祈りを喰らう狼   作:田部なぎれすぷる

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七話 祈りの向かう先

 

 

 夜は静かだった。

 

 祭壇の蝋燭の灯はすでに落とされ、礼拝堂はただ月の光に照らされてる。冷たい銀の光が、石畳の床と木製の椅子列を淡く染め、天井の高みには一切の音も届かない。

 

 その中心に、グレイは立っていた。

 

 神の前で、祈りも捧げず、ただ、ひとり。

 

 彼は何も持たず、ただ心にひとつの問いを抱えていた。

 

 ――自分は、まだ神に仕える者でいられるのか。

 

 懺悔室でのあの夜から、祈りの声は彼の中で響かなくなった。

 聖典を読んでも、言葉は目に入らない。

 救いを求める信徒の声を聞いても、心が動かない。

 

 代わりに彼の心にあったのは――ルプスの笑顔。

 声。指先。仕草。髪の香り。囁き。

 そして、あの挑発するような視線。

 仕草の一つ一つが、どこか人の常を逸しているように見えて、どうしようもなく惹きつけられた。

 

 彼女は言っていた。「二人きりで話がしたい」と。

 

 あるいはグレイの思い過ごしで、勘違いかもしれない。だが、確信に近い予感がある。彼女は、今夜自分を揺さぶってくるだろう、と。グレイはそれを「信仰の試練」だと思おうとしていた。だが今の彼はもう、信仰という言葉の背後に隠れられない。

 

(……私は、彼女を求めている)

 

 それは欲望か、情か。

 

 ただひとつ確かに言えること――彼女に触れたい。

 その体温を、確かめたい。

 

 そして、背後に気配。

 

「神父さま」

 

 その声は、闇の中から滑るように響いた。

 

 グレイが振り返ると、礼拝堂の後方からルプスが歩いてくる。今日は巡礼服ではない。教会に来てから初めて、彼女は僧衣ではなく、ただの薄布のワンピースのような衣を身にまとっていた。

 

 その姿は月光に照らされ、影と光を肌に落とす。

 人の姿をしていながら、どこか人ならざる神秘を感じさせる――人外の美。

 

 グレイは、もう言葉を発することができなかった。

 

「来てくれて、嬉しいっす」

 

 そう言ってルプスは彼の前まで来ると、静かに礼拝堂の椅子に腰を下ろす。

 

 礼拝堂の中央、月光の差し込む石床の上。

 まるで、神の祝福が二人だけに降り注いでいるようで、グレイの心臓は鼓動は既に早鐘を打ち始めている。

 

「……ルプスさん、それで話とは――」

 

「――神父さま」

 

 声が近い。

 

 ルプスは椅子の背に腰かけ、片手で頬を支えて彼を見つめる。

 だがその視線は、どこか鋭さを帯びていた。戯れや気まぐれではなく、例えるなら、それは獲物を捉える目。

 

「たとえば――」

 

 声は静かに、ただ地の底から響くように。

 

「信じてるものが、ぜんぶ間違ってたとしたら……神父さまは、どうするっすか?」

 

 それは意識の外からの問いだった。グレイは何かを期待してここに来ていたが、果たして本当に思い過ごしだったのかもしれない。彼女はただ、何か悩みを相談したかっただけなのかもしれない。

 

「……それは、どういう……」

 

「言葉どおりの意味っすよ? 祈ったって誰も見てない。助けもこない。赦しもない。……それでも祈り続けるのが、()()っすか?」

 

 祭壇の蝋燭が、ぱち、と小さな音を立てた。

 思えば、グレイは彼女のことをよく知らない。初対面での印象は、信仰と共にある聖女。それから交流を深め、今はその気質がもっとフランクなものだと知っている。しかしそれでも、彼女の敬虔さに疑いを持ったことはなかった。

 そんな彼女が、信仰を、神を疑うとは。

 

「……たとえ誰にも見られず、誰にも届かず、誰にも赦されなくとも――それでも祈る。それこそが()()です。……それは貴女も分かっているはず」

 

「うん、だからこそ、壊し甲斐があるって思うっす」

 

 グレイは呆然とした。

 彼女は今、壊すと言ったか。信仰を? 

