パチュリーは木箱をテーブルに置くと、二人がけのスツールに私を招く。鼻をくすぐるラベンダーの香りに乱される思考を整え、私は地図へと直面する。
古ぼけた極小の地図、超常そのものである紅魔館の面々からさえも異常であると見做されたそれは、ただの紙切れにしか見えない。直接私にそれを見せた以上、一見で作用する異常物品である可能性は元より低いだろうが....
「ふむ....」
地図の内容そのものには、どうも見覚えがある。
「....人里の地図、でしょうか?」
「補足するなら人里の中心部の地図かしら」
記憶は正しかったらしい。そして地図もまた、記憶に準じるならば地理の正確性はかなりのものだ。
「....紙の劣化からしてかなり昔の地図のようですが....人里というのはこうも変わらないものなんでしょうか?」
「む....」
私の疑問に対して、パチュリーはすぐに答えを返す様子はない。ただ、その瞳に映っているのは感心のようだった。
「あなたはやっぱりこちら側ね。過去と現在を切り離すその思考を、幻想郷の住民はちっとも持とうとしないのよ」
「過去は顧みない主義ですの」
「咲夜の話はしてないわ。頻繁に入り込んでくる鼠の話」
「....」
前々からの事だが、彼女達の言葉遣いというか、隠語はやけに物騒だ。入り込んた"鼠"はどうなったのだろうか。
「....その鼠って生類哀れみの令は適応されてます?」
「もう長い付き合いですから、そろそろあの黄色い鼠にもワシントン条約くらいなら適応して良いかもしれませんわ」
「まあ、あそこまで魔法を修めておきながら人を止めない魔法使いは絶滅危惧種かもね」
「ああ」
黄色の魔法使い..... 頭の中で鼠のイメージが怯えた村人から不敵に笑う少女にシフトする。彼女は妖怪の山を焼き払っただけでは飽き足らず、紅魔館にすらその魔手を伸ばしていたらしい。
「....っと、そうじゃないか。つまり、ええ。あなたの疑問は正鵠を射ったものよ。この地図はあまりにも正確すぎる」
「とはいえ、それだけならかなり穏当な異常ですね。幻想郷の住人であれば同様のものを存外簡単に作れそうですが....」
「それだけならね」
正の感情を示していたはずの彼女は、しかし地図を見つめ、感情を変転させる。浮かび上がるのは、憂鬱と微かな恐怖....だろうか?
「最初は私も単なるマジックアイテムだろうと高を括っていたわ。少し研究すれば解明できるだろうって、気軽な考えで地図と向き合っていた。
「月魔法....?」
月....人里....何か、同じワードを聞いた事があるような....
「....」
いや、そうだ。妖怪の山で、天狗のはたてに村で妖怪が暴走した事件を調べて貰った事がある。その時に原因として挙げられたのは、確か....
「....夜中の人里に現れた2つ目の月」
パチュリーの瞳孔が開く。その感情は反復し、元の地点すらも追い越したようだった。感心、というよりも驚愕が私に向けられる。
「正に、それが第二の異常よ。つまり──」
「この地図に対して与えた顕著な影響は、"人里に同一の変化を齎す"の」
「....」
ただ、驚愕を感じたのは、私も同様だった。
「もしもこの地図を破壊したら....」
「人里の中心部は壊滅するでしょうね。月の一件以降、手出ししていないから確定ではないけれど」
類感による被害の拡大。それは財団の蒐集物にも時折見られる異常性だ。規模についても、絶対にあり得ないというほどではない。問題はそこにはない。
「今まで私が対応して来たものは....あくまでも幻想郷に根ざしているとは考え辛い"異物"でした。ですがこれは....」
明らかに、幻想郷そのものを標的にしている。
口に出さずとも私の言いたい事を理解したらしい。彼女は重々しく頷く。
「呪術的な力は、形を真似ることを基礎とする。時の権力者が世界図を自らの絵画に描かせる事で逆説的に世界を牛耳ろうと目論んだように、古来より"似た存在は互いに影響を及ぼし合う"とする性質は研究されて来た。そういった意味ではこの地図も類感呪術の一つに違いないと思うのだけれど──」
