SIDE スバル
勝った。
その事実を、ナツキ・スバルは何度も胸の内で繰り返していた。白鯨を討ち、魔女教大罪司教『怠惰』ペテルギウス・ロマネコンティを倒した。あれほど自分たちを苦しめ、何度も絶望の底へ叩き落としてきた怪物を、ようやく打ち倒したのだ。もちろん、自分一人の力で成し遂げたわけではない。クルシュをはじめとした討伐隊の協力がなければ白鯨には勝てなかったし、ユリウスがいなければペテルギウスの『見えざる手』に対抗することすらできなかっただろう。それでも、スバルは確かに戦った。何もできずに泣き喚いていた頃とは違う。自分の頭で考え、仲間の力を借り、ようやく掴み取った勝利だった。
そして何より、エリスに認められた。
『やるじゃねえか、スバル』
あの何気ない一言が、今も耳の奥に残っている。普段なら素直に喜ぶのも癪だからと、軽口の一つでも返していただろう。実際、あの場でもそんな態度を取った気がする。しかし、本当は嬉しくて仕方がなかった。自分がどれほどあいつに憧れ、追いつこうとしてきたかなんて、本人には口が裂けても言えない。それでも、ほんの少しだけ隣に立てたような気がしたのだ。
「……随分と機嫌がよさそうだね、スバル」
「あ? そりゃそうだろ。あのイカれた大罪司教をぶっ倒したんだぜ? 少しくらい浮かれても罰は当たんねえって」
隣を歩くユリウスの言葉に、スバルは肩をすくめてみせた。紫紺の髪を揺らした騎士は小さく微笑んだものの、その表情にはまだ緊張が残っている。ペテルギウスを討ったとはいえ、魔女教徒の残党が全て片づいたわけではない。村人たちの安全を確保し、予定していた移動を完了させるまでは、討伐隊の仕事も終わらないのだ。
「気持ちはわかるけれど、まだ警戒を解くには早い。先ほどの報告が事実なら、竜車に危険なものが積み込まれている可能性がある」
「わかってるって。だから俺たちが確認に行くんだろ? ……にしても、最後の最後まで嫌がらせしてくれやがる」
村の西側へ向かう道には、移動のために用意された竜車が並んでいた。王都方面と聖域方面、それぞれの行き先へ向かう人々を乗せるための車両だが、問題が見つかった一台だけは他の竜車から離され、村外れの空き地に留め置かれている。鉄の牙の団員が積荷の中に見慣れない木箱を発見し、火の魔力を帯びた魔石が大量に詰め込まれている疑いがあると報告したためだった。幸い、乗車を始める前に発覚したため、村人たちはまだ誰一人として問題の竜車に乗っていない。
現場に到着すると、数名の団員が周囲を警戒していた。地竜はすでに切り離され、荷台の幌だけが風に揺れている。ユリウスが状況を尋ねると、団員の一人が緊張した面持ちで説明を始めた。
「他の積荷は確認できましたが、奥にある木箱だけはまだ手をつけておりません。中から火の魔力が漏れているようで……」
「賢明な判断だ。周囲の者を下がらせてくれ。私が確認しよう」
「おいおい、一人で近づく気かよ」
「危険がある以上、人数は少ない方がいい。それに、私には精霊たちの助けがある」
そう言ってユリウスは荷台へ近づいた。スバルも数歩後ろから様子を窺う。木箱は大人が両腕で抱えられる程度の大きさで、外見だけならごく普通の荷物に見えた。しかし、蓋の隙間から漏れる赤い光だけは明らかに異常だった。魔石について詳しくないスバルにも、あれがまともな代物ではないことくらいはわかる。
「……なあ、ユリウス。これ、やっぱり爆弾なんじゃねえの?」
「その可能性は高い。だが、構造を確かめなければ安全に処理することもできない。君はもう少し離れて――」
そのときだった。
かちり、と。
木箱の奥で、小さな音が鳴った。
何かが噛み合うような、妙に乾いた音だった。スバルは一瞬、その正体を考えようとした。だが、考えるより先に、箱の隙間から漏れていた赤い光が急激に強くなる。
「――ユリウスッ!!」
「下がれ!!」
