私達は香霖堂へと足を運ぶ。どうやらルーミアは陽の光に多少は慣れ始めたらしく、今日は布団に引き摺り込まれる事もなかった。しかし、香霖堂の周囲には激しい雨が降っている。
「....ん?」
雨....?何故雨が降っているのだろうか。私は黴の妖精を追い出した筈だが....
「....また戻って来たのでしょうか」
「どうかした?」
「ああ、いえ、なんでもありません」
香霖堂の扉を開く。VERITASによって、表に霖之助さんが立っている事は確認していた。
「ごめんください」
「くださーい」
霖之助さんは私達を見て何故か動揺を顕にする。
「....ふむ」
「──僕も長い間この商売をやって来たけれど、闇そのものが客になるのは流石に初めてだな」
「私達にまだ暗闇の可能性を見出してます?」
闇からひょっこりと顔を出す。すると、彼は「ああ」と納得するように頷く。
「天戸君か。悪いね、最近はどうも物忘れが多いんだ」
「ううん、もしかして博士って呼んだ方が良いですか....?」
「それは忘れっぽい相手に渡すには随分と高尚な渾名に聞こえるね」
どうやら彼も冗談を言う事があるらしい。真に迫った冗句に感心しながらも傘の水を落とし、仕事の準備を始める。ルーミアは既に闇を解除し、妖怪が集まる卓に向かっていた。
「仕事についての説明は必要かい?」
「いえ、大丈夫です。もう既にすべき事は覚えていますので」
「それは頼もしい」
・・・
コンピューターを清掃し、私は一息を付く。こうした複雑な物品の清掃は普通であればそれなりに面倒だが、清掃技術は既に私の身体に染み付いていた。今となっては、最初の頃の半分以下の時間で事を終えられる。
「....」
"それにしても"と思考が仕事から離れる。
....今日の霖之助さんは明らかに様子が変だった。心ここにあらずといった具合で、常にぼうっとしている。入店時の一幕を私は単なる冗談として流していたが....今考えると、あれも冗談ではなかったのかもしれない。
「....おっと」
ふと自分が完全に手癖で清掃を行っていた事を認識し、関係のないアイデアを一旦かき消す。商品を見渡すが....どうやら、清掃は今終えたもので最後のようだ。仕事が一段落した開放感で息を付いていると、霖之助さんがコーラを持ってやって来た。
「やぁ、お疲れ様。素晴らしい手腕だな」
「以前と比べれば、慣れていますから」
彼からコーラを受け取り、蓋を開ける。まさか幻想郷で飲めるとは思っていなかった飲料だ。外の世界ではごくありふれたものだが、貴重な嗜好品として楽しむコーラは普段よりも遥かに美味しく感じてしまう。
「ああ、言い忘れていたがそれが最後の一本だ」
「その貴重性については是非飲む前に教えてほしかったですね....」
それほど貴重なものを平然と渡されると流石に申し訳なくなってくる。しかし、コーラを私に出したのは、やはり例の件の為だろう。
「さて、貴重な甘露を開けた君にそろそろ最後の仕事を頼みたい....」
「黴の、そして梅霖の妖精を今度こそ追い出せ、ですね?」
霖之助さんは感心したように頷く。
「ああ、そうだ。以前にも同様の事態があったが、放置していると面倒な事になる。恐らくは、屋根裏に潜んでいるんだろう。追い払ってくれるかい?」
「ええ、勿論」
・・・
香霖堂の屋根裏。辺りに広がる黴の臭いに....違和感を感じる。
「....薄いな」
前よりも黴の臭いが薄い。整頓された品々や、黴びた様子のない内装材は誰かが屋根裏を清掃している事を示していた。奇妙な変化だったが、まあ、綺麗になって困る事はないだろう。
「妖精さん、ケーキをあげるので出てきてくれませんか?」
「ほ....ほんとぉ....?」
物陰から、黴の妖精がひょっこりと現れる。流石にダメ元のつもりだったが、その作戦は驚くべき事にまた効果を発揮していた。
「ああ、引っかかるんですね....すいません、嘘です」
「そんなぁ〜....」
崩れ落ちる少女への申し訳なさは正直薄れていた。流石にまた香霖堂に来られては困ってしまう。
「もう、私が何をしようとしているかは分かっていますね? 此処から離れて欲しいのですが」
「だめです....」
「....ですよね」
「だ、だから....あなたに、離れて貰います....」
黴の妖精は白い粉を収束させ、球体を生み出す。それが攻撃の予備動作である事は分かっていた。どの程度の猶予があるのかも、完璧に。
私は黴の妖精に向けて既に突進していた。狭い屋根裏では容易に距離を詰める事が可能だ。初撃を放つよりも早く、私は彼女の足を払い、地面に押し付ける。
