SIDE エリス
森の奥へと進むにつれ、竜車の揺れはますます酷くなっていた。舗装された街道などとうの昔に途切れ、車輪が踏みしめるのは土と小石ばかり。頭上では鬱蒼と茂った木々が陽光を遮り、昼間だというのに周囲は薄暗い。おまけに、どこからともなく漂ってくる湿った土と苔の匂いが鼻につく。王都から戻ったばかりだというのに、今度はこんな辺鄙な場所まで足を運ばなければならないのだから、まったく忙しい話だった。もっとも、今回の目的は観光ではない。魔女教との一件を終えたあとも、ロズワールは領民たちを連れたまま聖域と呼ばれる場所に留まっている。ラムもそこにいるらしい。何を考えているのかは知らないが、そろそろ本人の口から事情を聞かせてもらう必要があるだろう。
「……ったく。ロズワールの野郎、帰ってきたら一発くらい殴ってやろうか」
「ちょ、ちょっとエリー! いきなりそんなことしちゃ駄目よ?」
向かいに座っていたリアが、慌てたように顔を上げた。俺は窓枠に預けていた肘を動かさず、肩をすくめる。
「冗談だよ、冗談。半分くらいはな」
「半分も本気なの!?」
「そりゃそうだろ。あいつがいりゃ、今回の騒ぎだってもう少し楽に片づいたはずなんだからな」
「……それは、そうかもしれないけど」
リアは困ったように眉を下げた。俺が言いたいことは理解しているのだろう。それでも彼女は、誰かを責めることに慣れていない。昔からそういうところがある。もっとも、だからこそ俺が代わりに文句を言ってやればいいだけの話なのだが。
「エリス、あんまりリアを困らせるんじゃないのよ」
隣から呆れた声が飛んできた。見れば、ベティーが膝の上に本を広げたまま、こちらを睨んでいる。俺はその頭に手を置き、軽く撫でた。
「別に困らせてねえだろ。なあ、リア?」
「えっ? う、うん。大丈夫よ、ベアトリス」
「……リアが甘いから、エリスがますます調子に乗るのかしら」
「はっ。俺はいつだってこんなもんだろ」
「それが問題だと言っているのよ」
ベティーが大きく溜息をつく。そのやり取りを聞いていたスバルが、座席の端から顔を覗かせた。
「お前ら、相変わらずだなぁ。こっちはさっきから揺れっぱなしで尻が痛えってのに」
「軟弱だな、スバル。こんなもんで音を上げてどうすんだ」
「お前と一緒にすんな! 俺は一般人代表なんだよ!」
「一般人代表って、誰が決めたんだよ」
「俺が決めた!」
「なら勝手に代表してろ」
「扱いが雑すぎる!」
スバルの抗議に、リアが小さく笑った。俺はその様子を横目に見ながら、再び窓の外へ視線を向けた。
そのとき、御者台の方から声が飛んできた。
「皆さん! そろそろフレデリカさんが教えてくれた場所に近いと思いますよ!」
御者を務めるオットーの声だった。白鯨討伐から魔女教との一件まで、何かと騒動に巻き込まれている商人だが、こうして竜車を操らせれば実に手慣れたものだった。もっとも、本人としては一刻も早く平穏な商売へ戻りたいところだろう。
「おう、オットー! 道は合ってんだろうな?」
「合っているはずです! ……たぶん!」
「最後の一言が余計だな」
「仕方ないでしょう! 僕だって初めて来る場所なんですから!」
「頼りねえ御者だな」
「だったら自分で操縦してくださいよ!」
オットーの悲鳴じみた抗議に、スバルが吹き出した。
「ははっ! エリス、あんまりオットーをいじめんなって!」
「いじめてねえよ。事実を言っただけだ」
「それがいじめなんですよ!」
まったく、騒がしい連中だ。俺は小さく笑い、窓の外へ目を向けた。
森は静かだった。鳥の鳴き声さえ遠く、風が枝葉を揺らす音だけが耳に届く。しかし、その静けさにはどこか不自然なものがある。目に見える何かがあるわけではない。それでも、森の奥に近づくにつれて、周囲を流れる魔力の気配が微妙に変化しているように感じられた。
