祈りを喰らう狼 作:田部なぎれすぷる
ルプスは教会の中庭に置かれた木椅子に腰を下ろし、ひと息ついていた。手には、数枚の洗濯済みの衣服。日課として干す作業はすでに終え、あとは乾くのを待つだけだ。
午前中の掃除と簡単な手伝いを終えた後、彼女はグレイの手元に付き添って、文書の整理や相談者の記録まで手伝った。アインズから賜ったメガネ型の解読マジックアイテムのおかげで文字を読むのは問題ないし、帳面の整頓など雑作もない。
(もうだいぶ、馴染んできたっすね)
今日で教会に泊まって三日目。早くも彼女は、グレイの生活の内側に踏み込んでいた。
「ルプスさん、そちらの干し物、終わりましたか?」
グレイが、礼拝堂の裏から現れた。手には木箱。昼過ぎに教会へ献品を届けに来た村人たちから受け取った果物や小麦が詰められている。
「ばっちりっす。全部干し終わって、風通しも問題なし!」
「助かります。……正直、一人だと日々の雑務に手を焼いていたので、本当にありがたい」
ルプスはにこっと笑いながら立ち上がり、箱を持つグレイに近づいて言った。
「よかったっす。教会の役に立ててるなら、自分も嬉しいっすよ。……重くないっすか?」
「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
そう言いつつも、グレイの腕にはやや負担がかかっているようだった。ルプスは自然な動作で彼の腕に手を添え、軽く引き寄せるようにして声をかけた。
「じゃあ、せめて中まで一緒に持っていくっす」
密着こそしないが、距離はごく近い。手のひらを通して伝わる温度を、彼がどう感じたか。ルプスはさりげなく、その反応を観察する。
彼は目を逸らすように微笑み、少しだけ早足になった。明らかな戸惑い――だが、拒絶ではない。
(うーん、やっぱチョロいっすねぇ)
教会の厨房に入ると、ふたりは並んで荷をほどき、小分けにしながら保存の準備に取りかかる。グレイの動きは慣れていて、村人たちの好意を丁寧に扱う手つきにも信仰者らしい誠実さがあった。
「神父さまってさ、こういうのも一人で全部やってたんすか?」
「はい。必要なことは、自分でできるようにしておかないと。誰もが助けてくれるとは限りませんから」
「でも、助けを断る必要もないっすよ?」
「……ええ、そうですね。ルプスさんがいてくださるなら、甘えてしまうこともあるかもしれません」
「ふふ、遠慮しないで、どーんと頼ってくださいっす!」
快活に笑うルプス。
グレイはふと、どこか決意を込めたように頷いた後、口を開いた。
「それでは……早速ですが少しお願いしたいことがありまして」
「お? なんでしょう、なんでしょう?」
「今日、市場でいくつか物を買い揃える必要があるんです。教会で使う備品や保存食、それから薬草なども……。ひとりでも行けないわけではないのですが、良ければ……手伝っていただけませんか?」
最後の一言はどこか申し訳なさそうに添えられた。
ルプスは一拍置いて目を細めると、いつものように楽しげな調子で肩を竦める。
「もちろんっす! 神父さまのお願いなら、そりゃもう全力で!」
言いながら彼女は立ち上がり、軽やかに腰を払った。
◆
午後の市場は活気に満ちていた。
人々の声、商品を並べる木箱の軋む音、風に運ばれるスパイスや果物の香り――通りに立ちこめるそれらのすべてが、この街の脈動を伝えてくる。
「この時間帯、思ったより賑わってるんすねえ」
「ええ。昼過ぎは職人や農家の方が品を出しに来る時間なので……品揃えがいい分、値段の交渉もしづらくなるんですが」
グレイは手に持った紙片を見下ろしながら、眉を寄せた。手書きの文字が並ぶそれは、教会の在庫と必要物資を記したものらしい。
一方、ルプスはというと、周囲の喧騒に目を輝かせながら、露店のあいだをひょいひょいと渡り歩いていた。
「わお、見てくださいよ神父さま。ここの布、めっちゃ上等っすよ? これ、祭壇のカバーに使ったら絶対映えると思いません?」
「……いや、それは高すぎます。教会の予算では到底……」
「えー、細かいことはいいじゃないっすか。なんなら私が持つっすよ? 泊めてもらってるお礼ってことで」
「……いえ、それは……ルプスさんのお気持ちはありがたいですが、教会としては公私の線引きを――」
「ぶー。つれないっすねえ」
