SIDE エリス
背中に引っかけたスバルの腕を握り直し、俺は墓所の奥へ足を進めた。人ひとりを背負って歩く程度で息は上がらないが、こいつときたら運ばれる側のくせに妙に落ち着きがない。時折、喉の奥で何かを呟き、そのたびに肩へ回された指が服を握り込んでくる。目を覚ましたのかと声をかけても返事はなく、耳を寄せてようやく聞き取れる吐息だけが首筋に触れた。寝言にしては、随分と必死な声だった。
「……おい。人の服を伸ばすなよ。替えがいくらでもあるわけじゃねえんだぞ」
返事の代わりに、背中の重みがわずかにずれる。俺は腰を入れて背負い直すと、暗がりへ目を凝らした。石造りの通路は外から眺めた印象よりも奥行きがあり、踏み込むたびに靴音が冷たい壁を伝っていく。派手に暴れた痕跡も、何者かが争った気配もない。それなのに、ここへ入ってからずっと、胸のどこかに小さな棘が引っかかっていた。
リアが、自分の意思でここへ入ったことはわかっている。何のために来たのかも、あいつが何を背負おうとしていたのかも、聞いている。だからこそ、姿が見えないというだけで壁をぶち抜いて探し回るわけにもいかない。俺が勝手に全部ひっくり返した後で、実はもう少しでうまくいくところでした、などと言われては面倒だった。
もっとも、待っていればいい時間はもう過ぎた。
「リア。いるなら返事しろ」
呼びかけは通路の奥へ抜け、薄い反響になって戻ってきた。その音が消えきる前に、別の音が混じる。ひゅ、と息を吸い損ねたような、短い音だった。俺は足を止めた。背後のスバルではない。肩越しに伝わる呼吸とは、はっきり別の場所から聞こえていた。
「……リア?」
今度は返事を待たずに歩幅を広げる。通路を抜けた先、暗がりの中に白いものが見えた。床に広がった銀色の髪と、その下で小さく丸められた体。見間違えるはずもない。エミリアは冷たい石床の上で横たわり、両腕を胸元へ引き寄せていた。
俺はすぐ横で膝をつき、スバルを壁際へ慎重に下ろした。頭を打たせないよう片手を差し込み、背中が落ち着いたのを確かめてから、リアの肩へ触れる。冷えた布の下で、体がびくりと跳ねた。
「リア。俺だ。聞こえるか」
「……っ、や……」
閉じられた瞼が震え、唇の間から細い息が漏れる。額には汗が浮いているのに、指先はひどく冷たかった。肩を抱いて上体を起こそうとすると、リアは何かから逃れるように首を振った。俺を押し返すほどの力もないまま、床を掻いた爪だけが小さな音を立てる。
「やだ……ちが、わたし……」
「おい、リア。目ぇ開けろ。ここにいるのは俺だ」
声を少し強めても、焦点の合わない目は俺を通り越した先を見つめていた。何を見た、と問いかけかけて、やめる。今のこいつに筋道立てた説明をさせたところで、ろくなことにはならない。俺は外套を外して肩へかけ、視線を遮るように正面へ回り込んだ。
「エミリア」
名前を呼ぶと、紫紺の瞳がかすかに動いた。俺はそのわずかな動きを追い、顔を覗き込む。いつものように近すぎると文句を言われても構わなかった。今は、どこを見ればいいのかだけでもはっきりさせてやる方が先だ。
「俺を見ろ。……そうだ。そこだ」
「……エ、リー……?」
「ああ。やっと見つけたかよ」
リアの手が上がる。宙を探った指先を掴むと、思っていたよりも強く握り返された。俺の顔と繋いだ手を交互に見つめ、何かを確かめるように何度も息を吸っている。そのたびに喉が引きつり、言葉になる前の声がこぼれた。俺は床へ腰を落とし、引かれるままに距離を詰めた。
「……ごめ、なさ……」
「話は後だ。息をしろ」
「でも、わたし……わたし、また……」
「聞いてる。だから、いっぺんに喋んな」
細い肩が震える。俺の手を握っていた指が滑り、そのまま服の胸元へしがみついた。額が胸へ押しつけられ、押し殺そうとした嗚咽が布越しに伝わってくる。俺はリアの後頭部へ手を添え、もう片方の腕で背中を支えた。何か気の利いたことを言ってやれればよかったのだろうが、事情もわからないまま大丈夫だと並べる気にはなれなかった。