「……ベティー」
「わかっているのよ」
俺が声をかけるより早く、ベティーが答えた。彼女も同じものを感じ取っているらしい。
「妙な場所かしら。自然に流れている魔力とは、少し違うのよ」
「結界か?」
「可能性はあるのよ。けれど、まだ何とも言えないかしら」
「ふうん」
俺は短く返事をした。魔法に関しては、俺よりベティーの方が遥かに詳しい。妙な仕掛けがあるなら、そのうち教えてくれるだろう。そう考えたところで、向かいに座るリアが小さく声を漏らした。
「……あれ?」
「あ?」
「これ……フレデリカから預かった輝石が……」
リアが胸元から取り出したのは、屋敷を出る前にフレデリカから渡された小さな輝石だった。何かあったときのために持っておくようにと言われた代物だが、今はその内部から淡い光が漏れている。俺が眉を寄せた次の瞬間、光が急激に強まった。
「リア?」
「……っ!」
リアの身体が傾いた。俺は咄嗟に腕を伸ばし、座席から崩れ落ちかけた彼女を抱き留める。閉じられた瞼は開かず、呼びかけにも反応がない。だが、呼吸は安定しており、顔色も極端に悪いわけではなかった。
「おい、リア。聞こえるか?」
「エミリア!? どうしたんだよ!」
スバルが慌てて立ち上がる。俺はリアを抱えたまま、光を失いつつある輝石を睨みつけた。
「オットー! 竜車を止めろ!」
「えっ!? は、はい!」
急停止した竜車が大きく揺れる。俺はリアを抱え直し、ベティーへ視線を向けた。
「ベティー、どうだ?」
「……命に別状はないのよ。けれど、意識が外から引っ張られたような……妙な感覚があるかしら」
「誰かが仕掛けたってことか?」
「そこまではわからないのよ」
「……そうか」
俺は舌打ちした。誰が何のために仕掛けたものかは知らないが、俺の目の前でリアを倒したという事実だけで、十分に気に食わない。
竜車を降りると、森の空気は一段と冷たく感じられた。スバルが慌てて駆け寄ってきて、俺の腕の中にいるリアを覗き込む。
「エミリアは大丈夫なのか!?」
「今のところはな。呼吸も脈も問題ねえ。少し休ませりゃ目を覚ますかもしれねえが……」
「……けど?」
「原因がわからねえ以上、迂闊に動かすのも面倒だ」
スバルは唇を噛み、周囲を見回した。フレデリカの話では、この森の先に聖域があるはずだ。だが、目印らしいものは見当たらない。木々が密集しているせいで、少し先の様子すら満足に見通せなかった。
「……俺、ちょっと先を見てくる」
「あ?」
「このままここにいても仕方ないだろ。近くに人がいるかもしれねえし、何か手がかりがあるかもしれない」
「一人でか?」
「パトラッシュもいるし、そんな遠くまでは行かねえよ。エミリアのそばにはお前がいてくれた方が安心だしな」
俺はスバルを見た。普段なら真っ先に無茶を止めるところだが、今回ばかりは言い分にも一理ある。リアを抱えたまま森を歩き回るより、身軽なスバルに周囲を確かめさせる方が効率はいい。
「……わかった。ただし、妙なもんを見つけても勝手に手を出すなよ」
「わかってるって」
「それと、何かあったらすぐ戻れ。無理に解決しようとすんな」
「はいはい。過保護なお兄ちゃんみたいだな、お前」
「誰がお兄ちゃんだ、馬鹿野郎」
スバルは小さく笑うと、パトラッシュに声をかけて森の奥へ向かった。俺はその背中を見送り、近くの木陰に腰を下ろす。リアを膝の上へ横たえ、額にかかった銀髪を指先で払った。ベティーはその隣に座り、しばらく何かを考え込むように目を閉じていた。
オットーは竜車の様子を確かめながら、こちらへ心配そうな視線を向けてくる。
「……エミリア様、本当に大丈夫なんでしょうか」
「少なくとも、今すぐどうこうなる状態じゃねえよ」
「そうですか……。なら、よかったです」