「問題は、こんなものを誰が何の目的で作ったのか、ということよ」
彼女の知性には舌を巻いてしまう。異常存在への特化的な専門知識なしで適切に実験を打ち切り、ここまでの考察を行える者などそうは居ない。私以外を図書館に呼ばなかったのも、外部への情報流出を恐れてのものだろう。私は仲間を信頼しているが....だからこそ、彼女らがうっかり情報を漏らしてしまうような事がないとは断言できない。
「あなたが底知れぬほどに聡明であった事は、紅魔館が得た最大の幸運の一つでしょうね」
「....」
横跳びするパチュリーの情動が、ここに来て妙な方向へと跳ねる。彼女は赤面していた。
「こ....こんな時に何を言い出すのよ。褒めたって魔導書と賢者の石くらいしか出ないわよ」
「至尊の産物ですよそれ」
「至尊の魔法使いだもの」
すごい自己肯定力だ。しかし、私の一言に赤面する余地などあっただろうか。賢者の石が齎す名声に比べれば路傍の石のようなものだろうに。
「....とにかく、あなたに求めるのは取扱の確認と性質の分析よ。欲を言えば、無力化も。こんなに貴重な品を手放すのは惜しいけど、必要とあらば──」
「ほほう、良い事を聞いたな」
「えっ?」
聞き馴染みのある声が図書館に響く。咄嗟に服からナイフを取り出した咲夜の周りを、結界が取り囲む。
「おっと、貴重な動物はしっかり保護しておかないとな」
「メイドを捕まえて喜ぶなんていつの時代の人間よ」
「生憎、私は古風な魔女でね」
上空からの言葉に視線を向ける。白黒の衣服に金色の髪。普通を自称する大魔法使いが、浮かぶ箒の上に腰掛けていた。
・・・
「魔理沙さん....?」
その声に魔理沙が反応する。ようやく視線がピタリと合う。
「む、隣に誰か座ってると思ったら天戸か。なんたってこんな薄暗い図書館で、暗い魔法使いの隣に座ってるんだ?まさかお前、パチュリーまで.....」
「誤解です。それより、魔理沙さんこそどうして紅魔館に?」
「強盗ごっこ」
「なんでもごっこを付ければ許される訳じゃないですからね?」
「おいおい、別に本気で盗むつもりはないぞ」
魔理沙の眉が悲しげに下がる。しまった、流石に今のは断定が過ぎたかもしれない。彼女は数多くの異変を解決した秩序側の人間だ。それに、彼女がその第一印象よりも遥かに"優しい"事もよく理解している。冷静に考えれば、本気で強盗なんてする筈が....
「ただ、死ぬまで借りてくだけだぜ」
「強盗だなぁ!」
強盗だった。なんなら罪の意識がない分普通の強盗よりひどい。
「これが幻想郷の基準点よ、あなたもよく覚えておくことね」
パチュリーが立ち上がり、同様に魔理沙と相対しようとした私をその手で制止する。魔導書を携える彼女は、魔理沙にも劣らず不敵に笑っていた。
「今日だけは盗みに入って来た事を許してあげるわ。お陰で、全力の魔法が試せるもの」
「全力....ああ、貧血を直したのか?そういう事なら、食中毒でぶっ倒れる前に天戸と相席してる理由だけ教えてくれれば嬉しいんだが」
「盗人に語るような話じゃない事だけは確かね」
会話が打ち切られ、発せられる声は詠唱へと転じる。歌のように諳んじられる言葉が七色の魔力を流動させ、絶えず抑制と増幅が繰り返されていく。その光景は、あまりにも美しい。どれだけの技量があればこの狂気的なまでに複雑な奔流を制御出来るというのだろうか。
「凄い....」
魔理沙とて、これほどの大魔法を前にしてはただでは済まないだろう。目を奪われるほどの光景に別れを告げ、魔理沙の様子を見る。彼女は.....何故か手を大きく振りかぶっている.....?
「よっと」
「むきゅっ」
「あっ」
放り投げられた本が、そのままパチュリーの頭にクリーンヒットしてしまう。立ち姿がぐらりと揺れる。
「パチュリーさん!?」
彼女を抱き留め、床に倒れる事を阻止するが.....
