聖域1
SIDE エリス
白鯨を討ち、魔女教を退け、王都での面倒な後始末まで済ませて帰ってきたというのに、どうやら俺たちに休息というものは許されていないらしい。もっとも、誰に許可を求めるつもりもないので、休みたくなれば勝手に休むのだが。そんなことを考えながらロズワール邸の玄関をくぐった俺は、見慣れたはずの屋敷に漂う、わずかな違和感に気づいた。廊下は綺麗に磨き上げられ、調度品には埃一つない。ラムが不在であることを考えれば、誰かが手を入れたのは明らかだった。
「……ほう。随分と綺麗にしてやがるじゃねえか」
「本当だね。誰かが掃除してくれたのかな?」
隣でエミリアが不思議そうに首を傾げる。スバルも辺りを見回しながら、感心したように口笛を吹いた。
「いやぁ、俺たちが留守にしてる間に小人さんでも働いてくれたんかね。だったら俺の部屋もついでに片付けてくれてると嬉しいんだけど」
「お前の部屋は小人でも匙を投げるだろ」
「おい、失礼な! 俺の部屋はそこまで汚くねえぞ!」
「自覚がねえのが一番厄介なのよ」
俺の隣でベティーが容赦なく追撃すると、スバルは大げさに胸を押さえた。いつもの騒がしいやり取りだが、王都での一件以来、こいつがこうして軽口を叩く姿を見ると少しばかり安心する。無論、本人には言わない。調子に乗るのが目に見えているからな。
そんなことを考えていると、廊下の奥から規則正しい足音が近づいてきた。やがて姿を現したのは、黒と白のメイド服に身を包んだ、背の高い金髪の女だった。鮮やかな緑の瞳に、口元から覗く特徴的な牙。見覚えのあるその顔を認め、俺は思わず口元を吊り上げる。
「……おう、フレデリカじゃねえか。随分と久しぶりだな」
こちらに気づいた女は一瞬だけ目を見開き、次いで優雅にスカートの裾を摘まんで一礼した。
「お帰りなさいませ、皆様。そして……お久しぶりでございます、エリス様」
「はっ、相変わらず堅苦しい挨拶だな。元気そうで何よりだ」
「エリス様こそ、お変わりないようで安心いたしました」
「当たり前だろ。俺がそう簡単に変わるかよ」
俺が笑うと、フレデリカも小さく微笑んだ。こいつは以前、この屋敷で働いていたメイドだ。仕事は早く、気配りもできる。口うるさいところさえ除けば、使用人としては文句のつけようがない女だった。ラムたちが来るより前から世話になっていたこともあり、俺にとってはそれなりに気安い相手でもある。
「それにしても、お前が戻ってきたとはな。どういう風の吹き回しだ?」
「ロズワール様より、屋敷の管理を任されております。皆様がお戻りになるまで、こちらを預かるようにと」
「なるほどな。道理で屋敷が綺麗なわけだ。お前がいるなら安心だな」
「……まあ。相変わらず、お上手でいらっしゃいますね」
「何言ってんだ。俺は事実しか言わねえぞ」
フレデリカは一瞬だけ言葉を詰まらせ、控えめに口元を隠した。頬がわずかに赤くなったようにも見えたが、俺としては別段気にすることでもない。それよりも、屋敷の管理を任せられる人間が戻ってきたというのはありがたい話だった。
「……エリーって、フレデリカと仲がいいんだね」
不意に、隣からエミリアの声がした。
「ああ。昔からの知り合いだからな。こいつには何かと世話になった」
「……そっか。昔から、なんだ」
「なんだよ、リア。妙な顔して」
「えっ? そ、そんなことないよ?」
エミリアは慌てて首を振った。別に責めたつもりもないのだが、どうにも落ち着かない様子だ。俺が不思議に思っていると、フレデリカが一歩前へ進み、丁寧に頭を下げた。
「エミリア様にも、改めてご挨拶を。フレデリカ・バウマンと申します。以前こちらで働いておりましたが、このたび再びお仕えすることとなりました」
「あ、うん! よろしくね、フレデリカ。私、エミリアっていうの」
「存じております。どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧な挨拶を交わす二人を眺めながら、俺は満足げに頷いた。どうやら問題なくやっていけそうだ。ところが、その隣でスバルが妙な顔をしていることに気づく。