「お前も少し休んどけ。ここまで御者をして疲れただろ」
「……えっ?」
オットーが目を丸くした。
「なんだよ」
「い、いえ。エリスさんから労いの言葉が出るとは思っていなかったもので……」
「お前、俺を何だと思ってんだ?」
「……正直に言っても怒りません?」
「内容によるな」
「じゃあ言いません!」
俺は思わず笑った。こいつも随分と遠慮がなくなったものだ。
それからしばらく、森には静かな時間が流れた。リアは相変わらず目を覚まさない。俺は時折呼吸を確かめながら、スバルが向かった方角へ視線を向けていた。あいつのことだ。何か見つければ余計なことまで首を突っ込みかねない。とはいえ、いつまでも俺が後ろから尻拭いしてやるわけにもいかないだろう。
やがて、遠くから枝を踏み折る音が聞こえた。
「……戻ってきたか」
俺が顔を上げると、木々の向こうからスバルが姿を現した。見たところ怪我はない。だが、出発したときとはどこか様子が違っていた。足取りはしっかりしているものの、何か考え事をしているらしく、こちらに気づくまで少し時間がかかった。
「おい、スバル!」
「……ん? ああ、エリス!」
「随分と遅かったじゃねえか。何してやがった?」
「あー……いや、ちょっとな。変な場所を見つけちまってさ」
「変な場所?」
「古い建物みたいなところで……なんつーか、妙な夢でも見てたみたいな気分なんだよな」
スバルは曖昧に笑った。だが、その表情には隠しきれない困惑がある。俺は目を細めた。
「……お前、何かあったな?」
「いや、まあ……あったっちゃあったんだけど……」
「歯切れが悪いな」
「俺だって、どう説明したらいいかわかんねえんだよ」
スバルは困ったように頭を掻いた。俺はしばらくその顔を眺めていたが、無理に聞き出すのはやめておいた。少なくとも、今すぐ命に関わるような異常は見受けられない。本人が整理できていないものを問い詰めたところで、まともな答えが返ってくるとも思えなかった。
「……まあいい。後で話せるようになったら話せ」
「……おう。悪いな」
「それより、リアがまだ目を覚まさねえ。もう少し先へ進むぞ」
スバルが頷いた、そのときだった。
――がさり。
茂みの向こうで何かが動いた。
俺は反射的に顔を上げた。気配を隠すつもりなど毛頭ないらしい。むしろ、こちらに存在を知らせるような荒々しい足音が近づいてくる。スバルも気づいたのか、表情を引き締めた。
「……おい、誰かいるぞ」
「わかってる」
俺はリアを抱えたまま立ち上がり、茂みへ視線を向けた。
「おい。隠れてねえで出てこいよ」
返事の代わりに、低い笑い声が聞こえた。
「へっ……気づいてやがったか」
姿を現したのは、金髪の少年だった。逆立った髪に鋭い目つき、口元から覗く牙。小柄な身体には年齢に似合わない筋肉がつき、全身から荒々しい気配を漂わせている。人間とは少し違う。獣人の血でも引いているのだろう。だが、それ以上に目を引いたのは、こちらを睨みつけるその瞳だった。
自分の強さを疑っていない奴の目だ。
「……なんだよ、テメェら。こんなところで何してやがる?」
「見りゃわかんだろ。道に迷ってんだよ」
「……あァ?」
少年の眉が跳ね上がる。俺は肩をすくめた。
「で、お前は何だ? 森の番人か何かか?」
「へっ、まあ似たようなもんだな。ここらじゃ俺様が一番強ェ。勝手に入り込んできた奴を見逃すわけにゃいかねェんだよ」
「ほう?」
俺は思わず笑った。
「そいつぁ面白え」
「……何がおかしいんだよ」
「いやなに、随分と威勢のいいガキがいるもんだと思ってな」
「誰がガキだ、コラァ!」
少年が牙を剥いた。スバルが慌てて割って入る。
「お、おいおい! ちょっと待てって! 俺たちは別に怪しい奴じゃなくて――」
「うるせェ!」
少年の足が地面を蹴った。
速い。
