朝食を終えた食堂には、穏やかな時間が流れていた。
窓から差し込む陽光が白いテーブルクロスを照らし、食器の触れ合う小さな音が響いている。
そんな中。
「――ごちそうさん!」
ナツキ・スバルは、勢いよく両手を合わせた。
「いやー、今日も美味かった! レムりん、毎度毎度ありがとな!」
「いえ、お口に合ったようで何よりです」
レムは柔らかく微笑み、空になった皿を手際よく片付けていく。
「スバルくんは、いつも美味しそうに召し上がってくださいますね」
「そりゃあ当然! 美少女の手料理が食えるなんて、男冥利に尽きるってもんよ!」
「……大げさですね」
そう言いながらも、レムの表情はどこか嬉しそうだった。
「まったく、バルスは朝から騒がしいわね」
隣から飛んできたのは、ラムの冷ややかな一言。
「食事が終わったのなら、さっさと仕事に戻りなさい」
「ラムちー、朝っぱらから辛辣すぎない!?」
「事実を述べただけよ」
「ぐぬぬ……!」
そんなやり取りをよそに。
「おい、レム」
食堂の奥から、横柄な声が響いた。
「茶、もう一杯」
「はい、エリス様」
レムはすぐに頷き、ティーポットを手に取る。
その様子を見たスバルは、思わず眉をひそめた。
「……お前さぁ」
「あ?」
「もうちょい頼み方ってもんがあるだろ」
「頼んでんだろ」
「いや、そうだけど!」
「なら問題ねえじゃねえか」
「問題大ありだよ!」
エリスは心底不思議そうな顔をした。
そして、レムが注いだ紅茶を一口。
「……ん。悪くねえな」
「ありがとうございます、エリス様」
レムは小さく頭を下げた。
スバルはその光景を眺めながら、呆れたように息を吐く。
「……なんでそれで成立してんだよ」
「日頃の行いだろ」
「絶対違う!」
「バルス」
今度はラムが口を挟んだ。
「エリス様とあなたでは、これまで積み重ねてきたものが違うのよ」
「……へ?」
「エリス様は屋敷にとって大切なお方。あなたも少しは見習いなさい」
「……お、おう」
思わず言葉に詰まった。
ラムの言葉に悪意はない。
少なくとも、いつもの毒舌の延長なのだろう。
けれど。
――積み重ねてきたもの、か。
スバルは、テーブルの下で小さく拳を握った。
自分だって。
積み重ねてきたものはある。
何度も失敗して。
何度も苦しんで。
それでも、ここまで来た。
けれど。
そのほとんどを、誰も覚えていない。
「……スバル?」
不意に声がかかった。
顔を上げると、エリスがこちらを見ていた。
「何しけた面してんだよ」
「……へ?」
「飯がまずくなるだろ」
「もう食い終わってんだろうが!」
「細けえこと気にすんな」
エリスは愉快そうに笑った。
その笑顔を見て、スバルもつられて笑う。
――こいつは。
何も知らない。
自分がどんな思いをしてきたのか。
何を失ってきたのか。
それでも。
こうして、当たり前のように隣にいてくれる。
今は、それだけで十分だった。
◇◇◇
「――さて、と」
食堂を出たスバルは、廊下の真ん中で大きく伸びをした。
「今日も一日、頑張りますかねぇ!」
「その意気込みが仕事に反映されることを祈っているわ」
背後から、ラムの声が飛んでくる。
「おっと、ラムちー! 俺のやる気を疑うのはよしてくれよ!」
「疑ってはいないわ。期待していないだけよ」
「もっとひでえ!」
ラムは涼しい顔でスバルの横を通り過ぎた。
その後ろを、レムが続く。
「スバルくん、今日はお屋敷のお掃除をお願いできますか?」
「おう、任せとけ!」
元気よく答えかけて。
スバルは、ふと思い直した。
――いや。
今日、やるべきことは別にある。
呪術。
ベアトリスから聞いた、死因に関わるかもしれない情報。
もし本当に呪いによって死んだのだとすれば、原因を突き止めなければならない。
屋敷の中だけを調べても、答えが見つかるとは限らない。
ならば。
「……なあ、レム」
「はい?」
「今日ってさ、村への買い出しとかない?」
「村へ、ですか?」
レムは小さく首を傾げた。
「はい。ちょうど午後から、食材の買い出しに行く予定ですが……」
「マジで!?」
思わず声が大きくなる。
「じゃあさ! 俺も連れてってくれよ!」
「スバルくんも、ですか?」
「おう! 荷物持ちでもなんでもするからさ!」
レムは少し驚いたように目を瞬かせた。
「それは助かりますが……」
「なんだよ?」
「お屋敷のお仕事は、よろしいのですか?」
「うっ」
痛いところを突かれた。
スバルは視線を泳がせる。
「そ、それはほら! 村への買い出しも立派な仕事だろ?」
「それはそうですが……」
「な? な?」
必死に食い下がるスバル。
そんな二人のやり取りを、少し離れた場所から眺めていた男がいた。
「――おい」
「あ?」
振り返る。
そこには、腕を組んだエリスが立っていた。
「お前、村に行くのか?」
「……ああ、まあ」
「ふーん」
エリスは小さく頷く。
そして。
「じゃ、俺も行くわ」
「……へ?」
あまりにも自然な一言だった。
「いや、お前も?」
「そう言ってんだろ」
「なんでまた?」
その問いに、エリスは心底呆れたような顔をした。
「……お前、忘れたのか?」
