WARFAITH:Hotel Moscow Black Doctrine   作:星乃 望夢

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第5話

 

 ──「その夜」、私はロアナプラにはいなかった。

 

 だが、亡霊はそれを見逃してはくれなかった。

 

 ロアナプラに夜の帳が下りるとき、街はふたつの顔を持つ。

 

 ひとつは喧騒と狂気に満ちた顔。銃声と笑い声と悲鳴が交錯する、悪意の坩堝。

 

 もうひとつは、言葉を失った沈黙の顔。

 

 死にかけた犬が息を潜めるように、街の呼吸すら凍りつく瞬間がある。

 

 この夜は、後者だった。

 

 南から吹く海風が、港湾部の倉庫街を撫でるように通り抜ける。

 

 潮気と油、古い木箱と血の臭いが混ざり合い、独特の匂いを漂わせていた。

 

 その風は、ホテル・モスクワの中枢たる石造りの本部にも、わずかに流れ込んでいた。

 

 だが、その風には、違和があった。

 

 いつもの腐臭とも、戦の匂いとも異なる──忌まわしい過去の予感。

 

 バラライカは机に座り、無言で一枚の封筒を見つめていた。

 

 白く、古びた質の紙。

 

 郵送の痕跡はなく、差出人の名も記されていない。

 

 ホテル・モスクワの警戒網をすり抜けてここへ届けるには、少なくとも“中”の構造を知る者の手引きが必要だった。

 

 しかし、それすらどうでもいいほどに、その封筒の“中身”は──挑発的だった。

 

 開封されたそれは、いくつかの写真と、手書きの紙片を含んでいた。

 

 ひとつは焦げたポラロイド写真。画面の中央に、若く痩せた少年が写っている。

 

 表情は消えかけているが、絶望と羞恥の混ざり合った眼差しだけが、やけに鮮明だった。

 

 もうひとつは、録音用の小さなテープ。

 

 そして──手書きの文字列。

 

 

 《昔のお前は──素直で可愛かったな、坊や》

 

 

 バラライカは、目を伏せたまま一度だけ息を吐く。

 

 その音は、ため息ではなかった。

 

 明らかな「戦争の匂い」に対する、戦士としての《応答》だった。

 

 ハヤト・ダーキアン。

 

 ホテル・モスクワの《戦略幕僚》にして、東南アジアの裏を操る“地獄の司令官”。

 

 彼がこの街で恐れられているのは、暴力の行使ではない。

 

「全ての戦場において、唯一“事後”が存在しない男」としての絶対性。

 

 だが、その男にも、唯一語らぬ“敗北”がある。

 

 かつて、彼がまだ“少年”であった頃──。

 

 孤児であり、なんら社会的な力もなかった頃、彼の身と尊厳は、冒されたのだ。

 

 ただ一度。

 

 バラライカは、ハヤトの背中を見たことがある。

 

 それは、かつての故郷。

 

 冬のソビエト。

 

 夜明け前、軍の焼却炉の前に、彼は軍服のまま立っていた。

 

 手には、古びた小包。

 

 中身は見なかった。

 

 焚き上げる炎に、その手を翳し、指先が焼けるまで微動だにしなかった。

 

 誰にも気づかれることなく、ただ、ひとつの記憶を“処理”する男の背中だった。

 

 そして今──あの記憶が“掘り起こされた”。

 

 しかも、《彼がこの街にいない》ことを狙ったタイミングで。

 

 バラライカは考える。

 

 これは単なる脅しではない。

 

 これは《踏み絵》だ。

 

 亡霊国家に属する者たちの忠誠と、構造の隙を試す“試金石”。

 

 ──これは、試されている。

 

 我々が、“ただの暴力”か、“亡霊”かを。

 

 だが、甘く見たのは、彼らの方だ。

 

 我々は暴力ではない。

 

 我々は、《亡霊国家》だ。

 

 ──過去に裏切られ、国家に見捨てられた者たちが、それでも明日を構築するために、亡霊として歩く。

 

