SIDE スバル
三体の白鯨が、夜空を泳いでいた。
夜払いの光に照らされた白い巨体は、どれもが悪夢そのものだった。一体が地上へ向かって突進し、もう一体が霧を吐き出して討伐隊の陣形を崩す。そのたびに兵士たちは吹き飛ばされ、地竜の悲鳴が戦場に響き渡る。そして、残る一体。そいつだけは、遥か上空を悠々と泳いでいた。
「……ふざけんなよ」
俺は思わず呟いた。一体でも手に負えなかった化け物が、三体。兵士たちの攻撃は分散し、せっかく与えた傷も、後から現れた二体には見当たらない。これでは、どれだけ戦っても終わりが見えない。
「――第五隊、後退しろ!」「無理です! 負傷者が多すぎます!」「魔法を撃て! 接近させるな!」
怒号が飛び交う。だが、兵士たちの動きは明らかに鈍っていた。魔法を放つ者の数も減り、武器を握る手には疲労が滲んでいる。
そして、とうとう。
「……もう、無理だ」
誰かが、そう呟いた。
俺が振り向くと、一人の兵士が地面に膝をついていた。剣は手から滑り落ち、男は震える両手で頭を抱えている。
「勝てるわけがねえ……。一体でも、あんなに強かったのに……」
その言葉に、周囲の兵士たちが俯いた。
「三体だぞ……? あんな化け物が、三体もいるんだぞ……!」
「仲間が消えても、誰だったのか思い出せねえんだ……」
「俺たち、何のために戦ってるんだよ……」
一人、また一人と、武器を下ろしていく。ある者は地面に座り込み、ある者は空を見上げたまま動かなくなった。逃げ出す気力さえ残っていないのか、ただ呆然と白鯨を見つめている。
その光景に、俺は言葉を失った。……わかる。嫌になるほど、わかる。どれだけ頑張っても届かない。何度立ち上がっても、目の前の現実に叩きのめされる。自分の力ではどうにもならないと理解した瞬間、身体が動かなくなる。俺だって、何度もそうなった。だから、簡単に立てとは言えなかった。
「……スバルくん」
隣で、レムが小さく俺の名を呼んだ。その声に顔を上げると、彼女は心配そうにこちらを見つめていた。
「……大丈夫だ」
俺は、無理やり笑った。
「まだ、終わっちゃいねえよ」
そう答えたものの、何か策があるわけじゃない。それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。だって、俺はもう一度、やり直すと決めたのだから。
◇◇◇
「――顔を上げよ!!」
戦場に、凛とした声が響き渡った。クルシュさんだった。
愛竜の背に跨がった彼女は、剣を掲げ、膝をついた兵士たちを見下ろしている。その表情には、怒りが浮かんでいた。
「何をしている! 我らは何のために、この地へ集ったのだ!」
その声に、兵士たちが顔を上げる。
「白鯨が三体に増えたから何だ! 恐怖に屈し、武器を捨てるためにここへ来たのか!」
誰も答えなかった。だが、クルシュさんは構わず言葉を続ける。
「我らが討つべき敵は、四百年間、人々を苦しめ続けた魔獣だ! その脅威を知りながら、なお剣を取ったのではなかったか!」
剣を掲げたまま、彼女は夜空を指差した。
「見よ! あれが我らの敵だ! 恐ろしいか! ならば恐れよ! だが、恐怖を理由に膝を折ることだけは許さん!」
その言葉に、兵士たちの表情が変わり始める。
「我らの背後には、守るべき者たちがいる! 家族が、友が、帰りを待つ者たちがいる! ここで我らが退けば、あの魔獣は再び人々を呑み込み続けるだろう!」
クルシュさんは、剣を振り下ろした。
「立て!! 剣を取れ!! 我らは、白鯨を討つためにここへ来たのだ!!」
その声が、戦場に響き渡った。
しばしの沈黙。そして、一人の兵士が震える手で剣を拾い上げた。
「……そうだ」
別の兵士が、ゆっくりと立ち上がる。
「俺たちは……白鯨を倒しに来たんだ……!」
やがて、あちこちから声が上がり始めた。
「おおおおおおッ!!」
雄叫びが、夜空を震わせる。