胸倉を掴まれ、身体が宙を舞った。次の瞬間、耳をつんざく轟音とともに竜車が爆ぜる。視界が真っ赤に染まり、熱風が全身を叩きつけた。地面に転がったスバルは両腕で顔を庇い、肺に入り込んだ熱い空気に激しく咳き込んだ。木片や車輪の破片が周囲へ降り注ぎ、爆発の衝撃で巻き上がった土煙が空を覆う。耳鳴りが酷く、しばらくは自分が生きているのかどうかさえわからなかった。
「げほっ……! く、そ……っ! ユリウス!?」
どうにか顔を上げると、燃え盛る残骸の向こうにユリウスの姿が見えた。外套の一部が焼け焦げ、頬には血が滲んでいるものの、どうやら命に別状はないらしい。彼はすぐに立ち上がると、呆然としていた団員たちへ消火と周囲の安全確認を指示した。スバルもふらつく足で立ち上がり、辺りを見回す。竜車は跡形もなく破壊されていたが、幸いにも周囲に倒れている人影はなかった。
「……誰も、乗ってなかったんだよな?」
「ああ。乗車前に発見できたのが幸いだった。近くにいた者も退避させていたから、重傷者はいないはずだ」
「……そっか。そりゃ、よかった」
スバルはその場にへたり込みそうになるのを堪えた。もし発見が少し遅れていたら、あの竜車には何人もの村人が乗っていたかもしれない。そう考えるだけで、背筋が凍る。魔女教徒が何を考えてあんなものを仕込んだのか、今となっては確かめようもないが、少なくとも連中が最後まで村人たちの命を狙っていたことだけは間違いなかった。
「スバル、ここは彼らに任せよう。村へ戻ってエリスたちにも報告を――」
ユリウスの言葉が、不意に途切れた。
「……スバル?」
「あ? どうした?」
「君の様子が……」
問い返そうとした瞬間、胸の奥で何かが蠢いた。
最初は爆発の衝撃によるものだと思った。頭がくらくらするのも、吐き気がするのも、あれだけの爆風を浴びたのだから当然だろう。だが、次第にそれが単なる体調不良ではないことに気づく。自分の皮膚の内側を、誰かの指が這い回っているような感覚。血管の中に冷たい泥を流し込まれたような不快感が、胸から喉へ、喉から頭へと広がっていく。
「……なん、だよ……これ……」
右手が勝手に震え始めた。指先が不自然に曲がり、手首が自分の意思とは無関係に持ち上がる。スバルは左手で右腕を押さえつけようとしたが、今度は左手まで言うことを聞かなくなった。
そして、頭の奥に声が響いた。
『――ああ、ああ、ああ! なんということでしょう!』
その声を、スバルは知っていた。
聞き間違えるはずがない。何度も自分を絶望へ叩き落とし、数えきれないほどの人間を殺し、つい先ほどようやく討ち取ったはずの男の声だった。
『この肉体! この器! なんと素晴らしい適性! 魔女の寵愛をこれほどまでに受けた者が、まさかこのような場所にいたとは!』
「……ペテル、ギウス……?」
口にした瞬間、背筋を冷たいものが走った。
あり得ない。
あいつは死んだ。ユリウスが確かに討ち取ったはずだ。だというのに、頭の中で響く声はますます大きくなり、スバルの意識を内側から押し潰そうとしていた。
『ああ、なんという愛! なんという勤勉! 我が身が滅びようとも、魔女への愛は決して絶えることなどないのデス!』
「ふざ……けんな……!」
必死に抵抗する。だが、身体は言うことを聞かなかった。勝手に足が一歩前へ出る。背筋が反り、口元が吊り上がり、頬の筋肉が自分の意思とは無関係に歪んでいく。スバルは自分の顔が、あの狂人と同じ笑みを浮かべようとしていることに気づき、全身の血が凍るような恐怖を覚えた。
「スバル!」
ユリウスが駆け寄ろうとする。
しかし、その足は途中で止まった。
「――おや?」
スバルの口が動いた。
自分の意思ではない。
「おやおやおや! これはこれは、なんとも見覚えのあるお顔ではありませんか! 精霊騎士ユリウス・ユークリウス! ああ、なんという運命! なんという愛の巡り合わせなのでしょう!」
「……貴様」
ユリウスの表情が険しくなる。彼はゆっくりと剣を抜き、スバルの身体を見据えた。
「ペテルギウス・ロマネコンティ……なのか?」
