SIDE エリス
聖域という大層な名前を聞いて、俺が勝手に想像していたのは、もう少しまともな場所だった。立派な建物があるとか、特別な何かが祀られているとか、少なくとも人が暮らす場所として相応の体裁くらいは整っているものだと思っていたのだが、実際に目の前へ広がっていたのは、森を切り開いて作られた小さな集落だった。古びた家々がまばらに並び、その間を細い道が縫うように走っている。王都の賑わいはもちろん、アーラム村と比べても随分と寂しい景色だ。建物の多くは手入れが行き届いているとは言い難く、長い年月をかけて森に呑み込まれつつあるようにも見えた。もっとも、だからといって人が住んでいないわけではないらしい。道端には洗濯物が干され、遠くからは誰かの話し声も聞こえてくる。俺たちの姿に気づいた住人が、物珍しそうにこちらを覗き込んでいた。
「……ここが聖域、ねえ」
俺は腕の中で眠るリアを抱え直し、周囲を見回した。ガーフィールに案内されて森を抜けたものの、肝心のロズワールの姿はまだ見えない。隣を歩くベティーも、何やら落ち着かない様子で辺りを見ていた。
「どうした、ベティー」
「……別に、何でもないのよ」
「そうか?」
「そうなのよ」
そう言って口を閉ざすベティーだったが、その表情はどこか硬い。俺は少しだけ眉を寄せたものの、無理に問い詰めることはしなかった。こいつが話したくないことを無理に聞き出そうとしたところで、素直に答えるような性格ではない。必要になれば自分から話すだろう。
「……ったく、なんつー場所だよ」
後ろからスバルの声が聞こえた。振り返ると、奴は集落の様子を眺めながら、何とも言えない顔をしている。
「思ってたよりずっと田舎だな。いや、田舎っていうか……なんか、時間が止まってるみてえな」
「そりゃそうだろ。こんな森の奥にあんだからな」
「いや、まあそうなんだけどさ」
スバルは頭を掻いた。その隣では、竜車を安全な場所へ停めてきたオットーが、周囲の建物を興味深そうに眺めている。
「……それにしても、ここは随分と変わった場所ですね。商人として各地を回ってきましたが、こういう集落はあまり見たことがありません」
「お前でも知らねえ場所があんのか」
「そりゃありますよ! 僕を何だと思ってるんですか!」
「便利な道案内」
「扱いが雑すぎません!?」
オットーの抗議を聞き流していると、前を歩いていたガーフィールが振り返った。
「おい、テメェら。いつまでくっちゃべってやがんだ。さっさと来いよ」
「おう、わかってるって」
「……チッ」
ガーフィールは不機嫌そうに舌打ちした。先ほどの一件がよほど気に食わなかったのだろう。時折こちらへ向けられる視線には、隠しきれない敵愾心が混じっている。もっとも、その目つき自体は嫌いではなかった。負けた相手を怖がるでもなく、次こそはと牙を研いでいる。なかなか見込みのあるガキだ。
「……おい、近衛騎士サマ」
「あ?」
「さっきの勝負、あれで終わったと思うんじゃねェぞ」
「お前、まだ言ってんのか」
「うるせェ! 俺様はまだ本気出してねェんだよ!」
「へえ。そいつぁ楽しみだな」
「……ッ、テメェ!」
「落ち着けよ。そんなに怒ってばっかじゃ背が伸びねえぞ」
「関係ねェだろうが!」
ガーフィールが牙を剥く。その様子を見ていたスバルが、呆れたように肩を落とした。
「……お前ら、ほんとに似た者同士だよな」
「あ? どこがだよ」
「全部だよ、全部」
「おい、スバル。俺をこんなガキと一緒にすんな」
「誰がガキだ、コラァ!」
「ほらな?」
スバルの言葉に、オットーが思わず吹き出した。ガーフィールはますます不機嫌そうに顔をしかめたが、それ以上は何も言わず、再び歩き始めた。
集落の中心部へ近づくにつれて、見覚えのある顔が増えてきた。アーラム村の住人たちだ。俺たちの姿に気づいた村人が驚いたように目を見開き、次いで安堵の表情を浮かべる。
「エリス様!」
「おお、エリス様じゃないか!」
「無事だったんですね!」
声をかけられ、俺は軽く片手を上げた。
「おう。お前らも元気そうじゃねえか」
「ええ、おかげさまで! 村の方はどうなりました?」
