月光る夜   作:案院運

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白鯨〜怠惰21

 

SIDE スバル

 

 魔女教大罪司教『怠惰』ペテルギウス・ロマネコンティ。その名前を思い浮かべるだけで、スバルの胸の奥には不快な感覚が蘇ってくる。狂った笑い声、耳障りな奇声、自らの指を噛み砕きながら愛だの勤勉だのと喚き散らす異様な姿。何より、あの男に身体を奪われたときの感覚は、今でも鮮明に記憶に残っていた。自分の意思とは無関係に手足が動き、自分の口から他人の声が響く。あれほどの嫌悪と恐怖を味わったことはない。そして、その結末を終わらせるために、ユリウスへ自分を殺してくれと懇願したことも。

 

 だからこそ、今度は確実に終わらせる。指先を殲滅し、逃げ道を塞ぎ、ペテルギウス本人を討ち取る。そのための準備はすでに整っていた。アーラム村の外れに集まった討伐隊を前に、スバルは最後の確認を行う。

 

「……もう一度確認するぞ。今回の目的は、ペテルギウスを村から引き離して、確実に仕留めることだ。奴の見えない攻撃には俺とユリウスで対処する。けど、それだけで勝てると思ってるわけじゃねえ」

 

 スバルは周囲に集まった傭兵たちを見渡した。リカードをはじめとする鉄の牙の団員たちは、先ほどまで指先の討伐にあたっていたとは思えないほど落ち着いた様子で耳を傾けている。白鯨討伐戦でも見せた彼らの実力は、スバルにとって何より心強いものだった。

 

「鉄の牙には、奴が逃げ出した場合の包囲と、周辺に残ってる魔女教徒への対処を頼みたい。もし俺たちが失敗しても、奴を村へ戻すわけにはいかねえんだ」

 

「おう、任せとき! 兄ちゃんらが大将を相手取っとる間、周りはワイらが固めたる。余計な横槍は入れさせへんで!」

 

 リカードが豪快に笑い、周囲の団員たちも力強く頷いた。その反応にスバルは安堵しながらも、決して気を緩めなかった。指先の殲滅が完了したとはいえ、相手は魔女教の大罪司教だ。常識など通用しない相手であり、どれほど準備を整えようとも予想外の事態が起こる可能性はある。だからこそ、考えられる限りの対策を講じておく必要があった。

 

「それと、もう一つ。奴は肉体を失っても、別の人間に乗り移る可能性がある。だから倒したと思っても、絶対に油断するな。様子のおかしくなった奴がいたら、すぐに距離を取ってくれ」

 

「……身体を乗っ取る、か。そらまた気色悪い能力やな」

 

 リカードが顔をしかめる。スバルは苦笑することすらできず、ただ頷いた。前の周回で自分が経験したことを、そのまま説明するわけにはいかない。どうして知っているのかと尋ねられても、答えることができないからだ。それでも、必要な情報だけは伝えておかなければならなかった。

 

「スバル、準備は整っている。そろそろ出発しよう」

 

 隣に立つユリウスが声をかける。その表情はいつもどおり穏やかだったが、腰の剣に添えられた手からは、これから始まる戦いへの緊張が感じられた。

 

「ああ。……行こうぜ」

 

 スバルが頷くと、討伐隊は静かに動き始めた。

 

 目指すのは、アーラム村から離れた岩場。周囲に人家がなく、地形を利用した包囲にも適した場所だった。ペテルギウスをそこへ誘い込み、逃げ道を塞いだうえで討ち取る。それが今回の作戦の骨子である。

 

 もっとも、相手がこちらの思惑どおりに動く保証はない。だからこそ、スバルは自分自身を囮にするつもりだった。ペテルギウスが自分に異様な関心を示していることは、これまでの経験からわかっている。ならば、その執着を利用しない手はなかった。

 

     ◇◇◇

 

 森を抜けた先に広がる岩場は、昼間だというのにどこか薄暗かった。背の高い木々に囲まれ、切り立った岩壁がいくつも並んでいる。足元には大小さまざまな石が転がり、決して歩きやすい場所ではない。しかし、見通しの利く場所と身を隠せる場所が適度に入り混じっており、作戦を実行するには都合がよかった。

 

 スバルは周囲の地形を確かめながら、隣を歩くユリウスへ視線を向けた。

 

