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第八話:動乱の後
漆黒――
世界のどこか、ほの暗い闇のなかで黒より黒い漆黒が揺らめきうごめく。
その黒い影は人型をなし、銀髪を黒いヴェールで隠す女。
その異様な容姿は見るものに闇そのものなのだと錯覚させるだろう。
そんな女の形を成した影は口を開く。
「――愛してる」
女は一人、愛を嘯く。
「愛してる、愛してる」
愛しき者へ、ひたすらに。
その声には歪みがあり、執着があり、狂気があった。
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる――」
無限の深淵で、女はただ“想い”を唱え続ける。
あたかもそれが、彼女の存在意義であるかのように。
しかし。
「......」
突然、その声が止まる。
女が“何か”を感じ取った。
視線を上げるように、その闇が一方向を見つめる。時空でも空間でもない、“概念”の方向を――。
「...あれは」
黒の女、”魔女“の中にざわめきが走った。
「......あの人、あの人は......」
「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う」
連なる拒絶、混乱。
愛しきものではないなにかが介入してきたことによる異物感。
「——あの男、あれは、いらない」
彼女はただ一人の男、ナツキ・スバルしか愛さない。その執着は、全てを焼き尽くすほどに純粋で、絶望的で、壊れていた。世界を黒く染めんばかりの”嫉妬”を表出させる魔女はしかし微笑む。
その顔は闇のヴェールに覆われ、輪郭すら定かでない。だが、確かに“愉しそう”に笑っていた。
「あなたは、何者?」
五条悟という存在。この世界に属さぬ異物。スバルとは違う、この世界の運命から外れた場所から呼び寄せられた未知。それに対する隠しきれない興味を口にしながら。
「あなたがスバルを壊すなら......」
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――」
興味と殺意が内在する呪詛を空間にまき散らしながら、その言葉は闇より暗い闇に深く染み入った。
*
王都の喧騒は、あの凄惨な戦いの余韻を帯びながらも、日常へと緩やかに戻りつつあった。
夜の帳が王都を覆い尽くそうとする頃、空は茜から紫紺へとその色を変えつつあった。騒乱の爪痕が残る盗品蔵の裏手、ひときわ目立つ白髪と黒衣の男が、血に塗れた少年の体を軽々と担ぎ上げる。
背中にあるのは、気を失ったまま目を覚まさないナツキ・スバル。何も語らず、ただ小さく呼吸するその体は思いのほか軽かった。
「......ずっと寝たままね。スバル、大丈夫なのかな......」
騒動の中心人物であった銀髪の少女、エミリアが気遣わしげに振り返る。その視線は今、五条の背中に背負われるスバルに向けられていた。
「生命活動に異常はなさそうだけどね。衰弱もしてない。ただ......心が眠ってるって感じかな」
そう答える五条の声に、ほんのわずか疲労が混じる。封印から解き放たれ、異世界の理に適応しきれず、脳が情報過多に晒されている状態。それでも彼にはいまだ、休息などという言葉はない。
それに、自覚していた。
この世界には、自分の知る常識が通用しない。だからこそ――
「......エミリア様、ようやく見つけました」
突然、風のように鋭い声が割って入った。
二人の前に立ち塞がるようにして現れたのは、桃色の髪の少女。左目を隠したショートボブに白と黒のメイド服に身を包む可憐な出で立ちだ。その赤い瞳が警戒を露わにして五条を睨みつける。
その少女の姿を認めると、エミリアはぱっと表情を明るくした。
「ラム! よかった、無事だったのね!」
「まったく、あの時あなたが一人でいなくなって、どれだけ探し回ったと思ってるのかしら。今日一日、王都中を走り回った苦労、どうやって償ってもらおうかしら?」
「ごめんなさい、ラム。色々あって......でも、無事だから」
口では非難しつつも、その語調に棘は少ない。再会の安堵が滲んでいるのが分かる。
だが、彼女――ラムの視線はすぐに五条の方へと戻る。そして。
「無事、ね。......その背後に血塗れの男の子を担いだ、得体の知れない白髪男がいる状況を“無事”とは呼ばないと思うけど?」
視線を鋭く向けてくるラム。その双眸は警戒と猜疑心に満ち、五条を一目で“異物”と断じたようだった。エミリアの後ろに立つ五条に視線を向け、軽く鼻を鳴らす。
その視線を受け、五条は軽く眉を上げ、肩をすくめた。
「その目隠し、どこの道化? 身なりも顔も怪しさしかない。王都で事件でも起こしそうな恰好ね」
「それ、誉め言葉かな?」
「ええ、最低の意味で」
ラムの毒舌に五条は目元を緩め、肩をすくめてみせる。エミリアが慌ててラムをたしなめた。
「ラム、この人は......その、探し物を探すのを手伝ってくれた人なの。後ろの人...スバルを助けてくれたし、今もこうして屋敷に――」
「......へえ、あなたが?」
ラムの視線が再度、五条に注がれる。だがその視線は、今度は少しだけ違っていた。目の前の男が只者ではないと、直感が何かを囁いたのだろう。
視線を返すように、五条もラムを六眼で”視る”。
瞬間――
「......!」
五条の六眼がラムを捉えた瞬間、全身を駆け巡る戦慄が走った。体内に満ちる力――マナ、その密度や流れは平均以下、しかし六眼がしきりに警告を鳴らすのを感じて確信する。宿儺やラインハルトにも匹敵するほどの”格”を感じる。己が内に獣を飼っているような、そんな危うさ。
(......これはまた、強い)
この少女――ただ者ではない。
(さっきの剣聖といい、この世界は“化物”の密度が高すぎない? どこに地雷が埋まってんのか分かんないな......)