「心配すんな。魔女教の連中は片づけた。村も無事だ」
その言葉を聞いた途端、村人たちの顔が明るくなった。安堵の声が広がり、何人かは互いの肩を叩き合っている。俺はその様子を眺めながら、少しだけ口元を緩めた。どうやら、ここにいる連中も村のことが気がかりだったらしい。
「……エミリア様は?」
村人の一人が、俺の腕の中へ視線を向けた。
「ちょっとした事故で気を失ってるだけだ。命に別状はねえよ」
「そ、そうですか……」
「休ませられる場所はあるか?」
「それでしたら、集会所の方へ!」
「助かる」
村人の案内で建物へ向かおうとしたところで、不意に聞き慣れた声が飛んできた。
「……ずいぶんと騒がしいと思えば、ようやく到着したのね」
振り返ると、そこには桃色の髪をした少女が立っていた。腕を組み、いつものように冷めた表情を浮かべている。見慣れたメイド服に、相変わらずの鋭い視線。どうやら、こちらも元気そうだ。
「おう、ラム。久しぶりだな」
「ええ。エリス様もお変わりないようで何よりです」
「そりゃどうも。お前も相変わらず口が悪いな」
「エリス様ほどではありませんわ」
「はっ、言うじゃねえか」
俺は笑った。ラムは小さく溜息をつき、次いで俺の腕の中にいるリアへ視線を落とした。
「……エミリア様は、どうされたのですか?」
「森に入ったところで急に気を失った。フレデリカから渡された輝石が光った直後にな」
「……輝石が?」
ラムの眉がわずかに動いた。その反応を見て、俺は目を細める。
「何か知ってんのか?」
「……詳しいことは、ロズワール様にお聞きください」
「おいおい。お前までそれかよ」
「ラムの一存では申し上げられないこともあります」
「……ふうん」
俺は鼻を鳴らした。どうやら、この場所には思っていた以上に面倒な事情がありそうだ。
「まあいい。とりあえず、リアを休ませてえ。案内してくれ」
「承知しました。こちらへ」
ラムは踵を返し、建物へ向かった。俺たちもその後に続く。途中、スバルがラムの隣へ並び、何やら話しかけていた。
「よう、ラム! 久しぶりだな!」
「……あら、バルス。まだ生きていたのね」
「開口一番それかよ!?」
「てっきり道中で野垂れ死んでいるものと思っていたわ」
「お前、俺に対する評価が低すぎねえ!?」
「妥当な評価よ」
「ひでえ!」
いつものやり取りだ。俺は小さく笑いながら、その背中を眺めた。だが、ふと気になることがあった。
「……ラム」
「何でしょう、エリス様」
「レムのことなんだが――」
「……レム?」
ラムが振り返った。
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、聞き慣れない名前を耳にした人間のように、小さく首を傾げている。
「……どなたのことでしょうか?」
俺は口を閉ざした。
予想していなかったわけではない。王都で聞いた話も、屋敷で確認した事実も、すでに十分すぎるほど異常だった。だが、実際にラムの口からその言葉を聞くと、胸の奥に何とも言えない不快感が広がった。
「……いや、何でもねえ」
「……そうですか」
ラムはそれ以上追及せず、再び歩き始めた。俺はその背中を見つめながら、小さく息を吐いた。
レムのことを覚えているのは、スバルだけだ。
頭では理解している。だが、あれほど仲の良かった姉妹の片方が、もう片方の存在を完全に忘れているというのは、やはり気味の悪い話だった。
俺は隣を歩くスバルへ視線を向けた。奴は俯き、何かを堪えるように唇を噛んでいた。俺はその肩を軽く叩く。
「……スバル」
「……ん?」
「今はリアのことが先だ。わかってんな?」
「……ああ。わかってる」
スバルは小さく頷いた。俺はそれ以上何も言わず、前へ向き直った。
案内された建物の一室にリアを寝かせると、ようやく少しだけ落ち着くことができた。ベティーが彼女の様子を確かめ、問題がないことを確認する。俺は寝台の脇に腰を下ろし、しばらくその寝顔を眺めていた。
「……エリス」
「あ?」
「リアは大丈夫なのよ。もう少ししたら、目を覚ますと思うかしら」
「そうか」
