転生した異世界が主人公が産まれる2000年前だった 作:yumui
地下湖の静寂を破って、空気がねじれる音がした。
ヴェルギリウスが竜槍の残骸を前に立ち尽くしていると、背後からぬるりとした気配が漂ってきた。振り向いた瞬間、そこには異様な存在が立っていた。蒼白の肌、紅の瞳、夜闇のような髪を持つ女。薄く開いた唇の間から、わずかに牙が覗く。吸血鬼――そして、その中でも最上位に位置する存在。
「はじめまして、人の王。わたくしは“王庭”のリヴェリア。吸血鬼の女王よ。」
その声音は艶やかで、冷たい水面のように震えなかった。
「王庭……魔王の側近か。」
「ええ。あなたの噂は魔族の間でも少しばかり囁かれていてね。グオネラを倒した人間の王。興味を持たずにはいられなかったわ。」
リヴェリアは扇のように片手を広げ、指先から鮮血を滴らせた。その血は空中に浮かび、ねじれ、鋭い槍の形を成す。
「だから……試させてもらうわ。あなたがどれほどの者かを。」
その言葉とともに、血の槍が飛んできた。ヴェルギリウスは地を蹴り、間一髪でかわす。槍は岩壁に突き刺さり、爆ぜた。洞窟の石が砕け、火花が散る。
「くっ……!」
次の瞬間には、第二、第三の槍が雨のように降り注いできた。ヴェルギリウスはそのすべてを回避しきれず、肩に一本が掠める。服が裂け、熱い痛みが走った。
「あなた、なかなか動きがいいじゃない。けれど――まだまだ。」
リヴェリアの足元から波紋のように血液が広がり、それが空中で刀となる。鮮血で形作られた刃が振るわれ、ヴェルギリウスはそれをグラディウスで受けた。金属と血の魔法がぶつかり、火花と赤が混ざり合った。
「血の剣までか……!」
「わたくしの血は、武器にもなるし、毒にもなる。さあ、もっと踊って見せて?」
ヴェルギリウスは一歩踏み出した。剣を振るい、炎が巻き起こる。燃える魔剣グラディウスは、吸血鬼の魔術を焼き払う力を宿している。だがリヴェリアは霧のように姿を変え、その斬撃をかわした。
「速い……!」
「夜のわたくしほどではないけれど、昼のこの姿でも人間には充分よ。」
ヴェルギリウスは地を蹴り、斜め上から渾身の斬撃を浴びせる。リヴェリアは再び血を操って盾を作るが、燃える剣はそれを焼き破った。
「やるじゃない……けれど、まだ甘い!」
リヴェリアの血の斬撃がヴェルギリウスの足元を刈るように襲う。炎の剣で受け止めるが、リヴェリアは立て続けに三連撃を放ってきた。最初の一撃を受け、二撃目をかわすが、三撃目が肩口を切り裂いた。
「ぐっ……!」
傷口から血が噴き出す。だが、退く暇はない。リヴェリアが血の槍を再び生成し、投擲した。ヴェルギリウスは前に飛び出して槍を避けると、距離を一気に詰めて剣を振り抜いた。
炎の軌跡が走る。リヴェリアの左肩に、深く一閃が刻まれた。
「――っ!」
白い肌に赤が滲み、蒸気が上がる。炎は彼女の血を焼き、肉を焦がした。しかしその刹那、ヴェルギリウスの顔に何かが吹きつけた。
――血。
切り裂かれた傷口から噴き出した彼女の血液が、ヴェルギリウスの顔を覆ったのだ。途端に、呼吸が乱れ、目が焼けるような熱さに襲われた。
「がっ……は、ぁ……っ!」
膝が折れる。立っていられない。体の内側から毒が回るような感覚。関節が軋み、視界が赤黒く染まった。
「それは、わたくしの“贈り物”よ。」
リヴェリアは微笑みながら近づいてきた。
