SIDE スバル
リーファウス街道に、歓声が響き渡っていた。夜払いの光に照らされた兵士たちは、互いの肩を叩き、抱き合い、あるいは地面に座り込んで笑っている。誰もが傷だらけで、疲労の色も濃い。それでも、その表情には確かな喜びがあった。四百年もの間、人々を苦しめ続けた白鯨。その巨体が今、フリューゲルの大樹の下で沈黙している。
俺はパトラッシュの背から降り、ようやく地面に足をつけた。途端に膝が笑い始め、思わず黒い地竜の首へしがみつく。
「……おいおい。ここまで来て腰抜かすとか、締まらねえだろ俺」
パトラッシュは、そんな俺を馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「なんだよ。お前だって怖かっただろ? あんな化け物に追い回されてたんだから」
返事の代わりに、黒い地竜がそっぽを向く。……こいつ、本当に可愛げがない。だが、その首筋を撫でる俺の手は、自然と優しくなっていた。
「……ありがとな、パトラッシュ。お前がいなかったら、俺、今頃あの木の下敷きだったわ」
すると、パトラッシュは一度だけ俺へ顔を向けた。どうやら、礼を言われるのは嫌いじゃないらしい。
「スバルくん」
背後から声をかけられ、俺は振り向いた。レムが、いつもの穏やかな笑顔で立っていた。ただ、その頬には土埃がつき、青い髪も少し乱れている。あれほどの戦いを終えたのだから、当然といえば当然だった。
「……レムも、お疲れさん」
「はい。スバルくんも、本当にお疲れ様でした」
「いやー、今回はマジで死ぬかと思った。白鯨の角に飛び乗るとか、冷静に考えたら頭おかしいよな」
「……はい。レムも、そう思います」
「そこは否定してくれてもよくない!?」
俺が抗議すると、レムは口元を押さえて小さく笑った。その笑顔を見て、俺もつられて笑う。こうしてくだらない会話ができることが、今は何よりありがたかった。
だが、いつまでも浮かれているわけにはいかない。周囲へ視線を向ければ、負傷した兵士を運ぶ者や、倒れた仲間を探す者たちの姿があった。歓声の陰には、確かな犠牲がある。消滅の霧に呑まれた者たちのことを、俺たちは思い出すことさえできない。
「……レム」
「はい」
「まだ、終わりじゃねえんだよな」
俺の言葉に、レムは静かに頷いた。
「……はい。魔女教のことが、残っています」
「ああ」
俺は拳を握り締めた。白鯨を倒した。四百年の災厄を、俺たちは乗り越えた。だが、それでエミリアたちの危険がなくなったわけじゃない。むしろ、ここからが本番だ。ロズワール領を狙う魔女教。あいつらを止めなければ、俺たちの勝利には意味がない。
「……行こうぜ、レム」
「はい。レムは、どこまでもスバルくんと一緒です」
「――はい、そこまでにゃ」
不意に割り込んできた声に、俺たちは揃って振り返った。
そこに立っていたのは、腰に手を当て、どこか呆れたような表情を浮かべるフェリスだった。
「残念だけど、レムちゃんはここでおしまい。これ以上の戦闘はフェリちゃんが許しませーん」
「……は?」
「は? じゃないの。レムちゃん、さっき診たときからマナの消耗がひどいんだから。今は気力で立ってるようなものだよ?」
「ですが、レムは――」
「だーめ。患者さんに拒否権はありませーん。これは治癒術師としての判断。絶対安静、とまでは言わないけど、これ以上戦わせるわけにはいかないにゃ」
ぴしゃりと言い切られ、レムが困ったように口を閉じる。
「……マジかよ」
「大マジ。スバルきゅんだって、レムちゃんに倒れてほしくないでしょ?」
「そりゃ……当たり前だろ」
「だったら決まり。レムちゃんは負傷者と一緒に王都へ戻ってもらうからね」
俺は隣のレムを見る。
彼女は悔しそうに唇を結んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかりました」
「レム……」
「申し訳ありません、スバルくん。最後までお供できなくて……」
「謝んなって。お前はもう十分すぎるくらい頑張っただろ」