ましてやこの状態の六眼じゃ、軽くため息をつきながら、五条は脳裏でそう悪態をついた。
一方で、六眼での感知での降ってわいた疑問が頭をよぎる。
スバルからは、何も感じない。
傷ついた肉体、深い意識の混濁。その割に、体内に“何かの異常”を示す反応はない。六眼の網に引っかかるのは、せいぜい虚脱感と微細な鼓動くらい。日本人のパンピーなんだから当然だろうと思考を閉じようとするが、どこかぬぐえない違和感が襲う。
(......スバルだけが“見えない”)
それが、逆に不気味だった。
何もなさすぎる。何かを感じる空洞のような違和感。だが、それを言葉にするほど、今の五条にはこの世界のルールが見えていない。
「......何? 私に何か言いたいことでも?」
ふと、白髪の不審者に見つめられていることに気づいたラムは身構えながら問う。
「いやいや、ただ見とれてただけだって。君のその毒舌っぷりが素敵すぎてね」
「ふぅん? その口、今のうちに閉じておいたほうがいいわ。......あまりエミリア様に近づきすぎると、何が起こるかわからないわよ?」
冗談めかしているようでいて、その声音には明確な敵意が潜んでいた。五条はそれを無視せず、むしろ愉しむかのように笑う。
「......で? あなた名前は?」
不意にラムが尋ねる。その赤い瞳は、未だ警戒を解いていない。
「僕は五条悟。よろしくね、ラムさん」
「気安く呼ばないで。馴れ馴れしい男は十中八九、変態よ」
「二割の例外を信じてくれるなら、僕は幸せだよ」
「黙りなさい」
この短いやり取りだけでも、二人の相性は最悪だと、誰の目にも明らかだった。エミリアがうっすらと苦笑いを浮かべる。
「はぁ......もう。ふたりとも、お願いだから静かにして。屋敷までは、まだ遠いんだから」
「それもそっか。じゃあ、屋敷までの案内をお願いしてもいいかな、お姫様?」
「お姫様じゃないわよ。仕方ないわね......行きましょう」
そう言い残すと、三人にラムが新たに加わり歩き出す。
王都の喧騒が遠ざかるほどに、街灯の少ない道が増えていく。スバルの呼吸は相変わらず浅く、意識の兆しは見えなかった。
異世界の夜風は、肌に優しい。しかし、どこか異様な静けさも含んでいた。
その静寂の中、エミリアがぽつりと呟く。
「ねぇ......五条って、本当はどんな人なの?」
「ん? どういう意味?」
「......なんだか、見てると心配になるの。明るいようで、どこか遠くを見てるような気がして」
五条はその言葉に答えず、スバルの体を担ぎ直した。かすかに笑う。
「僕はただの教師だよ。ちょっと、変な生徒たちを教えてた」
「先生......?」
「ま、色々あってね。こうしてここに流れ着いたってわけ。......でも、ここでまた色々学ばせてもらうよ」
その声に、エミリアは何も返さなかった。ただ一歩、五条の後に続いて歩き出す。
街の喧騒の向こう、日差しは地平に消え、夜の帳が下りる。
その空の下、三人は歩を進める――。
「――異物」
ただ一人ラムがふと――静かに、だが確かに呟いた。
*
夜の帳がすっかり降りた頃、三人を乗せた竜車が王都を離れた。
馬車に似たその乗り物の前方には、灰褐色の鱗に覆われた四足の獣――地竜が繋がれている。人の背丈を軽く超える巨体ながら、鋭い目に知性の光を湛えたその地竜は、舗装されていない街道をまるで風を切るように滑るように進んでいた。
五条は車窓から顔を出し、疾走する地竜の背中を眺めながら小さく呟いた。
「これが加護ってやつか......。風の抵抗を一切受けない。走行音も抑えられてるし、地竜自体が何かしら空間干渉でもしてんのかな......人間だと持ってるやつは少数って話だし生得術式に近い感じかも」