「わたくしの血には猛毒があるの。吸血鬼の中でも、わたくしだけが持つ特別な毒。あなたは、今それを体内に受けたのよ。」
「く……っ……」
ヴェルギリウスは剣に手をかけたまま、膝をついていた。呼吸は浅く、炎は弱まっている。
それでも、リヴェリアは彼を見下ろして、愉快そうに笑った。
「昼の今のわたくしは、本来の半分も力が出せない。それでも、あなたは一撃を入れてきた。毒に倒れはしたけれど、ここまでやるとは……人間にしては、なかなか面白い。」
その紅い瞳が、ほんの少しだけ優しさを帯びた。
「王庭に入る気があるなら、歓迎してもいいわよ?」
応えはない。ヴェルギリウスは、毒と苦痛に意識が遠のきつつあった。
リヴェリアは彼の前にしゃがみ込み、白い指でそっと額に触れた。
「でも、今は眠っておきなさい。これは“試し”。殺しはしないわ。」
そう言って、ふっと霧のように姿を消した。
その場に残されたのは、灼け焦げた血の跡だけだった。
#
ヴェルギリウスの意識が揺らぐ中、遠くで誰かの声が聞こえた。
「しっかりなさい、ヴェルギリウス!」
瞼を開けば、煤けた天井と灯火の揺らめき。頭が重く、体は思うように動かない。けれども、見覚えのある声と、細やかな手が額に布を当てていた。
「……グリンリル、か」
「ああ、良かった。気がついた……」
ドワーフの王女グリンリルは安堵の表情を浮かべ、苦笑を浮かべる。
「あなた、リヴェリアとやり合ったのね。無事に戻ってきてくれて、よかった」
ヴェルギリウスは枕元に置かれた剣――燃える魔剣グラディウスに視線をやった。鞘に収まってなお赤熱を保つそれは、リヴェリアの頬を裂いた確かな手応えを思い出させた。
「……やられたよ。血を浴びただけで、膝をついた。あの女の力は、異常だ」
「彼女は“王庭”の一角を担う吸血鬼の女王よ。毒の力も、夜には数倍になると言われている」
「夜だったら、俺は死んでいたか」
「たぶんね」
グリンリルは淡々とそう告げたあと、器に注がれた薬湯を手渡してきた。彼女の指先は冷たく、けれども温かい意志を感じた。
「……ありがとう。ところで」
ヴェルギリウスは体を起こし、布団の上に身を預けながら言った。
「一つ、試してみたい策がある。水晶竜を倒すための方法を思いついた」
その言葉に、グリンリルの眉が跳ね上がった。
#
数日後――。
水晶竜の咆哮が地下宮殿を震わせた。天井の結晶が軋み、ドワーフの兵たちはその圧力だけで膝をつく。美しき鱗を煌めかせながら、巨大な体躯が王の間に姿を現す。
「グリンリル。貴様のもとから侵入者の気配がした」
その声はまるで金属が擦れるようで、ぞっとするような冷たさを帯びていた。かつてドワーフの王を殺し、国を蹂躙した竜――水晶竜が、いままさに王族たちの前に降り立っていた。
グリンリルはひれ伏し、従者たちを後ろに下げた。
「お許しを、水晶竜様。人間どもが一時的に坑道に侵入いたしましたが、すでに追放しております。詫びのしるしとして、ささやかな宴をご用意いたしました」
巨大な銀の皿が、次々と竜の前に運ばれる。焼かれた獣の肉、塩漬けの魚、蜜煮の果実、濃厚な血のワイン。どれもがドワーフの技術と知識の粋を尽くした献上品であった。
水晶竜は片目でそれらを睨みながら、低く鼻を鳴らす。
「ふん。許されたいがための貢ぎ物か」
「はい。我らの至らぬ忠誠を、どうかこの供物でお赦しくださいませ」
しばし沈黙のあと、水晶竜は顔を寄せ、最初の皿にかぶりついた。巨大な顎が肉を噛み砕き、骨を割る音が部屋に響き渡る。続いてワインを飲み干し、また次の皿へと舌を伸ばす。
