WARFAITH:Hotel Moscow Black Doctrine 作:星乃 望夢
ラグーン商会の面々が新しい“クルー”を迎える様子を、ハヤトはカウンターの端から静かに見届けていた。
その表情に感慨はなかった。ただ、任務の一環としての確認。その程度の温度。
指を二度、カウンターの上で軽く叩く。
すぐさま反応したのは、亡霊親衛隊の一人──通信士を務める青年兵だった。
ハヤトの指先の合図を受け、通信端末を取り出し、周波数を合わせる。
「……こちら、少佐。荷の受領完了。付随して、E.O.社との小競り合い発生。敵、制圧済み。商会の新人、予定通り現地収容された」
ハヤトがそう告げると、数秒の沈黙を挟んで、端末の向こうから低く艶やかな女の声が届く。
『よく戻ったな、少佐。私は、鉄火場で砲弾の中から戻ってくる上官が、こんな程度で死ぬとは思っていなかったよ』
その声は飄々としていて、しかし底に油を染み込ませたように重い。
「旭日重工との交渉はそちらに任せる。好きに料理してくれ」
電話の向こうの女──バラライカが、僅かに息をついた。
『了解した。ならば容赦なく料理してやるさ。あの企業の血の味がどれほどか──確かめてやろう』
通信を終えると、ハヤトは再びグラスに残ったウォッカに視線を落とし、静かにそれを煽った。
「もう一杯、頼む」
そう言った相手は、カウンター奥でうんざりした顔をしているバオだった。
「できりゃ早くお帰り願いたいね。あんたが居ると……酒の味が緊張で蒸発するんだよ」
ハヤトは首をすくめ、悪びれた様子もなく小さく笑った。
「……なら、残っている味だけでも楽しむといい。ちなみに──店の修理費と掃除代は実費になるが、それでよろしいか?」
その言葉に、バオは一瞬言葉を詰まらせた後、面倒そうに肩を竦めた。
「……どうぞ、ごゆっくり」
そして、不承不承ながらもグラスに新たなウォッカを注いだ。
静まり返った店の中、唯一、氷の鳴る音だけが心地よく響いていた。
もう一杯分のウォッカを、舌の上で転がすように喉に流し込んだハヤトは、氷の音と共にグラスをカウンターに戻した。
グラスを置く音すら、店の中では異様に大きく響いた。
彼は立ち上がると、視線をラグーン商会の一角──新入りの青年、岡島緑郎の方へと移した。
ひとつの用を思い出したように、ゆっくりと歩を進める。
その気配に気づいたロックは、慌てて胸ポケットを探り、先ほどの電話──旭日重工との、いや、日本という現実社会との決別を告げる冷たい声が流れた端末を取り出す。
「あっ、これ……返します」
そう差し出そうとした手を、ハヤトはすっと、手の甲で制した。
その仕草には、押し返す力はまるでなかったが、拒絶の意志は充分に伝わった。
「これから入り用だろう。ロビー活動に必要な道具は、持っていて損はない」
ロックの目が丸くなる。
ハヤトは続ける。
「……その電話は君に譲ろう。何かあればこちらへも連絡するといい。回線は、繋がっている」
それだけを言い残し、ハヤトはカウンターの縁に1枚の小切手を滑らせた。
バオがちらりと目をやる。
ちょうど店の修理費用に釣りが来るくらいの額だと察したのだろう、何も言わずに受け取った。
「撤収。──次」
命じるでもなく、呟くようにそう言うと、親衛隊の兵たちは音もなく従い、ハヤトの後を追って店を後にした。
重たいドアの音が、ピシャリと閉じたその瞬間──。
張り詰めていた空気が、ようやく“戻った”。
いや、戻ったわけではない。
ただ、静まり返った空気の中に残されたのは、戦場の焼け跡のような沈黙と、そこでまだ立ち尽くしているロックだった。
彼の手には、まだ携帯電話が残されている。
──何なんだ、一体?
