月光る夜   作:案院運

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白鯨〜怠惰14

SIDEスバル

 

 夜のリーファウス街道を、一頭の黒い地竜が駆け抜けていた。その背にしがみつく俺とレムの頭上では、巨大な白い影が不気味な咆哮を響かせている。つい先ほどまで遥か上空を悠々と泳いでいた白鯨は、今や俺たちを追って高度を下げていた。正確には、俺の身体に染みついた魔女の残り香を追っているのだろう。あの禁忌を口にした代償は、今も胸の奥に鈍い痛みとして残っている。

 

「――おいおいおい! ちょっと近すぎやしませんかねえ!?」

 

 振り返った俺の視界を、白い巨体が埋め尽くした。白鯨が大きく口を開き、その喉の奥に不気味な暗闇が覗く。あんなものに呑み込まれれば、俺たちなどひとたまりもない。

 

「スバルくん、掴まっていてください!」

 

「言われなくても掴まってるっての!」

 

 レムが鉄球を振るい、接近する白鯨の顔面へと叩きつける。しかし、分厚い皮膚に阻まれた一撃は、巨体の勢いをわずかに鈍らせることしかできなかった。白鯨が怒りに任せて頭を振り、その巨大な顎が地面を掠める。直後、パトラッシュが進路を変えた。

 

「うおおおおッ!?」

 

 身体が横へ持っていかれる。俺が悲鳴を上げるのとほぼ同時に、白鯨の頭部が先ほどまで俺たちのいた場所を通過した。地面が抉れ、土砂が舞い上がる。あと一瞬遅れていれば、俺たちはまとめて押し潰されていただろう。

 

「……お前、すげえな」

 

 思わず呟くと、パトラッシュは得意げに鼻を鳴らした。

 

「褒めた途端に調子乗るんじゃねえよ! いや、今のは本当に助かったけど!」

 

 俺の抗議を聞き流し、黒い地竜はさらに速度を上げる。夜払いの光が照らす街道の先には、フリューゲルの大樹がそびえ立っていた。天を支える柱と見紛うほどの巨木。その圧倒的な存在感は、遠くから眺めていたときとは比べものにならない。あれを使う。あの大樹を、白鯨へ叩きつける。ただし、問題が一つあった。

 

「……って、待てよ。俺、まだあの木を倒す方法、ちゃんと伝えてねえじゃん!」

 

「スバルくん!?」

 

「やっべえ! 勢いだけでここまで来ちまった!」

 

 我ながら救いようのない見切り発車だった。白鯨を引きずり下ろすことばかり考えていて、その後の段取りが追いついていない。もっとも、あの高さから白鯨の角に飛び乗った時点で、計画性なんてものはとっくに家出している。だが、そこで俺は気づいた。大樹の根元に、いくつもの灯りが集まっている。

 

「……あれ?」

 

 夜払いの光に照らされ、兵士たちが巨大な幹の周囲へ展開していた。魔法を使える者が前へ出て、ほかの兵士たちは負傷者を遠ざけながら周囲を警戒している。その中心に立つ人物を見つけた瞬間、俺は思わず笑ってしまった。

 

「……クルシュさん!」

 

 どうやら、俺が思っていた以上に話の早い人だったらしい。

 

「――全隊、準備を急げ! 白鯨がこちらへ来るぞ!」

 

 クルシュさんの号令が響き渡る。

 クルシュさんは剣を抜き、白鯨へと切っ先を向けた。

 

「我々が大樹を倒す。卿はあの魔獣を、倒木の届く場所へ誘導せよ」

 

「……了解!」

 

「ただし、無理はするな。卿が命を落としては意味がない」

 

 その言葉に、俺は一瞬だけ目を丸くした。……無理をするな、か。今さら言われても、という気がしなくもない。だが、その言葉が妙に嬉しかった。

 

「任せといてくれ。俺だって、こんなところで死ぬつもりはねえよ」

 

 俺が笑うと、クルシュさんも小さく口元を緩めた。

 

「ならば、互いの役目を果たそう」

 

 そう言って、彼女は兵士たちへ向き直った。

 

「――総員、聞け! 我らが討つべき白鯨は、ただ一体! 上空より降りてきたあの巨体こそが本体だ!」

 