「……お前さぁ」
「あ? なんだよ」
「いや、ほんっと、そういうとこだぞ?」
「何がだ」
「何がじゃねえんだよなぁ……」
スバルは額を押さえ、何とも言えない表情でため息をついた。何が言いたいのかさっぱりわからん。俺が眉をひそめると、今度はベティーまで呆れたように口を開いた。
「まったく、エリスは相変わらずなのよ」
「お前までなんだよ」
「別に。ベティーは何も言ってないかしら」
「いや、今言っただろ」
「言ったけど、説明する義務はないのよ」
「意味わかんねえな」
ベティーがぷいと顔を背けると、スバルは何やら納得したように頷いた。
「ベア子、お前も苦労してんだな……」
「お前に同情される筋合いはないかしら」
「そこは素直に受け取ってくれよ!」
「そもそも、お前が余計な口を挟むから話がややこしくなるのよ」
「ええ!? 俺のせい!?」
騒がしい二人を眺めながら、俺は肩をすくめた。どうやらこの二人、以前より少しばかり気安く話すようになったらしい。ベティーがスバルに遠慮なく文句を言うのは以前からだが、スバルの方もすっかり慣れた様子で言い返している。まあ、悪いことじゃないだろう。
その横でエミリアが、なぜかフレデリカと俺を交互に見ていた。視線が合うと慌てて微笑むものだから、余計に訳がわからない。女というのは、時々妙なところで難しい顔をするものらしい。
◇◇◇
ひとまず荷物を運び込み、眠ったままの少女を客室へ寝かせたあと、俺たちは応接室に集まることになった。少女の名はレム。少なくともスバルはそう呼んでいる。俺たちには覚えのない名前だったが、スバルの様子を見る限り、ただの勘違いで済ませられる話ではない。王都の医師にも診せたものの、目を覚ます兆しはなく、当面は屋敷で療養させることになっていた。
フレデリカは少女の容体について説明を受けると、静かに頷いた。
「承知いたしました。お世話はこちらで引き受けましょう」
「……悪いな、フレデリカ。頼む」
スバルが頭を下げると、フレデリカは柔らかく微笑んだ。
「どうかお気になさらず。屋敷でお預かりする以上、できる限りのことをいたします」
「……ありがとう」
スバルは短く答えた。いつもの騒がしさは影を潜めていたが、少なくとも王都で初めて少女の姿を見たときのような絶望は感じられない。こいつなりに、前へ進もうとしているのだろう。
「さて。そっちは任せるとして、問題はロズワールの野郎だな」
俺が話を切り替えると、フレデリカが姿勢を正した。
「ロズワール様は現在、聖域に滞在しておられます。ラムも同行しておりますので、屋敷には戻っておりません」
「やっぱりか。村の連中もそっちにいるんだろ?」
「はい。避難した方々の一部は、今も聖域に留まっておられます」
「だったら迎えに行くしかねえな」
俺が当然のように言うと、エミリアも頷いた。
「うん。みんなのことも心配だし、ロズワールにも聞きたいことがあるもの」
「そうだな。俺も色々聞きたいことがあるし」
スバルが同意する。もっとも、こいつの場合はロズワールに対して聞きたいことが山ほどありそうだ。白鯨討伐から魔女教との戦いまで、あの道化がほとんど姿を見せなかったことも気に食わないのだろう。
「フレデリカ。聖域までの道はわかるんだろ?」
「はい。ただし、少々特殊な場所でございますので、通常の道案内だけでは辿り着けません」
「ほう?」
「聖域は結界に守られた土地です。森の奥に位置しており、道を知らぬ者が容易に辿り着ける場所ではございません」
フレデリカはそう説明すると、懐から一つの輝石を取り出した。小さな結晶を加工したようなそれは、光を受けて淡く輝いている。
「こちらをお持ちください。聖域へ向かう際に必要となるものでございます」
「……綺麗な石だね」
エミリアが興味深そうに覗き込む。俺も手を伸ばして受け取り、指先で軽く転がした。特別な魔力を感じるような気もするが、少なくとも見た目だけでは大したものには見えない。