こいつが見ていたものを、俺は見ていない。
ここへ来る前と今とで、何が変わったのかさえ知らない。わかるのは、呼吸ひとつまともにできないほど怖い思いをして、それでもまだ何かを言おうとしているということだけだ。
「……今は喋らなくていい。落ち着いてから聞く」
そう告げると、胸元を掴む手にいっそう力がこもった。返事はなかったが、無理に言葉を作ろうとする気配だけは薄れる。俺は髪を撫でる手をゆっくり動かし、乱れた呼吸が少しずつ間隔を取り戻すのを待った。普段なら、こうしている間にも何かひとつやふたつ茶化している。だが、今それをしたら、こいつは笑おうとするだろう。できもしないくせに、俺に気を遣って。
壁際で衣擦れの音がしたのは、それからしばらく経ってからだった。
「……エミ、リア……?」
スバルが額に手を当て、ぼんやりとこちらを見ていた。寝起きにしては妙に腫れぼったい目がリアを捉えた途端、その表情が変わる。壁へ手をついて立ち上がりかけ、膝が折れた。それでも這うように体を寄せてくるものだから、俺は先に声をかけた。
「慌てんな。怪我は見当たらねえ」
「じゃあ、なんで……」
「起きた時からこの調子だ。……お前はどうだ。立てるか」
「俺は、平気。俺の方は、もう……」
そこで言葉が途切れた。スバルは口元へ手をやり、一度だけ強く唇を結ぶ。何かを飲み込んだようにも、こらえたようにも見えた。俺が見ていることに気づくと、取り繕うように息を吐いたが、その顔には普段の軽薄な笑みがうまく乗らなかった。
「……終わったんだ。俺のは」
何が、とは聞かなかった。こいつが倒れていたことと、その短い言葉だけで勝手に話を繋げる気もない。俺は頷くだけに留め、リアへ視線を戻した。スバルもそれ以上は続けず、床に片膝をついて顔を覗き込む。
「エミリア。俺もいる。聞こえる?」
胸元で、リアが小さく頷いた。顔を上げるにはまだ時間がかかりそうだったが、スバルの声は届いたらしい。それを見たこいつの肩から、目に見えて力が抜ける。安堵したのだろう。その直後に浮かんだ表情までは、俺には読み取れなかった。
「……外へ連れ出す。ここで座ってても冷えるだけだ」
「ああ。そうだな。俺、何か……」
「先に歩け。足元を見とけよ。また倒れたら今度は引きずるぞ」
「わかってるって。……さっき、運んでくれたんだよな」
「重かった」
「そこは嘘でも軽かったって言えよ」
声だけはいつもの調子に近づいたが、スバルは笑わなかった。代わりに一度深く頭を下げ、壁へ手を添えながら立ち上がる。ふらつきは残っていても、足に力は入っているようだった。数歩進ませて確かめてから、俺はリアの膝裏へ腕を差し込んだ。
「持ち上げるぞ」
「……歩ける、から」
「なら、外から歩け。ここで転ばれると面倒だ」
反論を待たずに抱き上げると、リアは小さく息を呑み、俺の肩へ手を回した。いつもならひとことくらい文句が飛んでくるところだが、今夜はそれもない。外套の端が落ちないようスバルが直し、その手を引く直前、リアがかすれた声で名前を呼んだ。
「……スバル」
「ん?」
「ごめん、ね……」
スバルの指が止まった。暗がりの中でもわかるほど、その顔がくしゃりと歪む。だが、すぐに首を横へ振り、リアの目の高さへ少し身を屈めた。
「謝ることなんかねえよ。……今は、出よう。話はそれからでいい」
俺と似たようなことを言う。そのくせ、口にした本人の方がひどく苦しそうだった。リアは何か言いたげに唇を動かしたものの、結局は頷いて俺の肩へ顔を寄せた。スバルが先に通路へ出る。俺もその後へ続き、腕の中の重みが揺れないよう歩調を落とした。