そう言って車内へと身を引くと、五条はクッションの効いた座席に深く背を預けた。
竜車の内部は、王都の喧騒をまるで夢だったかのように静まり返っていた。木製の壁に覆われた車内は、走行中にもかかわらず揺れがほとんどなく、まるで現代の車のようだ。
対面に座るラムは、薄闇の中でも変わらぬ無表情で、窓の外に目を向けたまま口を開いた。
「――それで? あの場で何があったのか、説明してもらってもいいかしら」
ラムの問いに、五条は片手を上げて肩をすくめる。
「うーん、ざっくり言うと、エミリアが巻き込まれた事件に、スバルが突っ込んできて助けようとして――まあ、なんやかんやあって気絶ってとこ」
「ふうん。役にも立たず、勝手に倒れるなんて、随分な自己犠牲精神ね」
冷ややかな口調。けれどそこに込められた感情は読めない。
五条は苦笑する。ラムの態度に苛立つでも呆れるでもなく、むしろ妙な既視感を覚えながら、言葉を継いだ。
「でもさ――命を賭けるって、簡単なことじゃないよ。どんな理由があれ、自分から進んで飛び込める奴は少ない。......あの時のスバルは、それをやったんだ」
言葉を繋げようとした瞬間――
「......ぅ、ん」
低い唸り声が座席の隅から漏れた。
すぐさま五条は動いた。隣に寝かされたスバルの額に手を当てる。体温はやや高め。皮膚の下で脈が微かに早く打っていた。昏睡のままではあるが、目の周りにうっすらと汗が滲んでいる。
「......夢でも見てるのかしら、スバル」
額を拭ってやりながる五条の横で、エミリアは小さく独り言を漏らす。
「悪い夢なら、できれば僕が止めてやりたいんだけどね」
ラムは視線を向けたが、特に何も言わない。ただ、スバルの様子には一瞬だけ表情に影が差した――気がした。すぐに、それは元の無機質な表情に戻る。
再び沈黙が落ちる。
竜車の車輪が草地を滑る音だけが、夜の空気に優しく混ざっていた。
やがて、五条がぽつりと口を開いた。
「命を張るっていうのは、覚悟と引き換えなんだ。後悔とか、恐怖とか、全部抱えてなお――それでも、飛び込めるかどうかだと思う」
ラムは答えなかった。ただまっすぐに、夜闇に沈む車窓の外を見つめたまま、微動だにしない。
スバルの浅い寝息。ラムの冷たい沈黙。そして五条の独白だけが、竜車の中に、ほのかな温度を残していった。
五条はスバルの上着の前を整えながら、ふと、こんなことを考えていた。
(この世界で、僕にできることはなんだ?)
呪霊もいない。術式の理も異なる。だが、それでも――
「ま、退屈だけはさせてくれなさそうかな」
自嘲気味に呟きながら、五条は目を細めた。黒い目隠しにいまだ隠された六眼が、窓の外の闇を見据えた。
*
竜車が森の奥へと進むにつれ、月の光も次第に木々に遮られ、夜の闇はその密度を増していく。林を抜け、広い丘を越えた先、地平に突然開けた視界のなかに、それは現れた。
まるで王宮のように広大で、精緻な装飾を施された石造りの屋敷。四方に広がる翼廊。整然と整えられた庭園と、噴水を中心に描かれた円形の回廊。そのどれもが、王都で見かけた貴族の屋敷を遥かに凌駕していた。
「――はは、なんだこれ」
竜車から降りて、スバルを担ぎなおしながら屋敷の全容を見渡した五条は思わず苦笑する。
「こっちの世界の金持ちは桁が違うな。これが......未来の王様の屋敷かぁ。そりゃ僕の家なんか比べもんにならないわ」
「五条家」という呪術界の御三家出身である彼ですら、これほどの邸宅は見たことがなかった。広さも格式も、まるで童話に出てくる“お城”のようだ。
エミリアは苦笑交じりに説明を加える。