「なあ、ユリウス。例の視界を繋ぐってやつ、本当に大丈夫なんだよな?」

 

「先ほど試したとおり、君の感覚を私の精霊へ伝えることはできる。ただし、完全に同じ景色が見えるわけではない。君が捉えたものを、私が認識するための補助と考えてほしい」

 

「……なるほどな。要するに、俺がちゃんと見てなきゃ意味ねえってことか」

 

「そういうことだ。君が目を逸らせば、私も敵の攻撃を見失う可能性がある」

 

「うへぇ。責任重大じゃねえか」

 

 スバルは顔をしかめたが、すぐに表情を引き締めた。ユリウスの契約精霊を介して感覚を共有するという方法は、作戦会議の段階で実際に試している。少なくとも、スバルが見たものをユリウスへ伝えることはできた。問題は、通常なら誰にも見えないはずのペテルギウスの権能に対しても、それが通用するかどうかだった。

 

「……頼むぜ、ユリウス」

 

「ああ。君の期待には応えよう」

 

 ユリウスは静かに頷いた。その横顔を見て、スバルはふと王都での出来事を思い出す。騎士としての実力も、振る舞いも、何もかもが自分より優れている男。あのときは、その事実を認めることすらできなかった。自分の惨めさを突きつけられるようで、ただひたすらに腹が立ったのだ。

 

 だが、今は違う。自分にできないことを、ユリウスはできる。そして、自分にしかできないことも確かにある。ならば、互いの力を合わせればいい。白鯨討伐戦で学んだことは、決して無駄ではなかった。

 

「……ったく、俺も変わったもんだな」

 

「何か言ったかい?」

 

「いや、何でもねえよ」

 

 スバルは笑って誤魔化した。そのとき、岩場の奥から聞き覚えのある声が響いた。

 

「――脳が、震える」

 

 足が止まる。ゆっくりと顔を上げた先には、痩せこけた身体を奇妙に折り曲げた男が立っていた。落ち窪んだ眼窩、血の気のない肌、異様なほど大きく見開かれた目。何度見ても慣れることのできない、不快な姿だった。

 

「おお……おおおお! これはこれは! なんと素晴らしいことでしょう! あなたが自ら私のもとへ足を運んでくださるとは!」

 

「……相変わらず気持ち悪ぃな、お前」

 

「おやおやおや? 随分と冷たいお言葉デスねぇ! ですが、構いません! 愛とは試練! 試練とは勤勉! そして勤勉こそが、魔女への愛を証明する唯一の手段なのデス!」

 

 ペテルギウスは両腕を広げ、まるで舞台の上に立つ役者のように身体を揺らした。その仕草の一つ一つが異様であり、スバルの背筋には嫌な汗が流れる。だが、今さら恐怖に足を止めるわけにはいかなかった。

 

「ルグニカ王国近衛騎士、ユリウス・ユークリウス」

 

 スバルの隣で、ユリウスが静かに名乗った。

 

「魔女教大罪司教『怠惰』ペテルギウス・ロマネコンティ。貴殿を討伐するために参上した」

 

 一瞬の沈黙のあと、ペテルギウスは甲高い笑い声を上げた。

 

「アハッ! アハハハハハ! なんという傲慢! なんという不遜! 魔女への愛を捧げるこの私を、討伐するですとぉ!?」

 

 男の指が口元へ運ばれ、歯が皮膚へ食い込む。血が滲むのも構わず指を噛み続ける姿に、スバルは思わず顔をしかめた。しかし、その視線は決してペテルギウスの背後から逸らさない。

 

 何もないはずの空間に、黒い影が蠢き始めていた。一本、二本、三本。数えるのも馬鹿らしくなるほどの腕が、ゆっくりと持ち上がっていく。

 

「……来るぞ、ユリウス!」

 

「ああ!」

 

 叫んだ瞬間、無数の腕が襲いかかった。

 

 地面が爆ぜ、轟音とともに岩が砕け散る。スバルは咄嗟に身を伏せ、転がるようにして攻撃を避けた。直前まで立っていた場所には巨大な窪みができており、まともに受けていれば身体など跡形もなく潰されていただろう。

 

「うおおおっ!? 相変わらず洒落になってねえ!」

 

「スバル、下がれ!」

 