来た時よりも、靴音が多い。前を歩くスバルの背中を見ながら、こいつにも何があったのかは聞いておく必要があると考える。だが、それは外へ出て、水でも飲ませてからでいい。二人とも、今すぐ何かを決められる顔はしていなかった。
「……エリー」
「あ?」
耳元へ届いた声はまだ弱かった。それでも、さっきのように息に押し潰されてはいない。俺は歩きながら顔を少しだけ傾け、続きを待った。
「……怒って、ない?」
「何を」
「わたし……できなくて……」
通路の先で、スバルの歩調がわずかに緩んだ。聞こえてはいるのだろう。だが、振り返って口を挟むことはしなかった。俺はリアを抱く腕へ少し力を入れ、ずれかけた体を持ち直す。
「お前が帰ってこねえから探しに来た。それだけだ」
「でも……」
「できなかった話は、後で聞くって言っただろ」
リアの目が俺を見上げる。濡れた睫毛が震えていた。俺はその視線を受け止めたまま、今度は少し声を落とした。
「何があったかも聞かずに怒るほど、暇じゃねえよ。まず休め」
しばらくして、肩へ回された腕の力が少し緩んだ。離れたわけではない。ただ、必死にしがみついていなくても落ちないのだと、ようやくわかったような力の抜け方だった。リアは俺の肩口へ頬を預け、小さく頷く。
「……うん」
前を歩くスバルが、通路の先へ顔を上げた。俺もそちらを見る。暗がりの向こうに、外へ続く入口が見えていた。
「スバル。そこ、段差あるぞ」
「見えてるって」
「さっき膝から崩れた奴の台詞かよ」
今度こそ、短い笑いが返ってきた。俺は入口の手前でリアにかけた外套を引き上げ、足元を確かめてから外へ踏み出した。
夜気が頬を撫でる。墓所の中に籠もっていた冷たさとは違い、草と土の匂いを含んだ風だった。息を吸い込んだリアの肩が小さく動き、その顔が俺の胸元からわずかに離れる。建物の外へ出たというだけで何もかもが片づくわけではないが、少なくとも、あの床に寝かせておくよりはずっとましだ。
「――エリス!」
聞き慣れた声とともに、小さな影がこちらへ近づいてきた。俺の前で足を止めたベティーは、何か言いかけてから腕の中のリアへ視線を落とす。続いて背後のスバルを確かめ、その顔をしかめた。
「……揃いも揃って、ひどい顔なのよ」
「俺まで入れんな。こっちは二人分働かされたんだぞ」
「そういう減らず口を聞きに待っていたわけじゃないかしら」
言いながら、ベティーの手が俺の袖へ伸びた。指先が触れ、布を掴む。その力がいつもより強いことに気づいたが、俺は何も言わなかった。顔を覗き込めば余計に拗ねるだろうし、今はリアを抱いているせいで頭を撫でてやる余裕もない。代わりに、掴まれた腕をほんの少しだけ寄せた。
「待たせたな」
「……遅いのよ」
「悪かった」
短く返すと、ベティーは一度だけ目を伏せた。それから袖を離し、リアの顔を見上げる。目元の赤みと乱れた息を確かめる視線には、先ほどまでの険しさとは別のものが混じっていた。
「エミリア。ベティーの声は聞こえているかしら」
「……うん。ごめんね、ベアトリス」
「謝罪を聞くのは飽きたのよ。外へ出てきたなら、もう少し肩の力を抜くかしら」
その言い方が気に入ったのか、リアの口元がごくわずかに動いた。笑ったと呼ぶには弱すぎたが、それでも顔の強張りが少し解ける。ベティーもそれを見届けると、俺へ向かって顎をしゃくった。
「いつまでもここに立っているつもりなのよ?」
「今から動くところだ。お前が止めたんだろうが」
「余計なひとことなのよ」
通り道を空けたベティーの向こうから、ラムが歩いてきた。こちらの様子を見るなり足を速めたが、近くまで来る頃には普段どおりの澄ました顔に戻っている。ただ、リアへ向けた視線は、いつもの淡々としたものより幾分鋭かった。
「エミリア様。お加減はいかがですか」
「……大丈夫。ちょっと、びっくりしちゃって」
