祈りを喰らう狼 作:田部なぎれすぷる
朝の陽が礼拝堂のステンドグラスを抜け、床に色とりどりの光の帯を落とす頃。ルプスレギナ・ベータ――ルプスは、既に目を覚ましていた。
食事や休息が不要となるアイテム『リング・オブ・サステナンス』は現在装備していない。定期的に外して休息を取ることをアインズから義務付けられているし、今の状況を鑑みると外した方が都合がいいからだ。
柔らかな寝具の中でひとつ伸びをして、ふわりと息をつく。清潔な空気と、かすかな草木の香り。
神の匂い、だなんて言っていた昨日の自分を思い出して、くすりと笑う。
ナザリックに比べれば肥溜め同然の環境だが、人間の街にしては然程悪くないと思えた。
(さてと……)
街の外を警邏させている配下のモンスターからは、相変わらず異常無しの報告しか届かない。やはり、当分はこの暇つぶしに興じる他ないようであった。
ルプスの暇つぶし――神父グレイを使った
しかし教会への泊まり込みを了承させた時点で、その準備の半分は整ったも同然であった。
問題はその先。信心深い神父の生活の中に、どうやってもっと深く入り込んでいくか。
服を整え、髪を結い直すと、彼女は軽やかに礼拝堂の扉を開いた。
グレイは既に起きており、朝の祈りを終えた直後だったようだ。窓辺の椅子に腰かけ、帳面を開いてなにやら書きつけている。
「おはようございます、神父さまっ」
弾けるような声でそう言えば、彼は驚いたようにこちらを振り返る。
「おはようございます、ルプスさん。もう起きられていたのですね」
「朝の光で自然と目が覚めちゃって。それにしても教会の朝って、空気までピンと張ってて……気持ちいいっすよね」
微笑みながら近づいていくと、彼はわずかに帳面を伏せた。
「ご不便はありませんでしたか?」
「全然。むしろ、よく眠れたっす! あのベッド、意外とふかふかだったし」
「それはよかった」
グレイは安堵したように息をついた。その表情の裏にあるもの――素直な善意か、それとも好意か――ルプスは無遠慮に探りはしない。ただ、にこにこと笑みを絶やさず、じりじりと距離を詰めていく。
「それで、神父さま。もし邪魔じゃなかったら、自分、今日から教会のお手伝いとかしてもいいっすか?」
「お手伝い、ですか?」
「泊めてもらって何もせず居候じゃあ、神様にも怒られちゃうっす。それにこの教会、神父さま一人だけしかいないっすよね。一人じゃ管理するのも大変なんじゃないっすか?」
「ええ、まぁ。それは勿論、ありがたい申し出ですが……」
グレイは何やら迷っているようであったが、しかし拒まなかった。
(これで、朝から晩まで一緒っすねぇ)
心の奥でひっそりと笑いながら、ルプスはグレイのそばに寄って帳面を覗き込む。
「ね、これ何書いてたんすか?」
後ろから身を乗り出すようにして、肩越しに顔を近づける。グレイはわずかに息を呑み、手元を隠すように帳面を閉じた。
「……今日の奉仕予定と、町の相談ごとの記録です」
「へぇ〜、マメなんすね。神父さまって、もっとお祈りしてるだけのイメージあったっす」
冗談めかして言えば、グレイは苦笑を浮かべた。
「理想の中の神父像は、きっともう少し敬虔で、落ち着いているのでしょうね。私などはまだまだです」
「え〜、そんなことないっすよ? ちゃんと教会守って、地域の人のことまで考えて……私、尊敬してるっす」
ルプスは自然な仕草でグレイの腕に手を添えた。過剰ではなく、親しみを込めた、あくまで挨拶程度のスキンシップと距離感。だがその温もりが彼にどう届いたかは――しっかりと確かめる価値がある。
「そろそろ朝の礼拝の時間っすよね。それまで掃除とかしとくっすか?」
「……では、お願いできますか。私は厨房の方を確認してきますので」
「了解っす!」
軽やかな返事と共に、ルプスはほうきと雑巾を手に取った。
▷
それからの数時間は、心地よい静けさの中で過ぎていった。
ルプスは廊下を掃き、窓辺を拭き、礼拝堂の椅子の並びを整える。使い慣れない掃除用具や手順に最初は戸惑ったが、それも数十分もすれば手際よくこなせるようになった。戦闘用メイドである彼女にとって、肉体労働など児戯に等しい。ただ――それを悟られぬように、あえて少し不器用さを残しながら作業を進めるのが、今日の肝だった。
昼を過ぎる頃には、近所の老婦人が礼拝堂に顔を出し、グレイと短く言葉を交わして去っていった。教会を訪れる人々とグレイとの会話に、ルプスは容易く自然に入り込む。ルプスという存在を、周囲にも根付かせていく。
やがて日が傾き、窓から射し込む光の色が金から赤へと変わりはじめた頃。厨房から香ばしい匂いが漂いはじめ、ルプスの鼻先をくすぐった。
「神父さま〜、晩ごはんのいい匂いがしてきたっすよ〜?」
軽やかに声をかけて厨房を覗けば、グレイが鍋をかき混ぜながら振り返る。
「今日は野菜のスープと、干し肉を少し。簡単なもので申し訳ありません」
「とんでもないっす! さっきからお腹鳴りっぱなしだったっすから」
笑いながら椅子に腰を下ろすと、グレイはふと手を止めた。
「……ルプスさん。今日、一日ありがとうございました。おかげでずいぶん捗りましたよ」
「いえいえ、居候の義務を果たしたまでっすよ〜」
そう言いながらも、ルプスは笑顔の下で冷静に観察していた。彼の表情、視線、声の調子。そのどれもが、初対面の頃よりも柔らかく、近くなっているのが分かった。
夕食は、小さな食卓を挟んで二人向かい合う形で始まった。
パンとスープ。少し塩気のある干し肉。質素ではあるが、温かく、整った食事だ。
「神父さまは、いつも自炊なんすか?」
「ええ。訪問者は多くありませんし、贅沢をする身でもありませんから。質素に、慎ましく――それが私の信仰の形です」
その言葉に、ルプスの眉がわずかに上がる。
「信仰の、形……っすか?」
「はい。信仰とは、言葉や祈りだけではなく、生き方にこそ宿るものだと思っています。食べる物も、暮らし方も、他人との接し方も、すべてが神の御前に恥じないものであるべきです」
彼はスプーンを置き、指先を組んだ。まるでそこに、見えざる聖印でも描いているように。
それは――まっすぐな信仰だった。無知ゆえの滑稽さや、思い込みの危うさを差し引いてもなお、その純粋さに濁りはない。
ルプスは頬杖をつきながら、視線を逸らさずに彼を見つめる。
「……やっぱ、神父さまはすごいっすね」
「いえ、そんなことは……。私はただ、未熟なままに足掻いているだけです」
グレイはわずかに頬を赤らめ、俯いて視線を切った。じっと見つめられることに慣れていないのだろう。内心で照れているのが伝わる。
ルプスはスプーンを口に運びながら、胸の奥に浮かぶ小さな感情の波を押し隠した。
この聖職者が、いずれ自分の言葉に、指に、唇に揺らぐ日を思い描く。
それは決して単なる愉悦ではない。その先に待つ、もっと深く、濃く、壊しがいのある
聖女の皮は、今日もよく馴染む。