祈りを喰らう狼 作:田部なぎれすぷる
夜は静かだった。
祭壇の蝋燭の灯はすでに落とされ、礼拝堂はただ月の光に照らされてる。冷たい銀の光が、石畳の床と木製の椅子列を淡く染め、天井の高みには一切の音も届かない。
その中心に、グレイは立っていた。
神の前で、祈りも捧げず、ただ、ひとり。
彼は何も持たず、ただ心にひとつの問いを抱えていた。
――自分は、まだ神に仕える者でいられるのか。
懺悔室でのあの夜から、祈りの声は彼の中で響かなくなった。
聖典を読んでも、言葉は目に入らない。
救いを求める信徒の声を聞いても、心が動かない。
代わりに彼の心にあったのは――ルプスの笑顔。
声。指先。仕草。髪の香り。囁き。
そして、あの挑発するような視線。
仕草の一つ一つが、どこか人の常を逸しているように見えて、どうしようもなく惹きつけられた。
彼女は言っていた。「二人きりで話がしたい」と。
あるいはグレイの思い過ごしで、勘違いかもしれない。だが、確信に近い予感がある。彼女は、今夜自分を揺さぶってくるだろう、と。グレイはそれを「信仰の試練」だと思おうとしていた。だが今の彼はもう、信仰という言葉の背後に隠れられない。
(……私は、彼女を求めている)
それは欲望か、情か。
ただひとつ確かに言えること――彼女に触れたい。
その体温を、確かめたい。
そして、背後に気配。
「神父さま」
その声は、闇の中から滑るように響いた。
グレイが振り返ると、礼拝堂の後方からルプスが歩いてくる。今日は巡礼服ではない。教会に来てから初めて、彼女は僧衣ではなく、ただの薄布のワンピースのような衣を身にまとっていた。
その姿は月光に照らされ、影と光を肌に落とす。
人の姿をしていながら、どこか人ならざる神秘を感じさせる――人外の美。
グレイは、もう言葉を発することができなかった。
「来てくれて、嬉しいっす」
そう言ってルプスは彼の前まで来ると、静かに礼拝堂の椅子に腰を下ろす。
礼拝堂の中央、月光の差し込む石床の上。
まるで、神の祝福が二人だけに降り注いでいるようで、グレイの心臓は鼓動は既に早鐘を打ち始めている。
「……ルプスさん、それで話とは――」
「――神父さま」
声が近い。
ルプスは椅子の背に腰かけ、片手で頬を支えて彼を見つめる。
だがその視線は、どこか鋭さを帯びていた。戯れや気まぐれではなく、例えるなら、それは獲物を捉える目。
「たとえば――」
声は静かに、ただ地の底から響くように。
「信じてるものが、ぜんぶ間違ってたとしたら……神父さまは、どうするっすか?」
それは意識の外からの問いだった。グレイは何かを期待してここに来ていたが、果たして本当に思い過ごしだったのかもしれない。彼女はただ、何か悩みを相談したかっただけなのかもしれない。
「……それは、どういう……」
「言葉どおりの意味っすよ? 祈ったって誰も見てない。助けもこない。赦しもない。……それでも祈り続けるのが、
祭壇の蝋燭が、ぱち、と小さな音を立てた。
思えば、グレイは彼女のことをよく知らない。初対面での印象は、信仰と共にある聖女。それから交流を深め、今はその気質がもっとフランクなものだと知っている。しかしそれでも、彼女の敬虔さに疑いを持ったことはなかった。
そんな彼女が、信仰を、神を疑うとは。
「……たとえ誰にも見られず、誰にも届かず、誰にも赦されなくとも――それでも祈る。それこそが
「うん、だからこそ、壊し甲斐があるって思うっす」
グレイは呆然とした。
彼女は今、壊すと言ったか。信仰を?
ルプスの瞳に、まるで色のない光が宿っていた。
美しい。優しい。柔らかい。
けれどその奥には、底知れぬ何かが蠢いている。グレイの知っている彼女ではない。
「神父さま、教えてほしいんすけど――」
彼女はゆっくりと立ち上がる。
そして、グレイの前に、膝をつく。
視線が合う。呼吸が触れ合う距離。
「この手で、どれだけの人を救ったっすか? どれだけの人を赦して、慰めて、引き上げたっすか?」
グレイの指先が無意識に震える。
それを、ルプスは見逃さない。
「だったら、次はわたしの番っすね――神父さまの
「や、やめなさ──」
「何を?」
声が、優しく問う。
だがその言葉には逃げ場がない。
「信仰を、守りたい? それとも、言い訳のための、ただの見せかけの言葉っすか?」
囁きが耳朶を打つ。
まるで甘い蜜のように。まるで毒のように。
グレイの膝がわずかに力を失いかける。
そのとき、ルプスは手を離した。
ふいに立ち上がり、笑顔だけを残して背を向ける。
それから告げられた彼女の言葉は、口調も、声音も、グレイの全く知らない妖艶で冷たいものだった。
「――選ばせてあげる。神か、わたしか、どちらの
◆
夜が更けても、祈りの言葉は出てこない。
蝋燭はすべて灯してある。
祭壇は整えられており、香も焚かれている。
彼はひざまずき、手を組んでいた。
形だけは、いつもの祈りの姿勢。
けれど――
その唇は、まったく動かなかった。
いや、動かせなかった。
(……どうして)
脳裏に、静かに浮かんでくる光景がある。
