祈りを喰らう狼   作:田部なぎれすぷる

7 / 9
六話 崩れる

 

 

 朝の礼拝が終わった教会には、しばしの静寂が戻っていた。

 

 ルプスは椅子の背に手をかけたまま、無人の礼拝堂を見渡していた。さっきまで座っていた信徒たちの温もりが、まだ空気の中に残っている。グレイは祭壇の片付けを終え、今は書斎で書き物をしているはずだ。

 

 木漏れ日が高窓から差し込んでいる。

 

 ルプスはその光に目を細めると、ひとつ深く息を吐いた。

 

(……今日は、少し、静かっすね)

 

 ここ数日、彼女はあえて距離を詰めるような()()を控えていた。

 

 懺悔室での出来事以来、グレイの態度には少しずつ変化が生じていた。視線は合っても、どこか揺れている。言葉に詰まる頻度が増え、ふとした沈黙が続く場面が増えた。

 

 ――それは、ルプスにとって退屈でもあり、心地よくもあった。

 

 彼の信仰心がひび割れていく様を見ていると、まるで花が枯れていく過程を眺めているような、妙な充足感があった。時間をかけて、じわりじわりと。

 

 急ぐ必要などない。

 

 そのとき、奥の扉が開く音がした。

 

「……ルプスさん」

 

 静かに名を呼ぶ声。グレイだ。

 

 彼は書簡の束を胸に抱え、礼拝堂に足を踏み入れる。その顔色は少し疲れて見えたが、表情は穏やかだった。

 

「今日の午後、少し外へ出る予定がありまして」

 

「へえ、どこに?」

 

「近くの集落から薬草の相談があって。使者が来て、何人か体調を崩していると……。急を要するというほどではないのですが」

 

 ルプスは肩をすくめ、笑みを浮かべる。

 

「ふふん、神父さまってば、ほんと働き者っすねえ。ついてってもいいっすか?」

 

「え……あ、いえ、その、別に構いませんが……」

 

 いつも通りの調子に、グレイは少しだけたじろぐ。だが、否定の言葉は出ない。

 

 彼の中に、確実に何かが芽生え始めている。否定も拒絶も、以前ほど強くない。

 

「じゃ、決まりっすね。たまには外で空気吸わないと、信仰も固まりすぎてカッチカチになるっすよ?」

 

「……信仰は、柔軟であるべきかもしれませんが……」

 

 そう言って、グレイもつられて小さく笑った。

 

 ルプスはその笑顔に目を細めた。

 

(……うんうん、だいぶ()()()になってきたっすね)

 

 静かに、確実に。彼の中に変化が広がっている。

 

 

 

    ◆

 

 

 

 午後の森道は、夏の気配をはらんだ空気に満ちていた。

 

 遠くに川のせせらぎが聞こえ、鳥たちの声が木々の合間をすり抜ける。人通りは少なく、ふたりは並んで歩いていた。

 

「……この道を歩くの、何年ぶりでしょう」

 

 グレイがふと呟くように言った。

 

「教会に赴任してから、ほとんど街の中に留まっていましたから。外へ出るのは、本当に久しぶりです」

 

「じゃあ、わたしが引っ張り出したってことっすね?」

 

「ええ、ある意味では……そうかもしれません」

 

 どちらからともなく笑みがこぼれる。

 

 会話は自然に続き、空気も和やかだった。

 

 だが、ルプスの瞳の奥には、淡い予感があった。

 

 今のグレイは、すでに()()()の淵に立っている。懺悔室でのあの出来事以来、何もなかったように日常は続いているが、その()()()()こそが、彼をゆっくりと蝕んでいた。

 

 耐えている。耐えているが、いつまで持つか――。

 

 ふと、グレイが立ち止まった。

 

「……ルプスさん」

 

 その声音は、いつものような柔らかさと、何か別の、重さを帯びていた。

 

「はい?」

 

 振り向いた瞬間、グレイの視線とぶつかった。

 

 真っ直ぐな、揺れを孕んだ眼差し。

 

「あなたは……この街に、いつまで滞在される予定ですか?」

 

「ふふ、さあ? でも、そう長くはないっすよ」

 

「……そうですか」

 

 それだけを言って、彼はまた歩き出す。

 

 沈黙。だが、それは不安でも気まずさでもなく、言葉を飲み込むための時間だった。

 

 ルプスは歩調を合わせながら、ちらりと彼の横顔を盗み見る。

 

 優しい顔。誠実な眼差し。信仰に生きる者の静けさと――その奥に、ふつふつとわき上がる、熱。

 

(……ああ、やっぱり、もうすぐっすね)

 

 胸の奥で、確信が芽吹いた。

 