リアが体を起こそうとする。俺の腕から降りるつもりなのだと気づいた時には、すでに足先が外套の端から覗いていた。俺は膝裏を支え直し、その動きを止める。抗議の視線が上がってきたが、無視した。
「さっきまでまともに息もできてなかった。休ませられる場所は」
「ご用意します。こちらへ」
「ラム、わたし……」
「お話は横になってからでもできます。今のお顔で大丈夫と仰られても、説得力がありませんので」
容赦のない物言いに、リアが口を閉じる。俺にはまだ反論しようとしていたくせに、ラムに言われるとそれか。少々納得のいかないものはあったが、静かに休んでくれるならそれでいい。先に立つラムの後へ続こうとしたところで、墓所の方からこちらを見ているガーフィールと目が合った。
奴の視線はリアへ向かい、次いでスバルへ移る。眉間に寄せられた皺が深くなった。何かを確かめたそうな顔だったが、俺は先に口を開いた。
「話があるなら後にしろ。今は寝かせる」
ガーフィールの口が動きかける。それでも、俺の胸元へ額を寄せたままのリアを見ると、舌打ちひとつで脇へ退いた。納得した顔ではない。だが、少なくともこの場で引き止めるつもりはないらしかった。
墓所から離れるにつれ、足元の石は土に変わり、周囲の暗がりにも木々の輪郭が増えていく。リアは黙っていた。時折、遠くへ目を向けるものの、何かを見つけたような反応はしない。俺はそのたびに歩調を緩めかけ、結局、何も聞かずに前を向いた。目に映ったものをひとつずつ問いただしていたら、寝床へ辿り着く前にこいつの気力が尽きる。
用意された部屋へ入ると、ラムが手早く寝台を整えた。灯りは目に痛くない程度に絞られ、水を入れた器と清潔な布が脇へ置かれる。その間に俺はリアを寝台の端へ下ろしたが、首へ回された腕はすぐには解けなかった。
「……リア」
「あ……ごめん」
慌てて離れようとする手を止め、そのまま寝台へ腰を下ろす。リアは俺の顔を見て、それから自分の指先へ視線を落とした。何をしたらいいかわからないような顔だった。俺は外套を肩から外し、代わりに掛けられた布が足先まで届くのを待ってから、改めてその手を取った。
「寝るまでいてやる。だから、変なところに力入れんな」
「……みんな、待ってるのに」
「待たせとけ」
即答すると、リアが困った顔をする。その顔は随分と見慣れていた。俺が何か勝手なことを言うたびに、こいつは大抵そういう顔をする。だから、ようやく少しだけ普段の調子が戻ってきたように思えた。
「そういうわけには、いかないでしょ」
「お前が休む間くらい、俺がどうにかする。今夜ここで倒れ直される方がよっぽど困るんだよ」
ラムが差し出した水を、リアは両手で受け取った。器の縁が唇へ触れる直前、かすかに揺れる。俺が底へ手を添えると、こいつは何も言わずに少しずつ水を飲んだ。喉が動くのを確かめながら、ようやくまともに息をつけた気がした。怪我がないことと、平気なことは同じではない。それくらいは知っているつもりだったが、剣傷のひとつでもある方が、今より手を出せることは多かったかもしれない。
空になった器をラムへ返し、リアの背中を支えて横たえる。髪が首の下へ巻き込まれないよう指で逃がしていると、紫紺の瞳がじっとこちらを見上げていた。
「……何だよ」
「エリーは、聞かないの?」
「何を」
「中で……何があったのか」
そのひと言を口にしただけで、繋いだ手が強張った。リア自身も気づいたのだろう。視線を落とし、親指で俺の指の付け根をなぞる。何か言わなければならないと思っているのに、声を出すのが怖い。そんな躊躇いが、短い沈黙の中に滲んでいた。
「さっき、後で聞くって言っただろ」
「……うん」
「今話したいのか」
リアは唇を開いた。だが、すぐには言葉が続かなかった。何度か息を吸い、やがて小さく首を横へ振る。
「……まだ、うまく……」
「なら、寝ろ。俺はお前を試しに来たわけじゃねえんだよ」
