祈りを喰らう狼 作:田部なぎれすぷる
グレイ視点です。
ルプスが教会に来てから早一週間。
彼女は毎朝決まった時間に目を覚まし、掃除や洗濯、文書の整理まで進んで手伝ってくれる。教会――いや、グレイにとって、これ以上ない助けだった。
……だが、彼女の存在は、時として助け以上の影響をグレイに与えていた。
その明るい笑顔。気さくな言葉遣い。さりげない仕草や、ふとした視線。
そして時折見せる、意味深な言葉の端々。
(――あれは、本気ではないのだろう)
そう思い込もうとしても、どうしても無視できない温度が、距離があった。
グレイは机の上の祈祷書に目を落とす。しかし集中は続かない。指先は微かに震えている。
「……神に仕える者が、なんという……」
自嘲めいた言葉が唇から漏れる。
そのとき、ノックの音がした。
控えめだが、いつもの軽やかな調子――彼女だ。
「神父さま、今ちょっと、お時間ありますか?」
「ええ、どうぞ」
そう返すと、扉がゆっくりと開き、ルプスが顔を覗かせた。今日は薄い布地の巡礼服に、いつもより少し大きめのストールを肩にかけている。
「む、なんだか堅苦しい顔してるっすねえ。もしかして、私のせいっすか?」
「……何を言っているのですか」
言いながら、内心では図星だった。
「今日はちょっと……お願いがあって来たんすよ」
「お願い、ですか?」
「……懺悔したいことが、あるっす」
その言葉に、グレイは眉を上げた。
「……本気、なのですか?」
「もちろん。大真面目。だから……ちゃんと、懺悔室で聞いてほしいっす」
その微笑は、柔らかくも、どこか試すようだった。
彼女が先に礼拝堂の片隅――懺悔室へと歩いていく。
グレイはわずかに躊躇したが、しかし彼女の言葉を拒む理由はなかった。懺悔は、聖職者にとって避けられない務めだ。
重い扉を開けると、木造りの小さな空間。仕切り板を挟んで、左右に座席がある。片方にはすでにルプスが座っていた。
かすかな香が、仕切り越しに漂ってくる。ラベンダーに似たそれは、彼女の髪から香るものだ。
「……では、始めましょう」
木の座面に腰を下ろし、グレイは静かに目を閉じた。
「名を告げなくとも結構です。懺悔したいことを、ありのままに」
「……はい」
ルプスの声は、ひどく真剣な響きを持っていた。
「わたし……人を、からかってしまう癖があるっす」
そう言って、ルプスは一拍間をおく。
「……続けてください」
「まじめな人とか、頑張ってる人を見ると、なんかつい。揺さぶってみたくなるっす。試してみたくなるっす」
「……それは、良くないですね」
「そうっすよね。良くない。なのに――やめられないっす」
仕切り板の向こうから、布の擦れる音が聞こえる。
グレイはふと、背中に寒気のようなものを覚えた。
「神父さまは、からかわれて怒ったりしないっすか?」
「……懺悔とは、そのようなことを問う場所ではありません」
「でも……ちょっとだけ、教えて欲しいっす。わたしがもし、神父さまを試したとしたら……それって、赦されることっすか?」
「あなたの心に罪があると自覚するなら、神はその悔いを受け入れるでしょう。ですが……」
言葉を区切ると、ふいにルプスが囁いた。
「……神父さま、顔、赤くなってないっすか?」
「な――」
グレイは思わず息を呑んだ。仕切り板の格子の隙間から、彼女の指先がすっと伸びていたのだ。
細く、しなやかな指が、仕切り板をなぞる。
「ねえ、もしも……もしも、ここが教会じゃなくて、もっと自由な場所だったら。神父さま、どうしてたっすかね」
「……ルプスさん、それは――」
「わたしが誰でもない女で、神父さまがただの男だったら……」
その囁きは、まるで熱を持っていた。
耳の奥で、心の奥で、熱が膨らむ。
そのときだった。カタン、と小さな音がして、仕切り板の向こうでルプスが立ち上がった気配。
「ル、ルプスさん?」
次の瞬間、格子の隙間から覗く姿が揺れ、――ルプスが、仕切り板を迂回してグレイの側へと入ってきた。
「っ、何をして……!」
「ほんのちょっと……神父さまの顔、ちゃんと見たかっただけっす」
膝を折って座った彼女は、すぐ隣にいた。
懺悔室の中は狭い。ふたりが並んで座れば、自然と肩が触れ合いそうになる距離。仕切り一枚を隔てていた空間が、今やただのふたりきりの密室になっていた。
ルプスは悪びれもせず笑っている。
グレイは即座に立ち上がるべきだった。だが、足が動かない。
頭では理解している。これは越えてはならない一線だ。