 私たちは、そういう種族だ。

 

 電話の受話器に手をかけ──やめた。

 

 報告の必要はない。

 

 彼に“処理済みの過去”を再び触れさせることなど、侮辱に等しい。

 

 彼は、既に焼いた。

 

 ならば、灰が散る前に──焼き尽くすべきは、私たちだ。

 

「同志軍曹」

 

 声は低く、命令ではなく、通知だった。

 

 彼は気づいていた。

 

 部屋に漂う空気と、バラライカの声の色。

 

 それが“粛清”の匂いであることを。

 

「徹底的に洗い出せ。このクソどもは“過去にハヤト少佐と交戦・加害の経歴あり”。証拠を揃え、根絶やしにしろ。許可は不要。痕跡は一切残すな。──彼には、報告不要。これは《私たちの戦争》だ」

 

 ボリスは僅かに顎を引き、表情を変えぬまま姿勢を正す。

 

 カチリと弾倉を滑り込ませながら、言葉もなく頷く。

 

 亡霊に、命令は要らない。

 

 ただ“意味”と“確信”があれば、それだけで殺せる。

 

 この街に彼はいない。

 

 だが、亡霊は“彼の不在”をこそ、最も警戒すべき時と知っている。

 

 かつて国家が彼を見捨てたように、今度は我々が、彼の過去を見捨てる者たちを──見捨てる番だ。

 

 そしてそれが、《亡霊国家》に課せられた唯一の義務である。

 

 ──それが、忠誠の形だ。

 

 ハヤトが黙して過去を焼いたのなら──私たちは、その煙を見て、銃を取るだけのこと。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 ──空気が淀んでいた。

 

 ロアナプラの夜風は湿り、海辺の錆びた空気に混じって、何かが腐ったような気配を纏っていた。

 

 その異臭を最初に嗅ぎ取ったのは、《亡霊国家》だった。

 

 ホテル・モスクワの地下区画、第零司令室。

 

 扉には識別プレートが貼られていた。

 

> 「PRIZRAK(亡霊)」──軍事情報分析部隊、通称“亡霊審問室”。

 

 薄暗いランプの下、ボリス軍曹は古びたスライドプロジェクターを使って、次々に映像資料を映し出していった。

 

 スクリーンに現れる顔、名前、旧所属、そして14年前の“記録”。

 

「──これが対象者どもだ。全員、バンコク経由で今週ロアナプラ入り。目的は明白だ」

 

 スライドが切り替わるたび、室内の空気が濃くなっていく。

 

 壁際に立つナターシャ曹長は紙の極秘資料に目を通しながら、冷ややかに告げた。

 

「全員、“坊や”と接触歴あり。年齢、時期、内容……一致しています」

 

「……“あの夜”…ってやつか」

 

 アンドレイ軍曹の低い声。

 

 誰も、直截な表現はしない。

 

 だが、その意味を知らぬ者はいない。

 

 ハヤト・ダーキアン少佐──かつて14歳だった彼が、“無力”だった最後の一夜。

 

 軍服すら着ていなかった頃の、あの惨劇。

 

 記録は燃やされたはずだった。封じたはずだった。

 

 だが、その灰の欠片が、いまロアナプラを這っている。

 

「問題は、彼らが“何を望んでいるか”だ」

 

 ボリスはスライドを止め、机の上に投げ出された茶封筒を開いた。

 

 中身は──ポラロイド写真数枚、タイプライター打ちのメモ、そして一枚の録音カセット。

 

 

 《昔のお前は……素直で、可愛かったな、坊や》

 

 

 そこに記されていたのは、ただの言葉ではない。

 

 踏み躙る者の意志だった。

 

「脅しだな。昔のことをネタに、“ホテル・モスクワで雇え”と。それも“上得意待遇”で、だとよ」

 

 アンドレイが吐き捨てる。

 

 「地獄の亡霊」に向かって“屈しろ”と叫んだ亡者どもの末路が、見えているのだ。

 