「ひぃぃっ"....」
後はこのまま香霖堂から離れるように言うだけだ。しかし....ふと興味を持って、私はその妖精に問いかける。
「あなたは以前もここから追い出されましたよね? 戻って来たらまた追い出されるのは分かるでしょうし、そもそも屋根裏は清掃されて黴が無くなっています。どうして態々帰ってきたんですか?」
「か、帰ってきた....?」
妖精は不思議そうに呟く。
「わ、わたしはただ、ここに住もうとして....で、でも、確かに追い出されて、それに、もう全然居心地も良くなくて....」
「あ....あれ....? ど、どうしてわたし、ここに来ようと思ったんだっけ.....?」
恐怖に支配されていた少女は....私の問いかけに対して、恐怖を押し退け混乱を滲ませていた。そのような状況は財団にて見た覚えがある。即ち、
「....」
彼女はそのまま、窓の外へと消えていった。
・・・
黴の妖精を追い返した私は、霖之助さんの居る店頭へと戻る。彼はやはりぼうっとしていたが、私の姿を見ると、その目に光が宿る。
「雨が止んだ。どうやら、やってくれたようだね」
「ええ、妖精は追い返しました。ですが──」
「うん?」
「香霖堂は現在、未知の精神攻撃を受けています」
「精神攻撃?」
横から疑問が投げかけられる。そこにはルーミアと、羽を生やした少女が立っていた。
「もしかしてー....?」
「えっと、私は香霖堂で歌う事を禁止されてて....」
ルーミアが羽の生えた少女がチラリと見る。何故か彼女はバツの悪そうな表情をしているが、何の話だろうか。歌....?
「そう考えた根拠を聞いてもいいかい?」
霖之助さんは鋭い視線をこちらに向ける。排斥によるものではない。彼は既にその重大性を理解しているようだった。
「黴の妖精です。彼女には最早香霖堂に戻ってくる動機がありません。屋根裏は清掃されていましたし、そもそも一度追い出されていますからね。それでも彼女は香霖堂に戻って来た」
「少し弱いな。何か他に戻ってくる理由があった可能性は?」
「最大の問題は、彼女自身が香霖堂に戻って来た理由を答えられなかった事です。それを聞かれた彼女はぼんやりとして....戻って来た理由を忘れているようでした」
「でも飼い主さん、妖精って大体そういうものじゃない?」
「私よりも忘れっぽいよ」
羽の生えた少女の発言は、幻想郷の住民としては反論の余地のないものであるらしく、納得するような雰囲気が流れる。どうやら妖精はあまり頭が良くないらしい。それは....ケーキに釣られる姿を見ていると否定出来ない。
「妖精だけならそうかもしれません。ですが....霖之助さん、あなたは確かに今日、"闇が客になるのは初めてだ"と言いましたよね?」
「ああ、概ねそのような事を言ったね」
「それはあり得ないんです。私....そしてルーミアは、同じ事を直近に行っているんですから」
「....」
「忘れっぽいで片付けるよりも、何らかの影響を受けていると仮定した方が幾分かあり得る。そうは思いませんか?」
自分が異常な影響を受けていると自覚する事は、極めて難しい。誰かに指摘されたとしても普通はそれを認めないものだ。しかし彼は深く頷く。
「....確かに、そうだ。僕は半妖の身、身体の病にも心の病にもそう罹る事はない。にも関わらずこれほどの健忘に陥るというのは....並の状態ではない」
どうやら納得してくれたらしい。こちらの意見を鵜呑みにはせず、しかし客観的に状況を分析し、不都合な可能性を冷静に飲み込む。その在り方は知識人の鑑とでも言うべきものだろう。
「ええっと....羽の妖怪さん」
「ミスティア・ローレライ、夜雀よ」
「ミスティアさん。あなたや、あなたの仲間の妖怪達の中で忘れっぽくなったと感じるような方は居ませんか?」
「いや、私は元々....コホン....そうね、思い返してみると、そのケはあるかも。まあ、こんな所で騒いでる妖怪がそんな高尚な事を考えてる訳ないし、忘れっぽいくらいの事は全然気にしてなかったけど」
「やれやれ、こんな所扱いは心外だな」
「この場の妖怪の中で記憶を操るような事が可能な方は居ますか?」
「あんたの話が本当だとして、そんな事が出来るやつは居ないわ。有り得そうなのは....一番パワーのある影狼が後頭部をぶん殴るとか?」
「クラスP記憶処理かぁ」
兎に角、妖怪達さえも精神影響を受けており、その上で妖怪達の中にはこのような攻撃が可能な者は居ない事が分かった。であれば、最もあり得るのは、やはり....