小柄な身体が弾丸のように飛び出し、スバルへ向かって一直線に迫る。反応の遅れたスバルが目を見開いた瞬間、俺は片手を伸ばして少年の手首を掴んだ。
「――おっと」
「……なッ!?」
少年の身体が止まった。勢いを殺しきれず、足元の土が深く抉れる。だが、俺の腕はびくともしない。少年が力任せに振りほどこうとしたところで、俺は手首を軽く捻り、その重心を崩した。
「おいおい、挨拶もなしに飛びかかってくるとは、随分と躾のなってねえガキだな」
「……ッ、テメェ!」
「お前も大概口が悪いな。人のこと言えねえけどよ」
俺は笑いながら腕を離した。少年は数歩後退し、すぐに体勢を立て直す。その顔には怒りが浮かんでいたが、同時に驚きも隠しきれていなかった。
「……テメェ、何モンだ?」
「エリス・フォン・フェンウィック。王国の近衛騎士だ」
「近衛騎士ィ……?」
「で、お前は?」
「……ガーフィールだ。ガーフィール・ティンゼル。覚えとけよ」
「ガーフィール、ねえ」
俺は口元を吊り上げた。
「悪くねえ名前じゃねえか」
「……舐めてんのか?」
「褒めてんだよ。素直に受け取れ」
ガーフィールの額に青筋が浮かぶ。どうやら相当に短気な性格らしい。もっとも、その闘気には見かけ倒しではないものがある。先ほどの踏み込みも、単なる力任せではなかった。少なくとも、そこらの騎士よりは遥かに速い。
「……エリス」
隣からスバルが小声で呼びかけてきた。
「あ?」
「頼むから、これ以上挑発すんなよ。こっちはエミリアを休ませる場所を探してんだからさ」
「わかってるよ」
「絶対わかってねえ顔してる!」
「うるせえな」
俺は腕の中のリアへ視線を落とした。確かに、いつまでも立ち話をしている場合ではない。だが、目の前の少年はどうやら簡単に通してくれるつもりもないらしい。
「……スバル」
「ん?」
「リアを頼む」
「えっ?」
「ちょっとばかし、このガキの相手をしてやる」
俺はリアをスバルへ預けた。慌てて彼女を抱き留めたスバルが、目を丸くする。
「お、おい! お前、まさか本気でやるつもりか!?」
「安心しろ。すぐ終わる」
「そういう問題じゃねえんだって!」
俺はスバルの抗議を聞き流し、ガーフィールへ向き直った。少年は待っていたとばかりに牙を剥き、拳を鳴らしている。
「へっ……ようやくやる気になったかよ」
「まあな。せっかくだし、少し遊んでやる」
「……後悔すんじゃねェぞ!」
ガーフィールが地面を蹴った。
先ほどよりも速い踏み込みだった。右から鋭い爪が迫る。俺は腰の鞭を抜き、軽く手首を返した。乾いた破裂音が森に響き、鞭の先端がガーフィールの手首を打つ。軌道を逸らされた爪が空を切った。
「……ッ!」
「ほう。いい踏み込みだ」
「余裕ぶっこいてんじゃねェ!」
続けざまに左の拳が飛んでくる。俺は肩をわずかに傾け、それをかわした。拳が鼻先を通り過ぎる。その隙に鞭の柄で脇腹を軽く打つと、ガーフィールの顔が苦痛に歪んだ。だが、少年は退かなかった。低い姿勢から足払いを仕掛け、すぐさま身体を捻って蹴りを放つ。攻撃の切り替えは速い。しかも、一撃ごとの威力が重い。まともに食らえば、並の人間なら骨の一本や二本では済まないだろう。
――だが、届かない。
「……ッ、クソが!」
「おいおい、そんなに怒んなよ。まだ始まったばっかだろ?」
俺は笑いながら鞭を振るった。ガーフィールの腕へ絡みついた鞭が、次の攻撃を封じる。少年は強引に引き千切ろうとしたが、その力を利用して身体を横へ流してやると、あっさりと体勢を崩した。
「ぐっ……!」
「力はある。速さも悪くねえ。けどな、攻撃が素直すぎんだよ」
「……ッ、うるせェ!」
ガーフィールが地面へ掌を叩きつけた。