「何様のつもりだ? 俺たちが何の上に立ってると思ってる……どうする、同志軍曹」

 

「ハヤト少佐には連絡は?」

 

「必要ない」

 

 ボリスが即答する。

 

「大尉の直命だ。“泥を見せるな、坊やに過去を歩かせるな”と。……全力を挙げろ」

 

 ボリスが低く告げる。

 

 

> 「対象:5名。全員、過去に“我が軍の記憶”に泥を投げた者たちだ。

情報収集は地上偵察、傍受は無線。

通信記録は捨てろ、報告義務も破棄する。

作戦名は《ヴォークル(亡霊)》」

 

 

「これは“粛清”ではない。“記録の削除”だ」

 

 

◆情報手段:

 

・通信傍受班(旧KGB型盗聴器と市販ラジオスキャナ)

・市内回覧紙の掲示板から行動パターン追跡(娼館、賭博場、港湾の名簿)

・顔認証は写真貼付式の捜索名簿(古びた人相書きを地元警察や情報屋に配布)

・過去の紙資料と残存記録(KGB残滓)をボリス自ら手繰る

 

 

 ボリスは最後に、封筒の一枚を静かに見下ろした。

 

 そこには14年前、少年ハヤトが囚われた夜の、ぼやけたポラロイドがあった。

 

「これは──我々の誇りを、穢した記録だ。ならば我々が責任をもって、燃やし尽くす」

 

 スライドが切れ、部屋が暗くなる。

 

 ナターシャとアンドレイは無言で立ち上がった。

 

 彼らにとってこれは作戦ではない。一種の“復讐”だった。

 

「亡霊に喧嘩を売るというのは、こういうことだ。……全員、消えろ。影のひとつ残さずにな」

 

 ──亡霊国家が、静かに刃を研ぎ終えた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 ロアナプラ港湾・第五倉庫跡地。

 

 元は貨物業者の拠点だったが、今では“持たざる者”の吹き溜まりとなっている。

 

 安ウイスキーの瓶、床に投げ出されたジャケット、灯りの代わりに焚かれる樽の炎。

 

 獣のような笑い声が夜気に響く。

 

「なぁおい、ほんとに“アイツ”で間違いねぇのかよ? まさか別人ってオチじゃねぇだろうな?」

 

 油と泥にまみれた革ジャンの男が、ボロボロのフィルム写真を持ち上げる。

 

 その写真に写るのは、14年前の少年──“あのハヤト”。

 

「間違いねぇよ。骨格が同じだし、あの黒髪と赤い目。それに“あのとき”俺が一番近かったんだ。あの泣きっ面、よぉく覚えてるぜ」

 

 汚れた笑い声。

 

 もう一人が破れたクッションにふんぞり返り、酒瓶を片手に吐き捨てる。

 

「チクショー……今じゃ軍服着て、ホテル・モスクワのエラいさんかよ。……なぁ、お前ら信じられるか?“あの時”俺らの上で喘いでたガキがよ? 今じゃ軍人様だぜ?」

 

 笑い声。下卑た、胃が煮えるような嘲り。

 

「ハッ、軍人ぃ? ケツ差し出した軍人様が聞いて呆れるってなァ!」

 

「いっそ、もう一回“可愛がって”やるか?」

 

「マジで? いや、今じゃ中佐だっけ? 大尉? 少佐?」

 

「知るかよ。肩書きなんざ、跪かせりゃ皆一緒だろ。どうせまた“ああん”とか言って泣くんだよ。なぁ?」

 

「いいぞそれ、たまんねぇな……!」

 

「便器にしてやってもいいぜ。あいつのツラ見ながら、こっちが王様気取りってか?」

 

「奴隷にして、金蔓にすんのもありだな……なに、あいつのツラ一発で情報屋も殺到だ。しかも、写真だけで10万は堅ぇって話だぜ?」

 

 酒瓶が回り、笑い声が重なる。

 

