エヴァリーナと秘密の契約 作:大化の改新
エヴァリーナの日記 7
日付:9月8日、ウィンチェスター伯爵家
あの泥水をかけられたの日の2日後、オリヴィアが祖父に会いに行った。震える手で私の着替えを手伝ってくれたオリヴィアは、私の汚れた服を見つめながら、「お嬢様に、こんな酷い真似を…」と、声にならないような声で泣いていた。
その日の夕食後、オリヴィアが祖父の書斎に呼ばれていくのを私は見た。しばらくして、エリオットおじさん夫妻も書斎に入っていくのが見えた。私は部屋のドアに耳を当てて、中の声に聞き耳を立てていた。
ドアの隙間から漏れてくる光が、私の影を壁に長く引き伸ばしていた。心臓の音が、ドクンと一際大きく鳴り響く。
最初は、オリヴィアの悲痛な声が聞こえてきた。
「伯爵様、どうか、お嬢様へのいじめを…お止めください!ルーカス様とノエル様が、エヴァリーナお嬢様を泥水で汚し、罵倒なさいました!あの子は、あの子はまだ幼いのです!こんな仕打ちをされ続けては、心が壊れてしまいます!」
祖父の怒ったような声も聞こえた。
「何だと!?エリオット、カミラ!これはどういうことだ!」
しかし、エリオットおじさんの声がすぐに聞こえた。
「父上、オリヴィアは少し誇張して申しております。子供たちは確かに、少々度が過ぎた『遊び』をしてしまったようですが、悪意があったわけではございません。お恥ずかしながら、ノエルもルーカスもまだ幼く、じゃれる気持ちが先走ってしまったのでしょう」
カミラおばさんも、甲高い声でそれに続いた。
「ええ、お父様。子供たちには厳しく言い聞かせます。ですが、私生児であるイヴが、この屋敷に慣れないあまり、子供たちに近づきすぎた部分もあったのかもしれませんわ。純粋な子供の遊びを、乳母が過剰に受け取ってしまわれただけかと」
祖父が「しかし…」と言いかけると、エリオットおじさんがさらに畳みかけた。
「父上、今回のことは厳重に子供たちを叱責し、二度とこのようなことがないよう徹底いたします。ですが、もしこの件で事を荒立てれば、屋敷の使用人たちの間にも悪い噂が広まりかねません。何卒、穏便に……」
その後の祖父の声は、怒りというよりは、諦めが混じったような、重い響きだった。結局、エリオットおじさん夫妻と子供たちは、厳重注意だけで済んだらしい。
オリヴィアは部屋に戻ってきて、何も言わず私を抱きしめた。その腕は震えていて、私にはオリヴィアの悔しさが痛いほど伝わってきた。
彼女の体から伝わる温もりだけが、唯一の慰めだった。しかし、その温もりも、私の心の凍てついた部分を溶かすことはできなかった。
祖父も、私がヴァイオレットの娘だから大切にしてくれるけれど、伯爵家の体面や、自分の息子であるエリオットおじさんの立場を優先するのだと、子どもながらに理解してしまった。
エヴァリーナの日記 8
日付:9月20日、ウィンチェスター伯爵家
先日、屋敷に新しい人が来た。それは、私にとって新たな地獄の始まりだった。
祖父が「これからは、エヴァリーナには家庭教師をつけて、しっかりと教育を受けさせる」と命じたのだ。やってきたのは、ミス・グロスターという、痩せぎすで意地悪そうな顔をした女性だった。
最初の授業の日、ミス・グロスターは私を上から下までじろじろと眺めると、嫌悪感を露わにした。
「あなたが、エヴァリーナ・グラナダ=ウィンチェスターお嬢様ですね。この屋敷の者が、あなたについて色々と教えてくれましたわ。まったく、私生児などという、生まれからして不吉な存在に、私が教育を施さねばならないとは。嘆かわしいことですわ。まさか、この由緒あるウィンチェスター伯爵家で、このような役目を仰せつかるとは、夢にも思いませんでした」
私の胸が、ぎゅっと締め付けられた。オリヴィアは心配そうに私を見ていたけれど、何も言えなかった。ミス・グロスターは、教本を乱暴に机に叩きつけながら、続ける。
