少女の登場と共に、どことなく黴臭かった室内へ甘い芳香が満ちる。ずっとその香りに包まれていたくなるような、癖になる香りだ。
「お疲れ様です、天戸様♡」
「その、あなたは....?」
「ああっ、私とした事がついうっかり....飯綱丸様より貴方のお世話を仕りました、菅牧典と申します」
彼女は恭しく一礼すると、そのまま私の席に椅子を寄せて側に座る。パーソナルスペースを侵犯されているにも関わらず、何故かそれを咎める気持ちは湧いてこない。
「貴方の望む全てをどうかこの私めにお申しつけ下さい、ね?ふふっ....♡」
「....いえ、その、お気持ちは有り難いのですが....別に用命などは....」
それどころか、彼女の囁きは思考の関所をするりと抜けて心の奥底を侵犯してくるようだった。口で否定しようとも、目の前の少女への征服感が思考を侵すように湧き出してくる。必然的に生まれる次なる欲求が、視線を彼女の肢体へと向けさせる。身体を隠す白絹は、しかし肌の輪郭を隠そうともしていない。
「ん〜?」
そんな私の姿を、彼女はニヤニヤと見つめていた。
「おかしいですねぇ?最初は耳と尾ばかり見ていたのに、今となっては胴体ばかり....」
寧ろ
「──そんなに私のカラダが魅力的でしたか?」
「....っ....」
私は立ち上がり、密着から逃れる。彼女は明らかに私を誘惑しようとしていた。理解して....それでもなすがままに堕ちてしまいそうな妖しい魅力を、彼女は孕んでいた。その手管は人のものとは思えない。私にとって一つの幸運があるとすれば、そのような甘い罠には構っている暇がない、という事だ。
「もう一度言わせて貰いますが、用命はありません....如何せん、急いでいるので」
「....ふふ。どうやら、時期が悪かったご様子....それでは出直して参ります♡」
余裕たっぷりの典を無視して私は足早に資料室から退出する。甘い香りの消滅が齎す喪失感を、意図的に振り払う。
──九天の滝は椛の休憩所だ。彼女の身に危険が迫っている可能性がある。
・・・
魔法加速を伴い山を駆け下るという本来ならば無謀な強行軍によって、私は日が落ちるよりも速く九天の滝に辿り着く。退勤の時間だろうか?彼女は丁度、滝の裏から出てくる所だった。
「椛さん、無事ですか?」
「ひゃっ....」
息を切らし駆け寄る私に驚いたのか、彼女は軽く跳ねた後、ぱちくりと目を瞬かせる。
「お、お疲れ様です、天戸様!」
「えっ?」
ピンと立てられた耳と尻尾。そして今まで向けられた事もない口調と呼び方に今度は私が驚いてしまう。とはいえ、別れた時の状況を鑑みて理由には思い至る。
「その....椛さん。私は別に天狗の社会において何らかの階級に付いている訳ではありませんし、偉くもないただの人間です。そもそも友人なんですから、そんなに畏まらなくたって大丈夫ですよ」
「あ、そうなの....?」
安堵したように椛の耳と尻尾がくたりと垂れる。彼女の様子を見るに、何らかの異常は感じられない。
「えっと....大将棋とか、またしてくれる?」
「ええ、勿論」
「じゃあ....私の耳もまた触ってくれる....?」
「....その....まあ、はい」
「....ふーん」
何かを期待するように振り回される尻尾から目を逸らす。魂を蝕む人ならざる誘惑は、心に粗熱を残していた。今は...."なし崩し"に対応出来る気がしない。
「──それより、椛さん。どんな些細なことでも構いません。洞窟に異常はありませんでしたか?」
「異常?あの後もほとんどずっとあそこで待機してたけど....別に何にもなかったわよ」
彼女は不安そうに洞窟を振り返る。
「第一声といい、もしかしてあの洞窟に何かあったの?詰所が曰く付きだと業務に支障が出るんだけど....」
「一言で言うなら誰かが圧死する可能性があります」
「もしかして落盤?そのくらいなら許容範囲ね」
「幻想郷は剛毅だなぁ」
落盤がセーフだとは思わなかった。だが状況は椛が言うほど単純でもない。現状では何が起こるか皆目見当も付かないのだ。
「ともあれ、情報提供に感謝します。では私はこれで....」
「ちょちょちょっ──」
礼を言って彼女を通り過ぎようとするが彼女は私の肩を掴んでくる....膂力が違いすぎて抵抗出来ない。
「.....椛さん?」
「いや....今なんの迷いもなく洞窟に向かおうとしてたわよね?ひ弱な人間を一人でそんな所に向かわせる訳ないでしょ」
「ですが、これは....」
「──私も同行する。なんの目的だか知らないけど、あなたを守るだけだなんて残業としては最高の部類よ」
「....」
彼女は武器を構えてそう宣言する。明確な意志を宿す瞳は、いつかのルーミアとどこか似たものがあった。彼女は私の反応に関わらず付いてくるつもりだろう。つまるところ、返答もたった一つだ。
「....分かりました、この身はあなたに預けます。しっかり
「とーぜん」
・・・
私達は警戒しながらも滝裏の洞窟へと足を踏み入れる。大仰な事を言ったが、今の今まで椛が詰めていた場所だ。分かりやすい異変が起こっている可能性はまずない....筈なのだが.....