 酔いと共に、奴らの言葉はますます醜悪さを増していく。

 

「でも一番はやっぱり……また、泣かせてぇよな。“あの夜”みてぇにな。すっげぇ顔してたんだよ……俺、今でもたまに夢に出てくんだわ」

 

「泣かせる? ああ、いいな。そんで、踏みつけてやるんだ。『覚えてるかァ?』ってな」

 

「へっへ、そしたら今度は動画で売れるだろ? “元軍人がナニされて号泣”ってよ!」

 

 地獄のような饗宴。

 

 愚かで、醜く、そして──愚鈍。

 

 だが、それゆえに彼らは知らなかった。

 

 倉庫の外壁を這うように忍び寄る、“灰色の亡霊”の気配を。

 

 既に《審判》の準備が、静かに、完璧に整えられていたことを。

 

 彼らが今、口にしているのは──この世で最後の酒だった。

 

「乾杯だな……! あの坊やにさ。また俺たちの“オモチャ”に戻ってきてくれることを祈って――」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

> ――「記録、零時三十二分」

 

――「対象、五名」

 

――「作戦名:ヴォーロフスコイ・スード《亡霊裁判》、開始前」

 

 

 ロアナプラ第六区画、通称“死臭のベルト”

 

 かつて港湾労働者とスラム難民が流れ着いた貧民街。

 

 その廃墟帯に今、音もなく黒き亡霊たちが集結していた。

 

 濃密な湿気を切り裂き、暗視スコープの輝点が一つ、また一つと浮かぶ。

 

 AK-74。

 

 防弾盾と連携をとる突入班。

 

 高所にはドラグノフの狙撃班。

 

 通路の出口には2両のBTR-80装輪装甲車、さらに上空にはMi-24ハインド攻撃ヘリがホバリングしていた。

 

 まるで小国への電撃侵攻。だがこれは、たった五名の“粛清”にすぎない。

 

「集音、持続中。……まだ喋ってやがるぜ、あのクズども」

 

 メニショフ伍長が低く吐き捨てた。咥えた煙草を濡れた手袋で揉み消す。

 

 横にいたハサロフ上等兵は、集音器から流れる“会話”に耐えきれず、軽く頭を振った。

 

「……これが“少佐”を語る奴らの舌かよ。よく生きてたな、14年も」

 

「ハサロフ、奴らは生きてたんじゃない。死ぬべき時を忘れてただけだ」

 

 そう言ったのは、指揮所となったBTRの後部ハッチから降りてきたボリス軍曹だった。

 

その顔に、怒気はない。ただ、任務遂行者の冷静と訓練された“徹底”があった。

 

 バラライカ直属副官。

 

 ハヤト・ダーキアンが“少年”だった頃からこの地獄を潜ってきた、古き亡霊のひとりである。

 

「兵士諸君、聴け。これより、我々は《亡霊裁判》を執行する。対象は五名。“罪状”は、少佐殿に対する重大な名誉毀損および反人道的行為とその継続的示唆。映像記録、音声証拠、動機、所在──すべて揃っている。裁判は不要。判決は既に下されている」

 

 部隊内無線が統一され、録音されたチンピラどもの会話が一斉再生される。

 

「また泣かせてぇな、あのガキ……軍服のまま便器にしてやってよォ……」

 

「軍人サマ? 笑わせんなァ。跪かせて靴でも舐めさせようぜ?」

 

「可愛がってやったら思い出すんじゃねえのか、アイツも」

 

 沈黙。数秒の沈黙。

 

 続いて、全兵士の無線から一斉に“電子式の無音の確認音”が鳴る。

 

 それは──「許可された殺意」を意味するサインだった。

 

「全隊、攻撃準備」

 

「スコーピオン1より全狙撃班、同時着弾を了承。弾種:7N14貫通弾、ターゲット確保」

 

「スコーピオン2より突入班、南門到達。閃光手榴弾とショットガン装備完了」

 