「あなたのような小汚い血筋の者は、どれだけ高価な服を着せても、どれだけ立派な部屋を与えても、内側から滲み出る卑しい血は隠せないものですよ。勉学に励んだところで、あなたには何の価値もない。せいぜい、お祖父様のお情けにすがって生きるしかない、惨めな存在ですわね」
私の目から、涙が溢れ落ちた。ポロポロと止まらない涙が、頬を伝っていく。視界が涙で歪み、ミス・グロスターの顔が憎しみに満ちた悪魔のように見えた。
オリヴィアが思わず立ち上がり、「先生、お言葉が過ぎます!」と抗議してくれたけれど、その声は震えていた。彼女の体は、怒りで震えながらも、私を守ろうと必死だった。
その時、叔父夫妻が部屋の入口に立っているのが見えた。彼らは、ミス・グロスターの言葉を聞いていたにも関わらず、咎めるどころか、冷たい笑みを浮かべて頷いている。
エリオットおじさんは、「ミス・グロスターのおっしゃる通りだ。この子は、自分の立場をよく理解すべきだ」と、わざと大きな声で言った。
カミラおばさんも、「ええ、先生の仰ることはごもっともだわ。この子には、厳しい躾が必要なのよ」と、家庭教師の言葉を肯定する。まるで、私が罪人であるかのように。
祖父が不在のこの屋敷では、誰も私を助けてはくれない。
泣いても、泣いても、私の周りには冷たい言葉と、嘲笑だけがある。
なぜ、私はここにいるのだろう。ママはどこ?
ママの温かい腕が、私にはもう遠い記憶の彼方に霞んでしまっていた。ママの優しい声も、匂いも、もう思い出せなくなりそうだった。
この辛い毎日から、誰か私を連れ出してくれないだろうか。
私の心は、凍えきってしまいそうだった。
エヴァリーナの日記 9
日付:7月31日
今日は、私の11歳の誕生日だ。
しかし、私の心には、喜びのかけらもなかった。誕生日なんて、私にとっては、また一年、この地獄で生き延びてしまったという証でしかなかった。
でも、こんな日でも、私の心は少しも晴れない。
祖父が「誕生日おめでとう、イヴ。ヴァイオレットもこの日を祝っていたさ」と優しく言ってくれたけれど、祖父の目が離れると、またあの冷たい視線が私に突き刺さる。
ノエルお姉さまとルーカスお兄さまのいじめは、もう日常になっていた。彼らは、祖父がいないと分かると、わざと私の新しい服に絵の具をつけたり、庭に連れ出して、小さな虫を体に放り投げてきたりする。
特にルーカスお兄さまは、私の嫌がる顔を見るのが好きなようだった。彼の歪んだ笑顔は、私を常に恐怖に陥れた。
家庭教師のミス・グロスターは、私が少しでも間違いを犯すと、「やはり私生児は愚かだ」と冷たく言い放つ。彼女の言葉は、まるで鋭いナイフのように、私の心を切り裂いた。
この屋敷での日々は、まるで底なし沼のようだ。どれだけ藻掻いても、深く、深く沈んでいくだけ。
そして、昨夜見た夢が、まだ私の心を締め付けている。もう、夢の中でしか、私は自由になれないのだ。
あの夢は、ただの夢ではなかった。それは、私の心の奥底に潜む絶望の現れだった。
夢の中で私は、どこまでも広がる水面が、空と同じ色に染まる巨大な湖の前に立っていた。湖の向こうには、古びた、けれど威厳のある巨大な古城が、水面にその姿を映していた。
その城は、私が住むウィンチェスター伯爵邸のように、美しくも冷酷な顔をしていた。
その場所は、とても美しかったけれど、私の心は絶望でいっぱいだった。
この地獄のような現実から逃れる方法は、もう自死しかないのだと、そう思った。
この屋敷での毎日、心を切り刻まれるような言葉、私を汚れたものを見るかのような目。すべてを終わらせてしまいたかった。何もかも、この深い湖の中に沈めてしまおうと、私は呆然と立ち尽くしていた。湖の水面が、私を誘うかのように、静かに揺らめいていた。
そして、その湖に、自ら身を投げた。冷たい水が、私の全身を包み込み、呼吸ができなくなる。
ああ、苦しい、苦しいよ。