「……何を?」
「俺、お前のそばにいるって言ったよな?」
「……あ」
そうだった。
禁書庫で交わした約束。
自分の身に何が起こるかわからない。
だから、できる限りそばにいてほしい。
そんな頼みに、エリスはあっさりと頷いた。
「……いや、覚えてるけどさ」
「なら聞くなよ」
「いやいや! だってお前、ずっと俺について回るつもりなの!?」
「そう言ってんだろ」
「マジで!?」
「うるせえな。嫌ならやめるぞ」
「嫌じゃないです! むしろ大歓迎です!」
即答だった。
エリスは鼻を鳴らす。
「ったく、忙しい野郎だな」
そんな二人のやり取りに、レムが小さく笑った。
「ふふっ。エリス様もご一緒なら、安心ですね」
「だろ?」
エリスは当然のように頷く。
「お前は少し謙遜を覚えろ!」
「事実だろうが」
「ぐぬぬ……!」
レムは微笑みながら、二人を見つめていた。
「では、午後の買い出しにはお二人にも同行していただきましょうか」
「よっしゃ!」
スバルは拳を突き上げる。
これで、村へ行ける。
手掛かりが見つかるかはわからない。
けれど。
何もしないよりは、ずっといい。
「……エリス」
「あ?」
「頼りにしてるぜ」
「当たり前だろ」
エリスは不敵に笑った。
「俺がついてんだ。安心しとけ」
「……おう!」
スバルも笑った。
ただ。
その胸の奥には、消えない不安が残っていた。
呪い。
正体のわからない敵。
そして。
また、何もわからないまま死んでしまうかもしれないという恐怖。
それでも。
隣には、エリスがいる。
今度こそ。
何かが変わるかもしれない。
そんな小さな期待を胸に。
ナツキ・スバルは、午後の村への買い出しを待つことにした。
◇◇◇
「――ところで、エリス様」
スバルと別れたあと。
廊下を歩いていたエリスに、ラムが声をかけた。
「あ?」
「本当にバルスについていかれるのですか?」
「ああ」
「……あの男に、そこまでしてやる必要があるとは思えませんが」
「なんだよ。あいつのこと嫌いなのか?」
「別に。ただ、少々騒がしく、仕事も未熟で、無駄口が多く、落ち着きがないだけです」
「ボロクソじゃねえか」
エリスは思わず笑った。
ラムは涼しい顔のまま続ける。
「ですが、悪人ではないと思っています」
「……ふーん」
「エリス様は、あの男を随分と気にかけておられるようですね」
その言葉に、エリスは小さく首を傾げた。
「別に?」
「……そうですか」
「約束したからな」
「約束、ですか?」
「ああ」
エリスは当然のように答えた。
「そばにいてくれって言われたんだよ」
「…………」
ラムは目を瞬かせた。
「……それだけですか?」
「それだけだ」
「……随分と単純な理由ですね」
「悪いか?」
「いいえ」
ラムは小さく首を振った。
そして、ほんのわずかに微笑む。
「……エリス様らしいと思っただけです」
「そうかよ」
エリスは肩をすくめた。
「ま、あいつ見てると退屈しねえしな」
「それは否定できませんね」
「だろ?」
エリスは愉快そうに笑った。
その笑顔を見て、ラムも小さく息を吐く。
――不思議な方だ。
ラムは思った。
エリスは、決して善人らしく振る舞おうとはしない。
口は悪い。
態度も大きい。
他人に遠慮するということを知らない。
それなのに。
誰かに頼られれば、当たり前のように手を差し伸べる。
見返りを求めることもなく。
恩着せがましく振る舞うこともなく。
ただ、自分がそうすると決めたから。
それだけで、行動する。
「……まったく」
ラムは小さく呟いた。
「本当に、困ったお方です」
その声は、どこか柔らかかった。
◇◇◇
そして、午後。
ロズワール邸の玄関前には、三人の姿があった。
「よーし! それじゃあ出発といきますか!」
「スバルくん、随分と張り切っていますね」
「そりゃあもう! 村の皆さんに、このナツキ・スバルの勇姿を見せつけてやらねば!」
「勇姿ねえ……」
エリスが鼻を鳴らす。
「荷物持ちに勇姿もクソもあるかよ」
「お前、もうちょい夢のあること言えねえの!?」
「夢見てねえで現実見ろ」
「ぐはっ!」
胸を押さえてよろめくスバル。
レムが小さく笑った。
「ふふっ。お二人は本当に仲がよろしいですね」
「まあな!」
スバルは胸を張る。
エリスは面倒くさそうに肩をすくめた。
「ほら、さっさと行くぞ」
「へいへい!」
三人は歩き始める。
穏やかな陽光。
心地よい風。
どこまでも続く、緑豊かな道。
そんな平和な景色の中で。
スバルだけは、別のことを考えていた。
――村。
あそこなら、何か見つかるかもしれない。
誰が自分に呪いをかけたのか。
そもそも、本当に呪いが原因なのか。
まだ何もわからない。
けれど。
今度こそ。
何も知らないまま死ぬのだけは、御免だった。
「……おい、スバル」
「ん?」
「置いてくぞ」
顔を上げる。
少し先で、エリスが振り返っていた。
その隣には、レム。
「……ああ!」
スバルは小さく笑った。
そして、二人のもとへ駆け出す。
――大丈夫。
今度は、一人じゃない。
そう自分に言い聞かせながら。
村へと続く道を、歩いていった。
うむ