そう思わず呟いた彼の背後で、チンピラたちがそっと距離を取る気配があった。
誰かは“まるで棺を抱いたような目”でロックを見た。
誰かは“もうすぐ消える灯火を見るような顔”で、合掌でもするかのように手を合わせていた。
ロックはその理由が分からず、きょとんとしたまま首を傾げる。
「おいおい、あの電話……」
誰かが小声で囁いた。
「ヤクザの“ドン”の直通だぞ? 触れるだけで指飛ぶってのに……よくあの坊主、生きてんな」
それを聞いて、レヴィがニヤリと笑いながら肩をすくめた。
「ったりめぇよ。マフィアのドンの直通なんて滅多にもらえねェんだよ、坊や。あれ持ってるってだけで、下手な連中はビビって撃てねェぜ?」
ロックはようやく彼女の言葉に意識を向けるが──その意味は、いまいちピンと来ない。
彼は任侠映画も、ヤクザもののドラマも、まるで観たことがなかった。
この都市で“誰と繋がる”ということが、何を意味するのかも、まだ知らない。
ただ手の中には、灰色のプラスチックの端末と、その奥に繋がっているはずの、もうひとつの世界──“生きて返される保証のない場所”が、確かにあった。
◇◇◇◇◇
ホテル・モスクワのオフィスに戻ったのは、イエローフラッグでの戦闘から小一時間も経たない頃だった。
だが、オフィスの空気はすでに戦場の火薬臭を通り越し、濃密な政治と商談の残り香で満たされていた。
デスクの向こう、常と変わらぬ表情でソファに腰かけているバラライカ──いや、今この空間では“ソフィーヤ”と呼ぶのが正しいかもしれない──は、足を組み、指先でグラスを弄びながらハヤトの来訪を待っていた。
「戻ったよ、ソフィ。交渉の進捗を訊いても?」
ハヤトの声は柔らかく、それでいて一切の婉曲を含まない。
戦場の上官が部下に戦況報告を促す声に似ていた。
「ええ、坊や。もう片は付いたわ」
彼女はグラスの氷をコトリと鳴らしながら答えた。
交渉にかかった時間は、正味40分。
向こうが焦って繋いできた電話に、こちらが必要最低限の条件を突きつけ、即答で呑ませた。
内容は、データディスクを返却する代わりに、旭日重工が保有する幾つかの“裏の交易ルート”に対する共同介入権の獲得。
──すなわち、本国の命令書に明記された、最低限にして最大効率の戦果。
「本音を言えば、噛むだけじゃなく、嚙み千切って丸呑みできるだけの材料は手元にあったけれど……こういう時は、ね?」
ソフィーヤの声は低く艶やかだった。
鉄火場であれば容赦なく蹂躙していた。
だが裏の経済戦争においては、生かさず殺さず、呼吸だけは許してやりながら、甘い蜜を吸わせてもらうのが肝要というわけだ。
「勝手に整えてくれる、彼らの“建て前”の上に乗る方が楽だもの。私たちがやることなんて、ほんの少し、口を挟むだけ」
バラライカは笑わなかったが、目が笑っていた。
それは血を流さずに勝利する者の余裕であり、何よりもそれを当然として受け止める者の風格だった。
その戦果に、ハヤトも満足していた。
「求めすぎず、だが引きすぎもしない。実に見事だよ、ソフィ」
そう呟いて、ハヤトは静かに手袋を外す。
「戦勝祝に、どうかな? 一杯付き合ってくれると嬉しいんだが」
それは命令でも、打診でもなかった。あくまでも、ひとりの男の誘い。
ソフィーヤの瞳が、微かに動いた。
“ソフィ”と呼ばれること──それが意味することを彼女は知っている。
ハヤトが軍服を脱いだ人間としての時間を過ごすとき、彼女のことをソフィーヤと呼ぶのだ。
副長であった頃から変わらぬ習慣。階級で呼ぶが、敬語は使わず、命令には従う。
だがそれは、対等に付き合う者への信頼の証だった。
「いいわよ、坊や。付き合ってあげる」
その“あげる”には、彼女なりの矜持が滲んでいる。
軍人としては上官に従う兵であっても、私人としての彼女は一歩も譲らない女だ。
付き合って“もらう”のではない。付き合って“あげる”。
その優位性を保ち続ける女が、いまこうして自ら立ち上がる。
──昔から、そうだった。
ハヤトが階級では上であっても、敬語を要求したことなど一度もない。
ソフィーヤが不敬罪で咎められたことなど一度もない。
なぜなら、彼女を咎められるほどの器量しか持たない上官など、そもそもハヤトの傍に長くは残らなかったのだから。
硝煙にまみれた戦場の彼方で積み上げてきた時間が、いまこの部屋に静かに流れていた。