「スコーピオン3、装輪車両停止位置到達。機関銃展開、退路封鎖完了」

 

「Mi-24より通報、上空に他勢力なし。全航空火力、投入待機」

 

 ハヤトの命令は出ていない。だが、その沈黙こそが、命令であった。

 

 亡霊国家の掟は簡潔だ。

 

 「少佐に泥を塗る者、いかなる存在であれ──即刻、塵と化す」

 

 「作戦開始まで30秒。タイミングは合図に合わせろ。敵は気づいていない。今が一番、愚かで幸福な瞬間だ。そのまま終わらせてやれ」

 

 ボリス軍曹は、静かに制帽のつばを下げた。

 

 戦友を、少年時代から共に見てきた彼の視線には、哀れみすら、もう無かった。

 

「……ハヤト少佐の名誉にかけて、貴様ら全員を《過去》に還す」

 

 

「亡霊裁判、開廷」

 

 

「……ファイア」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「おい……なぁ、ヘリの音、近くねぇか?」

 

 薄汚れた倉庫の中、汚酒と下卑た声が飛び交う中、一人のチンピラが、妙に鋭い目をしたまま空を仰いだ。

 

「……なぁ、おかしくねぇか? ずっと、あそこに……止まってねぇか?」

 

 ベトナム帰還兵を騙っていた男だ。

 

 かつて裏稼業で何度か“消されかけた”経験がある。

 

 その分だけ鼻が利く。

 

 だが、気づいた時には遅かった。

 

 閃光と衝撃波が、地獄の入り口を開いた。

 

 Mi-24ハインドの機関砲が唸りを上げ、炸裂榴弾が屋根を貫通。

 

 その直下にいた3名が何の抵抗もなく、赤い霧と黒焦げの肉片へ変わる。

 

 飛び散ったのは血液ではなく、「人間だった物の、残響」に過ぎなかった。

 

「ッ――ヒィッ!?」

 

 残った二人のうち、ひとりは仰け反って転倒。

 

 そのまま背後から突入してきたメニショフ伍長の制圧班に捻り伏せられ、腕を折られ、舌を抜かれ、両膝を撃ち抜かれて、静かに気絶した。

 

「逃げるぞッ……ッ、ここから逃げ……」

 

 だがもう一人──本当に狡猾だったのは、倉庫の裏手、ゴミ山の中に隠れていた“5人目”だった。

 

 頭を低く、息を殺し、「死体の下に潜る」という悪知恵で難を逃れた。

 

 そして彼は、気づいた。

 

「……生きてる……? いや、なんで……なんで、俺だけ……?」

 

 その理由を、彼は理解した。否、“理解させられた”。

 

「わざと、見逃された」

 

 物音ひとつしない夜の空間。

 

 突如として、無数のブーツ音が、周囲から迫る。

 

 軍靴が、闇の底から集う。

 

 まるで“怨霊の鼓動”のように、無感情で、規則的に、整然と。

 

 遊撃部隊。

 

 戦場の中で、最も感情を剥ぎ取られた、純粋な死の使者たち。

 

 彼らが、獲物を囲むように、包囲を狭めていく。

 

  5人目の男は、言葉にならない声で喉を震わせた。

 

「お、俺はッ……! 話すだけのつもりだったんだッ!あのガキを、また、また……!」

 

 誰も応えない。

 

 彼らは、“言葉を持たない”。

 

 ただ、“命令”を実行する機械だ。

 

 拷問が始まった。

 

 あまりに淡々と、まるで作業のように。

 

 声帯を切られぬ程度に、歯を砕き、骨を砕き、指を裂いていく。

 

 「何人に渡した?」

 

 「どこに売った?」

 

 「誰が興味を持った?」

 

 「カメラマンか? 麻薬ルートの密売人か? ジャーナリストか?」

 

 答えが出るまで止まらない。

 

 出たとしても、止まらない。

 

 だが──情報は、確かに掘り出された。

 

 数名の情報屋の名が挙がった。

 