「その通り! その通りなのデス! この肉体は実に素晴らしい! 魔女の寵愛に満ち、我が魂を受け入れるに相応しい器! ああ、愛されている! 私はやはり、魔女に愛されているのデス!」
自分の喉から、甲高い笑い声が響く。
スバルは意識の奥で叫んだ。やめろ、出ていけ、俺の身体を返せ。だが、どれほど必死に叫んでも、その声は外へ届かない。身体の主導権は完全に奪われ、まるで自分の身体を他人の背中越しに眺めているようだった。
ペテルギウスはスバルの腕を大仰に広げ、ユリウスへ向けて一歩踏み出した。
「さあ、精霊騎士! 再び我が勤勉を試すのデス! この身がどれほど魔女への愛に満ちているか、その目で確かめるがよい!」
「……スバル。聞こえているか」
ユリウスは剣を構えたまま、静かに問いかけた。
「君がまだそこにいるのなら、答えてくれ」
その声が、暗闇に沈みかけていたスバルの意識へ届いた。
答えなければならない。
ここで自分が諦めれば、ペテルギウスはこの身体を使って再び人を殺すだろう。ユリウスも、村人たちも、エミリアも、エリスも、ベアトリスも。ようやく守れたはずのものが、今度は自分の手によって壊されてしまう。
そんなことだけは、絶対に許せなかった。
『……返せよ』
スバルは意識の底で歯を食いしばった。
『俺の身体だろうが……!』
必死に抵抗する。指先を動かし、喉を震わせ、わずかでも自分の意思を取り戻そうともがき続けた。ペテルギウスの笑い声が頭の中で響き、意識を押し潰そうとしてくる。それでもスバルは諦めなかった。
そして、ほんの一瞬。
「――ユリウスッ!!」
自分の声が戻った。
ユリウスの目が見開かれる。
「スバル!」
「こいつ……まだ、俺の中に……! 頼む、聞いてくれ……!」
しかし、身体の自由は長く続かなかった。再び背筋が反り、口元が歪み始める。ペテルギウスが主導権を奪い返そうとしているのだ。スバルは残された力を振り絞り、ユリウスを睨みつけた。
「――俺を殺せ!!」
その言葉に、ユリウスが凍りついた。
「……何を言っているんだ、スバル」
「聞こえただろ……! こいつを止めるには、それしか……!」
「待て。君を救う方法があるはずだ。私の精霊たちなら、あるいは――」
「時間がねえんだよッ!!」
叫んだ途端、喉がひきつった。身体の奥から別の笑い声が湧き上がり、スバルの言葉を塗り潰そうとする。自分の右腕がゆっくりと持ち上がり、ユリウスへ向けられるのがわかった。
見えざる手。
その名が脳裏を過ぎる。
ユリウスが再び剣を構える。だが、彼は踏み込まない。目の前にいるのが敵であると同時に、友でもあるからだ。
「……頼むよ、ユリウス」
スバルは声を絞り出した。
「俺に……みんなを殺させないでくれ……」
ユリウスの剣先が揺れた。
「……君は、私に友を斬れと言うのか」
「……悪い」
謝罪の言葉が、自然と口をついて出た。
自分はいつもそうだ。誰かに助けられ、誰かに支えられ、最後には誰かへ辛い役目を押しつける。今回だってそうだった。ユリウスは何も悪くない。それなのに、スバルは彼に、自分を殺すという一生消えない傷を負わせようとしている。
それでも、他に方法が思いつかなかった。
「……ほんと、悪い……」
ユリウスは何も答えなかった。
ただ、剣を握る手に力が込められる。
長い沈黙の後、彼は静かに息を吐いた。
「……君の願いを、聞き届けよう」
次の瞬間、剣が閃いた。
胸を貫く鋭い痛みが走り、肺から空気が抜ける。膝から力が失われ、身体が前へ崩れ落ちた。ユリウスが慌てて抱き止めてくれたのがわかったが、もう指一本動かすことができない。
「……すまない、スバル」
その声は、ひどく震えていた。
スバルは何かを言おうとした。ありがとう、と。お前は悪くない、と。そんな言葉を伝えたかったのかもしれない。だが、口を開いても声は出ず、代わりに温かいものが喉の奥から溢れてきた。
視界が暗くなっていく。
怖かった。
何度経験しても、死ぬことに慣れるはずがなかった。身体から熱が失われ、意識が薄れていくあの感覚だけは、いつだって恐ろしい。
