転生した異世界が主人公が産まれる2000年前だった 作:yumui
南方の城は今、静謐な闇に包まれていた。
王庭リヴェリアの影が差してからというもの、その地に陽の光は届かぬかの如く、昼間でさえ濃霧に包まれ、住人たちは姿を消した。そこに君臨するのは吸血鬼の女王リヴェリアと、彼女に仕える八人の魔族のメイドたち。どの者も一騎当千、ただのメイドとは思えぬ戦闘能力を持ち、城に近づく者を容易に寄せ付けなかった。
王庭討伐隊が一度突入した際には、闇の魔術の前に満身創痍で退却を余儀なくされていた。
その夜、王都で、ヴェルギリウスは深く考え込んでいた。リヴェリアは確実に強敵であり、正面突破は不可能。だが、打倒せねばならぬ存在であることも、また事実であった。
「メイド達に妨害されずに昼にリヴェリアのもとに辿り着くには……内部から崩すしかないな」
その独り言に反応したのは、部屋の隅にいたアンジェラである。
「あらぁ、ようやくその気になったのねぇ。だったら、あたしの趣味のアレ、使ってみる?」
「……アレ?」
「変身魔法。女の子になるやつ。た〜だの魔術じゃないわよぉ? 骨格も筋肉も全部、本物の美少女にしちゃうの。しかも、香りつき♥」
ヴェルギリウスは内心でうめいたが、確かにそれは魅力的な案だった。リヴェリアのメイド隊は女ばかり。しかも、働き手を募集しているという情報もある。
「なら……エイゲルズに頼むしかないな」
数日後、任務を知らされたエイゲルズは絶句した。
「なぜ俺なんだ……!?」
「お前しかいない。信用されやすい気質だし」
「それは認めるが、認めたくない!」
だが、アンジェラの強引な施術──いや、「施美術」によって、エイゲルズはハムスターのような身体から全く別人の美少女へと変貌することとなった。
髪は白金、肌は雪のように白く、瞳は水晶のような蒼。華奢な体躯に、自然な膨らみと腰のくびれ。まるで精霊の化身のような少女がそこにいた。
「名前は……そうね、『エイル』でどうかしらぁ?」
「……了解した」
エイゲルズ……いや、エイルは、ため息をひとつつき、そして南方の城へと向かった。
リヴェリアの居城は黒曜石のような漆黒の石で築かれていた。無数のバラが咲き乱れる庭園を抜け、エイルは堂々と正門の前に立った。
「お仕事を探してまして……。お城で、働ける場所って……ありませんか?」
門番のメイドはしばし唖然とし、そして不敵な笑みを浮かべた。
「これは、女王様がお気に召しそうな子猫ちゃんね」
エイルはすぐにリヴェリアの前へと通された。玉座に腰かけたリヴェリアは、あの日の冷徹さとは違い、どこか物憂げに目を細めた。
「この子、どこから来たの?」
「街で野宿を……ご主人様を求めてここに」
「フフ……いいわ。今日からこの城で働きなさい。“エイル”。」
エイルは深く礼をした。
「ありがとうございます、女王様」
こうして、スパイとしての任務が始まった。
メイドたちは最初こそ警戒していたが、エイルの働きぶりを見て、次第に打ち解けていった。料理を覚え、掃除をこなし、裁縫までこなすその姿に、他のメイドたちは自然と心を許していった。
特に、赤毛のクレアとはすぐに親しくなった。
「エイルちゃん、今日も一緒に夜食作ろうよ!」
「うん、いいよ」
「本当、何でもできるんだね……。私、もうちょっと頑張らなきゃ」
彼女たちと語り、笑い、共に働くうちに、エイルの中に奇妙な感情が芽生え始めていた。
――彼女たちは、本当に“敵”なのだろうか?