だが、彼女の吐息の温度、かすかな香り、そしてその無垢を装った瞳が、彼の理性を鈍らせる。
「ここは……神の許しを得るための聖域です。軽々しく踏み入れていい場所では……」
「へぇ、そうなんすね。でも――」
ルプスは小さく身を寄せた。
指先が、グレイの膝にそっと触れる。爪を立てるでも、掴むでもない、ただ「そこにいる」と伝えるだけの軽い接触。
「神父さまが止めないと、わたし、どこまでも入ってっちゃうかもっすよ?」
「……っ!」
声が詰まる。
それは明らかな挑発。
純白の衣――その襟元がわずかに緩んでいる。
そこから覗く鎖骨の影と、ストールの下から落ちかかる赤い髪。
意図しているようで、無意識のような……危うい色香。
「……どうして、こんなことを……?」
喉の奥から絞り出すような問いに、ルプスは首を傾げた。
「さっきも言ったっすけど……神父さまがどこまで
まるで獲物の反応を愉しむ獣のような目。その黄色い瞳に至近距離で見つめられ、座っているのに足が眩むような感覚に襲われる。
「……もし、いま、神父さまが男に戻っちゃったら……そのときは、どうすればいいっすか?」
ルプスの指が、ほんの一瞬、グレイの手の甲に触れる。
グレイはその感触に弾かれるように立ち上がった。
「……出てください」
「……え?」
ルプスがわずかに目を見開く。
グレイは顔を伏せたまま、拳を握りしめている。
その声はかすれていたが、確かだった。
「ここは……あなたの遊び場ではありません。どうか、これ以上、私を……あなた自身を、冒涜しないでください」
しばらくの沈黙。
ルプスは立ち上がると、すぐには出ていかなかった。
代わりに、グレイの背に向かってぽつりと呟く。
「神父さまがちゃんと神父さまでいてくれると、わたし……ほんとに楽しいっす」
足音が、木の床を踏む音が遠ざかっていく。
そして、扉がそっと閉じられた。
残されたグレイはひとり立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
それでもなんとか体を動かし、懺悔室を出て、自室に戻り、もたれかかるように椅子に腰掛ける。
まるで体の芯にまで火が入ったようだ。冷たいはずの木の座面が熱を持ち、手のひらは汗ばんでいる。
(……何をしている)
自嘲の念が浮かぶたび、それすらも弱々しく思えた。
ルプスの行動は
祈祷書を開くが、文字は目に入ってこない。
水を汲みに行き、顔を洗っても、頬に残る熱は消えない。
ルプスがいたあの空間だけが、いまだに身体のどこかに残っているようだった。
――そして夜。
廊下の灯を落とし、すべての戸締りを終えた後、グレイは自室に戻った。
ランプの灯火の下、机に手を置く。帳面は開かれたままだったが、文字を書く気にはなれない。
窓の外では、虫の声。遠くで狼が吠える声が一度だけ響いた。
「……」
ふと、彼は机の引き出しに手を伸ばした。
取り出したのは、小さな銀の聖印。幼い頃、初めて教会に足を踏み入れたときに与えられたものだ。
その冷たい金属に指を添え、彼は目を閉じた。
(神よ……)
かすかに唇が動く。
だが、祈りの言葉は浮かばなかった。言葉よりも先に、ルプスの笑顔が、指先の感触が、耳元の囁きが、脳裏に過ぎっていく。
「……私は、試されているのでしょうか」
教会に来てからの彼女は、ただの滞在者ではなかった。毎朝の挨拶、掃除の合間の冗談、書類整理の手伝い、そして、食事の席で交わす何気ない会話。
彼女の言葉には熱があり、微笑には意味があり、視線には力があった。
(私は……惑わされている)
そう自覚したとき、グレイは静かに立ち上がった。
部屋を出て、足音を忍ばせるようにして廊下を進む。扉を一枚、また一枚と過ぎ――彼は礼拝堂へと向かった。
夜の礼拝堂は、まるで別の空間のように感じられる。
蝋燭の残り香がわずかに漂い、高い天井からはしんとした静寂が降りてくる。ルプスが泊まる奥の小部屋の扉が動く気配がないことを確認し、祭壇の前にひとり膝をつき、グレイはようやく口を開いた。
「神よ……どうか、心の弱さを赦したまえ」
祈りは形を取り始めた。
それでもなお胸のうちには、拭いきれない残滓が残る。
(……あれは、からかいだった)
(それだけのはずだ)
彼女の真意が、グレイにはまだ分からない。
だがひとつ確かなことがある。
明日もまた、彼女は奥の小部屋から出てきて、無邪気な顔で「おはようございます」と声をかけてくるのだ。
彼はそのとき、真っ直ぐに彼女を見られるのだろうか。
信仰に生きる者として試されているのは――今この瞬間なのだろう。