それでも、最後に浮かんだのは、守りたかった人たちの顔だった。
エミリアが笑っている。
ベアトリスが不機嫌そうに本を抱えている。
そして、エリスがいつもの調子で笑いながら、自分の肩を叩いていた。
『やるじゃねえか、スバル』
……ああ。
せっかく、認めてもらえたのにな。
その思いを最後に、ナツキ・スバルの意識は闇へ沈んだ。
◇◇◇
「――っ、がはッ!!」
肺が空気を求め、身体が大きく跳ねた。
スバルは反射的に胸元を押さえる。傷はない。血も流れていない。服も破れていない。それなのに、胸を貫かれた痛みだけが、つい先ほどの出来事のように残っていた。
「……は……?」
荒い息を繰り返しながら顔を上げる。
そこに広がっていたのは、見覚えのある景色だった。討伐隊の面々が忙しなく行き交い、装備を確認する声や、地竜の鳴き声が聞こえてくる。つい先ほどまで燃え盛る竜車があったはずの場所ではない。
白鯨討伐を終え、魔女教討伐へ向けて準備を進めていた頃。
そして。
「……スバル?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、そこにはユリウスが立っていた。
「どうしたんだい? 顔色が悪いようだけれど」
スバルは答えられなかった。
ユリウスの外套は焼け焦げていない。頬にも傷はなく、胸元にも血の跡などなかった。何より、その瞳には、友を自らの手で殺した者の苦悩が宿っていない。
当たり前だ。
このユリウスは、まだ自分を殺していない。
「……戻った、のか……?」
呟いた瞬間、全てを理解した。
死に戻り。
何度も自分を救い、何度も自分から全てを奪ってきた力が、また発動したのだ。
白鯨は倒した。同盟も成立している。そこまでは、まだ残っている。
だが、ペテルギウスとの戦いは違う。村を守ったことも、ユリウスと肩を並べて戦ったことも、エリスに認められたことも、全てなかったことになった。
スバルはゆっくりと両手を見下ろした。
あの勝利を覚えているのは、自分だけだ。
ユリウスがどんな顔で剣を振るったのかも、最後に何を言ったのかも、もう誰も知らない。あの男は何も覚えていないのに、自分だけが、彼に殺された記憶を持っている。
「……くそったれ」
拳を握り締める。
悔しかった。
怖かった。
もう一度あの狂人と戦わなければならないことも、また誰かを失うかもしれないことも、考えただけで吐き気がした。
それでも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
今なら知っている。
ペテルギウスには『指先』と呼ばれる予備の肉体が存在すること。奴を倒したつもりでも、それらが残っていれば終わらないこと。そして、村人たちが乗るはずだった竜車には、大量の火魔石が仕込まれていること。
知らなかったから失敗した。
ならば、今度は知っていることを使えばいい。
「……スバル?」
ユリウスが再び声をかけてくる。
スバルはゆっくりと顔を上げた。目の前の男は、自分がこれから何を頼まれるのかも、何を背負わされるのかも知らない。それが少しだけ申し訳なくて、同時に、こうしてまた生きている姿を見られたことが嬉しかった。
「……ユリウス」
「何だい?」
「ちょっと、相談がある」
スバルは大きく息を吸った。
「作戦を変えたい。鉄の牙の連中にも話を通しておきたいんだ」
突然の申し出に、ユリウスはわずかに眉を動かした。
「……理由を聞いても?」
「ああ。魔女教徒が、俺たちの動きを把握してる可能性がある。それを逆手に取る」
ユリウスは黙って続きを待った。
スバルは胸元を一度だけ押さえ、もう痛みのない場所から手を離した。
「今度こそ、全部終わらせるんだ」
ユリウスはしばらくスバルを見つめていたが、やがて静かに頷いた。
「……詳しく聞かせてもらおう」
スバルも頷き返した。
もう一度、あの村へ向かう。
もう一度、あの狂人と戦う。
今度こそ、誰も失わずに終わらせるために。