リヴェリアでさえ、エイルに対してはとても穏やかだった。
「最近、お城の空気が柔らかくなったわね。貴女のおかげかしら」
「そんな……恐縮です」
「お世辞じゃないわ。こうして、何もかも忘れて……皆と静かに過ごせたら、どれだけ良いかしらね」
リヴェリアの言葉は、どこか哀しげだった。
エイルは――いや、エイゲルズは、心の中で警鐘を鳴らしながらも、いつの間にかその哀しみを感じ取っていた。
#
夜の静けさが、城の石造りの回廊に染み込むように落ちていた。リヴェリアの支配する南方の城。その奥の小さな使用人の部屋に、二つの影が並んでいた。
「エイル。少し話してもいいかしら?」
その声は、いつもは冷静で真面目なクレアのものだったが、今夜ばかりは少し震えていた。
「……もちろんだよ」
エイル――今はアンジェラの変身魔法によって少女の姿をしている彼だったが、その優しい眼差しと気遣う態度は変わらない。クレアはふっと息を吐くと、視線を窓の外へと向けた。そこには静かに月が浮かんでいた。
「わたし、ヴェルギリウスの王国に生まれたの。とても、とても貧しい家庭だったわ。狭い家に、子どもが六人。両親は昼も夜も働いてた。でもそれでも食べ物は足りなかった」
エイルは静かに聞き入っていた。クレアの声はどこか遠くの景色を見ているようだった。
「三つの時だったと思う。母に手を引かれて市場に行った。だけど……そのまま帰ってこなかったの。気づいたら人混みの中で、わたしひとり。名前すら覚えてない小さな子が、誰にも気にされず、道端にいたの」
言葉が詰まり、クレアは唇を噛んだ。エイルはそっと彼女の手を握った。その温かさに、クレアは少しだけ続きを話す勇気を得た。
「雨が降ってきた夜、わたしは商人の軒先に蹲ってたの。そしたら黒い傘が差し出された。……それが、リヴェリア様だったのよ」
その名を口にした時、クレアの表情には崇拝に似た感情が浮かんでいた。
「リヴェリア様は言ったの。“こんな夜に、こんなに冷たいのに、どうして誰もあなたを見ないの?”って。そして、わたしを抱き上げてくれた」
「……そうだったんだ」
エイルの声はとても優しかった。しかしその奥底には、計り知れないほどの罪悪感が渦巻いていた。
「ヴェルギリウス王の統治がどれだけ素晴らしいと民が称えていても、あの国には、わたしみたいに誰にも見捨てられる子がいる。リヴェリア様は言ってくれた。“あなたは選ばれた子。光の外に捨てられたからこそ、闇に抱かれる資格がある”って」
「それで、王国を……ヴェルギリウスを憎んでるの?」
クレアは短く笑った。それは悲しい笑いだった。
「憎しみというより、理解できないの。ヴェルギリウス王は民に愛されてる。でも、わたしには彼が“誰かを救った王”には見えない。わたしを救ったのは、リヴェリア様。ただそれだけなのよ」
エイルは言葉を失っていた。彼自身、ヴェルギリウスの仲間であり、王の正義を信じていた者だった。けれど、その“正義”が一人の少女の人生に届いていなかったという事実は、重くのしかかった。
「ごめん、クレア。わたし……いや、俺は……」
「謝らないで。エイル、あなたは違う。わたしを人として見てくれてる。だから話したの。……この城に来て、あなたに出会えて、よかったって思ってるのよ」
クレアの声はどこまでも静かで、優しかった。エイルの胸に熱いものが込み上げてきた。
「俺は、君がここに閉じ込められているように見える。だから、君にもっと……自由に生きてほしい。そう思ってる。」
クレアはそっと目を閉じた。そして、その目から一滴、涙がこぼれ落ちた。
「……変な夜ね。いつもなら弱みなんて見せないのに」
「それでいいんだ。今は、ただのクレアとエイルでいい」
月明かりの下、二人の影は寄り添いながら、言葉少なに夜を過ごした。
その翌朝、クレアはメイドの仕事に戻った。しかし、エイルの前ではどこか表情が柔らかくなっていた。
――夜はまだ、深く、静かだった。
夜明けの薄明かりが差し込む中、エイルは静かに厨房で鍋をかき混ぜていた。その手には小さな瓶が握られている。中にはアインから渡された極めて強力な睡眠薬。魔族の体に効くよう調整されており、無味無臭。エイルはそれを慎重に数滴、スープに混ぜた。