――異変は、すぐに現れた。
最初は、水晶竜の咳だった。次に、喉を押さえて呻き始める。眼孔が血走り、鱗の隙間から蒸気のような汗が噴き出した。巨体が揺れ、皿を踏み潰しながらのたうち回る。
「おい……この食事……これは……!」
水晶竜は吐き出そうとしたが、すでに喉は腫れ上がり、血混じりの嘔吐が飛び散る。
「貴様……毒を――!」
グリンリルは冷静に、杯を掲げた。
「食事には、私の友人が浴びた“リヴェリアの血”を混ぜました。あなたの鱗は刃を通さない。しかし――内側からなら話は別です」
水晶竜の両翼が暴れ、壁を砕いた。地下宮殿が揺れる。だが、そこに飛び込んできた赤き影があった。
「ヴェルギリウス……!」
鈍い咆哮が洞窟に木霊した。かつてこの地の支配者であった水晶竜が、地を這いずるようにのたうっていた。
その全身は毒に蝕まれている。水晶の鱗は色を失い、所々に亀裂が走っていた。優美な水晶の輝きはくすみ、もはや見る影もない。
「今しかない!」
グリンリルが叫ぶ。髪を翻し、槍を高く掲げて仲間たちに合図を送った。彼女の背後には、鍛冶の民――ドワーフたちの戦士が並んでいた。
「目を狙え! あの鱗はまだ硬い、だが眼窩なら通る!」
ドワーフたちは一斉に突撃した。短い脚であれど、地の底で鍛えられたその足取りは重く、確かだった。
最初の一撃が左目に突き立った。水晶竜が雄叫びをあげて頭を仰け反らせる。続いて右目を目指した槍が、鮮血と共に突き刺さる。
「やった……!」
勝利の声が漏れそうになるその瞬間、尾が唸りを上げて迫った。数人の戦士が吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。呻き声と、血飛沫。
だが、それでもドワーフたちは怯まなかった。数で劣る彼らが信じるのは、仲間と鍛え上げた武器、そして――
「俺がやる。仕留めるのは、俺だ」
ヴェルギリウスが立ち上がった。毒に侵された身体は限界に近かった。視界が霞み、呼吸もままならない。
だが、その手にある魔剣《グラディウス》は、なおも赤々と燃え続けていた。
金の瞳が水晶竜を見据える。その視線は、炎のように揺らめいていた。
水晶竜が呻くように唸り、砕けた翼を広げて身構えた。だが、もはやその動きに鋭さはない。毒が全身を蝕み、巨大な身体をまともに支えることすらできていない。
「動けるうちに、終わらせる……!」
ヴェルギリウスが駆けた。足元の血液が飛沫をあげる。地を蹴るたびに傷が開き、痛みが全身を走る。
だが、止まるわけにはいかない。この瞬間のために、生きてきた。
水晶竜が口を開いた。毒混じりの蒸気が唸りを上げて放たれる。反射的に横に飛び、熱と毒が肌を焼く中をすり抜けた。
そして、竜の胸元へと滑り込む。
燃える剣を、腐食した鱗の隙間に叩きつけた。
ジュッ、と焦げる音と共に、血煙が立ち昇る。だが、致命には届かない。竜が呻き、頭を振ってヴェルギリウスを弾き飛ばした。
岩壁に叩きつけられ、口から血が溢れる。それでも彼は立ち上がった。
「立て! 今こそあの獣を倒せるんだ!」
グリンリルが再び叫ぶ。彼女の声に、再びドワーフたちの足が動く。
数人が竜の横腹に飛びかかり、鋼の槍で打ち続ける。だが、水晶の鱗は依然として鋼を弾く。
その時、ヴェルギリウスは鱗の一枚が、毒によりボロボロに腐食しているのを見つけた。