 兵士たちの視線が、一斉に夜空へ向けられる。

 

「ナツキ・スバルが、命を賭して敵を引きずり下ろした! ならば我らは、その勇気に応えねばならぬ! ここで白鯨を討ち、四百年の災厄に終止符を打つ!」

 

 剣が掲げられた。

 

「――全軍、攻撃開始!!」

 

 次の瞬間、幾重もの魔法がフリューゲルの大樹へと放たれた。炎が樹皮を焼き、氷が幹を砕き、風の刃が深々と切り込んでいく。四百年もの間、風雨に耐えてきた巨木が、凄まじい轟音を立てて震え始めた。だが、倒れない。あまりにも巨大な幹は、兵士たちの攻撃を受けてもなお、その威容を保ち続けていた。

 

「……くそっ、やっぱ簡単にはいかねえか!」

 

 俺は歯噛みした。背後では白鯨が迫り、前方では大樹がびくともしない。いくら魔女の残り香で引きつけられるとはいえ、いつまでも逃げ続けられるわけじゃない。

 

 そのときだった。

 

「――退け!」

 

 凛とした声が、戦場を貫いた。クルシュさんが剣を振りかぶる。

 

 振り下ろされた剣から、目に見えない斬撃が放たれた。大気を切り裂く一撃が、すでに傷ついていた大樹の幹へと叩き込まれる。凄まじい衝撃とともに、巨木の内部から嫌な音が響いた。

 

 ――ミシリ。

 

 俺は、思わず顔を上げた。

 

 ――ミシ、ミシミシミシッ!!

 

「……おい」

 

 大樹が、傾いた。

 

「……マジかよ」

 

 ゆっくりと、しかし確実に。天を覆うほどの枝葉が揺れ、巨大な幹が地面へ向かって倒れ始める。それを見た兵士たちが、一斉に歓声を上げた。

 

「倒れるぞ!!」

 

「大樹が倒れる!!」

 

「全員、退避しろ!!」

 

 だが、俺は喜んでいる暇なんてなかった。大樹が倒れる。つまり、俺たちがその下にいたら、当然ながらまとめて潰されるということだ。

 

「――パトラッシュ!!」

 

 俺は黒い地竜の首筋を叩いた。

 

「最後の大仕事だ! 頼むぞ、相棒!!」

 

 パトラッシュが、力強く地面を蹴った。

 

 白鯨が咆哮した。巨体が俺たちを追って迫り、夜払いの光がその巨大な口を照らし出す。あと少し。あと少しだけ、あいつを引きつけなければならない。

 

「スバルくん! 大樹が!」

 

「わかってる!」

 

 レムの声に応えながら、俺は必死に背後を確認した。倒れ始めた大樹は、今や白鯨の進路へ向かって巨大な影を伸ばしている。しかし、白鯨はまだその危険に気づいていないのか、俺たちを追うことしか考えていないようだった。

 

 ……よし。このままなら、いける。

 

 そう思った瞬間、白鯨が大きく身体を捻った。巨体が横へ傾き、俺たちの進路を塞ぐように尾が振り下ろされる。

 

「やべえ!!」

 

 俺が叫ぶより早く、パトラッシュが反応した。黒い地竜は前脚を踏み込み、ほとんど直角に近い勢いで進路を変える。俺とレムの身体が大きく傾き、視界の端を白鯨の尾が掠めていった。直後、地面が爆ぜるような轟音が響き、土砂が背中へ降り注ぐ。

 

「うおおおおおッ!?」

 

 俺は必死に手綱を握り締めた。だが、パトラッシュは止まらない。崩れた地面を跳び越え、飛び散る石をかわし、白鯨の巨体すれすれを駆け抜けていく。

 

 ……こいつ。本当に、とんでもねえ地竜だ。

 

「……パトラッシュ!」

 

 俺は、その首筋へ顔を寄せた。

 

「お前、最高だよ!!」

 

 黒い地竜は、誇らしげに鼻を鳴らした。そして、そのまま大樹の倒れる方向から一気に離脱する。白鯨が、俺たちを追おうとした。

 

 だが。

 

 ――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!