 ハヤト・ダーキアンという名に食いつき、軍人崩れの“過去”を餌にしようとした者たち。

 

「あのガキ、モスクワの後ろ盾がなきゃ、また“可愛く”戻るんじゃねぇかってな」

 

「写真もある、映像もある。女王様気取りのバラライカだって、裏を掴めば……」

 

 “共犯”だった。ゆすりネタに乗った。

 

 蜜を舐めようとした。

 

 ──その者たちは、一夜のうちに消えた。

 

ロアナプラの裏社会で、まるで“最初から存在しなかった”かのように。

 

 そして、拘束された“4人目”──拷問で錯乱し、再起不能のまま──バラライカの前へと引きずられていく。

 

 彼女は、笑っていた。

 

 微笑んでいた。優しさすら、含んでいた。

 

「ようこそ。地獄の残響へようこそ。貴様は、あの少年の記憶を穢した。今から、その記憶に“詫び”を入れてもらう。時間をかけて、丁寧に──優しく」

 

 彼女は手袋を外し、皮膚が触れる温度で、ただの“肉塊”になった男の頬を撫でた。

 

「ねぇ、貴方。後悔は、痛みに溶けて消えるのよ。でも恐怖は──死ぬまで、終わらないの」

 

 その“粛清”の末に、チンピラ五名は抹殺され、情報屋十数名が“事故”で消えた。

 

 その夜、ロアナプラでは一発の銃声も報じられなかった。

 

 だが確かに、そこには《亡霊国家》の裁きが降りていた。

 

 誰も知らない。

 

 だが誰もが、二度と、その名を穢そうとはしなかった。

 

 ハヤト・ダーキアン少佐──彼の背中に触れた者が、一人残らず、消された夜の記憶として。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ロアナプラの朝は、いつだって湿気と埃と、そして──何かを“燃やした後”の臭いが混じる。

 

 ラグーン商会の事務所。

 

 酒と硝煙の香りにまみれたソファに背を預けながら、ロックはまだ昨夜の光景が脳裏を離れずにいた。

 

「……なあ、ダッチ。昨日の夜、一体何があったんだ?」

 

 そう切り出すと、室内の空気が僅かに変わる。

 

 椅子に座っていたダッチが新聞をめくる手を止め、ガレージ奥で煙草に火を点けていたレヴィが鼻を鳴らす。

 

「装甲装輪車だの、戦車だの、しかも空からはヘリの音……まるで、戦争でも始まったみたいだったんだが……」

 

 苦笑交じりに言ったその言葉に、誰も笑わなかった。

 

 レヴィが煙を吐き出しながら、皮肉交じりに言う。

 

「ハァ? おいおい、ロック、お前マジでそう思ったのか? 戦争? 冗談じゃねぇ……あれはな、“後始末”だ。てめぇが“普通の国”で生きてたなら、絶対に見ねぇもんさ。だが、ここは“ロアナプラ”だ。過去も現在も未来も、全員ぶっ壊れてる街だぜ」

 

 ダッチが無言で新聞を畳んだ。

 

 その瞳には、わずかだが深い静けさ──そして“諦め”のようなものがあった。

 

「ホテル・モスクワの連中が、何かに動いたんだろう。ヘリを出すなんて、よっぽどの“大掃除”だったんだろうさ。俺たちゃ、巻き込まれなかっただけ運がいい。」

 

 ベニーが、パソコンに向かったまま背を向けて答える。

 

「ローカルのニュースにも出てないね。記録もなし。監視カメラの映像も全部“通信エラー”。もう徹底してるね。お手上げさ」

 

 ロックは、曖昧な顔でそれを聞いていた。

 

 頭の中では、昨夜──たしかに耳にした「空を裂く音」、爆発音ではなかった、“何かが吹き飛んだ音”が、まだ残響として響いている。

 

「そんな……あんな、音がして……それで何も残らないなんて……」

 

「なに驚いてんだよ、坊や」

 

