祈りを喰らう狼 作:田部なぎれすぷる
朝の礼拝が終わった教会には、しばしの静寂が戻っていた。
ルプスは椅子の背に手をかけたまま、無人の礼拝堂を見渡していた。さっきまで座っていた信徒たちの温もりが、まだ空気の中に残っている。グレイは祭壇の片付けを終え、今は書斎で書き物をしているはずだ。
木漏れ日が高窓から差し込んでいる。
ルプスはその光に目を細めると、ひとつ深く息を吐いた。
(……今日は、少し、静かっすね)
ここ数日、彼女はあえて距離を詰めるような
懺悔室での出来事以来、グレイの態度には少しずつ変化が生じていた。視線は合っても、どこか揺れている。言葉に詰まる頻度が増え、ふとした沈黙が続く場面が増えた。
――それは、ルプスにとって退屈でもあり、心地よくもあった。
彼の信仰心がひび割れていく様を見ていると、まるで花が枯れていく過程を眺めているような、妙な充足感があった。時間をかけて、じわりじわりと。
急ぐ必要などない。
そのとき、奥の扉が開く音がした。
「……ルプスさん」
静かに名を呼ぶ声。グレイだ。
彼は書簡の束を胸に抱え、礼拝堂に足を踏み入れる。その顔色は少し疲れて見えたが、表情は穏やかだった。
「今日の午後、少し外へ出る予定がありまして」
「へえ、どこに?」
「近くの集落から薬草の相談があって。使者が来て、何人か体調を崩していると……。急を要するというほどではないのですが」
ルプスは肩をすくめ、笑みを浮かべる。
「ふふん、神父さまってば、ほんと働き者っすねえ。ついてってもいいっすか?」
「え……あ、いえ、その、別に構いませんが……」
いつも通りの調子に、グレイは少しだけたじろぐ。だが、否定の言葉は出ない。
彼の中に、確実に何かが芽生え始めている。否定も拒絶も、以前ほど強くない。
「じゃ、決まりっすね。たまには外で空気吸わないと、信仰も固まりすぎてカッチカチになるっすよ?」
「……信仰は、柔軟であるべきかもしれませんが……」
そう言って、グレイもつられて小さく笑った。
ルプスはその笑顔に目を細めた。
(……うんうん、だいぶ
静かに、確実に。彼の中に変化が広がっている。
◆
午後の森道は、夏の気配をはらんだ空気に満ちていた。
遠くに川のせせらぎが聞こえ、鳥たちの声が木々の合間をすり抜ける。人通りは少なく、ふたりは並んで歩いていた。
「……この道を歩くの、何年ぶりでしょう」
グレイがふと呟くように言った。
「教会に赴任してから、ほとんど街の中に留まっていましたから。外へ出るのは、本当に久しぶりです」
「じゃあ、わたしが引っ張り出したってことっすね?」
「ええ、ある意味では……そうかもしれません」
どちらからともなく笑みがこぼれる。
会話は自然に続き、空気も和やかだった。
だが、ルプスの瞳の奥には、淡い予感があった。
今のグレイは、すでに
耐えている。耐えているが、いつまで持つか――。
ふと、グレイが立ち止まった。
「……ルプスさん」
その声音は、いつものような柔らかさと、何か別の、重さを帯びていた。
「はい?」
振り向いた瞬間、グレイの視線とぶつかった。
真っ直ぐな、揺れを孕んだ眼差し。
「あなたは……この街に、いつまで滞在される予定ですか?」
「ふふ、さあ? でも、そう長くはないっすよ」
「……そうですか」
それだけを言って、彼はまた歩き出す。
沈黙。だが、それは不安でも気まずさでもなく、言葉を飲み込むための時間だった。
ルプスは歩調を合わせながら、ちらりと彼の横顔を盗み見る。
優しい顔。誠実な眼差し。信仰に生きる者の静けさと――その奥に、ふつふつとわき上がる、熱。
(……ああ、やっぱり、もうすぐっすね)
胸の奥で、確信が芽吹いた。
あと少しで、信仰は音を立てて崩れる。人としての本能が、信仰に勝るその瞬間――。
それが来るまで、もうしばらく
ルプスは、そう決めた。
そして、次の誘惑の場として、彼女はすでに次の場所を心に描いていた。