 ユリウスが地面を蹴った。銀色の剣閃が走り、迫り来る見えざる手の一本を迎え撃つ。刃に宿った精霊の力が不可視の腕へ干渉し、鈍い衝撃音とともに攻撃の軌道を逸らした。しかし、それだけでは終わらない。二本目、三本目と次々に襲いかかる腕を、ユリウスは身を翻しながら受け流していく。

 

 その動きは、スバルの目にはほとんど追えないほど速かった。無駄のない足運び、正確な剣筋、攻撃を見極める冷静な判断。王国近衛騎士としての実力を、余すところなく発揮していた。

 

「アハハハハ! 素晴らしい! 素晴らしいデスねぇ! 見えぬはずの私の権能に抗うとは! なんと勤勉なことでしょう!」

 

 ペテルギウスが狂ったように笑う。その背後から、さらに多くの腕が伸びた。いくらユリウスが優れた騎士であっても、これだけの攻撃を捌き続けるのは難しい。だからこそ、最初からここで決着をつけるつもりはなかった。

 

「ユリウス! 予定どおりだ!」

 

「承知した!」

 

 ユリウスが距離を取り、スバルは指を口へ運んだ。短い口笛が響くと、岩場の向こうから漆黒の地竜が飛び出してくる。

 

「――パトラッシュ!」

 

 スバルは駆け寄ってきた地竜の背へ飛び乗り、手綱を握り締めた。

 

「頼むぜ、相棒!」

 

 パトラッシュが鋭く鳴き、力強く地面を蹴る。背後ではペテルギウスの見えざる手が岩を砕きながら迫っていたが、パトラッシュは巧みに進路を変え、攻撃を避けていった。

 

「おやおやおや!? 逃げるのデスか!? 逃げてしまうのデスかぁ!?」

 

「逃げるんじゃねえよ! ついて来いって言ってんだ、この変態野郎!」

 

 スバルは振り返り、思い切り中指を立てた。その挑発にペテルギウスの顔が歪み、狂人は怒りに任せて攻撃を繰り出しながら追ってくる。

 

 目指すのは、岩場の奥にある天然の窪地だった。周囲を切り立った岩壁に囲まれ、逃げ道が限られた場所。そして、その岩壁の上には、すでに鉄の牙の団員たちが配置されている。

 

 スバルは口元を歪めた。

 

「……悪いな、ペテルギウス。今回は最初から、お前を逃がすつもりなんかねえんだよ」

 

     ◇◇◇

 

 窪地へ飛び込んだ瞬間、スバルはパトラッシュの手綱を引いた。地竜が鋭く鳴き、地面を滑るようにして方向を変える。その直後、背後から追ってきた見えざる手が岩壁へ叩きつけられ、轟音とともに石片が飛び散った。

 

「アハハハハ! 追いつきましたヨォ! 逃げても逃げても無駄なのデス!」

 

 土煙の向こうからペテルギウスが姿を現す。だが、スバルは逃げるどころか、その場で振り返って笑った。

 

「……誰が逃げてるって?」

 

 次の瞬間、岩壁の上から豪快な声が響いた。

 

「――今や!」

 

 リカードの号令とともに、窪地の周囲から一斉に魔法が放たれた。炎が走り、氷が砕け、岩壁の一部が崩れ落ちる。鉄の牙の団員たちが放った攻撃は、ペテルギウスを直接仕留めるためのものではない。奴の動きを制限し、逃げ道を塞ぐためのものだった。

 

「なっ……これは、いったい!?」

 

「言っただろ。今回はちゃんと準備してきたんだよ」

 

 スバルはパトラッシュの背から飛び降りた。岩壁の上に立つリカードが牙を覗かせて笑い、周囲の団員たちへ次々と指示を飛ばす。包囲は完成した。あとは、目の前の狂人を討ち取るだけだった。

 

「さて、貴殿の相手は私だ」

 

 窪地へ降り立ったユリウスが、静かに剣を構える。

 

「騎士風情が! 私の愛を! 私の勤勉を! 邪魔するというのデスかぁ!」

 

「愛を語る資格があるかどうかは知らない。だが、貴殿がこれまでに行ってきた蛮行を、見過ごすわけにはいかない」

 

 ユリウスは剣を構え直した。

 

「ここで終わりにしよう」

 