「これは私の屋敷じゃないわよ。支援者のロズワールの持ち物なの。私が王選に出るときに、後見人が必要だったんだけど......ロズワールは私のパ卜ロンで、今はこの屋敷を貸してくれてるの」
「ロズワール......」
その名前に、五条の脳裏に王都での騒動中、どこかで聞き覚えのあった言葉がよみがえる。
記憶の断片がつながり、五条の目がわずかに鋭さを増した。
「今は留守だけど、明日には屋敷に戻ってくるって話だから,その時に君とスバルの処遇も正式に決まるはずよ。......王選候補を助けてくれたわけだし、悪いようにはされないと思う」
「なるほどねぇ...ところで、“ロズワール”って人、どういう人?」
五条の問いに、エミリアは目を丸くした。
「あ、そういえば言ってなかったわね。ロズワールは、この屋敷の主で...あ、あと、ルグニカ王国の“宮廷魔導士”でもあります」
その言葉に、五条の片眉がぴくりと動いた。
「宮廷...魔導士?」
「うん。王国で一番の魔法使い。代々、メイザース家がそれを継いできたんですって。ロズワール自身も、すごく強い魔法使いで......少し、変わってる人なんだけど...」
「ふむ......その“ロズワール”って人、会う前から嫌な予感しかしないのは気のせい?」
エミリアは苦笑しつつも言葉を濁した。五条の直感はあながち間違っていない。
やがて、竜車は屋敷の正門前に到着する。
高い鉄柵が音を立てて開かれ、ランプに照らされた石畳の道を竜車がゆっくりと進むと、屋敷の正面扉が静かに開いた。
そこに現れたのは――
先ほどのラムと同じショートボブに右目を青髪で隠す、メイド服に身を包んだ少女だった。顔立ちもラムに酷似している。だがその目元に宿る光はより柔らかく、整った美貌と静かな気配は対照的な印象を与えた。
「レム」
ラムが小さく呼ぶ。少女――レムは一礼し、エミリアに視線を移す。
「お帰りなさいませ、エミリア様、姉さま。それに――そちらの方々は?」
「お客さんよ。王都で少し事情があってね。二人とも疲れてるし、後でちゃんと説明するから、まずは中へ通してちょうだい」
レムはスバルを担いでいる五条を見て、露骨に警戒の目を向けた。
「......エミリア様。傷だらけの男と、顔の隠れた男。いくら事情があるとはいえ、すぐに屋敷へ――」
「ちょっとレム。彼らは私の恩人よ。疑うのも無理ないけど......少し落ち着いて」
そう言いながらエミリアは頬を膨らませて異議を申し立てる。
レムは一瞬表情を動かし、それから息を吐いて頭を下げた。
「......申し訳ありません。では客室をご用意します」
だがその直後、レムの視線が再び五条に向けられる。――五条はその視線を避けることなく、逆にじっと彼女を見つめ返した。
(......なるほど。双子でありながら、こっちは力の流れが静かだ)
六眼が“視た”ものは、先ほどのラムのような奔流ではなく、沈殿するような力の蓄え。術師換算で言えば、準一級といったところか。戦闘経験を積めば、一級に届くかもしれない――そんな可能性を孕んだ力。
だが、次の瞬間――
「っ......」
強烈な頭痛が、五条の脳天を打ち抜いた。
意識が一瞬揺らぎ、視界がぶれる。六眼を通して見すぎた情報の蓄積が脳に負荷を与えているのがわかる。
「うぐっ...ちょっと、ごめん...座ってもいい?」
ふらつく足元に手をつくと、五条はその場にしゃがみ込む。驚いたようにレムとエミリアが駆け寄る。
「大丈夫なの!?」
「......うん。大丈夫、問題ない。マジで」
理解できるのは術師の領域を超えた感覚の片鱗だけ。だが、それでも彼の目はこの世界を読み取ろうとしていた。
正直こんなことは六眼をもつ五条には初めてで少し混乱している。
(......反転術式も効果なし、こりゃ六眼の限界ってやつかね?)