「うわ、これって....」
「....人間の死体、ですね」
洞窟には、少女の死体が転がっていた。彼女には何の外傷もない。しかしVERITASの視界によっても生命の兆候、生命力のようなものは一切感じられなかった。
「....心音が聴こえないし、完全に死んでる。でも、こんな死体は千里眼にも反応がなかったのに....」
椛は気味悪そうにその死体を見つめる。私も同様だ。死体の容姿は件の"事件"の被害者の年齢と一致しているように見える。偶然では片付けられない状況だ。しかし彼女は、"圧死"などしていない──
『かわって』
「え....?」
考察が齎す沈黙の中。聞こえた声は椛のものとは似ても似つかなかった。声を辿った先にあるのは、死体だ。
刹那、視界にノイズが走る。死体が立っている。生気の無い瞳は、じっとこちらを見つめていた。
「なッ!?」
死体に気を取られているうち、上方より轟音が響き渡った。見上げれば、巨大な岩石が私に接近している──
「──伏せて!」
突如の強襲に対して誰よりも速く反応したのは椛だった。彼女は臆することもなく巨岩へと跳躍し、剣を叩きつける。私の声帯が無謀を咎めるよりも早く、大質量に対する挑戦が終わる。
──剣の到来と共に、巨岩は粉々に砕かれていた。盾によって飛来する石礫から守られながら、私は彼女が落盤を許容した所以を理解する。この程度では脅威になり得ないのだ。
「ちょっと天戸!?何あれ、亡霊!?」
「調査中です....!」
「うわーっ!上の天狗がよく言うやつ!」
再度死体へと視線を戻すが微動だにしていない。マネキンのようにじっとこちらを見つめ続けている。動きを見せたのはその少女ではなく、粉々になった岩だった。
「あの....少なくともこれ、落盤とかそういうレベルの話じゃないわよね....?」
震え、浮かび、飛来し....一塊の存在であった全ての石礫が、私達を中心として集結を始める。非現実的な事象によって、私達の圧死は途端に現実味を増していく。
「っ...."飛べ"!」
私とて異常が懸念される空間に無策で突っ込むような無茶はしない。予め用意された魔法が発動し殺意に満ちた光景は雄大な滝に置換される。瞬間移動によって、私達は洞窟の外に辿り着いていた。
「えーっと....もしかしてこれが走馬灯?」
「落ち着いて下さい、私の能力です」
唐突な瞬間移動に混乱する椛を横目に私は洞窟を見つめる。
「妖怪を引き連れてたり大天狗様に呼ばれてたり....どう考えても色々おかしかったけど、やっぱり普通の人間じゃなかったかぁ....」
「まぁ、はい。あの魔理沙さんが普通の魔法使いなら私も普通の人間で良い気はしますが」
....しかし今の所、遺骸の少女が追い縋って来る気配はない。攻撃はあくまでも受け身の迎撃に限るという事だろうか? 同様に安全を確認した椛が大きく息を吐く。
「それにしても....とんでもないものの調査を頼まれてるわね、あなた」
「飯綱丸さんもこうまで直接的な危険が存在するとは考えていなかったでしょうね....」
大概の異常存在は人智において予測不能だ。それを証左するように、奇跡論に顕在化させられた私の第六感は警鐘を鳴らし続けていた。恐らく安寧は一時的なものだ、すぐに次が来る。
「....あの存在に認知された以上、一人になれば隙を狙われるかもしれません。巻き込んでしまって申し訳ありませんが....」
「一緒に居るべき、よね。けど、そろそろ暗くなる頃だし、天戸の家に向かうにはちょっと....遅いし....」
彼女はかなりの逡巡の後、ボソリと呟く。
「....私の家、来る?」
・・・
私は九天の滝の洞窟を椛の家のようなものとして認識していたが....365日24時間そこに詰めているのでは天狗社会はブラックどころの話ではない。当然ながら椛にも本当の棲家は存在する。
「ここよ」
河童達の棲む玄武の沢の近場。森の木々に埋没し隠れた小さな木造建築。椛に導かれて、私は彼女の家を訪れていた。
「中は、その、あんまりこう....物色しないでね?」
「無作法は起こしませんよ」
扉を開き、椛が私を手招く。中に入ると、幻想郷においては極めて珍しい光源が私を迎える。電球だ。彼女の家には夜闇に逆行する文明の光が灯っていた。
「ここ、河童の棲家が近いから水妖エネルギーを引っ張って来れるのよね」
「流石の技術力ですね....」
妖怪の山の技術水準の高さには感嘆してしまう。他の技術を探して辺りを見回すが....見ているだけでも面白い。
どうやら椛の家はワンルームらしい。食器や保管された食材などからは古風な印象を受けるが、精密に加工されたテーブルやふかふかのカーペットは間違いなく高度な技術力の賜物だ。蛇口の付いたキッチンを見るに水道も完備されているらしい。もしや妖怪の山には水道管という概念が存在しているのだろうか....?
「あのー....」
そうして部屋を見定めているうち、ジトっとした瞳がこちらを向いている事に気付く。
「....もしかして好奇心の物色なら良いと思ってる?」
「....あッ....すみません、つい....」
「美術品を検めるみたいな目で自室を凝視されるの普通にちょっと怖いからね?そんなに見るものなんて無いでしょうに....」
「いえ、そこは自信を持って下さい。一日中でも見ていられますよ」
「前言撤回、すっごく怖いわ」
「それに比べたらあの幽霊は随分マシね....」
「実は恐怖の緩和を狙っていたという事にしても?」
「ぬかせ」
「バッサリ切り捨てられたなぁ」
元より気安い友人の関係だ。ペースが戻れば避難所は遊び場に早変わる。異常存在に相対するものとして緊張感は常に持つべきだが....この調子なら重い緊張によって能力が低下するような事態はありべからざることだろう。
「....そうすれば布団は一つしかないけど、共用って事で大丈夫?」
「えっ」