 レヴィが銜え煙草を指先で弾きながら、肩をすくめた。

 

「モスクワの連中が本気出しゃ、“証拠ごと”全部蒸発するんだよ。なーに、心配すんな。お前が気づいたってことは、“見逃してもらえた”ってこった。感謝しとけ」

 

 ロックは、うなだれるようにソファに深く座り直しながら、そっと胸ポケットに手をやった。

 

 布越しに、硬く冷たい感触。

 

 ハヤトから手渡された携帯電話。

 

 漆黒の端末。

 

 ハヤト・ダーキアン少佐直通──。

 

 そう明言されただけのそれを、ロックは無意識に指先で撫でていた。

 

(……あの人は、知っているんだろうか。昨夜、何が起きたのか。いや……“命令してない”としても、あれは──)

 

 あの都市に漂う「恐怖」と「沈黙」の理由。

 

 それが、まるで軍事国家のように秩序立っている理由。

 

 ロックはようやく理解しかけていた。

 

 このロアナプラという地獄で、“ハヤト・ダーキアン”という存在が、どれほどの死神を従えているかということを。

 

「……何が正しいのかなんて、もう分からないな。だが、俺は……生きている。この電話が、きっと……その答えなんだ」

 

 彼の言葉に、レヴィが眉をひそめる。

 

「なにブツブツ言ってんだよ、ロック。怖気づいたか? そんな顔してると、今夜もまた“戦争”が来るぜ? ――まさか、お前の“お友達”が原因じゃねぇよな?」

 

 ロックは答えなかった。

 

 ただ、黙って微笑し、視線をそらした。

 

 ──ハヤト。

 

 あなたは、どこまでを“知っていて”、どこまでを“任せた”んだろうか。

 

 そして、あの夜の“亡霊たち”は──誰のために、あそこまでやったんだろう。

 

 答えは、風の中に消えていた。

 

 だが、誰の耳にも、まだあの“ヘリの音”だけが残っていた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 翌朝──

 

 ロアナプラ港湾地帯の第五倉庫群にて、火災による全焼事故が確認された。

 

 火元の特定には至らず。

 

 原因は不明、通報者もなし。

 

 焼け跡には、人間の痕跡すら存在しない。

 

 だが、港湾労働者たちは皆、知っていた。

 

「……あの倉庫は、昨日まで“使われていた”はずだ」

 

「だが、今朝は誰も近寄ろうとしない」

 

「……何かが、“終わった”気がするんだよな」

 

 ロアナプラにおいて「終わった」という言葉は、しばしば“存在ごと抹消された”ことを意味する。

 

 誰も訊ねない。

 

 誰も確かめない。

 

 誰も、報告しない。

 

 報告書も、記録も、情報網にもその名は残らない。

 

 そこにいたはずの“誰か”は、都市の記憶からさえも消えていく。

 

 だが、“空気”だけが変わる。

 

 確かに、変わっていた。

 

 それは、暴力が消えたからでもない。

 

 秩序が戻ったからでもない。

 

「亡霊」が、ひとつ埋葬されたからだ。

 

 その夜の作戦を統括したバラライカは、焼け跡を遠くから見つめていた。

 

 瞳は冷たく、ただ一つの感情も宿していなかった。

 

 だがその唇は、かすかに動いた。

 

「……彼の歩いた道に、泥は要らない」

 

「過去とは、記録されるものではない。焼かれて、消えるべきだ」

 

「お前たちは、ただの“過去”で良かったはずだ……」

 

 まるで自分に言い聞かせるように、あるいは、地獄に消えた何かに向けて手向けるように。

 

 その声は、風にかき消され、朝日の闇に沈んだ。

 

 だが彼女の背後では、静かに亡霊国家の軍旗が翻っていた。

 

 紋章も名も持たぬそれは、もはや国ではなく、記録にも残らぬ亡霊たちの象徴。

 

 沈黙の軍。

 

 忠誠の影。

 