「無理する必要ないわ。客室、すぐに案内するから。......スバルは私が」
エミリアが五条の背中からスバルを受け取り、その体を丁寧に支えながら、レムとともに屋敷の中へと入っていく。
五条もよろよろと立ち上がりながら、レムに一言、
「悪いけど、詳しいことはお姉ちゃんにでも聞いてよ」
そういうと五条は一人客室に入っていった。
客室へと案内された五条は、木製の重厚な扉を開けて中へ入る。天蓋付きのベッドに、大きな窓と、上品な装飾品に囲まれた空間。貴族のための部屋であることは一目瞭然だった。
「......寝台の上に寝るなんて、久しぶりだな」
元の世界では特級術師という身分柄、毎日のように任務に明け暮れていた。反転術式で睡眠の必要もないためオールタイムで動いていた。それで少しでも犠牲になる術師を減らせたら――なんて逸れた思考を戻す。
ジャケットを脱ぎ、深く息を吐いてベッドに腰を下ろす。背中を預けた瞬間、身体の奥から疲労が滲み出してくるのがわかった。
(この状態じゃ、まともに思考もできないか)
思考が霞み、視界がぶれていく。
「仕方ない、今日はもう......」
そのまま五条はベッドに倒れ込む。目を閉じると、意識はすぐに沈んでいった。
初めての世界、初めての夜。強大な魔力の奔流、未知の存在の視線、謎めいたスバルの状態......すべてを一旦棚上げにして、ただ静かに眠りへと身を委ねるのだった。
*
静寂の中、五条悟はぱちりと目を開けた。
時間の感覚はない。だが、部屋の窓から差し込む月光の角度と、体の内側から抜けたような疲労感の軽減で、深夜だと察する。
「...あれ、もう夜中?」
ベッドに横たわったまま天井を見上げ、軽く伸びをする。先ほどまで感じていた鈍い頭痛は完全に消えていた。それどころか、六眼に走っていた情報ノイズ――マナと呪力の違いによる違和感――も、わずかにだが晴れている。
「...へえ。やっぱ優秀だね、六眼って」
新たな環境に馴染みつつある証拠だと五条は判断する。五感と直結する六眼が「この世界の構造」を徐々に理解し始めている――そんな手応えを覚えていた。
(この調子なら、術式の適用範囲も拡張できるのもそう遠くない――)
そんな期待を抱いていた矢先。
......ぴたり。
突然、部屋の外から“何か”を感じ取った。
この世界では「呪力」ではなく「マナ」と呼ばれるエネルギー体。その流れが、廊下の先で僅かに揺れた。さっきまで気配すら感じなかった存在だ。
「......ん?」
軽く眉をひそめた五条は、音を立てぬようベッドから降り、ドアにそっと手をかけた。
蝶番が軋むことなく、静かに開いた木製の扉。その向こう、薄明かりに照らされた廊下が、どこまでも続いていた。
足音を忍ばせて歩き出す。廊下に飾られた絵画や壁の装飾は、どれも品格に満ちているが......。
「......あれ?」
既視感。通り過ぎたはずの“風景”が、再び目の前に現れる。特に気になったのは、壁に掛けられた一枚の絵。老木の下に座る少女を描いたものだ。
「......なるほど、これか」
五条は小さく笑う。
廊下が“ループ”している――つまり、通常の空間ではないと判断する。空間操作、結界術式、あるいは迷宮の類。だが、今の彼には六眼がある。
「この世界に来てから、ほんと気が休まらないね......まあ、元の世界でもそんな日なかったけど」
嘆息混じりに呟きつつ、五条は周囲のマナの流れを“視た”。
この世界にわずかながら適応した六眼はマナを呪力のように映し出す。静かな空間。だが、その中に一本だけ、鮮明に光る“糸”が存在していた。廊下の一角から漏れるマナの流れが、一つの扉に集中している。
(......あそこだな)
罠かもしれない。だが、迷っていても仕方がない。何より、今の自分なら対処できる――そう確信できるだけの余力が、六眼と共に戻ってきている。
「まあ、なんとかなるでしょ」
扉の前に立ち、軽くノブを回す。
扉は抵抗なく開き、その先に現れたのは――
天井が見えないほど高くそびえる本棚と、無数の書物。重厚なランプの光が床の絨毯に反射し、神秘的な空気を醸し出している。
そして、その空間の中央――書見台の前に腰かける、巻き毛の少女。
アイボリーのドレスに身を包み、蝶の紋様をあしらった瞳を細めながら、五条をじっと見つめていた。
「......今日はいったい、どうなってるのかしら」
少女はゆっくり立ち上がり、ため息をついた。
「“扉渡り”を看破する奴が、二人も現れるなんて」
まるで面倒事が倍に増えたとでも言いたげに、心底辟易した様子だった。
五条は、ほんのわずかだけ唇を吊り上げて、問いかけた。
「やあ、こんばんは。ここ、図書室? それとも...もっと重要な場所?」
無下限術師と”禁書庫”の防人、相対す。
よお、久しぶりィ
最近はリアルが非常に忙しく感想返信すらままならず...申し訳ありません。
その分今回は新章突入もかねて大ボリュームでお届けしました。
これからもこんな投稿ペースになると思いますが、よろしくお願いします。
一般二次日間ランキング1位ありがとうございます。この結果におごらぬよう頑張らせていただきます。