 その言葉と同時に、見えざる手が襲いかかった。スバルは目を見開き、迫る黒い腕の動きを捉える。精霊を介して伝わる感覚に、ユリウスの身体が即座に反応した。

 

 銀色の剣閃が走る。一本目の腕が弾かれ、二本目が切り払われる。三本目を身を捻ってかわし、四本目を剣の腹で受け流す。ユリウスの動きは先ほどよりも明らかに鋭く、正確だった。スバルが捉えた攻撃の軌道を、ユリウスが自らの剣技へと落とし込んでいるのだ。

 

「……すげえ」

 

 スバルは思わず呟いた。

 

 自分には見えていても、どうすることもできなかった攻撃。それをユリウスは、まるで最初から見えていたかのように捌いていく。これが騎士の実力。自分にはない力。しかし、今はそれを羨む必要などなかった。

 

 自分が見て、ユリウスが斬る。

 

 それでいい。

 

「行けぇぇぇ! ユリウス!!」

 

 スバルが叫ぶ。ユリウスは地面を蹴り、ペテルギウスとの距離を一気に詰めた。狂人の背後から無数の腕が襲いかかるが、その全てが剣によって受け流され、あるいは切り払われる。

 

「なっ……なぜ!? なぜ見える!? なぜ私の権能が見えるのデスかぁ!?」

 

「貴殿には理解できないだろうね」

 

 ユリウスは静かに答えた。

 

「これは、私一人の力ではない」

 

 銀色の剣が閃き、ペテルギウスの身体が大きくよろめく。

 

「仲間と力を合わせること。それこそが、我々の強さだ」

 

「――怠惰ァァァァ!!」

 

 ペテルギウスが絶叫した。無数の見えざる手が狂ったように暴れ始め、岩が砕け、地面が抉れ、窪地全体が揺れる。だが、ユリウスは退かなかった。スバルも目を逸らさなかった。

 

 そして、最後の一本が切り払われた瞬間。

 

「――これで、終わりだ」

 

 ユリウスの剣が、ペテルギウスの胸を貫いた。

 

 狂人の身体が大きく痙攣し、血に濡れた指が何かを求めるように宙を掻く。やがて力を失った肉体は地面へ崩れ落ち、岩場には不気味な静寂が訪れた。

 

「……終わった、のか?」

 

 スバルは思わず呟いた。しかし、安堵するにはまだ早い。ペテルギウスには、肉体を失っても他者へ乗り移るという厄介極まりない能力がある。指先を全て始末したとはいえ、その脅威が完全に消え去った保証などなかった。

 

 そして、その懸念は最悪の形で現実となる。

 

『――アナタ、アナタアナタアナタ! なんと素晴らしい器なのデスか!』

 

「――ッ!?」

 

 突然、頭蓋の内側から声が響いた。聞き間違えるはずもない、あの耳障りな声。直後、スバルの身体が自分の意思とは無関係に動き始める。指先が痙攣し、喉の奥から勝手に笑い声が込み上げてきた。

 

『素晴らしい! 素晴らしいデス! 魔女の寵愛を受けしその肉体! これほどまでに相応しい器があろうとは!』

 

「……っ、ざけ……んな……!」

 

 スバルは必死に抵抗した。だが、身体の主導権は少しずつ奪われていく。以前にも経験した、あの忌まわしい感覚。しかし、今回は違う。あのときのように、ユリウスへ自分を殺してくれと懇願するつもりなど毛頭なかった。

 

 スバルは歯を食いしばり、かろうじて動く口を開いた。

 

「……ユリウス!」

 

「スバル!? どうした!」

 

「……ネクトを、切れ!」

 

 突然の要求だった。ネクトはユリウスの精霊術によって二人の感覚を繋いでいる術であり、今もなお、スバルの視界を騎士へ伝えている。だが、ユリウスはその言葉に疑問を挟まなかった。

 

「承知した。」

 

 短い返答とともに、二人を繋いでいた精霊術が解除される。感覚の共有が途切れたことを確認し、スバルは荒い息を吐いた。これから起こることにユリウスを巻き込むわけにはいかない。何より、死に戻りの秘密を他人へ知られる危険だけは避けなければならなかった。

 

『おやおや? 何を企んでいるのデス? 無駄デスよ! この肉体は、すでに私の――』

 

「……うるせえよ」

 

