「ぎゅー....」
朝、私は快の感覚と共に瞳を開く。全身を包むそれは日課となったルーミアの抱擁に他ならない。最近の彼女は、眠る前ばかりでなく、私が起床した時でさえ私を抱き締め、甘えてくるようになっていた。
「おはよ....二度寝、する?」
彼女が優しく耳元で囁く。起き抜けの思考を蕩かす甘い誘惑に、原始的な二つの欲求が交わり全身を弛緩させる。しかし、一度でもどちらかの慾望に屈してしまえば、ずるずると不健全な生活に堕ちて行く事は目に見えていた。
....実際、誘惑の理由はルーミアにとって純粋であれど、人間にとって健全とは言い難い。つまり、陽の光に晒されるよりも、闇の中でゆったりと過ごしたいのだろう。
「....早起きは生活の基本ですよ。それに....ルーミアは兎に角、今日の私は椛さんと大将棋をする予定ですから。流石に寝過ごしては申し訳が立ちません」
「ちぇっ....」
拘束から脱した私はベッドから起き上がる。闇を抜け、光が見えた頃、乱暴に扉を叩く音が室内に響き渡る。
「おや、こんな時間に来客でしょうか....」
「"起き過ごした"妖怪とか?」
「....有り得ますね。影狼さん達も一度人間ゲームが白熱し過ぎて朝まで延長していましたっけ....」
ともあれ、朝から戸を叩くとなると、恐らくは相応の理由があるのだろう。私達は玄関へと向かい、扉を開く──
「──ここが妖怪の集まってるっていう家?」
扉の先に居たのは、奇妙な少女だった。着ている服は....巫女服なのだろうか? 脇から二の腕の上方辺りまでが空いた紅白の服を身に纏っていた。
「....ええと」
不思議と彼女が"巫女"である事は理解出来た。巫女らしい服装も手伝っていたのだろう。しかしそれ以上に、彼女から発せられる特有の雰囲気は、現し世から隔絶された超然を示している。恐らくは、彼女こそが魔理沙の言っていた──
「博麗霊夢、さん....?」
「そうだけど、何か文句ある? 妖怪屋敷の家主さん」
妖怪が集まっているかどうか、私が返答をするよりも前に彼女はこの家を妖怪屋敷であると断言する。人の話を聞いていない....或いは、とっくに確信しているようですらあった。魔理沙が言うに、彼女の性格は冷徹にして冷酷。霖之助さんから苦笑されていた辺りどこまで信用出来るか疑問が残るが、それにしてもこの状況は....危険かもしれない。
「あー....その、命とか....狙ってます?」
「うん? そりゃ必要なら殺すけど....」
彼女はさらりと言い放つ。そこには何の躊躇いも、気負いもなかった。
霖之助さんの言葉を思い出す。曰く、博麗の巫女たる彼女は幻想郷のバランサーとしての役目を果たし続けている。その中には妖怪の退治のみならず、禁忌へと触れた人間の排除もまた含まれているのだ、と。
「──殺す?」
一歩後ろに下がった私とは正反対に、ルーミアはその言葉に反応して顔から感情を脱落させる....じっと、霊夢を見つめる。
「あなたが、天戸を?」
彼女は腰を落とし、霊夢へと飛び掛る体勢を取る。手にはスペルカードすら握られていない。ただ、その瞳は首筋へと向けられていた。俄に殺気立つ空気の中で、自分はその全てと関係がないのだとでも言うように、霊夢は平常に語り続ける。
「よくそこまで妖怪を躾けたわねぇ。私でも叩いて黙らすのが限界なんだけど」
「....ルーミアは下僕ではありませんよ」
「そう? まぁ、どっちでも良いわ。それじゃあ私は帰るから」
霊夢が一歩下がる....扉が閉まる。ガタンという音が響き、辺りに静寂が戻る。
「....えっ....えっ?」
「....帰っちゃった....」
私とルーミアは顔を見合わせ....とりあえず、扉を開く。本当に帰ろうとしているらしい霊夢の姿を見つける....彼女は振り返り、迷惑そうにこちらを見た。
「....何よ、まだ何か私に用事があるの?」
「いや、用事というか、その....この家を潰す為に来た訳ではないんですか?」