俺は短く答え、リアの額に手を当てた。熱はない。呼吸も安定している。ベティーがそう言うなら、ひとまず心配はいらないだろう。
「……なら、そろそろロズワールの野郎に会いに行くか」
「エリス、喧嘩は駄目なのよ」
「わかってるって」
「……絶対にわかっていないのよ」
ベティーが呆れたように溜息をついた。
部屋を出ると、廊下にはラムが待っていた。
「ロズワール様がお待ちです」
「ちょうどいい。こっちも聞きてえことが山ほどある」
「……くれぐれも、穏便にお願いいたします」
「善処する」
「その返答が一番信用できませんわ」
「はっ。よくわかってんじゃねえか」
俺は笑い、ラムの後に続いた。
案内された部屋には、見慣れた男がいた。派手な化粧に奇妙な服装、そして人を食ったような笑み。ロズワール・L・メイザース。俺たちの主であり、今回の騒動の中心にいるはずの男だ。
「やぁ、エリスくん。久しぶりだねぇ」
「おう。随分と優雅に過ごしてるじゃねえか、ロズワール」
「そう見えるかい?」
「ああ。少なくとも、こっちが魔女教相手に走り回ってた間、随分と暇そうだったみてえだな」
「……手厳しいねぇ」
ロズワールは苦笑した。その顔には、いつもの余裕がある。だが、よく見れば身体のあちこちに包帯が巻かれていた。どうやら、無傷というわけではないらしい。
「……お前、その怪我どうした?」
「少々、無理をしてしまってねぇ」
「ふうん。誰にやられた?」
「……それについては、後ほど説明しよう」
「また後で、か。便利な言葉だな」
俺は鼻を鳴らし、椅子へ腰を下ろした。スバルとオットーも続いて入ってくる。ベティーはリアのそばに残っていた。
「さて、ロズワール。聞きてえことは山ほどあるが……まず一つだ」
「何かなぁ?」
「ここは何なんだ?」
ロズワールは少しだけ目を細めた。
「……聖域。古くからメイザース家が管理してきた土地だよ」
「それは聞いてる。俺が知りてえのは、なんでお前らがここに留まってんのかってことだ」
「……簡単に言えば、出られないのさ」
「……あ?」
俺は眉を寄せた。
「出られない?」
「正確には、ここにいる一部の者たちが、ねぇ」
ロズワールは静かに続けた。
「聖域には結界が張られている。混血の者は、その結界によって外へ出ることができないのだよ」
「……混血?」
スバルが首を傾げる。
「それって、エミリアみたいなハーフエルフとか、そういうことか?」
「そうだねぇ。ただし、条件はもう少し複雑だ。人と亜人の血が混ざっている者のうち、特定の割合を満たす者が結界の影響を受ける」
「……なるほどな」
俺は腕を組んだ。
「つまり、ここにいる連中の中には、結界のせいで外へ出られねえ奴がいるってことか」
「その通りだよ」
「で、それとロズワールが帰ってこねえことに何の関係がある?」
俺が尋ねると、ロズワールは少しだけ笑みを深めた。
「……聖域を解放するためには、試練を突破する必要があるのさ」
「試練?」
「そう。墓所と呼ばれる場所で行われる、特別な試練だよ」
その言葉を聞いた途端、スバルが顔を上げた。
「……墓所?」
「おや、何か心当たりがあるのかい?」
「……いや、ちょっとな」
スバルは曖昧に答えた。俺はその様子を横目に見ながら、先ほど森で聞いた話を思い出す。古い建物、妙な夢。どうやら、あいつが見つけた場所と関係がありそうだ。
「……で、その試練ってのは誰でも受けられんのか?」
「いいや。資格を持つ者だけだよ」
「資格?」
「そう。聖域の墓所は、誰も彼もを受け入れるわけではない。選ばれた者だけが、試練へ挑むことを許されるのさ」
「……面倒くせえ仕組みだな」
俺は溜息をついた。
「で、資格を持ってる奴は誰なんだ?」
ロズワールは、俺の顔を見た。
次いで、リアが眠っている部屋の方角へ視線を向ける。
「……エミリア様だよ」
俺は目を細めた。
「……リアが?」
「そう。彼女には、その資格がある」
「……なるほどな」
俺はゆっくりと立ち上がった。
「つまり、お前はリアにその試練とやらを受けさせるつもりだったってわけか」
「……そうなるねぇ」
「本人に何の説明もせず、こんな場所まで呼び寄せてか?」
ロズワールは答えなかった。