 スバルは胸元を押さえ、唇を歪めた。

 

「お前、サテラのことが好きなんだろ?」

 

『――ッ! 当然デス! 当然当然当然! 私ほど魔女を愛し、魔女に尽くしてきた者など――!』

 

「だったら、会わせてやるよ」

 

 スバルは目を閉じた。

 

 そして、決して口にしてはならない言葉を紡ごうとする。

 

「俺は――死に戻りを……」

 

 その瞬間、世界が凍りついた。

 

 音が消え、色彩が失われ、意識の奥底から濃密な闇が溢れ出す。胸の内側へ冷たい指が差し込まれるような感覚とともに、スバルの前に黒い影が現れた。

 

 ――愛してる。

 

 聞き慣れた、しかし決して慣れることのできない声。嫉妬の魔女の囁きが、スバルの意識を満たしていく。

 

『……あ、ああ……!』

 

 それまで身体を奪おうとしていたペテルギウスの声が、歓喜に震えた。

 

『魔女……! 魔女よ! ああ、ついに! ついに私の愛が届いたのデスね!』

 

 狂人の意識が、スバルの身体から離れるようにして闇へ向かう。ペテルギウスは歓喜に打ち震え、まるで長年待ち望んだ恋人を迎えるかのように、その存在へ手を伸ばした。

 

『どうか! どうかこの私を! あなたの忠実なる僕を、その御手で――!』

 

 だが、魔女は応えなかった。

 

 黒い影が伸びる。

 

 それはペテルギウスを抱き締めるためではなく、拒絶するためのものだった。

 

『……な、ぜ……?』

 

 歓喜に満ちていた声が、絶望へと変わる。

 

『私は……これほどまでに……あなたを……!』

 

 その訴えに返事はなかった。闇はただ、ペテルギウスの存在を容赦なく呑み込んでいく。

 

『――あああああああああッ!!』

 

 絶叫が響いた。

 

 狂人の意識は、愛する魔女からの拒絶という、何よりも残酷な結末を突きつけられながら消えていった。

 

 やがて闇が薄れ、止まっていた時間が再び動き出す。

 

「……っは、はぁ……!」

 

 スバルは膝をつき、荒い息を繰り返した。胸の奥には、心臓を直接握り潰されたかのような痛みが残っている。しかし、身体は自分の意思で動く。頭の中からも、あの耳障りな声は消えていた。

 

「スバル!」

 

 駆け寄ってきたユリウスが、スバルの肩を支える。

 

「何があった? 突然君の様子が変わったと思ったら……」

 

「……へへっ。ちょっとな、厄介な居候を追い出してやっただけだよ」

 

「……居候?」

 

「ああ。とびっきり性格の悪い奴をな」

 

 スバルは疲れ切った顔で笑った。ユリウスはなおも怪訝そうだったが、それ以上の追及はしなかった。

 

 代わりに、スバルが自分の足で立ち上がれることを確かめると、静かに頷いた。

 

「……無事で何よりだ」

 

「おう。ありがとな、ユリウス」

 

 スバルは差し出された手を握り返した。

 

 今度は、殺してくれと頼まずに済んだ。

 

 それだけで、十分だった。

 

     ◇◇◇

 

 ペテルギウスの肉体が動かなくなり、スバルにも異常がないことを確かめると、岩壁の上から鉄の牙の団員たちが次々と姿を現した。包囲にあたっていた彼らにとって、戦いの最後に起きた出来事は理解しがたいものだっただろう。それでも、目の前の大罪司教が倒れ、討伐隊の中心となった二人が無事であることは確かだった。

 

「ガッハッハ! やりおったな、兄ちゃんら!」

 

 リカードが豪快に笑いながら歩み寄ってくる。その背後では、傭兵たちが歓声を上げていた。

 

「大罪司教を倒したぞ!」

 

「討伐成功だ!」

 

 スバルはその声を聞きながら、ゆっくりと息を吐いた。終わった。今度こそ、ペテルギウスを倒した。指先も殲滅し、村人たちも避難させた。何度も失敗し、そのたびに命を落としてきた戦いに、ようやく終止符を打つことができたのだ。

 

「……やった」

 

 小さく呟いた言葉は、歓声に紛れて消えた。それでも、胸の奥から込み上げてくるものを抑えることはできなかった。

 

「やったぁぁぁぁぁ!!」

 