 

 頭上から、凄まじい轟音が響き渡った。俺は振り返った。そこには、夜空を覆い尽くすほどの巨大な影があった。

 

 フリューゲルの大樹。四百年間、あの場所に立ち続けていた巨木が、今まさに白鯨へ向かって倒れ込んでいた。

 

「――今だあああああッ!!」

 

 俺は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 

 直後、天地が揺れた。

 

 巨大な幹が白鯨の胴体へ叩きつけられ、凄まじい衝撃が大地を駆け抜ける。白い巨体が押し潰され、地面へと叩き落とされた。衝撃で土砂が舞い上がり、視界が一瞬にして茶色く染まる。

 

「うわあああああッ!?」

 

 パトラッシュが跳躍し、衝撃で生じた地割れを飛び越えた。俺たちはどうにか転倒を免れ、そのまま安全な場所まで駆け抜ける。そして、ようやくパトラッシュが足を止めた。

 

「……はあっ……はあっ……!」

 

 俺は、荒い息を吐きながら振り返った。舞い上がった土煙の向こうに、巨大な白い影が横たわっている。白鯨だった。フリューゲルの大樹に押し潰され、地面へと叩きつけられたその巨体は、先ほどまでの威容を失っていた。

 

「……やった」

 

 俺は、思わず呟いた。

 

「……やったぞ」

 

 だが、その瞬間、白鯨が動いた。

 

「……は?」

 

 巨大な身体が、ゆっくりと身を捩る。折れた枝を押し退け、傷だらけの頭部が持ち上がった。

 

「……嘘だろ」

 

 あれだけの衝撃を受けて、まだ生きている。四百年間、誰にも討伐できなかった魔獣。その生命力は、俺たちの想像を遥かに超えていた。

 

 だが。

 

「――まだだ!!」

 

 その声が、戦場に響き渡った。

 

 土煙の向こうから、一人の老剣士が歩み出てきた。ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。その手には、一本の剣が握られている。白鯨の巨体を前にしても、老人の足取りに迷いはなかった。傷だらけの身体を引きずりながら、それでも真っ直ぐに魔獣へと歩み寄っていく。

 

「……ヴィルヘルムさん」

 

 俺は、思わずその名を呼んだ。

 

 十四年前、この白鯨に最愛の妻を奪われた男。剣鬼と呼ばれ、数多の戦場を駆け抜けてきた老人が、ただ一つの悲願のために、今日まで剣を振るい続けてきた。

 

 白鯨が、頭を持ち上げた。その口から、低い唸り声が漏れる。まだ抵抗するつもりなのだろう。巨体を震わせ、再び霧を吐き出そうとする。

 

 だが、その前に。

 

「――させん!!」

 

 クルシュさんの声が響いた。百人一太刀が放たれ、白鯨の頭部を打ち据える。続けて、周囲の兵士たちが魔法を放ち、巨体の動きを封じていく。

 

「ヴィルヘルム!!」

 

 クルシュさんが叫んだ。

 

「今こそ、宿願を果たせ!!」

 

 ヴィルヘルムさんは答えなかった。ただ、静かに剣を構えた。

 

 その背中を見た瞬間、俺は息を呑んだ。……ああ。この人は、ずっと。ずっと、この瞬間を待っていたんだ。

 

 白鯨が咆哮する。巨体が最後の力を振り絞り、ヴィルヘルムさんへ向かって頭を振り下ろした。だが、老人は退かなかった。

 

 地面を蹴る。

 

 その動きは、あまりにも速かった。俺の目には、ただ一筋の銀光が走ったようにしか見えなかった。

 

 ヴィルヘルムさんの剣が、白鯨の傷口へと深々と突き立てられる。続けざまに放たれた斬撃が幾重にも重なり、巨大な魔獣の命を削り取っていく。白鯨が苦悶の声を上げた。それでも、剣鬼は止まらない。ただひたすらに剣を振るう。十四年間、胸の奥に抱え続けてきた想いを、その一太刀一太刀へと込めるように。

 

 そして。

 

「――テレシア」

 

 小さな声が、聞こえた気がした。

 

 ヴィルヘルムさんが、剣を振り上げる。

 

「――私は、お前を愛している!!」

 

 その叫びとともに、最後の一撃が放たれた。白鯨の巨体が大きく震え、そして、ゆっくりとその動きを止めた。

 

 静寂が、戦場を包み込んだ。

 

 誰もが、目の前の光景を信じられずにいた。四百年間、人々を苦しめ続けた魔獣。幾多の討伐隊を返り討ちにし、数え切れない命を奪ってきた白鯨。その巨体が、今、地面に横たわっている。

 

 動かない。二度と、動くことはない。

 

「……終わった、のか?」

 

 誰かが、そう呟いた。俺も、同じことを考えていた。……終わった? 本当に?