「こいつが道案内ってわけか?」
「そのようなものとお考えください。ただし、聖域の周辺ではくれぐれもお気をつけくださいませ」
「なんだ、随分と物騒な言い方だな」
「……聖域には、少々気性の荒い者もおりますので」
その言葉に、俺は思わず笑った。
「はっ、そいつは楽しみだ」
「……エリス様。どうか、無用な争いはお避けくださいませ」
「向こうが大人しくしてりゃ、俺だって何もしねえよ」
「そのお言葉を、素直に信じてよろしいのでしょうか……」
フレデリカが困ったように微笑む。どうにも昔からこいつは俺を問題児扱いする節がある。まったく失礼な話だ。俺ほど話のわかる男もそうはいないというのに。
「……いやぁ、フレデリカさん。残念ながら、そいつの言葉はあんまり信用しない方がいいっすよ」
横からスバルが余計な口を挟んできた。
「おい、スバル。お前、何か言ったか?」
「いーえ、何も! ただ、エリスが喧嘩を売られたら十倍にして返すタイプだって説明しただけです!」
「十倍で済ませてやるなら十分優しいだろ」
「ほらな!?」
「……まったく、困ったものなのよ」
ベティーが呆れたように呟き、フレデリカはとうとう小さく笑い声を漏らした。そんな彼女の様子を見て、エミリアも微笑みかけたが、俺とフレデリカの視線が合った瞬間、なぜかまた少しだけ頬を膨らませた。
……本当に、どうしたんだこいつは。
◇◇◇
その日の夕食後、俺は屋敷の廊下でスバルと顔を合わせた。どうやらレムの様子を見てきた帰りらしく、手には水差しを持っている。
「おう。あの娘の具合はどうだ?」
「……変わんねえよ。相変わらず、ぐっすり眠ったままだ」
「そうか」
俺は短く答えた。慰めの言葉を並べたところで、状況が変わるわけではない。何より、こいつ自身がそれを望んでいるとも思えなかった。
「……なあ、エリス」
「あ?」
「お前ってさ、どうしてそんなに強いんだ?」
唐突な質問だった。俺は一瞬だけ眉を上げたあと、思わず鼻で笑った。
「はっ、決まってんだろ。俺だからだ」
「……いや、そういう答えが返ってくるとは思ってたけどさ!」
「だったら聞くなよ」
「もうちょいこう、努力とか才能とか、そういう話を期待したんだよ!」
「努力も才能もあるに決まってんだろ。だが、それをどう使うかは俺次第だ。お前も同じじゃねえのか?」
スバルは一瞬だけ言葉を失った。どうやら、予想していた答えとは少し違ったらしい。俺としては当たり前のことを言ったつもりだったのだが。
「……俺にも、できると思うか?」
「何がだ」
「……強くなること」
俺はスバルの顔を見た。冗談を言っている様子ではない。以前のこいつなら、もっと大げさな言葉で誤魔化していただろう。だが今は、自分に足りないものを理解したうえで、それでも前へ進もうとしているようだった。
「知らねえよ」
「……おい」
「お前がどこまで強くなれるかなんざ、俺にわかるわけねえだろ。ただ――」
俺はそこで言葉を切り、スバルの額を指先で軽く小突いた。
「やる前から無理だと決めつける奴に、できることなんざ何もねえよ」
「……っ」
「強くなりてえなら、勝手に強くなれ。必要なら俺が付き合ってやる。それだけだ」
スバルはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……そっか。ありがとな、エリス」
「礼を言うには早えだろ。俺に鍛えてほしいってんなら、相当きついぞ?」
「……え、マジ?」
「当たり前だ。俺が直々に面倒見てやるんだ。半端な覚悟で来るんじゃねえぞ」
「いや、まだ頼んでねえからな!?」
「はっ、そうだったか?」
俺が笑うと、スバルもつられるように笑った。どうやら、少しはいつもの調子を取り戻したらしい。
そのとき、廊下の奥から小さな足音が聞こえてきた。
「……エリス。こんなところにいたのね」
現れたのはベティーだった。眠そうな目を擦りながら、こちらへ歩いてくる。
「なんだ、ベティー。もう寝る時間だろ」
「エリスが戻ってこないから、探しに来たのよ」