 スバルは両腕を突き上げた。リカードが笑い、鉄の牙の団員たちが応える。ユリウスも、そんなスバルの姿を見て静かに微笑んでいた。

 

「見事だったよ、スバル」

 

「いや、お前こそ。マジで助かった」

 

「君がいなければ、あの攻撃を見切ることはできなかった」

 

「お前がいなけりゃ、見えてても何もできなかったけどな」

 

 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。王都での決闘も、互いに抱いていた感情も、全てが消えたわけではない。だが、少なくとも今は、同じ敵を倒した仲間として互いを認め合うことができていた。

 

「……ありがとな、ユリウス」

 

「こちらこそ」

 

 差し出された手を、スバルは強く握り返した。

 

 そのときだった。

 

 ふと、頭の片隅に何かが引っかかった。大事なことを忘れている。そんな感覚が、胸の奥にじわじわと広がっていく。

 

 ペテルギウスを倒した。指先も殲滅した。村人たちも避難した。エミリアたちは、エリスとヴィルヘルムに守られて王都へ向かっている。だから、もう心配することはないはずだった。

 

 しかし、その瞬間、前の周回で見た光景が脳裏に蘇った。

 

 ペテルギウスを倒したあと、村へ戻って積荷を確認したときのこと。竜車に仕込まれていた大量の火魔石。ほんの少しの衝撃や魔力の刺激で、大惨事を引き起こしかねない危険な代物。

 

 スバルの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。

 

「……あ」

 

 間の抜けた声が漏れる。ユリウスが怪訝そうに首を傾げた。

 

「……スバル?」

 

「……火魔石」

 

「何?」

 

「……火魔石」

 

 スバルはゆっくりと顔を上げた。その表情は、先ほどまでの喜びが嘘のように青ざめている。

 

「……忘れてた」

 

「何をだい?」

 

「……竜車の積荷に、火魔石が仕込まれてるんだよ」

 

 一瞬の沈黙。

 

 そして。

 

「――忘れてたぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 スバルの絶叫が、岩場に響き渡った。

 

「ス、スバル!?」

 

「やっべえ! やっべえやっべえやっべえ! 完全に忘れてた! 何やってんだ俺ぇぇぇ!!」

 

 スバルは頭を抱えた。前の周回では、ペテルギウスを倒したあとに積荷を確認する時間があった。そこで大量の火魔石が仕込まれていることが発覚したのだ。だが、今回は違う。内通者を捕らえたあと、すぐに村人たちを避難させた。積荷を確認する時間などなかった。そして、そのことをエリスに伝えるのを、完全に忘れていた。

 

「……エリスぅぅぅ!!」

 

 スバルは叫んだ。

 

「頼むから! まだ何も起きてねえでくれぇぇぇ!!」

 

 ユリウスが駆け寄ってくる。

 

「落ち着け、スバル! 状況を説明してくれ!」

 

「落ち着いてられるかぁ! エミリアたちが乗ってる竜車に、爆発する魔石が大量に仕込まれてるかもしれねえんだぞ!」

 

 ユリウスの表情が一変した。スバルは慌てて立ち上がり、口笛を吹く。呼びかけに応じて駆け寄ってきたパトラッシュの背へ飛び乗ると、リカードへ向かって叫んだ。

 

「おっさん! 悪い! 俺、先に戻る!」

 

「お、おう!? なんや知らんけど、えらい慌てようやな!」

 

「説明はユリウスに聞いてくれ! とにかく急がねえと!」

 

 スバルは手綱を握り締めた。パトラッシュが鋭く鳴き、岩場を飛び出す。目指すのはアーラム村。そこには、まだ一人の行商人が待っているはずだった。

 

 オットー・スーウェン。

 

 今度こそ、あの男の竜車が必要になる。

 

「頼むぜ、オットー! まだ村にいてくれよぉぉぉ!!」

 

 太陽は、まだ西の空へ傾き始めたばかりだった。日暮れまではもう少し時間がある。しかし、エミリアたちの竜車はすでに村を離れ、王都へ向かって進んでいる。追いつけるかどうかはわからない。それでも、行くしかなかった。

 

 今度こそ、誰も失わないために。

 

 スバルはパトラッシュを走らせた。漆黒の地竜が土煙を上げ、街道へと駆け抜けていく。

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