 

 そのとき、夜空に浮かんでいた二体の白鯨が、ゆっくりと輪郭を失い始めた。白い巨体が霧のように崩れ、夜の闇へと溶けていく。

 

 分身が、消えた。

 

 それを見た瞬間、俺はようやく理解した。……勝ったんだ。俺たちは、白鯨に勝ったんだ。

 

「――総員!!」

 

 クルシュさんの声が響き渡った。彼女は愛竜の背に跨がり、剣を高々と掲げている。

 

「我らは、白鯨を討ち果たした!!」

 

 その言葉に、兵士たちが顔を上げる。

 

「四百年にわたり人々を脅かし続けた災厄は、今ここに終わりを迎えた! この勝利は、ここに集ったすべての者たちのものだ!!」

 

 クルシュさんの声が、夜空へ響く。

 

「胸を張れ! 誇れ! 卿らは今日、歴史を変えたのだ!!」

 

 そして。

 

「――白鯨はヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが討ち取ったりぃぃ!」

 

「「「うおおおおおおおおおおおおおッ!!!」」」

 

 大歓声が、夜の街道を震わせた。兵士たちは剣を掲げ、互いの肩を叩き、涙を流しながら抱き合っている。地面に膝をついていた者も、傷だらけの身体を支え合いながら立ち上がっていた。

 

 俺は、その光景を呆然と見つめていた。……すげえ。本当に、勝っちまった。俺たちが、あの白鯨を。

 

「……スバルくん」

 

 隣で、レムが小さく俺の名を呼んだ。振り向くと、彼女は目に涙を浮かべていた。

 

「……やりましたね」

 

「……ああ」

 

 俺は、ゆっくりと頷いた。

 

「……やったな、レム」

 

 その瞬間、レムが俺の胸へ飛び込んできた。突然のことに驚いたが、俺はすぐに彼女の背へ腕を回した。

 

「……スバルくんは、やっぱりレムの英雄です」

 

 震える声だった。俺は、少しだけ笑った。

 

「……いや」

 

 そして、彼女の頭を優しく撫でた。

 

「今回は、みんなのおかげだよ」

 

 クルシュさんが兵士たちを奮い立たせてくれた。ヴィルヘルムさんが、最後まで剣を振るってくれた。レムが、俺を信じてくれた。そして、パトラッシュが、俺たちをここまで運んでくれた。誰か一人でも欠けていたら、この勝利はなかっただろう。

 

「……お前も、ありがとな」

 

 俺は、黒い地竜の首筋を叩いた。パトラッシュは、いつものように鼻を鳴らした。

 

「……ったく、最後まで可愛げのねえやつだな」

 

 そう言いながらも、俺は笑っていた。

 

 ……エリス。

 

 今頃、お前は何してんだろうな。きっと、いつものようにベティーと喧嘩して、リアに呆れられて、それでも何食わぬ顔で笑っているんだろう。

 

 俺は、夜空を見上げた。あいつに比べれば、俺はまだまだ弱い。剣も振れなければ、まともな魔法も使えない。誰かを守るためには、いつだってほかの誰かの力が必要になる。

 

 だけど、それでも。今日は、少しくらい胸を張ってもいいだろう。

 

 ――エリス。

 

 今度会ったら、聞かせてやるよ。俺が、あの白鯨を倒すために何をしたのか。きっとお前は、いつもの調子で笑うんだろうな。馬鹿なことしやがって、って。

 

 それでもいい。

 

 俺は、ようやく一つ。お前に自慢できるものを手に入れたんだから。

 

 俺は、ゆっくりと拳を握り締めた。夜空には、もう白鯨の姿はない。ただ、朝焼けが照らす街道に、勝利を喜ぶ人々の声が響いていた。

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