祈りを喰らう狼   作:田部なぎれすぷる

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八話 約束された絶望

 

 

 全身が熱い。

 胸が焼けつくように脈打っている。

 もう祈りの言葉も、神の像も、何ひとつ浮かばない。

 

 ただ彼女の声だけが、グレイの心を支配していた。

 

 ――もう、祈らなくていいっすよ。

 

 その囁きに、涙が滲んだ。

 赦された気がした。

 否、堕ちてしまったことへの安堵だった。

 

「ルプス……」

 

 かすれた声でその名を呼ぶと、ルプスは微笑みを浮かべて顔を近づけてくれる。

 

 そして、グレイは――その手を伸ばした。

 

 熱を求めて。

 彼女の頬へと。

 愛する者に触れるように、救いを願う者の手のように。

 

 ――その瞬間。

 

 

 バチン、と音がして、何かが飛んだ。

 

 

 視界の隅に、自分の右手が見える。

 

 

 床に落ちた、血を滴らせるそれを、脳が認識するより早く。激痛が、ようやく遅れて襲ってくる。

 

「――――ッッ!!」

 

 声にならない悲鳴が喉から噴き出す。

 そして、それさえも耳に届かぬうちに。

 もう一つの腕も、音を立てて宙を舞った。

 

「が、あ、ああああッ!! 腕、私の……!!」

 

 倒れ込む神父。

 床に散った赤。

 肉の断面からあふれる血と、絶叫と、理解の届かない現実。

 

 グレイは震えながら、顔を上げた。

 

 そこにあったのは、心の底から愉悦を湛えた、純粋な狂気の笑みであった。

 

「うふふふふふっ……っくくくくっ! ひゃ〜、最っ高! ほんっと最高っす、神父さま!」

 

 指先を軽く振り払うようにして、返り血を払う仕草。

 その指には、彼の命を断ち切ったばかりの感触がまだ残っている。

 

「そんな顔、ずっと見たかったんすよ〜? ねぇねぇ、どう? 救いを求めて、手を伸ばした気分は」

 

 嗤う。

 血に染まった肌、それを舐めとる舌、獣のような瞳、恍惚とした表情。――悪魔が、嗤っている。

 

「お……おまえ……悪魔め……!!」

 

 喉を絞るように吐いたその言葉に、彼女は首を傾げた。

 

 そして、少しだけ――まるで慈悲深い神のような声音で、囁いた。

 

「うん、そうっすよ? じゃあ縋ってみれば? 神さまに。さっき、捨てたばっかの神さまに――助けを、求めてみたらどうっすか?」

 

 彼女がグレイの頬に触れる。優しく、傷ついた獲物に手を差し伸べるように。

 だがその手の内にあるのは、救いではなく地獄だった。

 

「祈れば、奇跡が起きるかもっすよ? ほら、血を流して、痛みに泣いて、絶望の中で――それでも神を呼べたら、わたしの代わりに赦してくれるかもしれないっす」

 

 ――もう、誰も来ない。

 

 神もいない。

 祈りも届かない。

 ただ、血と嗤いと、落ちた両手と。

 

 そして、ルプスという悪魔が、そこにいるだけ。

 

 それが、この空間のすべてだった。

 

 

 ――――

 

 

 神父の絶叫が途切れ、男の身体が床へ崩れ落ちたのを見届けると、ルプスレギナは小さく息を吐いた。

 

「……ふぅー。いやぁ、興が乗りすぎちゃったっすねぇ」

 

 血に塗れた床。

 断たれた両腕。

 涙と涎と汗と血液が混じり合った、汚穢の光景。

 

 けれど、それを前にしても、彼女の瞳にはわずかな陰りもない。

 

 それは興奮の余韻というより、仕事を終えた後の、プロフェッショナルな無表情だった。

 

「……死んじゃったら、ダメっすからね」

 

 ルプスレギナはしゃがみ込み、血の池に沈みかけていたグレイの身体をそっと抱き起こす。

 

 口元からはかすかな呼吸。

 意識はないが、命は残っている。

 

 彼女は両の手をかざし、小さく呟く。

 《グレーター・ヒーリング》。

 そして、間を置かずに《レストレーション》。

 さらに《リジェネレーション》。

 仕上げに《クレンズ》と《ピュリフィケーション》。

 