ルプスは拗ねたように唇を尖らせながらも、軽やかな足取りで次の店へと向かった。
そこは乾燥薬草や香草、簡易な治療具を扱う薬商の露店だった。
「ここ、薬草が新鮮っすね」
「ええ、ここの店主は森の麓の村から直接仕入れているんです。保存が利くし、香りも飛びにくい」
グレイがそう説明する間に、ルプスは籠の中の葉を一枚手に取り、指先で軽く揉んだ。鼻に近づけてひと嗅ぎすると、表情がわずかに和らぐ。
「――これは、いいやつっすね」
「カモミールの変種です。煎じて飲むと神経の高ぶりに効きます。主に老信徒の方々に……」
「ふーん。神父さまにも効いたりして?」
「……え?」
「最近、ちょっとお疲れみたいっすから。ほら、わたしと一緒にいると緊張しちゃうんじゃないかって思ってたところなんすよね〜?」
悪戯っぽく覗き込まれたグレイは、一瞬言葉を失ったあと、やや早口に反論した。
「そ、そんなことは……ない、と思います。たぶん。いや、その……気疲れというよりは……集中力の問題、といいますか」
「ぷっ……ふふっ。そっかそっか、集中してくれてるんすね〜」
くすくすと笑いながら、ルプスは薬草を数束選び、小銭袋を取り出した。
しかし、グレイはそれを制するように手を伸ばす。
「いえ、こちらも教会の予算で――」
「またまた~。いいんすよ、これはわたしからのお礼っす」
笑顔のまま押し切るルプスに、グレイはそれ以上何も言わず、ただ礼を述べるのみだった。
その後も、祭具の研磨油や筆記用具、乾パンや塩漬け肉などを見繕いながら、二人は市場をゆるやかに巡っていった。
二人が教会に戻ると、既に日が傾いていた。
グレイはすぐに夕食の支度に取り掛かる。献品の野菜を使ったスープと、炙ったパン、果物を盛った簡素な夕食が小さな食卓に並んだ。
向かい合って座るふたりのあいだに流れる空気は、昨日までよりさらに柔らかい。
「……このスープ、味つけの塩加減が絶妙っすね。干したきのこの出汁っすか?」
「よく分かりましたね。少しだけ、干し茸を煮出して使いました」
「へぇ〜、神父さま、料理スキル高いっすよ。これは嫁に行けるっすねぇ」
グレイは喉を詰まらせそうになりながら笑った。
「それは……ありがたいのか、どうか……」
「褒め言葉っすよ〜。ね、ほんとに美味しいっす」
パンをちぎりながら、ルプスはグレイの表情をそっと観察する。それは街の人々に見せていた神父としての笑顔とは違う。心を許した人間に見せるような、自然な笑みだった。
食事が終わり、二人は祈りを捧げる。
薄く目を開け、再びグレイの表情を観察するルプス。その祈る仕草も、食事への感謝も、グレイにとっては演技ではなく自然なのだろう。
――本物の信仰。
その姿は、ルプスの嗜虐心を刺激した。
(……きれいな目、してるっす)
無垢で、真っ直ぐで、触れたら壊れてしまいそうな透明さ。
「……ねぇ、神父さま」
食後、湯を飲みながらルプスがぽつりと呟いた。
「さっき、街で歩いてるとき……なんか、ちょっと恋人同士っぽかったっすね?」
「……こ、恋人……?」
グレイが言葉を詰まらせたのが面白くて、ルプスは楽しげに笑った。
「冗談っすよ、冗談。あははっ、顔真っ赤じゃないっすか〜!」
彼女の声に、グレイは困惑と苦笑の混じった表情を浮かべる。
だが、耳の先まで赤いのは、事実だった。
その心が、少しずつ熱を帯びている確かな手ごたえ。
「……神父さまって、すごく立派っす」
ひとしきり笑った後、ふと、ルプスがトーンを変え、真面目な声で呟く。
「自分、今日ずっと傍で見てたっすけど……人の話をちゃんと聞いて、誰にでも優しくして、当たり前のことをちゃんと大切にしてて」
そう続けながら、彼女は言葉のひとつひとつを噛みしめるように話した。
「それって、簡単そうに見えて、すっごく難しいことだと思うっす」
グレイは少しだけ、困ったように笑った。
「私はただ、私にできることをしているだけですよ。誰かに評価されるような立派なものではありません」
「謙遜しすぎっすよ〜。……あんまり自分を下げてると、ほんとに損するっすよ?」
少しだけ甘えるような声音で言いながら、ルプスは手の届く距離に近づく。
「……でも、そんな神父さまだから、わたし……安心してここに居られるのかも」
視線を合わせ、柔らかく笑う。
グレイは何も言えず、目を逸らすしかなかった。
その瞳の奥に宿すものを、グレイはきっと見抜けていないだろう。