 

 ルプスの瞳に、まるで色のない光が宿っていた。

 美しい。優しい。柔らかい。

 けれどその奥には、底知れぬ何かが蠢いている。グレイの知っている彼女ではない。

 

「神父さま、教えてほしいんすけど――」

 

 彼女はゆっくりと立ち上がる。

 そして、グレイの前に、膝をつく。

 

 視線が合う。呼吸が触れ合う距離。

 

「この手で、どれだけの人を救ったっすか? どれだけの人を赦して、慰めて、引き上げたっすか?」

 

 グレイの指先が無意識に震える。

 それを、ルプスは見逃さない。

 

「だったら、次はわたしの番っすね――神父さまの()()を、わたしが握る番っす」

 

「や、やめなさ──」

 

「何を?」

 

 声が、優しく問う。

 だがその言葉には逃げ場がない。

 

「信仰を、守りたい? それとも、言い訳のための、ただの見せかけの言葉っすか?」

 

 囁きが耳朶を打つ。

 まるで甘い蜜のように。まるで毒のように。

 

 グレイの膝がわずかに力を失いかける。

 

 そのとき、ルプスは手を離した。

 ふいに立ち上がり、笑顔だけを残して背を向ける。

 それから告げられた彼女の言葉は、口調も、声音も、グレイの全く知らない妖艶で冷たいものだった。

 

「――選ばせてあげる。神か、わたしか、どちらの()()が欲しいのか。祈りを捧げなさい……神でもわたしでも、好きな方に」

 

 

     ◆

 

 

 夜が更けても、祈りの言葉は出てこない。

 

 蝋燭はすべて灯してある。

 祭壇は整えられており、香も焚かれている。

 

 彼はひざまずき、手を組んでいた。

 形だけは、いつもの祈りの姿勢。

 

 けれど――

 

 その唇は、まったく動かなかった。

 

 いや、動かせなかった。

 

(……どうして)

 

 脳裏に、静かに浮かんでくる光景がある。

 

 今日の彼女――ルプス。

 近すぎる距離。熱を帯びた吐息。あの手。あの声。あの問い。

 

 考えるまでもない。選択肢ですらない。答えは決まっている。決まりきっているはずだ。

 

(私は……神に仕える者だ。人の弱さを救うために、祈りを、教えを、導きを……)

 

 そう唱えようとする。

 けれど、次の瞬間に脳裏に浮かぶのは――

 

 彼女の声だった。

 

 あの甘い囁き。

 揶揄するような笑い声。

 それなのに、どこか本気のような眼差し。

 「救いを握る」という言葉の意味。それが、祈りの言葉を飲み込んでしまう。

 

(……いや。違う。これは、試練だ。神が私に与えた誘惑。乗り越えるべき壁だ)

 

 再び手を強く組み直し、口を開こうとする。

 だが――喉の奥で、声が止まる。

 

 まるで、何か見えない糸が巻きついているかのように。

 まるで、祈りの言葉そのものが、汚れてしまったような錯覚。

 

「……っ」

 

 グレイは息を詰め、静かに目を閉じた。

 

 だが暗闇の中でさえ、彼女の笑顔が浮かぶ。

 

 無邪気で、無垢で、そして残酷な笑顔。

 

 その笑顔が、神の御顔を覆い隠すように思えた。

 

(私は……一体、なぜ……)

 

 理由は明白だった。

 

 自分が彼女の()()を求めているからだ。神への祈りより、彼女を。

 それを認めてしまったら、すべてが崩れてしまう。

 だからこそ、認めるわけにはいかなかった。

 

 それでも、祈れない。

 

 神への言葉を発するたびに、

 その言葉が、彼女への裏切りになるような錯覚に苛まれる。

 

(……馬鹿な。私は何を……考えて……)

 

 祈りを求める指先が震え、やがてその手は、自分の胸元でゆっくりとほどけた。

 

 蝋燭の灯が、静かに揺れる。

 

 その炎に照らされていたのは、膝をついたまま、沈黙する神父の姿。

 祈ることすらできなくなった男の、かつては純粋だったはずの横顔。

 

 

 