「ったく、仕方ねえな」
俺がそう言って頭を撫でると、ベティーは満足そうに目を細めた。その様子を見ていたスバルが、ふと何かを思いついたように口を開く。
「そういや、ベア子って精霊なんだよな」
「……今さら何を言ってるのよ」
「いや、精霊ってどうやって契約するんだろうなって、ちょっと思ってさ」
「……はぁ?」
ベティーは露骨に眉をひそめた。
「お前、精霊との契約を何だと思ってるのよ。そこら辺で拾った石ころを持ち帰るのとはわけが違うかしら」
「いやいや、そこまで軽く考えてねえよ! 単純に興味があるってだけだって!」
「ふん。だったら、まずは精霊というものが何なのか勉強することね。話はそれからなのよ」
「……おっ、じゃあ教えてくれんの?」
「誰が教えると言ったかしら!」
「今の流れ、完全に先生の台詞だったじゃん!」
「勝手に先生にするんじゃないのよ!」
騒がしい二人のやり取りを眺めながら、俺は思わず笑った。どうやらスバルは、魔法だけでなく精霊にも興味を持ち始めたらしい。まあ、悪いことではないだろう。何より、ベティーがこうして他人と気兼ねなく言い合っている姿を見るのは、俺としても嫌いじゃない。
「はっ、いいじゃねえかベティー。暇なときにでも教えてやれよ」
「エリスまで何を言い出すのよ!」
「お前ならそこらの教師よりよっぽど詳しいだろ」
「……そ、それは当然なのよ」
「なら決まりだな」
「だから、勝手に決めるんじゃないかしら!」
ベティーが頬を膨らませる。その隣でスバルが嬉しそうに笑っているのを見て、俺は肩をすくめた。まったく、騒がしい連中だ。
◇◇◇
翌朝、屋敷の前には聖域へ向かうための竜車が用意されていた。フレデリカが手配してくれたもので、道案内に必要な輝石もエミリアへ渡されている。荷物の確認を終えた俺は、玄関先で見送りに立つフレデリカへ声をかけた。
「世話になったな、フレデリカ。屋敷のことは任せたぞ」
「はい。どうか、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「おう。何かあったら遠慮なく知らせろ。俺が戻るまで、好き勝手させるんじゃねえぞ」
「……ふふ。承知いたしました、エリス様」
フレデリカは柔らかく微笑んだ。俺が何気なくその肩を軽く叩くと、彼女はほんの一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに嬉しそうに目を細めた。
「……エリー」
背後から声がした。振り返ると、エミリアがこちらを見ていた。
「なんだ、リア?」
「……ううん。なんでもない」
「そうか? なら乗れよ。出発するぞ」
「……うん」
エミリアは小さく頷いたが、なぜか少しだけ不満そうだった。隣ではスバルが何とも言えない顔をしており、ベティーは深々とため息をついている。
「……なあ、ベア子」
「言わなくてもわかってるかしら」
「だよなぁ……」
「おい、お前ら。また何か企んでんのか?」
「何も企んでねえよ! むしろお前がもうちょい周りを見ろって話だ!」
「意味わかんねえな」
俺が首を傾げると、スバルはとうとう両手で顔を覆った。まったく、朝っぱらから騒がしい奴だ。
やがて全員が竜車へ乗り込み、御者が手綱を握る。車輪がゆっくりと回り始め、見慣れた屋敷が少しずつ遠ざかっていった。窓の外ではフレデリカが丁寧に頭を下げ、俺たちを見送っている。
ロズワールが滞在する聖域。ラムと村人たちが待つその場所には、まだ俺たちの知らない事情があるのだろう。フレデリカの言い方からしても、単なる避難先というわけではなさそうだ。
だが、まあいい。
どんな事情があろうと、実際に見てみなければ始まらない。
「さて、聖域とやらに行ってみるか」
俺がそう呟くと、隣でベティーが小さく頷いた。向かいに座るエミリアは少し緊張した様子で窓の外を見つめ、スバルはそんな彼女を気遣うように声をかけている。
俺は背もたれへ深く身体を預け、口元に笑みを浮かべた。
何が待っていようと、退屈だけはしなさそうだ。