そう言って笑いかけると、レムは少しだけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
◇◇◇
白鯨の巨体の周囲では、討伐隊の兵士たちが慌ただしく動いていた。討伐の証を確保する者、負傷者の手当てをする者、周囲の安全を確認する者。戦いが終わったからといって、軍の仕事まで終わるわけではないらしい。
そんな中、俺は一人の老剣士を見つけた。ヴィルヘルムさんだった。
彼は白鯨の亡骸から少し離れた場所に立ち、静かに夜空を見上げていた。剣はすでに鞘へ収められている。その背中には、戦闘中の鬼気迫るような雰囲気はなかった。
「……ヴィルヘルムさん」
俺が声をかけると、老人はゆっくりと振り向いた。
「スバル殿」
「……その、お疲れ様でした」
何を言えばいいのかわからず、結局そんなありきたりな言葉しか出てこなかった。だが、ヴィルヘルムさんは穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ。スバル殿には、感謝してもしきれませぬ」
「いやいや、俺なんて大したことしてねえっすよ。最後に決めたのはヴィルヘルムさんじゃないですか」
「……いいえ」
老人は、静かに首を横へ振った。
「貴殿があの魔獣を引きずり下ろしてくださらなければ、我らは剣を届かせることすら叶わなかったでしょう」
そう言って、ヴィルヘルムさんは深く頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「……っ!」
俺は慌てて両手を振った。
「ちょ、ちょっと待ってください! 頭上げてくださいって! 俺、そんな大層な人間じゃないんで!」
だが、ヴィルヘルムさんはしばらく頭を上げなかった。そして、ようやく顔を上げたとき、その目元にはわずかな涙が浮かんでいた。
「……十四年」
老人が、ぽつりと呟いた。
「十四年もの間、私はあの日に囚われておりました。剣を振るう理由も、生き続ける理由も、すべてあの魔獣を討つためにあった」
俺は、黙って耳を傾けた。
「ですが、ようやく……ようやく、妻へ顔向けができます」
ヴィルヘルムさんは、再び夜空を見上げた。
「……これからは、あの人に恥じぬよう、生きていかねばなりませぬな」
その横顔を見て、俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。十四年間。俺がこの世界へ来るよりも、ずっとずっと長い時間。この人は、たった一つの想いを胸に抱えて生きてきたのだ。
「……ヴィルヘルムさん」
「はい」
「……おめでとうございます」
それだけだった。気の利いた言葉なんて、何一つ思いつかなかった。だが、ヴィルヘルムさんは目を細め、深く頷いた。
「……ありがとうございます、スバル殿」
その笑顔を見て、俺はようやく、この戦いに参加してよかったと思えた。
◇◇◇
「――ナツキ・スバル!」
背後から、聞き覚えのある凛とした声が響いた。振り向くと、クルシュさんがこちらへ歩いてきていた。その隣には、フェリスの姿もある。
「クルシュさん! そっちもお疲れ様っす!」
「うむ。卿も、よくぞ無事で戻った」
クルシュさんは、俺の姿を上から下まで確認すると、小さく息を吐いた。
「まったく。あのような無茶をするとはな。見ているこちらの肝が冷えたぞ」
「いやー、俺も冷えましたよ。肝どころか全身が」
「笑い事ではない」
そう言いながらも、クルシュさんの口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
「スバルきゅんってば、本当に無茶苦茶するんだから。フェリちゃん、治療する側の気持ちも考えてほしいにゃ」
「悪かったって、フェリス。……っていうか、俺、まだ治療されてなくね?」
「だから今から診るんでしょ!」
フェリスが呆れたように肩を竦め、俺の腕を掴んだ。淡い光が手元に灯り、身体の奥に残っていた鈍い痛みが少しずつ和らいでいく。どうやら、見た目以上にあちこち傷めていたらしい。
