祈りを喰らう狼   作:田部なぎれすぷる

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グレイ視点です。


五話 懺悔室にて

 

 

 ルプスが教会に来てから早一週間。

 彼女は毎朝決まった時間に目を覚まし、掃除や洗濯、文書の整理まで進んで手伝ってくれる。教会――いや、グレイにとって、これ以上ない助けだった。

……だが、彼女の存在は、時として助け以上の影響をグレイに与えていた。

 

 その明るい笑顔。気さくな言葉遣い。さりげない仕草や、ふとした視線。

 

 そして時折見せる、意味深な言葉の端々。

 

(――あれは、本気ではないのだろう)

 

 そう思い込もうとしても、どうしても無視できない温度が、距離があった。

 グレイは机の上の祈祷書に目を落とす。しかし集中は続かない。指先は微かに震えている。

 

「……神に仕える者が、なんという……」

 

 自嘲めいた言葉が唇から漏れる。

 

 そのとき、ノックの音がした。

 

 控えめだが、いつもの軽やかな調子――彼女だ。

 

「神父さま、今ちょっと、お時間ありますか?」

 

「ええ、どうぞ」

 

 そう返すと、扉がゆっくりと開き、ルプスが顔を覗かせた。今日は薄い布地の巡礼服に、いつもより少し大きめのストールを肩にかけている。

 

「む、なんだか堅苦しい顔してるっすねえ。もしかして、私のせいっすか?」

 

「……何を言っているのですか」

 

 言いながら、内心では図星だった。

 

「今日はちょっと……お願いがあって来たんすよ」

 

「お願い、ですか?」

 

「……懺悔したいことが、あるっす」

 

 その言葉に、グレイは眉を上げた。

 

「……本気、なのですか?」

 

「もちろん。大真面目。だから……ちゃんと、懺悔室で聞いてほしいっす」

 

 その微笑は、柔らかくも、どこか試すようだった。

 

 彼女が先に礼拝堂の片隅――懺悔室へと歩いていく。

 

 グレイはわずかに躊躇したが、しかし彼女の言葉を拒む理由はなかった。懺悔は、聖職者にとって避けられない務めだ。

 

 重い扉を開けると、木造りの小さな空間。仕切り板を挟んで、左右に座席がある。片方にはすでにルプスが座っていた。

 

 かすかな香が、仕切り越しに漂ってくる。ラベンダーに似たそれは、彼女の髪から香るものだ。

 

「……では、始めましょう」

 

 木の座面に腰を下ろし、グレイは静かに目を閉じた。

 

「名を告げなくとも結構です。懺悔したいことを、ありのままに」

 

「……はい」

 

 ルプスの声は、ひどく真剣な響きを持っていた。

 

「わたし……人を、からかってしまう癖があるっす」

 

 そう言って、ルプスは一拍間をおく。

 

「……続けてください」

 

「まじめな人とか、頑張ってる人を見ると、なんかつい。揺さぶってみたくなるっす。試してみたくなるっす」

 

「……それは、良くないですね」

 

「そうっすよね。良くない。なのに――やめられないっす」

 

 仕切り板の向こうから、布の擦れる音が聞こえる。

 グレイはふと、背中に寒気のようなものを覚えた。

 

「神父さまは、からかわれて怒ったりしないっすか?」

 

「……懺悔とは、そのようなことを問う場所ではありません」

 

「でも……ちょっとだけ、教えて欲しいっす。わたしがもし、神父さまを試したとしたら……それって、赦されることっすか?」

 

「あなたの心に罪があると自覚するなら、神はその悔いを受け入れるでしょう。ですが……」

 

 言葉を区切ると、ふいにルプスが囁いた。

 

「……神父さま、顔、赤くなってないっすか?」

 

「な――」

 

 グレイは思わず息を呑んだ。仕切り板の格子の隙間から、彼女の指先がすっと伸びていたのだ。

 

 細く、しなやかな指が、仕切り板をなぞる。

 

「ねえ、もしも……もしも、ここが教会じゃなくて、もっと自由な場所だったら。神父さま、どうしてたっすかね」

 

「……ルプスさん、それは――」

 

「わたしが誰でもない女で、神父さまがただの男だったら……」

 

 その囁きは、まるで熱を持っていた。

 

 耳の奥で、心の奥で、熱が膨らむ。

 

 そのときだった。カタン、と小さな音がして、仕切り板の向こうでルプスが立ち上がった気配。

 

「ル、ルプスさん?」

 

 次の瞬間、格子の隙間から覗く姿が揺れ、――ルプスが、仕切り板を迂回してグレイの側へと入ってきた。

 

「っ、何をして……!」

 

「ほんのちょっと……神父さまの顔、ちゃんと見たかっただけっす」

 

 膝を折って座った彼女は、すぐ隣にいた。

 

 懺悔室の中は狭い。ふたりが並んで座れば、自然と肩が触れ合いそうになる距離。仕切り一枚を隔てていた空間が、今やただのふたりきりの密室になっていた。

 

 ルプスは悪びれもせず笑っている。

 グレイは即座に立ち上がるべきだった。だが、足が動かない。

 頭では理解している。これは越えてはならない一線だ。

 だが、彼女の吐息の温度、かすかな香り、そしてその無垢を装った瞳が、彼の理性を鈍らせる。

 