 あと少しで、信仰は音を立てて崩れる。人としての本能が、信仰に勝るその瞬間――。

 

 それが来るまで、もうしばらく()()()してあげよう。

 

 ルプスは、そう決めた。

 

 そして、次の誘惑の場として、彼女はすでに次の場所を心に描いていた。

 

 ――それは、夜の、聖堂。

 

 かつて彼が誓いを立てた祭壇の前。そこで、今度は彼の“本当の祈り”を引きずり出すのだ。

 

 

 

────────────────────

 

 

 

 夜明けの気配が、教会の石造りの廊下に薄く差し込んでいた。

 

 グレイは机に突っ伏したまま目を覚ました。衣擦れの音すら重く感じられる。頭の芯に残る鈍い疲労と、胸のあたりに貼りついたような違和感が、昨夜の祈りが無意味だったことを物語っていた。

 

 懺悔室でのあの出来事から、すでに三日が経つ。

 

 それ以来、ルプスの態度は何も変わっていない。今朝も明るく「おはようございますっす」と挨拶し、朝食の準備を手伝い、棚の整理を申し出てきた。あの日の夜、懺悔室に侵入し、あの至近距離で言葉をささやいた彼女と、まるで別人のように。

 

(……まともに、目が合わせられない)

 

 視線を逸らし、心を鎮めようとするたびに、あの囁きが蘇る。

 

『ねぇ、もしもここが教会じゃなかったら――』

 

『わたしがただの女で、神父さまがただの男だったら……』

 

 その言葉を、笑い飛ばせなかった。

 彼女の仕草に、声色に、心が揺れてしまった。

 何より――拒むことを、怖れた。

 

 そんな自分に気づいているからこそ、祈りの言葉は虚ろになり、聖句の一節すら口にするのが苦しくなっていた。

 

 神の前に出る資格が、自分にはあるのか?

 

 そう問いかける声は日増しに強まり、心を締めつけていく。

 

 その日の午後、街の施療院からの依頼で、教会は薬草を届けることになった。選別と準備はルプスが行っていたが、最後の確認だけは神父の仕事だった。

 

「神父さま、ちょっとこれ、確認お願いできるっすか?」

 

 ルプスが小さな籠を持って現れた。乾燥させたカモミール、ヒースの葉、そして解毒作用のある小瓶がひとつ。どれも施療院で必要とされているものだ。

 

「……ああ。ありがとう」

 

 グレイは手に取った瓶を透かして眺める。だが、意識はどうしても彼女の指先に引き寄せられる。籠を差し出すその手、そっと揺れる赤髪の香り……あの日、膝に触れた感触が、そこから再び伸びてくるような錯覚を覚えた。

 

「神父さま……最近、顔色悪いっすよ?」

 

 その問いかけに、グレイはうまく返せなかった。

 だが、彼女は笑顔を崩さない。

 

「もしかして……寝てないっすか? も〜、私が変なこと言ったから気にしてるとかじゃないっすよね〜?」

 

「……違います」

 

 グレイは静かに答えたが、それは明らかな嘘だった。

 彼女はそんな彼の声の揺らぎに気づいているはずだ。

 

 彼女が言葉を選び、態度を演出し、彼の信仰を試していることは、たぶん分かっていた。

 それでもなお、その試みを拒絶できないのは――己の中に、確かな欲望があるからだ。

 

 グレイは、もう、認めざるを得なかった。

 

 ルプスを見てしまう。

 彼女の言葉に耳を傾けてしまう。

 そして、祈りよりも彼女のことを思い浮かべる夜が、日々増えていく。

 

 それはもう、信仰の名を語る資格のない心だった。

 

 日が暮れ、礼拝堂に蝋燭を灯す頃。

 ルプスはふと、静かな声で呟いた。

 

「――神父さま」

 

 グレイが振り向くと、彼女はいつになく真剣な目でこちらを見ていた。

 

「明日の夜……少しだけ、ふたりきりで話しませんか?」

 

 その声に、罠のような甘さはなかった。

 ただ、真っ直ぐな問いかけだった。

 

「話……?」

 

「うん。ちゃんとしたい話があるっす。神父さまと、わたしのこと」

 

 彼女はそう言って微笑んだ。

 いつもの、どこか芝居じみた笑みではなく、ほんの少しだけ、寂しさを滲ませた笑みで。

 

 その表情を見たとき、グレイの中で何かが崩れかけた。

 

 もしかして、この心のざわめきは、彼女を守りたいという想いなのかもしれない。

 彼女の孤独を癒したいという、信仰とは別の、もっと人間らしい感情なのかもしれない。

 

 だがそれが「救い」なのか、「堕落」なのか。

 答えは、明日の夜に待っている。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。