次の瞬間、俺の足元の土が不自然に盛り上がる。なるほど、地属性の魔法も使えるらしい。俺は軽く眉を上げると、鞭の先端を地面へ叩きつけた。隆起しかけた土塊が砕け、砂埃が舞い上がる。
「へえ。そいつは面白えな」
「……ッ、まだだ!」
ガーフィールは近くの木へ跳び上がり、幹を蹴って斜め上から飛び込んできた。真正面からでは届かないと判断したらしい。先ほどよりも軌道が複雑になっている。いい判断だ。少なくとも、同じ攻撃を繰り返すだけの馬鹿ではない。
「お、ちったぁ考えたじゃねえか」
俺は鞭を振るった。
空中でガーフィールの腕が絡め取られる。勢いを利用して引き寄せると、少年の身体は大きく弧を描き、そのまま地面へ叩きつけられた。鈍い音が響き、土埃が舞い上がる。
「がっ……!」
「はい、終わり」
俺は鞭の先端をガーフィールの喉元へ向けた。少年は荒い息を吐きながら、悔しげに歯を食いしばっている。起き上がろうとする気配はあったが、無理に動けばどうなるかくらいは理解しているらしい。
「……テメェ……!」
「なんだよ。まだやんのか?」
「……ふざけんじゃ、ねェ……!」
「はっ。元気だけは一人前だな」
俺は鞭を引き戻し、肩に引っかけた。
そこで、ガーフィールの視線が俺の足元へ落ちた。
「……あ?」
少年の顔から血の気が引いたように見えた。いや、正確には、怒りの中に別の感情が混じったのだろう。俺が何をしたのか、ようやく理解したらしい。
俺は最初に立った場所から、一歩も動いていなかった。
「……テメェ……最初っから……!」
「ん?」
「一歩も、動いてねェじゃねェか……!」
「そりゃそうだろ。動く必要がなかったんだからな」
俺は当然のように答えた。ガーフィールは拳を握り締め、歯を食いしばる。その目には、まだ闘志が残っていた。いい目だ。負けたくらいで簡単に折れるような奴ではないらしい。
「……覚えとけよ、エリス。いつか絶対、その余裕ぶっこいた面をぶん殴ってやる……!」
「おう。楽しみにしとくぜ」
俺は口元を吊り上げた。
「ただし、まだまだケツの青いガキにゃ、何したって負けねぇよ」
ガーフィールが悔しげに牙を剥く。だが、今度はすぐに飛びかかってこなかった。俺はその様子を見て、少しだけ感心した。少なくとも、勝ち目のない攻撃を繰り返すほど愚かではないらしい。
「……エリス」
振り返ると、スバルが呆然とこちらを見つめていた。腕の中には、まだ眠ったままのリアがいる。
「なんだよ」
「……いや、すげえなって」
「あ?」
「お前、ほんとに一歩も動いてなかったよな。しかも、あの鞭一本で……」
スバルの視線が、俺の手元へ向けられる。そこには、先ほどまでガーフィールを翻弄していた鞭があった。
「……鞭って、あんな使い方もできんのか」
「当たり前だろ。引っぱたくだけが鞭の使い道じゃねえよ」
「……へえ」
スバルは感心したように呟いた。俺は鞭を腰へ戻し、肩をすくめる。
「絡め取る、引き寄せる、間合いを保つ、相手の動きを制限する。使い方次第じゃ、いくらでも化ける武器だ。もっとも、扱いを間違えりゃ自分が痛い目見るけどな」
「……なるほどな」
スバルはもう一度、俺の腰元へ視線を落とした。何を考えているのかは知らないが、妙に真剣な顔をしている。
「……俺にも、使えるかな」
「あ?」
「いや、なんでもねえ!」
「なんだよ。使いてえなら教えてやるぞ?」
「……マジで?」
「俺が嘘ついてどうすんだよ。ただし、楽な武器じゃねえからな」
スバルは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「……そっか。ありがとな、エリス」
「礼を言うのは使えるようになってからにしろ」
そう言って笑うと、スバルも釣られるように笑った。
そのとき、隣にいたベティーが俺の袖を引いた。
「……エリス」
「あ?」
「あの子、なかなか面白い力を持っているのよ」