「……おお、すげえ。さすが王国一の治癒術師」
「褒めても何も出ないにゃ」
「いや、出てるじゃん。治療の光が」
「減らず口だけは元気だねぇ」
そんなやり取りを交わしていると、クルシュさんが静かに口を開いた。
「さて、スバル。卿には確認しておきたいことがある」
「……魔女教の件、ですよね」
「その通りだ」
クルシュさんの表情から、笑みが消えた。
「白鯨討伐は成った。だが、我々が交わした約定には、その先がある」
俺は頷いた。今回の交渉は、白鯨の出現情報を提供するだけで終わるものではない。クルシュ陣営から協力を得て、ロズワール領を狙う魔女教へ対処する。そこまで含めて、俺が取りつけた話だった。
「……はい。俺は、このままロズワール領へ向かいたいと思ってます」
「承知している。すでに動かせる兵の確認を進めさせているが、討伐隊の全員を向かわせることはできぬ。負傷者の護送と、白鯨討伐の報告も必要だからな」
「それは、もちろん」
俺は大きく頷いた。白鯨との戦いで、兵士たちは相当な消耗を強いられている。ここからさらに全軍で魔女教へ突っ込むなんて、無茶にもほどがある。
「ただ、動ける人たちには力を貸してほしいんです。魔女教が狙ってるのは、俺の大事な人たちがいる場所なんで」
クルシュさんは、しばらく俺を見つめていた。そして、静かに頷く。
「……よかろう。卿が我らへ示した誠意に、我らも応えねばなるまい」
「……ありがとうございます!」
「礼には及ばぬ。これは約定に基づく協力だ」
そう言って、クルシュさんはフェリスへ視線を向けた。
「フェリス。動ける者の確認を急いでくれ。無理に負傷兵を加える必要はない」
「りょーかい、クルシュ様。でも、クルシュ様もちゃんと休んでほしいにゃ」
「私のことはよい」
「よくないの!」
フェリスの抗議を受け流し、クルシュさんは再び俺へ向き直った。
「スバル。卿には、もう一つ聞いておきたい」
「はい?」
「魔女教の襲撃について、どこまで確かな情報を得ている?」
俺は、一瞬だけ言葉に詰まった。魔女教がロズワール領を狙っていること。大罪司教が関わっていること。そして、その先で何が起こるのか。俺には、知っていることがある。だが、それをどう説明すればいいのかは、いつだって難しかった。
「……全部を説明できるわけじゃないんですけど」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「魔女教がエミリアたちを狙ってるのは、間違いありません。それに、相手は普通の盗賊なんかとは違う。油断したら、あっという間にやられます」
「……なるほど」
クルシュさんは、静かに頷いた。
「卿の言葉を疑うつもりはない。白鯨の件で、我らはその情報の価値を十分に理解した」
「……!」
「だが、兵を動かす以上、可能な限り正確な情報が必要だ。思い出したことがあれば、どれほど些細なことでも伝えてほしい」
「……はい!」
俺は、力強く頷いた。信じてもらえている。それが、こんなにも心強いことだとは思わなかった。
ふと、エリスの顔が脳裏に浮かんだ。あいつなら、こういうとき何と言うだろう。きっと、面倒くさそうに鼻を鳴らして、「使えるもんは全部使え」とでも言うに違いない。
……ああ、わかってるよ。
俺一人じゃ、何もできない。だからこそ、仲間の力を借りるんだ。
◇◇◇
それからしばらくして、討伐隊の再編成が始まった。負傷者は後方へ下がり、戦闘を継続できる者たちが新たな隊列を組んでいく。クルシュさんの指示のもと、白鯨討伐の報告を王都へ届ける者と、魔女教討伐へ向かう者が分けられていた。
俺はその様子を眺めながら、レムとともに必要な物資を確認していた。
「……食料、飲み水、治療道具。それから、地竜の休憩も必要だよな」
「はい。長距離の移動になりますから、無理は禁物です」
「だよなー。……って、おい、パトラッシュ。お前、なんで俺の荷物嗅いでんの?」
黒い地竜は、俺の鞄へ鼻先を突っ込もうとしていた。慌てて引き離すと、不満そうに鼻を鳴らされる。