 光が満ちるたび、傷は塞がり、欠損は再生し、血と汚濁は清められていく。

 

 まるで何事もなかったかのように。

 最初から、暴力も嗤いも絶望も、存在しなかったかのように。

 

 けれど、彼女の指先だけが、その痕跡を覚えていた。

 

(ん〜。ほんとは、この痛みも、傷跡も、残してあげたかったっすけどね)

 

 ルプスレギナは無表情のまま、彼の頬に触れる。

 その触れ方は、まるで慈母のように穏やかで優しい。

 

「でもまあ、仕方ないっす。わたし、街の守護任されてますし。人死が出たら、マズいっすよね」

 

 アインズ様からの命令。

 それは彼女にとって絶対の優先事項だ。

 

 嗜虐と愉悦は――その範囲内でのみ、許される贅沢。

 

 

 やがて、傷ひとつ残らない神父の身体が、元の寝台へと横たえられた。

 整えられた衣服。蒸し布で拭われた顔。穏やかな寝顔。

 

 ルプスレギナは静かに辺りを見回すと、満足げに頷く。

 

 割れた器も、血に染まった床も、すべてが癒やされていた。

 異臭ひとつ残らない。

 蝋燭の香りすら、夜の静寂と同化している。

 

 この空間から、彼女の痕跡は完全に消えた。

 だが――この男の中に残る記憶は、決して消えない。

 

 それを知っているからこそ、彼女は満足したのだった。

 

 薄闇に紛れるように、彼女は姿を消した。

 

 教会には、風の音だけが、静かに揺れていた。

 

 

 ――――

 

 

 夢を見ていた気がした。

 

 何か恐ろしいものだったはずだ。

 冷たい汗が額から頬を伝い、寝台の枕を濡らしている。

 

 けれど目を開いたグレイの視界に映ったのは、清らかで、何も変わらない教会の天井だった。

 

「…………」

 

 無言のまま、彼は身体を起こす。

 痛みは、ない。

 動かない場所も、失われたものも、何もない。

 

 両の手は……ある。

 血は、ついていない。

 掌を見つめる。傷ひとつなく、完璧に動作する。

 

 まるで、何も起きていなかったかのように。

 

 ……いや、違う。

 そう思いたいのだ。

 

 実際には、違う。

 

 目の奥に焼きついている。

 

 赤黒い血飛沫。

 己の断末魔。

 そして()()の微笑み。

 

「……夢、だ……」

 

 声に出してみた。

 掠れた、弱い声だった。

 まるで自分に言い聞かせるように。

 そうしなければ、正気が保てないから。

 

 夢だった。

 そうだ、あんなもの現実であるはずがない。

 

 あれは自分の欲望が生んだ幻。

 祈りを忘れ、信仰を捨てかけた罰として、見せられた地獄の夢。

 

 ……だということにしなければ。

 

 グレイは机の上にあった聖典を手に取る。

 指が震える。思うようにページがめくれない。

 

 それでも、祈ろうとする。

 言葉を紡ごうとする。

 何か、取り戻そうとするように。

 

 だが――声が出なかった。

 

 喉は動くのに、言葉が続かない。

 息は出るのに、祈りの形にならない。

 

 心の奥に、何か冷たい沈黙がこびりついていた。

 

 それはまるで、どれほど純粋な水を注いでも、決して溶けない澱。

 

 あの夜。

 あの声。

 あの絶望。

 

 それらが、ただの夢であるはずがないと、身体のどこかが覚えている。

 

 視界の端に、彼女の姿がちらつく。

 

 首筋に吹きかけられた吐息。

 甘く濁った声。

 笑みを貼りつけたまま、残酷に笑っていた唇。

 

 それらは今も、耳の奥で、肌の裏で、嗤っている。

 

 彼女はもう、この街にはいない。

 

 不思議と、それは直感でわかった。

 探しても無駄だ。もう二度と現れないかもしれない。

 

 けれど、それでも。

 

 祈れなくなった男の胸には、今も確かに、彼女の影が巣食っていた。

 

 ――赦しも救いもないまま。

 

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