俺はその光景を見ながら、思わず息を呑んだ。……すげえ。あれほど絶望していた兵士たちが、再び武器を握っている。恐怖が消えたわけじゃない。それでも、前を向こうとしている。これが、クルシュ・カルステンという人間の力なのか。
◇◇◇
「……クルシュさん」
俺は、彼女のもとへ歩み寄った。
「卿か。どうした?」
「……なあ、この状況、おかしくねえか?」
クルシュさんが眉を寄せる。
「何を当たり前のことを。白鯨が突然三体に増えたのだ。異常でないはずがなかろう」
「だよな。しかも、三体全部を討伐するなんて、正直厳しいだろ?」
「……ああ。兵の疲労も限界に近い。このままでは、我々が先に力尽きる」
俺は頷いた。
「……でもさ、俺の考えが正しけりゃ、倒すのは一体だけでいいはずなんだ」
「……何?」
クルシュさんの目が細められた。
俺は、夜空を指差した。
「分身二体にビシバシ戦わせて、ひとり悠々と空を泳いでるあいつは、一体何をしてると思う?」
クルシュさんは、ゆっくりと夜空を見上げた。
三体の白鯨。そのうち、二体は地上へ向かって攻撃を繰り返している。だが、残る一体は、遥か上空を旋回しているだけだった。
「……なるほど」
クルシュさんが、静かに呟いた。
「卿は、あれが本体だと言いたいのだな?」
「ああ。分身を戦わせて、本体は安全な場所から様子を見てる。そう考えたほうが、自然じゃねえか?」
クルシュさんは、しばし沈黙した。そして、ゆっくりと頷く。
「……筋は通っている。あれほどの魔獣が、無意味に戦力を分散させるとは考えにくい」
「だろ?」
「だが、問題はあの高度だ」
クルシュさんは、上空の白鯨を睨みつけた。
「我々の攻撃では、容易に届かぬ」
「……ああ」
俺は歯噛みした。ようやく突破口が見えたというのに、肝心の相手が手の届かない場所にいる。
どうする? どうすれば、あんな高い場所にいる化け物を引きずり下ろせる?
そのとき、俺の視線がレムへ向いた。青い髪。小柄な身体。そして、その手に握られた鉄球。……いや。鉄球じゃない。レムには、もう一つの武器がある。
「……レム」
「はい?」
「アル・ヒューマって、どれくらい遠くまで届く?」
レムは一瞬だけ目を丸くした。
「……距離にもよりますが、魔力を込めれば、かなり遠くまで飛ばせます」
「……そっか」
俺は、ゆっくりと笑った。
「なら、いけるかもしれねえ」
◇◇◇
「――スバルくん、本当にやるのですか?」
レムの声には、明らかな不安が滲んでいた。
俺は、そんな彼女へ笑ってみせる。
「大丈夫だって。ちょっと高いところへ行くだけだ」
「……ちょっと、ではありません」
「……ですよねー」
俺は苦笑した。正直に言えば、怖い。めちゃくちゃ怖い。これからやろうとしていることは、どう考えても正気の沙汰じゃない。だが、ほかに方法があるのかと聞かれれば、俺には思いつかなかった。
「……レム、頼む」
俺は、真剣な表情で彼女を見た。
「俺を、あいつのところまで運んでくれ」
レムは、しばらく俺を見つめていた。そして、静かに頷く。
「……わかりました。レムは、スバルくんを信じています」
その言葉に、俺は大きく息を吐いた。
「……ありがとな」
俺たちは、夜空を見上げた。遥か上空を泳ぐ白鯨は、地上で繰り広げられる戦闘など意に介さない様子で、悠然と旋回を続けていた。
……今に見てろよ。
俺は、拳を握り締めた。お前が安全な場所にいるつもりなら、その考えをぶっ壊してやる。
「――レム!」
「はい!」
レムが両手を掲げた。周囲の空気が、急激に冷え込んでいく。大気中の水分が凍りつき、巨大な氷塊が形成され始めた。
「――アル・ヒューマ!!」
レムの叫びとともに、氷塊が夜空へと放たれた。
凄まじい速度で上昇する氷の塊。その上に、俺は乗っていた。
「うおおおおおおおおおッ!!」
風が顔面を叩く。身体が猛烈な勢いで空へと持ち上げられていく。……やっべえ!! これ、想像してたより遥かに怖え!!