掛け布の上へ置かれたもう片方の手が、ぎゅっと握られた。それから、ゆっくりと解ける。俺は繋いでいた方の手を軽く引き、指先に入りっぱなしだった力が抜けるのを待った。
「聞いてほしくなったら呼べ。その時は聞く」
「……何回も、同じこと言っちゃうかも」
「それくらい覚えてやる」
「途中で……わかんなくなっても?」
「わかるところから喋れ。ついていけなきゃ、こっちから聞く」
リアはしばらく俺を見ていた。その目にまた涙が溜まりかけたので、今度は人差し指の背で目尻を軽く拭ってやる。そうしたらそうしたで、余計に泣きそうな顔になるのだから手に負えない。
「……エリーって、ずるい」
「よく言われる」
「そこは、少しくらい否定してよ」
「今さら取り繕っても仕方ねえだろ」
呆れたような吐息が返ってきた。ほんの少し笑った拍子に、こらえていたものまで緩んだのかもしれない。リアは目を閉じ、枕へ頬を寄せた。俺はそのまま手を握り、呼吸が落ち着くのを待つ。寝台の向こうでラムが布を絞り、額へ当てた。ベティーは少し離れた場所で黙ってこちらを見ており、スバルも入口の脇から動こうとしなかった。
誰も、試練の続きを口にはしなかった。
灯りの芯が小さく鳴る。外から聞こえる葉擦れが、時折、部屋の静けさへ混じった。リアは一度だけ瞼を持ち上げ、まだ俺がいることを確かめると、また目を閉じた。それを二度ほど繰り返した後、ようやく握った手が緩む。指を一本ずつ外しても、今度は追ってこなかった。
俺はしばらく寝顔を見てから、ゆっくり立ち上がった。
「ラム」
「ええ。こちらはお任せください」
「起きたら呼べ。何か言いたそうなら、それも」
「承知しました」
それ以上の説明は要らなかった。枕元の器を置き直すラムへ頷き、俺は寝台から離れる。入口へ向かうと、スバルが一歩退いた。俺と目が合った途端に口を開きかけたので、顎で外を示す。
「お前にも聞くことがある。来い」
「……ああ」
外へ出る前に振り返ると、ベティーはまだ部屋に残っていた。俺を見上げ、それからリアへ目を向ける。何も言わなかったが、少しはここにいてくれるつもりなのだろう。
「ベティー。頼む」
「長話はほどほどにするのよ」
「わかってる」
扉を閉める寸前、もう一度だけ寝台を見る。リアは眠っていた。眉間の皺はまだ消えていない。それでも、入ってきた時のように何かから身を守ろうと丸くなってはいなかった。
◇
建物から少し離れたところまで歩き、入口の灯りが届くあたりで足を止めた。近くにあった低い石へ腰を下ろすと、スバルは立ったままこちらを見た。話を始めていいのか、それとも叱られるのを待っているのか。どちらにせよ落ち着かないので、隣を指で示してやる。
「座れ。首が疲れる」
「お前が見上げる側って、何か珍しいな」
「なら今のうちに堪能しとけ」
スバルはようやく腰を下ろした。膝へ肘を載せ、指を組む。その手が落ち着くまで少し待ったが、なかなか止まりそうにない。親指を擦り合わせては握り直す動きが続いている。俺は先に、墓所で聞いた言葉を拾った。
「中で言ってたな。お前のは終わったって」
「……ああ」
「あれは、試練の話か」
頷くまでに、わずかな間があった。隠すかどうか迷っているというより、口に出すためにもう一度気持ちを整えたように見えた。スバルは膝の上へ目を落とし、ゆっくり息を吐く。
「最初の試練を、受けた。……俺も」
「何をさせられた」
「自分の過去と、向き合うんだ」
その答えを聞いてから、俺は建物の方へ目を向けた。窓から漏れる灯りは細い。あの向こうで眠っているリアが何を見たのか、俺にはまだわからない。だが、さっきまでの震えを、ただ怖いものを見ただけで済ませる気にはなれなくなった。
「……お前もか」
問いかけると、スバルは小さく頷いた。
「親父と、お袋に会った」