「ごめん、みんな……」
呟きながら、彼は眠らせるための準備を終える。リヴェリアのメイドたちは、無邪気に朝食を囲み、笑いながら口にしていった。そして数分後、一人、また一人と静かに意識を手放していく。
その瞬間を見計らったように、城門が開かれた。王庭討伐隊が突入する。ヴェルギリウスを先頭に、グリンリル、キーラ、ルミナリエ、アンジェラ、エイゲルズが城の奥へ駆ける。リヴェリアは玉座の間で彼らを待っていた。夜ではなく、弱体化した昼の姿で。
「やっぱり来たのね……愛しい人たち」
血のように赤いドレスが揺れる。リヴェリアはほほ笑みながら立ち上がる。
「エイル……ふふ、貴方が私を欺くなんて。でも、素敵よ」
エイルは顔を伏せたまま立っている。ヴェルギリウスが一歩前に出る。
「リヴェリア、これで終わりにする」
瞬間、玉座の間の空気が変わった。リヴェリアが両手を広げると、黒霧が天井を覆い、血のような魔力が渦を巻く。魔術陣が床に刻まれ、空間がゆがむ。
「さあ……遊びましょう!」
闇の魔術が炸裂した。血の斬撃が天井から降り注ぎ、王庭討伐隊を襲う。アンジェラが防壁を展開し、グリンリルが槍を放つ。しかしリヴェリアの身体は霧のように消え、攻撃をすり抜ける。
キーラが踏み込んで斬撃を放つも、リヴェリアは分身し、四方から攻撃を仕掛けてくる。キーラが反撃を指示し、グリンリルが床に杭を打ち込み、魔力の奔流を地に封じ込めようとするも、効果は薄い。
「くっ……ッ!」
ヴェルギリウスはグラディウスを振りかざし、直撃の一閃をリヴェリアに叩き込む。頬に紅い裂け目が走る。彼女は苦悶の表情を見せたが、次の瞬間、体が霧と化した。霧の中から無数の槍が飛び出し、仲間たちを貫こうとする。
「もう……我慢しない!」
リヴェリアの叫びとともに、魔術の密度が急上昇する。空間が歪み、天井が崩れ、血の雨が降り注ぐ。王庭討伐隊は満身創痍となり、グリンリルの脚は裂かれ、キーラは腕を負傷。エイゲルズの盾も砕けていた。
「退け!」
しかし、その瞬間、ヴェルギリウスは前に出る。
「まだ終わらせない……!」
彼はグラディウスを両手で握り、全力で踏み込む。リヴェリアの霧の身体の中心を狙い、剣を突き立てた。
霧が一瞬にして凝固し、リヴェリアの姿が再び現れた。彼女は膝をつき、口元から血を垂らしている。
「やるじゃない……」
ヴェルギリウスが剣を振りかぶり、止めを刺そうとしたその時——
「やめて!!」
声が響いた。扉からクレアが飛び込んできた。彼女はリヴェリアの前に立ち、両手を広げた。
「お願い、リヴェリア様を殺さないで!」
ヴェルギリウスの瞳が冷たい光を宿す。「なら貴様ごと——」
だが、エイゲルズが彼の前に立ちはだかった。
「待て!」
「退け、エイゲルズ。これは——」
「クレアの過去を……聞いたんだ」
エイゲルズは震える声で言う。
「この子は、王国の貧しい家に生まれ、飢えて……捨てられた。リヴェリア様に拾われて、やっと人として生きられるようになった。誰にも必要とされなかった子供が、愛されて育ったんだ」
沈黙が広がる。
「お前の王国で不幸になった人間がいるんだ、そういった人を救うのが王じゃないのか?」
「…………。」
リヴェリアは微笑み、クレアの肩に手を置いた。
「クレア……貴方はもう自由よ。ここから逃げて、幸せになって」
「そんな……嫌です!」
「ヴェルギリウス、お願いがあるわ。メイドたちは殺さないで。彼女たちは何も知らなかった。ただ……私と共に生きただけ」
ヴェルギリウスは長い沈黙の後、ゆっくりとうなずいた。
「……わかった」
リヴェリアは微笑んだ。その美しい顔は、どこか安らいで見えた。
「ありがとう。あなたは……やっぱり……」
彼女は胸に指を当て、呪文を囁く。血が弾ける。自らの心臓に血の槍を突き立てたのだ。
「リヴェリア様ああああああ!!」
クレアの叫びが、崩れかけた城の天井に響いた。
王庭リヴェリア、彼女が与えた慈愛は、確かに誰かの中に残っていた。