全身の感覚が麻痺し、意識が遠ざかっていく。
意識が遠のいていく中で、私は、どこからともなく聞こえてくる美しい歌声を聞いた。
それは、清らかで、穏やかで、それでいて神秘的な響きを持つ歌声だった。その歌声は、私の心に深く染み込み、抗うことのできない安らぎを与えてくれた。私はただ、その歌声に身を任せていた。まるで、母が私に歌ってくれた子守歌のように、優しく、そして力強く私を包み込んだ。
冷たいはずなのに、ママに抱き締められているみたいだわ。
どれほどの時間が経ったのだろう。ふと気づくと、私は再び湖の前に立っていた。服も髪も、少しも濡れていない。まるで、身を投げる前の瞬間に戻ったかのようだった。
私は混乱したが、もう一度身を投げるしかないと考え、湖に向かって一歩踏み出し、飛び込もうとした、その時だった。
「ねぇ、可愛らしいお嬢さん。死ぬ前に、私と契約しない?」
背後から、美しい声が聞こえた。その声は、歌声のように甘く、しかしどこか底知れない深い深い闇を持っていた。
振り返ると、そこには漆黒の黒いローブを身にまとった美しい女性が立っていた。月の光が、彼女の顔をぼんやりと照らし、その瞳は夜空の星のように輝いていた。彼女の口元は、不敵な笑みを浮かべていた。
「契約?」
私は、震える声で聞き返した。女性は優しく微笑んだ。
「そうよ。私と契約をすれば、どんな願いでも叶えられる。大金持ちにだってなれるし、美しい歌声も聡明な頭脳も、可憐な外見も、なんだって手に入る……ただし、お代はきっちりいただくわ。慈善事業じゃないのだから、当然よね?この世に、ただで手に入るものなんてないでしょう?」
私はその言葉に、少しだけ戸惑った。
お代? どんなお代を求められるのだろう?
それでも、この地獄から逃れられるなら、どんなことでも、と私は思った。どんな犠牲を払ってでも、ここから逃げ出したかった。
しばらくの間、私は言葉もなく、その女性を見つめ、ひどく悩んでいた。しかし、その女性の差し伸べられた手は、まるで私を救い上げてくれる光のように見えた。
私は意を決して、彼女の冷たい、けれどどこか安心させるような手を取った。
そして、私はとある願いを口にした。その願いは──
「はあ……どうしても思い出せないわ。どんな願いを言ったのか、まるで霧がかかったみたいに思い出せない」
夢から覚めた後も、その歌声と、女性の言葉、そしてあの湖の情景が、頭から離れなかった。まるで、本当に起きたことのように鮮明だった。
ただ、私の心には、言いようのない安堵と、かすかな予感だけが残っていた。
でも、この日、私の運命は確かに大きく変わったのだ。
午後のことだった。オリヴィアが、興奮した様子で私の部屋に駆け込んできた。彼女の顔は、驚きと興奮で赤く染まっていた。
「お嬢様!大変でございます!お嬢様宛てに、こんなものが……!」
オリヴィアの手には、分厚い羊皮紙でできた、奇妙な手紙が握られていた。蝋で封がされていて、紋章のようなものが押されている。
オリヴィアは信じられないといった様子で、手紙を私に差し出した。差出人は、「ホグワーツ魔法魔術学校」と書かれていた。
「ホグワーツって、なあに?」
私は、その奇妙な名前を口にした。私の人生に、この手紙がどんな意味をもたらすのか、まだ何も知らなかった。
そう尋ねた私の声は、ひどく震えていたと思う。オリヴィアも、この手紙が何なのか、まるで理解できていないようだった。
でも、手紙の紋章に描かれた4つの動物ライオン、アナグマ、ワシ、ヘビ……それらが、なんだか私を呼んでいるような気がした。
私の心の中に、この手紙が、私をこの地獄から連れ出してくれるのではないかという、かすかな希望が芽生え始めているのを感じた。
この見せかけの光に照らされた絶望の沼に、ついに一筋の本物の光が差し込んだのだ。私は、その光を掴まずにはいられなかった。
私はその希望を、決して手放すまいと固く誓った。