それは、俺の予想よりもずっと静かな声だった。懐かしい名前を口にした人間の声でありながら、再会を喜ぶだけでは済まないものが混じっている。俺は続きを促さず、膝へ置いた手を動かさないまま待った。
「本物じゃ、ねえんだけどさ。……でも、俺が覚えてるとおりだった。声も、仕草も。どうでもいいところまで、全部」
「……そうか」
「こっちに来る前の俺なんか、見せられたもんじゃなかったんだぜ。今も大したもんじゃねえけど、もっとひどくてさ。口だけ達者で、できもしねえことばっか考えて、勝手に嫌になって……」
自分を笑うように口元を歪める。だが、その笑い方にはどこか無理があった。こいつが自分を大きく見せたがることは知っている。反対に、自分には何の価値もないという顔をすることもある。そのどちらも、すっかり見慣れてしまっていた。今の声は、その間のどこかにあった。
「俺、ちゃんと言えてなかったことがあったんだ」
組んだ指に、力が入った。
「言わなくてもいいって、どっかで思ってた。どうせ明日も同じように顔合わせるんだし、今じゃなくてもいいだろって。……そうやって、ずっと」
そこまで言って、スバルは口を閉じた。俯いた顔は前髪に隠れ、こちらからはよく見えない。俺も無理に覗こうとはしなかった。今夜は人の顔を覗き込むことばかりしていたが、こいつにまで同じことをする必要はなさそうだった。
「言えたのか」
聞くと、肩が小さく動いた。
「……言えた」
「なら、よかったじゃねえか」
スバルが顔を上げる。何か別の言葉を待っていたらしい。俺はその顔を見返し、片眉を上げた。
「何だよ」
「いや……それだけ?」
「他に何がいる。お前が言いたかったことを言えたんだろ」
「……そりゃ、そうだけど」
「聞いてもねえ昔のお前に説教しろってのか? 面倒くせえ。今のお前だけで十分だ」
「十分って、説教する分量の話じゃねえだろうな」
「自覚があるなら手間が省ける」
肘で軽く脇腹を小突くと、スバルが息を詰めた。それから、困ったように笑う。今度の笑いは、墓所から出てきた時よりも長く続いた。だが、笑い終えると、その目はまた建物の方へ向いた。
「……エミリアも、同じようなのを見たんだよな」
「過去と向き合うって部分なら、そうなんだろうな」
「俺のは、さ。きつかったけど……最後は、ちゃんと話せたんだ。背中を押してもらった。だから……」
言葉が細くなる。俺は少し顔を傾け、その横顔を見る。
「だから?」
「エミリアにも、何かできねえかなって。どういうものか、俺は知ってるわけだし。あの中で何をすればいいか、少しくらいは……」
そこで止まったのは、自分の言葉に引っかかるものがあったからだろう。スバルは唇を噛み、両手を開いた。掌を見つめてから、膝の上へ伏せる。
俺はしばらく考えた。こいつの話は聞いたばかりだ。試練の仕組みを知っていると言えるほどではない。だが、少なくとも、スバルがさっき口にしたものと、リアが俺の腕の中で見せた反応には大きな隔たりがあった。
「お前の親と、リアの過去は別だろ」
「……わかってる」
「だったら、話を聞いてから考えろ。何があったかもわからねえうちから、言うことを決めとくな」
スバルが顔を伏せる。少しきつかったかとも思ったが、取り消す気にはならなかった。あいつがようやく眠れたばかりだというのに、起きた途端、試練を越えた人間の話を並べられても困る。助けたいのはわかる。俺だって同じだ。だからこそ、急いで話しかける前に一度は考える必要があった。
「……俺、そんなつもりじゃ」
「知ってる。お前は助けたいんだろ」
言いかけた声が止まる。俺は頷いてから、建物へ目を戻した。
「俺もだ。今すぐどうにかできるなら、もうやってる」
スバルは何も言わなかった。遠くで虫が鳴き、風が草を撫でていく。俺は足元の小石を靴先で押し、土の上へ転がした。