だが、今さら降りることなんてできない。
俺は必死に氷へしがみつき、夜空を見上げた。白鯨がこちらへ顔を向け、巨大な身体をわずかに傾けた。
「……っ!」
氷塊が、白鯨のすぐ横を通り過ぎる。かわされた。
だが。
「――そこだああああッ!!」
俺は氷塊を蹴った。身体が宙へ投げ出される。一瞬、足元から何もかもが消えた。空。風。夜払いの光。そして、眼前に迫る白い巨体。
「うおおおおおッ!!」
俺は必死に腕を伸ばし、白鯨の角へしがみついた。
「……っ、はあっ……!」
心臓が馬鹿みたいな音を立てている。俺は必死に身体を引き上げ、角の上へと這い上がった。眼下には、霧に覆われた戦場が広がっていた。
……高え。とんでもなく高え。こんな場所から落ちたら、間違いなく死ぬ。
だが、それでも俺は笑った。
……エリス。
お前なら、こんな無茶をしても平然としてるんだろうな。あの傍若無人で、口が悪くて、それでも最後には全部どうにかしてしまう男。俺がずっと憧れてきた騎士。
だけど、今日は違う。お前はここにいない。俺が自分の足で立って、自分の頭で考えて、ここまで来た。
――エリス、見とけよ。
お前みたいに格好よくはできねえけど、俺だって、やるときゃやるんだぜ。
◇◇◇
白鯨の角の上で、俺は大きく息を吸い込んだ。これから口にする言葉が、どれほど危険なものなのか。俺は誰よりもよく知っている。だが、ここまで来た以上、引き返すつもりはなかった。
「……なあ、白鯨」
俺は、足元の巨大な魔獣へ語りかけた。
「お前、魔女の匂いが好きなんだろ?」
当然、返事はない。ただ、白鯨の巨体がゆっくりと空を泳いでいる。
俺は、口元を歪めた。
「だったら、たっぷり嗅がせてやるよ」
そして。
「――俺は、死に戻りをしている」
その瞬間、世界が止まった。音が消え、風が止まり、白鯨の巨体も、夜払いの光も、すべてが静止する。
そして、俺の胸元へ、黒い手が伸びてきた。
「――――ッ!!」
心臓を握り潰される。凄まじい激痛が全身を駆け抜けた。呼吸ができない。声も出ない。ただ、胸の奥を掻き毟られるような苦痛だけが、意識を埋め尽くしていく。
……知っていた。こうなることはわかっていた。それでも、俺はこの力を利用するしかなかった。
やがて、黒い手が消える。止まっていた時間が、再び動き出した。
「……っ、はあっ……はあっ……!」
俺は白鯨の角へしがみついた。全身から冷や汗が噴き出している。……痛え。何度経験しても慣れるもんじゃない。
だが、目的は果たした。俺の身体から、濃密な魔女の瘴気が溢れ出しているはずだ。そして、それを感じ取れる存在が、今、俺の足元にいる。
――ォォォォォォォォォォォォン!!