      ●

 

 

 

 グレイの祈りが、止まっていた。

 

 それを見た瞬間――ルプスレギナの心は、確かに震えた。

 

 それは歓喜。

 それは興奮。

 

(ああ……折れる音が、聞こえたっす)

 

 教会の片隅、影の中。

 彼女は気配を殺し、神父の祈りの姿を見やる。

 

 手は組まれていない。

 唇は閉ざされたまま。

 蝋燭の炎がわずかに揺れ、祈りの沈黙を際立たせている。

 

(ふふ。ついに神より、わたしを思ったっすね)

 

 これまでと違って、彼はもう、ルプスレギナの存在を拒絶しない。

 怒りも、拒絶も、祈りによる否定も――もう口にしないだろう。

 

 ただ、静かに揺れているだけ。

 迷いの底で、崩れていく神父。

 

 それは、ルプスレギナにとって最も美しい光景のひとつだった。

 

(ねえ、神父さま。わたしが()()になる日が来るなんて、想像してなかったっすよね)

 

 だがそれは、赦しでも祈りでもない救い。

 ただ、彼を「信仰の檻」から引きずり出し、跪かせるための手段。

 

 ――そのとき、グレイがふと立ち上がり、窓際に向かうのが見えた。

 

 足取りは重い。

 だが、もはや聖性の儀礼を纏ってはいない。

 迷い、揺らぎ、人間らしい弱さがその歩みに滲んでいた。

 

 ルプスレギナは静かに歩み寄る。

 

 足音はない。

 気配は絹のように柔らかく、熱のように肌へ染み込む。

 

 ――そして、彼のすぐ背後へと立つ。

 

「……神父さま。祈れなかったっすね。神さまじゃなくて、わたしを選んだ」

 

 囁く声が、首筋をくすぐる。

 

 グレイの背筋がぴくりと震えた。

 けれど振り向かない。拒絶もしない。

 

 その反応が、何よりも雄弁だった。

 

「今日は祈りより、わたしの声の方が、頭の中に響いてたんじゃないっすか?」

 

 吐息混じりの声音が、意図的にゆっくりと落ちる。

 まるで重ねられた言葉一つひとつが、彼の信仰の芯を削る刃のように。

 

「……もう……やめてください」

 

 やっと絞り出されたグレイの声は、驚くほど弱かった。

 

 威厳はない。戒めもない。

 ただ、追い詰められた男の、それでも抗おうとする呻き。

 

「うん。わたしも思ってたっすよ。そろそろ、終わりにしてもいい頃かなって」

 

 ルプスレギナは、そっとその背に指を滑らせる。それがただの挨拶かのように、自然に。

 けれどその触れ方は、祈りよりも近く、赦しよりも熱い。

 

「ねえ神父さま。神さまに祈れなくなったら、誰があなたを赦すっすか?」

 

「やめ……」

 

「“やめてほしい”って言うのに、背中、逃げてないっすよ?」

 

 笑みを浮かべながらも、ルプスレギナの声は冷たい。

 慈しみも、救いもない。

 ただ、彼の信仰が崩れ落ちる音を聞くためだけの声。

 

「神さまが黙ってるなら、わたしが代わりに赦してあげるっすよ」

 

 そう言って、彼女はそっと耳元に唇を寄せた。

 

 ――「おつかれさま、神父さま。もう、祈らなくていいっすよ」

 

 その囁きは、まるで愛撫のようで、

 まるで最期の祝福のようで、

 まるで、神を否定する宣告のようだった。

 

 そして。

 

 その言葉を聞いたグレイの肩から、ついに、力が抜けた。

 

 祈りの形をしていた身体は、ただひとりの人間として、膝を折る。

 

 もう神のためにではない。

 もう信徒のためにではない。

 

 ただ、自分自身の弱さと、赦されない感情と。

 そして彼女の存在に負けた、男としての姿。

 

 ルプスレギナは、そっとその姿を見下ろし――笑った。

 

 あたたかく。やさしく。慈愛に満ちた、満面の笑み。

 羊に紛れるための染料は抜け落ち、牙を隠すためのベールも、もうない。

 

 

 




次回完結です。
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