リアが何かと戦っているのなら、隣へ立ってやれる。目の前に敵がいるのなら、叩き伏せればいい。けれど、あいつが見たという過去は、墓所の壁を壊したところで消えやしないのだろう。理屈としてはわかる。だからといって、気分のいい話ではなかった。
「……お前でも、どうすりゃいいかわかんねえことあるんだな」
「そりゃあるだろ。俺を何だと思ってる」
「いや、だってお前、大抵どうにかするじゃん」
「大抵はな」
否定すると、それはそれで嘘になる。どうにかできるから引き受けてきたし、引き受けた以上はどうにかしてきた。だが、それと知らないことがないのとは別の話だ。俺はスバルの膝を軽く叩き、こちらへ向き直らせた。
「だから、お前の話を聞いてんだろうが。俺が見てねえものを、お前は見た。知ってることがあるなら話せ。全部が使えるとは限らねえが、聞かなきゃ選びようもねえ」
スバルの目がわずかに開く。そんなに意外なことを言ったつもりはなかった。こいつは時々、自分が何も持っていないような顔をする。そのくせ、肝心な時に限って妙なところから手を伸ばしてくる。白鯨の時も、魔女教の時もそうだった。こちらへ寄越すべき情報を抱え込んで、勝手に追い詰められたことまで含めて、俺は覚えている。
「……話していいのか」
「今、俺が何を言ったか聞いてたか?」
「聞いてたけどよ」
「だったら話せ。聞かれたくねえところまで根掘り葉掘りやる気はねえ。お前が見たもののうち、伝えられるところでいい」
スバルは頷いた。すぐに喋り始めるのかと思ったが、その前に一度、両手で顔を擦る。目元へ指が留まり、ゆっくり下りていった。
「……ありがとな」
「礼はいいから、順番に話せ」
「ああ。……最初は、本当に帰ってきたんだと思ったんだ」
そこから先は、途切れ途切れの話になった。こいつの故郷のことは、俺にはわからない言葉も多い。家の造りや、日常の細かい決まりごとは、説明されてもすぐには思い浮かばなかった。それでも、親と顔を合わせて何を感じたのか、自分が昔どんなところで躓いたのか、話しているうちに声が詰まるのはどうしてなのか。その辺りは、知らない土地の話だからと聞き流すようなものではなかった。
スバルは父親の話をする時、少しだけ口が悪くなった。鬱陶しいだの、無駄に元気だのと言いながら、その顔は不思議なくらい柔らかい。母親の話になると、言葉を選ぶ間が増えた。声を真似しかけて途中でやめ、照れたように鼻を擦る。その仕草のどちらにも、俺がまだ知らないこいつの時間があった。
話の途中で一度、沈黙が落ちた。続きを忘れたのかと思ったが、スバルは俯いたまま口元を押さえていた。俺は何も言わずに待った。しばらくすると、押さえていた手が下がり、ひどく小さな声で言葉が続いた。
「……帰る時、ちゃんと言えたんだ。行ってきますって」
俺は頷いた。それだけでよかったらしい。スバルは何度か深く息をし、ようやく顔を上げた。目の縁は赤かったが、視線はさっきよりも落ち着いていた。
「悪い。何か、試練の説明から脱線した」
「別に。聞く前よりはわかった」
「俺の昔話が?」
「それもだ」
答えると、スバルが気まずそうに笑った。今さら恥ずかしくなったのか、膝の上で指を組み直す。俺は立ち上がり、固まった肩を一度回した。そろそろこいつも休ませた方がいい。話をして落ち着いたように見えても、墓所で倒れていた事実までなくなったわけではなかった。
「続きは明日だ。今日はもう寝ろ」
「……お前は?」
「リアの様子を見てくる」
「じゃあ、俺も」
立ちかけた肩を手で押さえる。スバルは座り直し、不服そうにこちらを見上げた。
「さっき寝たばっかだ。揃って顔を出して起こす気かよ」
「音立てねえようにするって」
「お前、黙ってるつもりでも顔がうるせえんだよ」
「顔の音量まで言われる筋合いある!?」
声が大きくなったところで、スバル自身が口を塞いだ。俺は建物の方へ視線を送り、こいつも慌ててそちらを窺う。幸い、誰かが出てくる気配はなかった。