白鯨が咆哮した。その巨体が大きく身を捩る。俺は慌てて角へしがみついた。
「うおおっ!? ちょ、待て待て待て!!」
白鯨が激しく身体を振るう。まるで、角にまとわりついた異物を振り落とそうとするかのように。だが、それだけではなかった。白鯨の動きが明らかに変わっている。それまで悠々と上空を泳いでいた巨体が、急激に高度を下げ始めたのだ。
「……へっ」
俺は苦しげに笑った。
「……やっと、こっち向いたかよ」
白鯨が再び咆哮する。そして、巨大な身体を捻りながら、地上へ向かって急降下し始めた。
……やべえ。これ、もしかして。
「……俺も一緒に落ちるやつじゃねえかああああッ!!」
俺の悲鳴が夜空に響き渡った。
◇◇◇
「――スバルくん!!」
遠くからレムの声が聞こえた。俺は必死に角へしがみつきながら、地上を見下ろした。
白鯨は凄まじい速度で高度を下げている。このままでは地面へ激突する。俺もろとも。
「……くそっ!」
俺は歯を食いしばった。ここまで来て、死んでたまるか。俺は生きて帰ると決めたんだ。
そのときだった。
地上を駆ける、一頭の黒い影が見えた。ほかの地竜たちが白鯨の咆哮に怯える中、その一頭だけは、まるで恐怖など知らないかのように疾走している。しなやかな体躯。鋭い眼差し。そして、漆黒の鱗。
「……あれは」
俺は思わず目を見開いた。黒い地竜は白鯨の落下地点へ向かって一直線に駆けている。そして、その背にはレムがいた。
「――スバルくん!!」
「レム!!」
俺は叫んだ。レムがこちらへ手を伸ばしている。だが、距離がある。このままでは届かない。
……どうする? どうすれば。
そのとき、黒い地竜が地面を蹴った。
――跳んだ。
信じられないほどの跳躍力で、地竜が宙へ舞い上がる。
「……は?」
俺は思わず間抜けな声を漏らした。
「――スバルくん!!」
レムの手が俺の腕を掴んだ。
「うおおおおッ!?」
身体が引き寄せられる。俺は白鯨の角から引き剥がされるように宙へ投げ出され、黒い地竜の背へと転がり込んだ。
「……っ、はあっ……はあっ……!」
俺は必死に息を整えた。生きている。……生きている。
「……レム」
「はい」
「……俺、生きてる?」
レムは涙を浮かべながら微笑んだ。
「はい。スバルくんは、生きています」
「……そっか。……よかったあああ……!」
全身から力が抜ける。だが、安心するにはまだ早かった。黒い地竜は着地するや否や猛烈な勢いで駆け出した。背後では白鯨の巨体が地上へ迫っているというのに、その足取りには一切の迷いがない。
「うおおっ!? ちょ、速い速い! もうちょい優しく走ってくれませんかねえ!?」
俺の抗議など知ったことかとばかりに、地竜は鼻を鳴らした。しかも、追いすがる白鯨の巨体をちらりと振り返る余裕まで見せている。
「……おい、今、馬鹿にしただろ?」
「ふふっ。スバルくん、この子は随分と気が強いみたいですね」
「気が強いってレベルじゃねえよ。借りてきた地竜のくせに、主人公より肝が据わってやがる」
俺は苦笑しながら、黒い地竜の首筋を軽く叩いた。白鯨の咆哮にも怯まず、俺たちを背に乗せて走り続けるその姿は、どうにも頼もしい。
「……そういや、お前の名前、聞いてなかったな」
当然、地竜から返事はない。代わりに、長い首がわずかに動いた。
「ま、いっか。どうせなら俺がつけてやるよ。そうだな……黒くて、格好よくて、やたら気が強くて……」
俺は少しだけ考え、そして閃いた。
「――よし、決めた! お前は今日からパトラッシュだ!」
「……パトラッシュ、ですか?」
「ああ! 名作に登場する忠犬の名前だ。まあ、お前は犬じゃなくて地竜だけどな!」
レムが不思議そうに首を傾げる一方、当の地竜は不満げに鼻を鳴らした。
「なんだよ、気に入らねえのか? いい名前だろ、パトラッシュ!」
すると、黒い地竜は突然速度を上げた。
「うおおおおッ!? 悪かった! 勝手に名前つけて悪かったって!!」
必死にしがみつく俺を見て、レムが小さく笑う。
……ったく、とんでもねえ相棒を引き当てちまった。だが、不思議と嫌な気はしなかった。
「……頼むぜ、パトラッシュ」
俺は、その首筋をもう一度叩いた。
「俺たちを、あの大樹まで連れてってくれ!」
黒い地竜――パトラッシュは、今度は文句を言うことなく力強く地面を蹴った。
その背後で白鯨が咆哮する。巨大な白い影が、俺たちを追うように高度を下げていく。
俺は振り返り、白鯨を睨みつけた。
「……ついて来いよ、化け物!」
そして、前方にはフリューゲルの大樹が静かにそびえ立っていた。
四百年もの間、あの場所に立ち続けていた巨木。それが今、俺たちの勝利を決めるための切り札となる。
俺は手綱を握り締めた。
「――行くぞ、パトラッシュ!!」
黒い地竜が夜の街道を駆け抜ける。白鯨の咆哮を背に受けながら、俺たちは決戦の地へと向かっていった。