「香霖堂に異常な精神影響を齎す物品が紛れ込んだ可能性があります。恐らくは、ミーム汚染に関連するものでしょう」
「ミーム汚染?」
幻想郷においては聞き馴染みのない言葉なのだろう。霖之助さんが首を傾げる。
ミーム、それ自体は極めて普遍的な概念だ。端的に言ってしまえばミームとは人を媒介に自己複製と拡散を続ける情報であり、言語も倫理も習慣も基本的に何もかもがミームであると言える。ミームの拡散については、一時の"流行り"を見れば分かりやすい。最初に新たなミームを思い付いた人間が、そのミームを拡散する。これを見た人間が、面白さか、利便性か、何らかの理由で再度ミームを拡散し....一連の流れが繰り返される事でミームを知る者の数は、指数関数的に跳ね上がる。
異常なミーム汚染とされる概念は....より極端だ。人々の間で通常のミームと同様に拡散を続けながら、時にはそのアイデアを強制的に受容させ、時には異常な方法で拡散させ、時には物理的な変質すらを含む異常な変化を齎す──
それらの説明は、妖怪のふたりにはピンと来なかったらしく、説明の後も首を傾げている。理解出来ないながらも、ルーミアが聞いてくる。
「前の絵画とは違うの?」
「恐らくは、はい」
例の絵画は能動的な精神干渉を除けば情報を知るのみでは影響を受けない....直接絵を見なければならない"認識災害"の一つだ。コンピューター、ストーブ、 、土器....VERITASを起動しても、店頭には異常の兆候を見せる道具が見つからない。認識災害であれば、それは目につきやすい表に出ている商品によって齎される筈だ。妖怪達が全員店の奥まで確認したとは思えない。
「異常な物品が紛れ込んだ可能性については賛同しよう。だけど、"ミーム汚染"であると断定するには些か疑問があるな」
「ふむ....?」
「というのも、もっと定義の曖昧な....単に、"広域に影響を及ぼす精神影響"の内部に僕達が侵入しているだけの可能性もあるだろう。まだ情報が不足したこのタイミングで元凶を"ミーム汚染"であるとするのは....それ自体が"ミーム"に汚染された代物であるようにも見える」
「....それは....否定できませんね」
霖之助さんに指摘されて初めて気付く。確かに私は無意識の内に"ミーム"という単語に執着していたようだ。しかしその原因を求める事が出来ない。耐性があると言えど、自分が完全に精神影響から逃れていると考えるのは...."天国への飛翔"の一件からしても、馬鹿らしい発想だ。
「あの、あんた達が何言ってるのかよく分からないんだけど....ルーミアは分かるの?」
「?」
ミスティアがルーミアの方を向く。ルーミアの瞳は....とても澄んでいた。
「ああ、理解を放棄しちゃってる」
・・・
私は霖之助さんの協力を得て、香霖堂の道具を検める事になった。基底世界の骨董品に、幻想郷の奇妙なアーティファクト。冥界の道具という本当に謎のアイテムまで....あまりにも多種多様な品々には驚かされたが、それらの中に精神影響を齎すような道具は、どうしても発見出来なかった。肩を落として店頭に戻った私と霖之助さんに、ミスティアが話し掛けて来る。
「その様子を見るに、駄目だった?」
「....ええ、残念ながら、何も見つかりませんでした」
「捜索を続けたい所だが....外が暗くなる頃合だ」
「まぁそうね。私達もそろそろ帰るし」
「ううん....」
財団の通例に則るのならば、異常な精神影響を受けた可能性のある者は隔離し、内外の安全を確保するものだが....この世界には隔離房など存在しない。その上、相手は人ならざる妖怪達である。多くは望めない。というより、友好的に会話出来ている現状がまず幸運なのだろう。
「妖怪の皆さんが帰るのは仕方ありませんが、私は香霖堂に残りますよ。調査は始まったばかりですし、徹夜は慣れていますから」
「いや、天戸君。それは駄目だ」