――それは、夜の、聖堂。
かつて彼が誓いを立てた祭壇の前。そこで、今度は彼の“本当の祈り”を引きずり出すのだ。
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夜明けの気配が、教会の石造りの廊下に薄く差し込んでいた。
グレイは机に突っ伏したまま目を覚ました。衣擦れの音すら重く感じられる。頭の芯に残る鈍い疲労と、胸のあたりに貼りついたような違和感が、昨夜の祈りが無意味だったことを物語っていた。
懺悔室でのあの出来事から、すでに三日が経つ。
それ以来、ルプスの態度は何も変わっていない。今朝も明るく「おはようございますっす」と挨拶し、朝食の準備を手伝い、棚の整理を申し出てきた。あの日の夜、懺悔室に侵入し、あの至近距離で言葉をささやいた彼女と、まるで別人のように。
(……まともに、目が合わせられない)
視線を逸らし、心を鎮めようとするたびに、あの囁きが蘇る。
『ねぇ、もしもここが教会じゃなかったら――』
『わたしがただの女で、神父さまがただの男だったら……』
その言葉を、笑い飛ばせなかった。
彼女の仕草に、声色に、心が揺れてしまった。
何より――拒むことを、怖れた。
そんな自分に気づいているからこそ、祈りの言葉は虚ろになり、聖句の一節すら口にするのが苦しくなっていた。
神の前に出る資格が、自分にはあるのか?
そう問いかける声は日増しに強まり、心を締めつけていく。
その日の午後、街の施療院からの依頼で、教会は薬草を届けることになった。選別と準備はルプスが行っていたが、最後の確認だけは神父の仕事だった。
「神父さま、ちょっとこれ、確認お願いできるっすか?」
ルプスが小さな籠を持って現れた。乾燥させたカモミール、ヒースの葉、そして解毒作用のある小瓶がひとつ。どれも施療院で必要とされているものだ。
「……ああ。ありがとう」
グレイは手に取った瓶を透かして眺める。だが、意識はどうしても彼女の指先に引き寄せられる。籠を差し出すその手、そっと揺れる赤髪の香り……あの日、膝に触れた感触が、そこから再び伸びてくるような錯覚を覚えた。
「神父さま……最近、顔色悪いっすよ?」
その問いかけに、グレイはうまく返せなかった。
だが、彼女は笑顔を崩さない。
「もしかして……寝てないっすか? も〜、私が変なこと言ったから気にしてるとかじゃないっすよね〜?」
「……違います」
グレイは静かに答えたが、それは明らかな嘘だった。
彼女はそんな彼の声の揺らぎに気づいているはずだ。
彼女が言葉を選び、態度を演出し、彼の信仰を試していることは、たぶん分かっていた。
それでもなお、その試みを拒絶できないのは――己の中に、確かな欲望があるからだ。
グレイは、もう、認めざるを得なかった。
ルプスを見てしまう。
彼女の言葉に耳を傾けてしまう。
そして、祈りよりも彼女のことを思い浮かべる夜が、日々増えていく。
それはもう、信仰の名を語る資格のない心だった。
日が暮れ、礼拝堂に蝋燭を灯す頃。
ルプスはふと、静かな声で呟いた。
「――神父さま」
グレイが振り向くと、彼女はいつになく真剣な目でこちらを見ていた。
「明日の夜……少しだけ、ふたりきりで話しませんか?」
その声に、罠のような甘さはなかった。
ただ、真っ直ぐな問いかけだった。
「話……?」
「うん。ちゃんとしたい話があるっす。神父さまと、わたしのこと」
彼女はそう言って微笑んだ。
いつもの、どこか芝居じみた笑みではなく、ほんの少しだけ、寂しさを滲ませた笑みで。
その表情を見たとき、グレイの中で何かが崩れかけた。
もしかして、この心のざわめきは、彼女を守りたいという想いなのかもしれない。
彼女の孤独を癒したいという、信仰とは別の、もっと人間らしい感情なのかもしれない。
だがそれが「救い」なのか、「堕落」なのか。
答えは、明日の夜に待っている。