 そして、“彼”のためにだけ存在する、戦場の墓守たち。

 

 ハヤト・ダーキアン少佐。

 

 この街に再び降り立つとき、彼がこの一件を思い出すことはないだろう。

 

 過去は、記録ではなく“焼却”された。

 

 彼が二度と踏み込まぬよう、その道は、完全に埋め立てられたのだ。

 

 煙の匂いが風に溶けていく。

 

 焼け跡には、鳥一羽さえ舞い降りない。

 

 だがそこに──確かに“終わり”が存在した。

 

 亡霊は、またひとつ埋葬された。

 

 忠誠と共に。

 

 沈黙と共に。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ロアナプラ──それは、昼でもどこか夜の匂いが残る都市。

 

 ハヤト・ダーキアン少佐が空港を降り立ったのは、陽が傾きかけた午後。

 

 本国での幹部会議を終え、わずか数日ぶりの帰還だった。

 

 だが、足を踏み入れた瞬間に、彼は“違和感”を嗅ぎ取る。

 

「……燃えたな」

 

 遠く、どこかにまだ残る焦げた金属と血の混ざった臭気。

 

 それは、戦争の匂いだ。

 

 誰も報告はしない。

 

 何も知らされていない。

 

 だが、それでも──“戦争”は確かにあった。

 

 彼の留守の間に、何かが起こり、そして既に終わっている。

 

 ハヤトは黙って歩いた。

 

 鉄火の門──ホテル・モスクワ本部上層階、司令部執務室へ。

 

 扉は開かれていた。

 

 その奥、煙草とコーヒーの匂いが静かに満ちている。

 

 執務机の背に、バラライカが座っていた。

 

 彼女は軍服の上着を脱ぎ捨てた格好で、カップを持っていた。

 

 その横顔は静かで、どこか満たされた獣のようだった。

 

 ハヤトは、無言のままドア枠にもたれかかる。

 

 そして、一言だけ問いかけた。

 

「……戦争は楽しかったかい? ソフィ」

 

室内に一瞬の静寂。

 

それは、問いかけでも、責めでもない。

 

ただ、“察している”という確認。

 

バラライカは、それを受けて、カップを唇に運んだ。

 

濃く、苦いコーヒーを一口。

 

そして、かすかに笑った。

 

「ああ、楽しかったよ。坊や」

 

 それだけだった。

 

 だがその言葉の裏には、いくつもの死と銃声、悲鳴と硝煙、そして沈黙の意志が織り込まれている。

 

 ハヤトは歩み寄らなかった。

 

 バラライカも席を立たなかった。

 

 互いに、何も語らず、互いに、全てを知っていた。

 

 机の隅に、一枚のフィルムがあった。

 

 だが、それは既に灰になりかけていた。

 

 彼女は指先でそれを摘み上げ、燃える灰皿の中へと落とした。

 

 一拍。

 

 ふた拍。

 

 パチ……という音と共に、“汚点”は消えた。

 

 

 「記録は要らない」

 

 「記憶は、私の中だけでいい」

 

 「そして、私の中で、焼却される」

 

 そう語ることなく、そう確かに実行した。

 

 それは命令でもない。報告でもない。

 

 ただの、亡霊国家の“裁き”の後始末だった。

 

 ハヤトはそれを黙って見届け、何も言わず、背を向けた。

 

 彼はもう知っていた。

 

 そして、もうそれ以上を知る必要はなかった。

 

 彼が歩く先に、泥は残されていない。

 

 バラライカは再び、コーヒーを口に運ぶ。

 

 その苦味が、妙に心地よい。

 

「……坊や。そういうのを、“ご褒美”って言うのよ」

 

 誰にともなく、呟くように。

 

 だが、その横顔には確かに、一つの“任務完了”の満足と、哀しみのない誇りがあった。

 

 ロアナプラの亡霊たちは、今夜も静かに呼吸を続けていた。

 

 ──亡霊国家は、今日も沈黙のままに、生きている。

 

 

 

 

 

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