「妖怪家主が云々って話を聞いたから一応来てみたけど、中身が何処ぞの雑魚妖怪とただの人間じゃあねぇ」
「天戸、殺さない?」
「ああ、さっきも同じ事言ってたわね....天戸ってのはそこの人間? だったら、殺す訳ないでしょ、妖怪とは違って人間は簡単に生き返れないんだから」
....どうやら、主語を脱落させたせいで互いにすれ違っていたらしい。とはいえ、逆説的に言えば妖怪は迷いなく討ち滅ぼすという事でもある。ルーミアの前に立つように一歩進むが....霊夢は、その姿を見て呟く。
「....庇い合う人妖なんて、明らかに
「事件....?」
霊夢は....恐らくは独言であろう言葉が聞かれた事に対して溜息を吐く。
「耳聡い奴ね....まあ、一応警告しておいてあげる」
彼女は静謐にこちらを見つめる。それだけで、続く言葉の重要性を、肌が感じ取る。
「昨日の夜、いきなり人里の妖怪達が狂いだしたのよ。理由はまるっきり不明だけど....あんたも飼い犬に手を噛まれないように気を付ける事ね」
そう言って、彼女は今度こそ去っていった。
・・・
九天の滝の裏。瀑声轟く洞窟にて、私は椛と向かい合っていた。合間を埋めるように置かれた15×15の将棋盤には馴染みのない数多の駒が所狭しと並べられている。恐るべき長丁場が予想されるそれは、つまり大将棋の盤面だ。水音に交じり、私達は駒音を響かせる。天狗の駐屯所という事で最初は遠慮もあったが....待機しているのは基本的に彼女だけ。最近は駐屯所にお邪魔しているというより、椛の家で遊んでいるような感覚だった。
「──それで、その鴉天狗からいきなり文句を付けられてさぁ....」
「それはこうして仕事をサボっているからでは....?」
「でも侵入者なんてそうそう来ないし....そもそも、天狗のお偉いさんは私よりも強いのよ? 仕事だからそこそこにやってるけど、哨戒なんて無駄無駄」
「ぶっちゃけるなぁ....」
駒を打ちながら、世間話に興じる。基本的には椛の愚痴を聞くだけなのだが、垣間見える妖怪の山の社会秩序はとても興味深い。それに、話に応じてぴょこぴょこと動くケモ耳と尻尾は見ていて飽きが来ない。何とか撫でさせてくれないものか──
「なんか....ずっと見てるけど、私の頭に何か付いてる?」
「....ああ、いえ、その....」
しまった、思考が趣味に引っ張られ過ぎていた。
「失礼しました。あまりにも凛々しい御耳に見惚れていまして....はい....それだけです」
「へ、へぇ....」
不埒とされるであろう部分を隠し、真実とも取れる形で言い訳する。冷静に考えて、彼女は人ならざる妖怪だ。身体に触りたいなどという願望は財団職員としても明らかに持つべきではない──
「....そんなに気になるなら、触ってみる?」
「えっ良いんですか?」
「う、うん....」
──だがしかし、しかしだ。据え膳が用意されているのなら、手を付けても多少は問題ないのではなかろうか? 椛は私の即答に少し怯んだが、将棋盤をずらし、私の側に寄る。
「なるべく優しくしてね?」
倫理的な問題を一旦無視し、彼女の懇請に応えるように彼女の耳の裏側を優しく撫でる。指がふわりと吸い込まれていく。毎日手入れをしているのだろう、その素晴らしい毛並みに惚れ惚れしてしまう。妖怪にも適応されるかは分からないが、聴覚が鋭敏な動物ほど、耳に疲労を溜めるものだ。撫でるのを止め、マッサージとして軽く耳元を揉み始めるが....
「ふぁ....あ....」
彼女はすぐに気の抜けた声を漏らし、遂には私に身体を預ける。その瞳はトロンとして、服から覗く白い肌は微かな桜色に彩られていた。あまり感じるべきではない背徳感と共に、妙な色気が鼻腔をくすぐる。
....ふと、可愛らしい獣に抱くものとは異なる感情が首をもたげる。あくまでも耳を触っているだけだ。ただそれだけの話なのだが....このままだと、何か....非常に不味い気がする....