「……今のでわかったろ」
「今のはお前が悪いだろ……」
小声の文句を聞き流し、背中を軽く叩いて立たせる。足元はもうしっかりしていた。スバルもそれを確かめるように一度膝を曲げ、今度は壁や俺の手を借りずに体を起こした。
「リアが話せそうなら、お前にも声をかける。だから、それまでに休んどけ」
「……わかった」
頷いた後も、スバルは少しその場に残っていた。まだ何か言い足りないのだろう。俺が待っていると、こいつは顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
「俺がやれることあったら、言ってくれ」
「そのつもりだ」
「雑用でも、何でもいいから」
「先に仕事を小さくすんな。話を聞いてから決めろ」
スバルが口を閉じる。俺は肩をすくめ、先ほどまでこいつが座っていた石を顎で示した。
「今だって、お前にしか話せねえことを聞いたところだろうが」
言ってから歩き出すと、数歩遅れて足音がついてきた。こちらを追い越すでもなく、少し横に並ぶ。その距離に文句はなかった。
建物の前まで戻ると、扉の脇にベティーが立っていた。俺たちの姿を見つけるなり眉を上げたが、声は抑えられていた。後ろの扉を指先で示し、次いでスバルへ目を向ける。
「まだ起きていたのかしら」
「今から寝るとこだって」
「なら、さっさと行くのよ。明日の朝まで倒れられても面倒かしら」
「お前ら、言い方そっくりになってきてねえ?」
ベティーと目が合う。あちらはひどく不服そうな顔をしたが、俺の方は別に嫌ではなかった。スバルが笑いをこらえるように口元を曲げ、今度こそ寝床の方へ向かう。足音が遠ざかるのを見届けてから、俺は扉の向こうへ目を向けた。
「リアは」
「眠っているのよ。さっき、少しだけ目を開けたけれど、ラムが声をかけたらまた寝たかしら」
「そうか」
扉を開けるのをやめ、壁へ背を預ける。目を覚ましたわけでもないのに、わざわざ覗いて眠りを浅くすることはない。ベティーは俺を見上げ、それから隣へ寄ってきた。小さな手が、再び袖の端を掴む。
「……話は済んだのよ?」
「今夜の分はな」
「随分かかったかしら」
「聞いとく必要があった」
ベティーはそれ以上聞かなかった。代わりに、掴んでいた袖を一度だけ引く。俺が顔を向けると、通路の脇に置かれていた腰掛けを示していた。
「座るのよ。いつまで立っているつもりかしら」
「さっきまで座ってたんだけどな」
「ベティーを見下ろして話すのをやめろと言っているのよ」
「はいはい」
腰を下ろすと、ベティーは当然のように隣へ収まった。肩が触れ、そのまま少し体重が寄ってくる。俺は髪の邪魔にならないところへ手を回し、小さな頭を軽く撫でた。
「お前も眠いなら寝ろ」
「眠くないかしら」
「そうかよ」
言い合っている間も、声は自然と小さくなった。扉の向こうでラムが器を動かす音がする。ほどなくしてこちらへ出てきたラムは、並んで座る俺たちを見ても特に何も言わず、手にしていた水差しを持ち直した。
「まだこちらにいらっしゃいますか、エリス様」
「ああ。しばらくな」
「では、お茶をお持ちします」
「お前も休めよ」
「支度を済ませてから、そうさせていただきます」
きっぱりと言われては、こちらもそれ以上口を挟めない。歩いていく背中を見送り、俺はまた扉へ視線を戻した。中から声は聞こえなかった。さっきまで握っていたリアの手の冷たさも、今は自分の掌に残っていない。
隣でベティーが小さく身じろぎする。俺が手を止めると、金色の髪がこちらへ寄せ直された。無言の催促に従って、また指を動かす。数えるほど撫でたところで、小さな肩からようやく力が抜けた。
ラムが戻ってきたら茶を飲んで、それから休もう。そう考え、俺は背もたれへ体を預けた。扉の向こうへ耳を向けたまま、しばらくベティーの髪を撫でていた。