「あぅ....」
ぐるぐると目を回している。目を覚ます様子はない。
「ひ、貧血以前に身体が脆弱すぎる.....」
「万全のお前に魔法合戦を挑むわけないだろ?こいつは勉強料として借りてくぜ」
間近で魔理沙の声が聞こえる。私がパチュリーを抱き留めるまでの合間を縫い、魔理沙は既に箱を掴んでいた。
「っ....!」
咲夜は閉じ込められ、パチュリーは意識を喪失している。この場において魔理沙を止められるのは一人だけだ。私は咄嗟に奇跡論を行使する。
「──」
周辺の大気が持つ慣性質量を強化し、魔理沙を空気の牢獄へと閉じ込める。突如水中に叩き落とされたようなものだ、戦闘ともなれば容易に焼き払われるだろうが、逃走には支障が出る。時間さえ稼げればそれでいい。
高速化が齎す血の代償を努めて無視し、次なる奇跡が拳銃を生じさせる様を見つめる。増幅と創造。二つのバックラッシュは破壊へと転じ、弾丸に納まる。
空気の膜と、魔理沙を守っているであろう結界。二つを貫きながらも地図を傷付けず、非殺傷手段で彼女を無力化するには他に方法がない。罪悪感を抑え、銃を構える。
「....借りを一つ増やしておきます」
引き金を引く。カチャリと気の抜けた音が響く
....何も起こらない
「不発!?そんな馬鹿な....」
「──」
空気の壁を隔てて、魔理沙がニヤリと笑う。既に彼女は、箒を強く握り締めていた。
箒に乗った魔女が、凄まじい速度で牢獄を突破する。逃走においてすら、私の奇跡論は混乱による猶予以外のものを与えなかったらしい。次弾を装填したその時点で、彼女は図書館から姿を消していた。
・・・
銃を構え、引き金を引く。その先に立つのは魔理沙ではない。弾丸は結界を破り、咲夜を解き放つ。
「....すみません、取り逃がしてしまいました」
「お気になさらず。鼠を通したのは館を管理する私の失態です。まさか、ここまで空間を歪ませても入り口を見つけ出すとは....」
「....そろそろ首を落とした方が良いかしら」
「....」
さらりと溢れた独り言に怖気が走る。もしかしたら目の前の人間こそが人外だらけの紅魔館にあって最も恐ろしい存在なのかもしれない。
「そ、その、とりあえず魔理沙さんの行方を追うべき、ですね....」
「いえ、追跡したいのは山々ですけど、家に帰った彼女を問い詰めるのが最も効率的でしょう」
咲夜はそう言って、未だ目を回すパチュリーを抱える。
「それに、私はパチュリー様の介抱をしなければいけませんの。ご心配なさらず、後で追い付きますわ」
「....魔理沙さんの家を知っているんですか?」
その一言で私が魔理沙の家を知らない可能性に思い至ったらしい。彼女は虚空に目をやる。
「ご存じないのでしたら、付近に住む人形使いに尋ねれば──」
「存在すら知らないですね」
「万策尽きましたわ」
「か細い万策だなぁ!」
適当なのか天然なのか、あんまりにも雑な頓挫についツッコんでしまう。恐ろしいのだかそうでもないのだか、なんとも捉えどころのないメイド長だ。
「では、香霖堂を訪ねては?当の店主から、知己である事は聞き及んでおります」
一瞬で名案が飛んできた。なるほど、それなら問題ないだろう。ただ....
「ええっと、一つ聞いても良いですか?」
「はい?」
「咲夜さんから場所を教えてもらう事は出来ないんです?」
「画力.....コホン。有り合わせの紙とペンが無いので、肉体に地図を刻む事がお望みでしたら.....」
「行ってきます、香霖堂」
天然と恐怖の合間で揺れていたメーターが恐怖側に振り切れる。狂気の仮面の裏に優しさを隠していたフランと比べるとポーカーフェイスの彼女は内心が測り難い。そして、最も恐ろしい恐怖とは、往々にして未知の中に潜むものなのだ。
「ふふ、行ってらっしゃいませ」
....悪い人ではないのだろうが。