俺は一歩、前へ出た。
「……おい、ロズワール」
「……何かなぁ、エリスくん」
「俺は別に、お前が何を企んでようが構わねえ。お前が何かを考えて動いてんのは、今に始まったことじゃねえからな」
俺はロズワールを見下ろした。
「だがな、リアを勝手に駒みてえに使うつもりなら、話は別だぞ」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。ラムが静かにこちらへ視線を向ける。スバルも口を閉ざし、俺とロズワールを見比べていた。
だが、ロズワールは相変わらず笑みを崩さなかった。
「……君らしいねぇ、エリスくん」
「褒めても何も出ねえぞ」
「もちろん、エミリア様の意思を無視するつもりはないよ」
「……ならいい」
俺はそれだけ言い、椅子へ座り直した。
リアが試練を受けるかどうかは、リア自身が決めることだ。俺が勝手に決めることでもなければ、ロズワールが押しつけていいことでもない。もっとも、リアが挑むと決めたなら、俺はそれを止めるつもりもなかった。
ただし、危険があるなら話は別だ。
「……その試練、命の危険はねえんだろうな?」
「……少なくとも、試練そのものが命を奪うようなものではないよ」
「随分と曖昧な答えだな」
「精神的な負担は、人によって異なるからねぇ」
「……ふうん」
俺は腕を組み、考え込んだ。
精神的な試練。資格を持つ者だけが挑める墓所。そして、結界によって閉ざされた聖域。どれもこれも、面倒な話ばかりだ。
「……エリス」
隣からスバルが声をかけてきた。
「あ?」
「エミリアなら、きっとやるって言うと思うぞ」
「……だろうな」
俺は小さく笑った。
「リアはそういう奴だ」
「……ああ」
スバルも頷いた。
俺たちは長い付き合いだ。リアが誰かのために動くことを躊躇うような性格ではないことくらい、よく知っている。だからこそ、俺は少しだけ溜息をついた。
「……まったく、世話の焼ける姫様だぜ」
そう呟いたところで、部屋の扉が静かに開いた。
「……エリー?」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこには銀髪の少女が立っていた。まだ少し足元がおぼつかない様子ではあったが、その紫紺の瞳には、いつもの光が戻っている。
「……リア」
俺は立ち上がった。
「目ぇ覚ましたか」
「うん……。ごめんなさい、心配かけちゃったみたいで」
「謝ることじゃねえよ。具合はどうだ?」
「もう大丈夫。ベアトリスが診てくれたから」
「そうか」
俺は小さく頷いた。
リアは部屋の中を見回し、ロズワールの姿を見つけると、驚いたように目を見開いた。
「ロズワール……!」
「お目覚めになられたようで何よりです、エミリア様」
「……みんなは? 村の人たちは無事なの?」
「ええ。皆さん、こちらでお過ごしですよ」
「……よかった」
リアは胸を撫で下ろした。その表情を見て、俺は小さく笑った。自分が気を失っていたことより、真っ先に村人たちの心配をする。まったく、こいつらしい。
「……リア」
「なあに、エリー?」
「ちょうどいい。お前に聞いてほしい話がある」
俺はロズワールへ視線を向けた。
「こいつがな、随分と面倒くせえことを言い出しやがった」
「……面倒くさいこと?」
「ああ」
俺は口元を吊り上げた。
「どうやら、この聖域って場所から出るには、試練とやらを突破しなきゃならねえらしい」
リアは小さく首を傾げた。
「……試練?」
「そうだ。しかも、その資格を持ってる奴は限られてるんだとよ」
俺は一度言葉を切り、彼女の目を見た。
「……で、その資格を持ってるのが、お前らしい」
リアは驚いたように目を見開いた。
俺はその表情を眺めながら、肩をすくめた。
「まあ、詳しい話はロズワールから聞け。俺が説明するより、その方が早えだろ」
リアは小さく頷き、ロズワールへ視線を向けた。
俺は椅子へ腰を下ろし、その様子を見守ることにした。
どうせ、リアは試練を受けると言うだろう。
ならば、俺がすることは一つだけだ。
あいつが自分で選んだ道を、最後まで歩けるようにしてやる。
それだけの話だった。