「....そういえば、その、実は椛さんに聞きたい事がありまして....」
「んぅ....なぁに....?」
私は脳裏に浮かび続けていた話題を切り出す。もう少し真面目なタイミングで聞きたかったが、このまま無言で通し続けるのは危険だ。三大欲求に関連する人間の自制心というものは信用するべきではない。それに、こちらの方が情報は引き出し易いだろう。
「──実は人里で妖怪がいきなり暴れ始めたという話を聞きまして。妖怪の山では大丈夫だったんでしょうか?」
「いつもどおり、平和だった、けど....ふぁ....お耳とんとんされると....あたまふわふわしちゃって....あぅ....」
「す、すいません──」
艶っぽい声でそう主張する椛を前に、私は耳を揉みほぐす手を止める。だがしかし、彼女は寂しそうにこちらを見つめ、喉を"くぅん"と鳴らす。
「.........ふぅっ.....」
彼女を撫で回したい衝動を辛うじて抑える。これ以上は駄目だ、後戻り出来なくなる。
「うう....おしまい?」
「これでおしまいです。話に集中出来ないでしょうし」
「....責任取ってまたやってね? こんなの初めてだったんだから──」
「....その....はい」
....もしかしたらとっくに後戻りの出来ない所まで進んでしまっているのかもしれない。だが、まあ、立ち止まる事は可能だろう。少なくとも、私の信用ならない自制心が保たれている限りは....
ともあれ、ある程度の平静を取り戻した彼女は、何故か私に身を預けたまま語り始める。
「それで....私は下っ端だからよく知らないけど、上の天狗は何か知ってるかも」
「上の天狗、ですか?」
「鴉天狗なんかはよく新聞のスクープが云々とかで幻想郷中を飛び回ってるからね」
「ちなみに、その鴉天狗の方々を紹介して頂けたりは....」
椛は少し考えて、お手上げというように肩を竦める。
「無理ね、知り合いはふたり居るけど、ひとりは大体引き篭もってるし、もうひとりは....絶対紹介したくないし」
「そんなに」
「あいつは....まず間違いなく私達の関係について新聞にあることないこと書くわよ。饅頭一つ賭けたって良いわ」
「あやや、私の事を呼びましたか?」
「いや、だからほんとに呼んでな....えっ??」
第三者の声に、私は咄嗟に振り向く。洞窟の入り口に、黒羽の少女が立っている。彼女は今まさにカメラを構えており──
「げっ──」
パシャリ。シャッター音と共に、薄暗い洞窟へ一瞬光が差し込む。少女はカメラを降ろし、にこやかな笑みを見せる。椛が私に身を預けているこの光景はどう考えても誤解しか生まない。いや、実際に"そう"なりかけたので誤解と弁解できるかも怪しいが....
「こんにちは、清く正しい射命丸文です。そちらの人間様に付きましては、以後お見知りおきを──」
「....こ、こんにちは....?」
彼女は私に会釈した後、饅頭を一つ椛に投げ渡す。椛の表情は明らかにこわばっていた。
「その、文様? 饅頭を頂けるのは嬉しいんですが、どういう意図による贈与品かお聞きしても?」
「もしかして、あなたが賭けの勝者であるという以上の説明が必要かしら? まぁ、書くとすれば文々丸新聞ではなく文々春新報の方ですが」
「週刊誌、でしたっけ? あれって私の....えっと、
「一寸ばかし問題がありましたが、発刊を諦めた訳ではありません。謗るつもりなら私は袋とじの中身を流出させたって良いんですよ?」
「最悪の自爆じゃないですか!巻き込まれる姫海棠様に申し訳なさとかないんですか?」
「?」
「....ざ、罪悪感の欠片もなさそう....」
二人はつらつらと棘のある雰囲気のまま会話を続ける。会話の内容はよく分からないが、彼女らの会話は険悪というより、寧ろ──
「仲良し....?」
「「それは
凄い、息ぴったりだ。
「それで、文様は何の用でこんな所まで来たんですか? まさか本当に私達の事を新聞のネタにする為だけに....?」
「まあ、相手が普通の人間であればそれも良かったですが、残念ながら椛、あなたに用はありません。用があるのはそちらの人間てす」
「私に....?」
文はもう一度会釈し、私に向けて手を伸ばす。私は彼女の事をまるで知らないが、彼女の所作には、何故か私への敬意が含まれていた。
「──大天狗様があなたをお呼びです。同行して頂けますか?」