「食い物は入ってねえぞ。いや、ちょっとは入ってるけど、それ俺のだからな?」
「ふふっ。すっかり仲良しですね」
「仲良しっていうか、完全に舐められてる気がするんですけど!」
レムが笑う。俺も、思わず苦笑した。
だが、そんな穏やかな時間も長くは続かなかった。
「――スバル殿」
声をかけられ、振り向く。そこには、先ほどまで白鯨の亡骸のそばにいたヴィルヘルムさんが立っていた。
「ヴィルヘルムさん。どうしたんですか?」
「クルシュ様より、次の任務について伺いました」
「……ああ、魔女教の件ですね」
「はい」
ヴィルヘルムさんは、静かに頷いた。
「私も、同行させていただきます」
「……え?」
思わず間抜けな声が漏れた。ヴィルヘルムさんは、そんな俺へ穏やかな笑みを向ける。
「白鯨討伐の恩を返すには、まだ足りませぬ。それに、魔女教を放置することはできません」
「……でも、ヴィルヘルムさん、怪我だって……」
「ご心配なく。フェリス殿の治療を受け、戦うに支障はありませぬ」
その言葉に、俺は思わず頭を掻いた。
「……いや、正直めちゃくちゃ心強いですけど」
「ならば、決まりですな」
老人は、当然のように微笑んだ。その姿を見て、俺もつられて笑ってしまう。
「……よろしくお願いします、ヴィルヘルムさん!」
「こちらこそ、スバル殿」
差し出された手を、俺は力強く握り返した。
こうして、少しずつ仲間が集まっていく。俺が一人で足掻いていた頃には、想像もできなかった光景だった。
……エリス。
お前は、いつもこういう景色を見てたのかもしれねえな。自分の周りに人が集まり、誰かが自然と力を貸してくれる。俺はそれを、お前が強いからだと思っていた。
でも、今なら少しだけわかる気がする。
強さだけじゃない。
何をしてきたのか。誰と向き合ってきたのか。そういうものが積み重なって、ようやく誰かの信頼になるんだ。
俺は、握り返した手に少しだけ力を込めた。
◇◇◇
やがて、出発の準備が整った。夜空にはまだ星が瞬き、遠くでは白鯨の亡骸を囲む兵士たちの灯りが揺れている。あの巨大な魔獣を倒したという実感は、今になってようやく少しずつ湧いてきていた。
俺はパトラッシュの背に跨がり、前方へ視線を向けた。レムがその後ろへ乗り、静かに俺の腰へ手を回す。
「……スバルくん」
「ん?」
「エミリア様たち、きっと驚かれますね」
「……だろうな」
俺は、思わず笑った。
「白鯨倒して、クルシュさんたちと協力関係まで結んで、兵隊連れて帰ってくるんだぜ? そりゃ驚くだろ」
「はい。エリス様も、きっと驚かれると思います」
「……あいつかぁ」
俺は、少しだけ考えた。
エリスなら、どんな顔をするだろう。目を丸くして驚くのか。それとも、いつものように偉そうに笑って、俺の頭を小突いてくるのか。
「……まあ、あいつのことだからな」
俺は、口元を緩めた。
「『遅えんだよ、馬鹿野郎』とか言いそうだな」
「ふふっ。エリス様なら、そう仰るかもしれませんね」
「だろ?」
ふたりで顔をあわせ、微笑む。
「…レムは、レムはスバルくんの無事を心よりお祈り申し上げます。」
そうだ。無事に帰ろう。
リアのところへ。ベティーのところへ。ラムのところへ。そして、エリスのところへ。
あいつらに、ちゃんと伝えるんだ。
俺が何をしてきたのか。誰と出会い、何を成し遂げたのか。
もう、ただ守られるだけの俺じゃない。
少なくとも、そう胸を張って言えるだけのことはしてきたつもりだった。
「――よし、行くぞ!」
俺は手綱を握り締めた。
「頼むぜ、パトラッシュ!」
黒い地竜が、力強く地面を蹴った。背後では、クルシュさんの号令に応じて兵士たちが動き始める。白鯨討伐という大きな戦いを終え、俺たちは次なる目的地へ向かって進み始めた。
ロズワール領。
そこには、俺の大切な人たちが待っている。そして、まだ誰も知らない脅威が迫っている。
だが、俺はもう一人じゃない。
白鯨を倒した仲間たちがいる。俺を信じてくれる人たちがいる。だから、きっと大丈夫だ。そう信じて、俺は夜の街道を駆け抜けていった。