「ここは……神の許しを得るための聖域です。軽々しく踏み入れていい場所では……」

 

「へぇ、そうなんすね。でも――」

 

 ルプスは小さく身を寄せた。

 指先が、グレイの膝にそっと触れる。爪を立てるでも、掴むでもない、ただ「そこにいる」と伝えるだけの軽い接触。

 

「神父さまが止めないと、わたし、どこまでも入ってっちゃうかもっすよ?」

 

「……っ!」

 

 声が詰まる。

 

 それは明らかな挑発。

 

 純白の衣――その襟元がわずかに緩んでいる。

 そこから覗く鎖骨の影と、ストールの下から落ちかかる赤い髪。

 意図しているようで、無意識のような……危うい色香。

 

「……どうして、こんなことを……?」

 

 喉の奥から絞り出すような問いに、ルプスは首を傾げた。

 

「さっきも言ったっすけど……神父さまがどこまで()()()()でいられるのか、気になっただけっす」

 

 まるで獲物の反応を愉しむ獣のような目。その黄色い瞳に至近距離で見つめられ、座っているのに足が眩むような感覚に襲われる。

 

「……もし、いま、神父さまが男に戻っちゃったら……そのときは、どうすればいいっすか?」

 

 ルプスの指が、ほんの一瞬、グレイの手の甲に触れる。

 グレイはその感触に弾かれるように立ち上がった。

 

「……出てください」

 

「……え?」

 

 ルプスがわずかに目を見開く。

 

 グレイは顔を伏せたまま、拳を握りしめている。

 その声はかすれていたが、確かだった。

 

「ここは……あなたの遊び場ではありません。どうか、これ以上、私を……あなた自身を、冒涜しないでください」

 

 しばらくの沈黙。

 

 ルプスは立ち上がると、すぐには出ていかなかった。

 代わりに、グレイの背に向かってぽつりと呟く。

 

「神父さまがちゃんと神父さまでいてくれると、わたし……ほんとに楽しいっす」

 

 足音が、木の床を踏む音が遠ざかっていく。

 そして、扉がそっと閉じられた。

 

 残されたグレイはひとり立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。

 それでもなんとか体を動かし、懺悔室を出て、自室に戻り、もたれかかるように椅子に腰掛ける。

 

 まるで体の芯にまで火が入ったようだ。冷たいはずの木の座面が熱を持ち、手のひらは汗ばんでいる。

 

(……何をしている)

 

 自嘲の念が浮かぶたび、それすらも弱々しく思えた。

 ルプスの行動は()()だったのかもしれない。彼女自身、「からかい」だと言っていた。だが、そのたったひとつの「からかい」が、これほどまでに心を乱すとは。

 

 祈祷書を開くが、文字は目に入ってこない。

 水を汲みに行き、顔を洗っても、頬に残る熱は消えない。

 ルプスがいたあの空間だけが、いまだに身体のどこかに残っているようだった。

 

 ――そして夜。

 

 廊下の灯を落とし、すべての戸締りを終えた後、グレイは自室に戻った。

 ランプの灯火の下、机に手を置く。帳面は開かれたままだったが、文字を書く気にはなれない。

 

 窓の外では、虫の声。遠くで狼が吠える声が一度だけ響いた。

 

「……」

 

 ふと、彼は机の引き出しに手を伸ばした。

 取り出したのは、小さな銀の聖印。幼い頃、初めて教会に足を踏み入れたときに与えられたものだ。

 

 その冷たい金属に指を添え、彼は目を閉じた。

 

(神よ……)

 

 かすかに唇が動く。

 だが、祈りの言葉は浮かばなかった。言葉よりも先に、ルプスの笑顔が、指先の感触が、耳元の囁きが、脳裏に過ぎっていく。

 

「……私は、試されているのでしょうか」

 

 教会に来てからの彼女は、ただの滞在者ではなかった。毎朝の挨拶、掃除の合間の冗談、書類整理の手伝い、そして、食事の席で交わす何気ない会話。

 

 彼女の言葉には熱があり、微笑には意味があり、視線には力があった。

 

(私は……惑わされている)

 

 そう自覚したとき、グレイは静かに立ち上がった。

 部屋を出て、足音を忍ばせるようにして廊下を進む。扉を一枚、また一枚と過ぎ――彼は礼拝堂へと向かった。

 

 夜の礼拝堂は、まるで別の空間のように感じられる。

 蝋燭の残り香がわずかに漂い、高い天井からはしんとした静寂が降りてくる。ルプスが泊まる奥の小部屋の扉が動く気配がないことを確認し、祭壇の前にひとり膝をつき、グレイはようやく口を開いた。

 

「神よ……どうか、心の弱さを赦したまえ」

 

 祈りは形を取り始めた。

 それでもなお胸のうちには、拭いきれない残滓が残る。

 

(……あれは、からかいだった)

 

(それだけのはずだ)

 

 彼女の真意が、グレイにはまだ分からない。

 だがひとつ確かなことがある。

 

 明日もまた、彼女は奥の小部屋から出てきて、無邪気な顔で「おはようございます」と声をかけてくるのだ。

 

 彼はそのとき、真っ直ぐに彼女を見られるのだろうか。

 信仰に生きる者として試されているのは――今この瞬間なのだろう。

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