ベティーの視線は、地面に座り込んだままのガーフィールへ向けられていた。
「面白い力?」
「そうなのよ。さっき地面に触れていたとき、妙な魔力の巡り方をしていたかしら。単なる地属性の魔法とは少し違うのよ」
「……へえ?」
俺はガーフィールを見た。なるほど、まだ何か隠しているらしい。あれだけの身体能力に加えて、地面を利用する力まで持っているとなれば、なかなか将来が楽しみな奴だ。
「面白えじゃねえか」
「……まったく。エリスは本当に、厄介なものを気に入るのが得意なのよ」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
「呆れているのかしら」
ベティーが溜息をつく。俺は笑いながら、ガーフィールへ向き直った。
「おい、ガーフ」
「……誰がガーフだ、コラァ!」
「呼びやすいからいいだろ。それより、お前に聞きてえことがある」
「……あァ?」
「ロズワールって奴を探してんだ。アーラム村の連中も一緒にいるはずなんだが、知らねえか?」
その名前を聞いた途端、ガーフィールの表情が変わった。
「……ロズワール?」
「ああ。知ってんのか?」
「……チッ。あの野郎の客かよ」
ガーフィールは乱暴に頭を掻くと、ようやく立ち上がった。服についた土を払い、俺たちを睨みつける。
「だったら最初っからそう言いやがれ」
「言う前に飛びかかってきたのはお前だろ」
「うるせェな!」
スバルが呆れたように肩を落とした。
「……なんつーか、お前ら似た者同士だよな」
「あ? どこがだよ」
「全部だよ!」
俺は鼻を鳴らした。こんなガキと一緒にされるのは心外だが、まあ悪い気はしない。少なくとも、退屈な奴ではなさそうだ。
「……ついて来いよ」
ガーフィールが背を向けた。
「村まで案内してやる。そこのハーフエルフも、休ませる場所があった方がいいんだろ」
「おう。助かるぜ」
「……勘違いすんじゃねェぞ。テメェに負けたから言うこと聞いてるわけじゃねェからな!」
「わかってるよ。そう怒んなって」
「怒ってねェ!」
怒鳴り声が森に響いた。俺は笑いながらスバルからリアを受け取り、抱え直した。彼女はまだ目を覚まさないが、呼吸は安定している。とにかく、まずは落ち着ける場所へ運ぶのが先決だろう。
先導するガーフィールの背中を眺めながら、俺は歩き出した。
あの少年は強い。少なくとも、同年代の連中と比べれば頭一つどころか、二つも三つも抜けているだろう。だが、まだ粗削りだ。力の使い方も、戦い方も、自分の強さを過信しているところも含めて、伸びしろはいくらでもある。
いつか、もう少しまともに戦えるようになったら相手をしてやるのも悪くない。
「……おい、エリス!」
前を歩くガーフィールが振り返った。
「あ?」
「さっきの言葉、忘れんじゃねェぞ!」
「どの言葉だよ」
「俺様に負けねェとかほざいたやつだ!」
「ああ、あれか」
俺は口元を吊り上げた。
「忘れるわけねえだろ。いつでもかかってこいよ、ガーフ」
「だから勝手に呼び方変えんじゃねェ!」
「はっ、細けえこと気にすんなよ」
ガーフィールが牙を剥き、スバルが呆れたように笑う。ベティーは小さく溜息をつき、俺の隣を歩きながら本を抱え直した。
こうして、俺たちは聖域へ向かった。
ロズワールの野郎が何を考えているのか。リアを倒した仕掛けは何なのか。そして、スバルが森の奥で何を見たのか。
聞かなければならないことは山ほどある。
だが、まずはリアを休ませることだ。
俺は腕の中の少女へ視線を落とし、銀色の髪をそっと撫でた。
「……もう少しの辛抱だ、リア」
返事はなかった。それでも俺は気にせず、前を向いた。
森の向こうでは、ガーフィールが相変わらず何かを怒鳴っている。
まったく、騒がしいガキだ。
俺は小さく笑い、その背中を追った。