、巨大な身体を捻りながら、地上へ向かって急降下し始めた。

 

 ……やべえ。これ、もしかして。

 

「……俺も一緒に落ちるやつじゃねえかああああッ!!」

 

 俺の悲鳴が夜空に響き渡った。

 

     ◇◇◇

 

「――スバルくん!!」

 

 遠くからレムの声が聞こえた。俺は必死に角へしがみつきながら、地上を見下ろした。

 

 白鯨は凄まじい速度で高度を下げている。このままでは地面へ激突する。俺もろとも。

 

「……くそっ!」

 

 俺は歯を食いしばった。ここまで来て、死んでたまるか。俺は生きて帰ると決めたんだ。

 

 そのときだった。

 

 地上を駆ける、一頭の黒い影が見えた。ほかの地竜たちが白鯨の咆哮に怯える中、その一頭だけは、まるで恐怖など知らないかのように疾走している。しなやかな体躯。鋭い眼差し。そして、漆黒の鱗。

 

「……あれは」

 

 俺は思わず目を見開いた。黒い地竜は白鯨の落下地点へ向かって一直線に駆けている。そして、その背にはレムがいた。

 

「――スバルくん!!」

 

「レム!!」

 

 俺は叫んだ。レムがこちらへ手を伸ばしている。だが、距離がある。このままでは届かない。

 

 ……どうする? どうすれば。

 

 そのとき、黒い地竜が地面を蹴った。

 

 ――跳んだ。

 

 信じられないほどの跳躍力で、地竜が宙へ舞い上がる。

 

「……は?」

 

 俺は思わず間抜けな声を漏らした。

 

「――スバルくん!!」

 

 レムの手が俺の腕を掴んだ。

 

「うおおおおッ!?」

 

 身体が引き寄せられる。俺は白鯨の角から引き剥がされるように宙へ投げ出され、黒い地竜の背へと転がり込んだ。

 

「……っ、はあっ……はあっ……!」

 

 俺は必死に息を整えた。生きている。……生きている。

 

「……レム」

 

「はい」

 

「……俺、生きてる?」

 

 レムは涙を浮かべながら微笑んだ。

 

「はい。スバルくんは、生きています」

 

「……そっか。……よかったあああ……!」

 

 全身から力が抜ける。だが、安心するにはまだ早かった。黒い地竜は着地するや否や猛烈な勢いで駆け出した。背後では白鯨の巨体が地上へ迫っているというのに、その足取りには一切の迷いがない。

 

「うおおっ!? ちょ、速い速い! もうちょい優しく走ってくれませんかねえ!?」

 

 俺の抗議など知ったことかとばかりに、地竜は鼻を鳴らした。しかも、追いすがる白鯨の巨体をちらりと振り返る余裕まで見せている。

 

「……おい、今、馬鹿にしただろ?」

 

「ふふっ。スバルくん、この子は随分と気が強いみたいですね」

 

「気が強いってレベルじゃねえよ。借りてきた地竜のくせに、主人公より肝が据わってやがる」

 

 俺は苦笑しながら、黒い地竜の首筋を軽く叩いた。白鯨の咆哮にも怯まず、俺たちを背に乗せて走り続けるその姿は、どうにも頼もしい。

 

「……そういや、お前の名前、聞いてなかったな」

 

 当然、地竜から返事はない。代わりに、長い首がわずかに動いた。

 

「ま、いっか。どうせなら俺がつけてやるよ。そうだな……黒くて、格好よくて、やたら気が強くて……」

 

 俺は少しだけ考え、そして閃いた。

 

「――よし、決めた! お前は今日からパトラッシュだ!」

 

「……パトラッシュ、ですか?」

 

「ああ! 名作に登場する忠犬の名前だ。まあ、お前は犬じゃなくて地竜だけどな!」

 

 レムが不思議そうに首を傾げる一方、当の地竜は不満げに鼻を鳴らした。

 

「なんだよ、気に入らねえのか? いい名前だろ、パトラッシュ!」

 

 すると、黒い地竜は突然速度を上げた。

 

「うおおおおッ!? 悪かった! 勝手に名前つけて悪かったって!!」

 

 必死にしがみつく俺を見て、レムが小さく笑う。

 

 ……ったく、とんでもねえ相棒を引き当てちまった。だが、不思議と嫌な気はしなかった。

 

「……頼むぜ、パトラッシュ」

 

 俺は、その首筋をもう一度叩いた。

 

「俺たちを、あの大樹まで連れてってくれ!」

 

 黒い地竜――パトラッシュは、今度は文句を言うことなく力強く地面を蹴った。

 

 その背後で白鯨が咆哮する。巨大な白い影が、俺たちを追うように高度を下げていく。

 

 俺は振り返り、白鯨を睨みつけた。

 

「……ついて来いよ、化け物!」

 

 そして、前方にはフリューゲルの大樹が静かにそびえ立っていた。

 

 四百年もの間、あの場所に立ち続けていた巨木。それが今、俺たちの勝利を決めるための切り札となる。

 

 俺は手綱を握り締めた。

 

「――行くぞ、パトラッシュ!!」

 

 黒い地竜が夜の街道を駆け抜ける。白鯨の咆哮を背に受けながら、俺たちは決戦の地へと向かっていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。