今日の彼女――ルプス。
近すぎる距離。熱を帯びた吐息。あの手。あの声。あの問い。
考えるまでもない。選択肢ですらない。答えは決まっている。決まりきっているはずだ。
(私は……神に仕える者だ。人の弱さを救うために、祈りを、教えを、導きを……)
そう唱えようとする。
けれど、次の瞬間に脳裏に浮かぶのは――
彼女の声だった。
あの甘い囁き。
揶揄するような笑い声。
それなのに、どこか本気のような眼差し。
「救いを握る」という言葉の意味。それが、祈りの言葉を飲み込んでしまう。
(……いや。違う。これは、試練だ。神が私に与えた誘惑。乗り越えるべき壁だ)
再び手を強く組み直し、口を開こうとする。
だが――喉の奥で、声が止まる。
まるで、何か見えない糸が巻きついているかのように。
まるで、祈りの言葉そのものが、汚れてしまったような錯覚。
「……っ」
グレイは息を詰め、静かに目を閉じた。
だが暗闇の中でさえ、彼女の笑顔が浮かぶ。
無邪気で、無垢で、そして残酷な笑顔。
その笑顔が、神の御顔を覆い隠すように思えた。
(私は……一体、なぜ……)
理由は明白だった。
自分が彼女の
それを認めてしまったら、すべてが崩れてしまう。
だからこそ、認めるわけにはいかなかった。
それでも、祈れない。
神への言葉を発するたびに、
その言葉が、彼女への裏切りになるような錯覚に苛まれる。
(……馬鹿な。私は何を……考えて……)
祈りを求める指先が震え、やがてその手は、自分の胸元でゆっくりとほどけた。
蝋燭の灯が、静かに揺れる。
その炎に照らされていたのは、膝をついたまま、沈黙する神父の姿。
祈ることすらできなくなった男の、かつては純粋だったはずの横顔。
●
グレイの祈りが、止まっていた。
それを見た瞬間――ルプスレギナの心は、確かに震えた。
それは歓喜。
それは興奮。
(ああ……折れる音が、聞こえたっす)
教会の片隅、影の中。
彼女は気配を殺し、神父の祈りの姿を見やる。
手は組まれていない。
唇は閉ざされたまま。
蝋燭の炎がわずかに揺れ、祈りの沈黙を際立たせている。
(ふふ。ついに神より、わたしを思ったっすね)
これまでと違って、彼はもう、ルプスレギナの存在を拒絶しない。
怒りも、拒絶も、祈りによる否定も――もう口にしないだろう。
ただ、静かに揺れているだけ。
迷いの底で、崩れていく神父。
それは、ルプスレギナにとって最も美しい光景のひとつだった。
(ねえ、神父さま。わたしが
だがそれは、赦しでも祈りでもない救い。
ただ、彼を「信仰の檻」から引きずり出し、跪かせるための手段。
――そのとき、グレイがふと立ち上がり、窓際に向かうのが見えた。
足取りは重い。
だが、もはや聖性の儀礼を纏ってはいない。
迷い、揺らぎ、人間らしい弱さがその歩みに滲んでいた。
ルプスレギナは静かに歩み寄る。
足音はない。
気配は絹のように柔らかく、熱のように肌へ染み込む。
――そして、彼のすぐ背後へと立つ。
「……神父さま。祈れなかったっすね。神さまじゃなくて、わたしを選んだ」
囁く声が、首筋をくすぐる。
グレイの背筋がぴくりと震えた。
けれど振り向かない。拒絶もしない。
その反応が、何よりも雄弁だった。
「今日は祈りより、わたしの声の方が、頭の中に響いてたんじゃないっすか?」
吐息混じりの声音が、意図的にゆっくりと落ちる。
まるで重ねられた言葉一つひとつが、彼の信仰の芯を削る刃のように。
「……もう……やめてください」
やっと絞り出されたグレイの声は、驚くほど弱かった。
威厳はない。戒めもない。
ただ、追い詰められた男の、それでも抗おうとする呻き。
「うん。わたしも思ってたっすよ。そろそろ、終わりにしてもいい頃かなって」
ルプスレギナは、そっとその背に指を滑らせる。それがただの挨拶かのように、自然に。
けれどその触れ方は、祈りよりも近く、赦しよりも熱い。
「ねえ神父さま。神さまに祈れなくなったら、誰があなたを赦すっすか?」
「やめ……」
「“やめてほしい”って言うのに、背中、逃げてないっすよ?」
笑みを浮かべながらも、ルプスレギナの声は冷たい。
慈しみも、救いもない。
ただ、彼の信仰が崩れ落ちる音を聞くためだけの声。
「神さまが黙ってるなら、わたしが代わりに赦してあげるっすよ」
そう言って、彼女はそっと耳元に唇を寄せた。
――「おつかれさま、神父さま。もう、祈らなくていいっすよ」
その囁きは、まるで愛撫のようで、
まるで最期の祝福のようで、
まるで、神を否定する宣告のようだった。
そして。
その言葉を聞いたグレイの肩から、ついに、力が抜けた。
祈りの形をしていた身体は、ただひとりの人間として、膝を折る。
もう神のためにではない。
もう信徒のためにではない。
ただ、自分自身の弱さと、赦されない感情と。
そして彼女の存在に負けた、男としての姿。
ルプスレギナは、そっとその姿を見下ろし――笑った。
あたたかく。やさしく。慈愛に満ちた、満面の笑み。
羊に紛れるための染料は抜け落ち、牙を隠すためのベールも、もうない。
次回完結です。