霖之助さんは端的に、しかし明確に拒絶の意を示していた。
「何故ですか?異常存在の影響下にある以上、此処に一人で泊まるのは....危険です」
「確かにその精神影響を最も重篤に受けているのは僕だろう。しかし、香霖堂に異常の元凶があると仮定した場合、泊まれば君が受ける影響も強くなるかもしれない。リスク分散の為にも、君は帰るべきだ」
「....自分の言っている事を理解していますか?霖之助さんにとって最も危険な選択肢を、自らの手で選ぶと?」
彼の提案は合理性を軸とするのならば、確かに良いものだった。しかし....2日程度の関わりの中でさえ、私は彼の事を気に入っていた。尊敬していると言ってもいい。それは感情的な理屈だったが....彼がそこまで危険な目に遭う必要はないはずだ。
だが、彼は毅然として言い放つ。
「ああ、その通りだ。けれど僕はこれを自殺行為だとは思っちゃいないよ。曖昧ならざる君の記憶は1日ほどしかないが、それでも君の性質はある程度理解しているつもりだ。君にであれば僕の命を預けるに足ると....そう思っている」
「....」
「まぁ、駄目だったとしたらその時はその時だ。僕は人間と比べて少しばかり長く生きすぎたからね。ここいらで一つ死んでみるのも一興という奴さ」
「....はぁ」
異常の渦中にありながら、そう言って笑う彼を前にして....私は、頷く他に無かった。
「....分かりました。今日は帰ります」
「それじゃあ、気を付けて帰ってくれ。なに、僕だって無策という訳じゃない。思い付く限りの手段を以て記憶を引き継ぐつもりだ。駄目だった場合は....そうだな、"草薙の剣を見た"とでも言ってくれ。そうすれば疑り深い僕とて信じるだろう──」
結局、その日はルーミアと共にテントへ帰る事になった。精神影響に暴露した以上、睡眠を取るのは危険だ。睡魔を振り払い、テントの中で座り込む私に、ルーミアは黙ったままずっと寄り添ってくれていた。
・・・
次の日、私達は香霖堂へと足を運ぶ。周囲の雨は止んでいた。黴の妖精は今度こそ来なかったのだろうか。それとも....
VERITASで見る限り、店頭には確かに霖之助さんが立っている。しかし、何か嫌な予感がして、私は足早に扉を開く。
「ごめんください」
「くださーい」
....返答がない。私は闇から顔を出し、店内を肉眼で覗く。そこには確かに、霖之助さんの姿がある。だが彼は...."止まって"いた。そうとしか表現出来ない状態だった。
「霖之助さん....?」
彼は微動だにしない。その表情には生気の欠片もない。まるで、生きている事を忘れているような....
「....まさか」
妖怪達が座っている筈の席を見る。彼女らは確かに存在し....そしてやはり、"止まって"いた。
恐るべき状況に、戦慄が全身を掛け巡る。あまりにも速すぎる。それとも、私が遅すぎたのか? 思考がぐるぐると廻る中....ふと、空っぽの箱が目に留まる。
しかしそれは、元々店の奥にあった事以外に特筆すべき事は何もない、単なる箱だ。確か霖之助さんがコーラを入れていた──
「....?」
待て、それはおかしい。勤務初日に霖之助さんはコーラが山ほどあるのだと言っていた筈だ。なのに、今は空っぽで....記憶が正しければ.....コーラを飲み終えたのは....前日で....
「あ──」
なぜ私は清掃に熟達していた?
なぜ私は"ミーム"という言葉に執着していた?
なぜ屋根裏が綺麗になっていた?
「....今....何日経ったんだ?」
その瞬間、私の脳内に浮かんだアイデアはこの状況下において極めて当然の発想であり....しかし私は、自らの思考の鋭敏さを賞賛に値するものだと確信していた。私達は恐らく、その答えに辿り着く事を禁じられていたから。
「
思考から急速に薄れていくそのアイデアは、薄れるという事象そのものによって、私の正しさを証明していた。