「……そこだ……!」
咆哮と共に跳んだ。魔剣を振りかざし、渾身の力で一撃を叩き込む。
燃える剣が、砕けた鱗の隙間に食い込んだ。肉を裂き、骨を焼き、内臓を貫く。
竜が絶叫を上げ、崩れ落ちる。
だが、それでも死なない。水晶竜はなおも、最後の力で爪を振るい、牙を剥いた。
「まだ……だと……!」
全身が痛む。毒が神経を焼き、指先の感覚も曖昧だ。それでも、立ち上がる。
ヴェルギリウスは剣を構え、最後の一歩を踏み込んだ。
その瞬間、グリンリルと数人のドワーフが竜の背を押さえつけた。
「今よ、ヴェルギリウス!」
その声に応じ、彼は跳び上がった。
巨大な頭部の上に着地し、燃える剣を両手で握り――
――グラディウスを、水晶竜の頭蓋に突き立てた。
閃光が走った。剣が燃え上がり、竜の頭部が爆ぜるように崩れた。
水晶竜は呻き、よろめき、そして――完全に崩れ落ちた。
静寂が洞窟を包む。
誰もが息を呑んだ。
しばらくして、グリンリルが言った。
「……勝ったの?」
ヴェルギリウスは剣を引き抜き、血まみれの体で振り返った。
「……ああ。終わったよ」
竜の巨体が沈黙し、燃える剣だけが、なおも洞窟の暗闇を照らしていた。
#
数日後――
ドワーフの地下宮殿は一段と息を吹き返していた。上階に設けられた広間には、王座が再び置かれ、石壁には王国の紋章が刻まれている。鉱石を組んだランプの光が祭壇を照らし、再興を支えた者たちが胸を張って集っていた。
グリンリルは、長い銀髪を王冠の下にまとめ、祖父の跡を継ぐ王女としての装いを整えた。深緑のローブに微かに金糸が光る。彼女の瞳は自信に満ち、そして感謝と決意を宿していた。
「市民および諸侯、今日ここに、公正なる女王グリンリル一人を正式に戴冠せん。今後、我が国は新たなる時代を築く」
彼女の声は堂々として、天井に反響した。拍手がひときわ大きく湧き起こり、鉱山で鍛えられた鋼の心が共鳴するようだった。
儀式が終わると、グリンリルはヴェルギリウスと彼の従者であるドワーフ戦士たちに向き直った。
「ヴェルギリウス。あなたのおかげで我が国は暗い時代を終え、再興の道を歩み始めました。その恩として、水晶竜が蓄えた財宝の数々をお納めいただきたいと思います」
ヴェルギリウスは静かに首を振った。これまでの苦労と思いを伝えるように、炎の魔剣を軽く脇腹にかざす。
「ありがとう、グリンリル。だが、俺が欲しいのは金銀ではない」
彼は静かに言葉を続けた。「水晶竜の心臓だけを、君がくれるならそれで充分だ」
広間に一瞬の静寂が落ちた。王冠を被った王女が少し驚いたように頷く。
「ふふ……あなたらしいわね。わかりました。心臓だけでも、きっとあなたの王国に役立ちます」
それは不思議な感覚だった。財宝ではない、だが「重い」贈り物だった。
*
その夜、ドワーフ王国とヴェルギリウスの王国は正式な友好条約を結んだ。歴史の節目となる宴が開かれ、二つの民が祝杯を交わし、友情を誓い合った。アンジェラは竜の姿で壇上に灯を放ち、魔力で祝宴を彩った。グリンリルは照れくさく微笑み、ヴェルギリウスと拳を交わすように軽く拳を合わせた。
「あなたのおかげで、すべてが変わったわ。ありがとう」
「いや、俺も学んだ。これからもともに歩もう」
*
ヴェルギリウスは毒の影響から完全に回復していた。昼夜を問わず積み重ねられた治療と休息の成果だ。傷跡は残るが、動作に支障はない。彼は王国の使節として、アンジェラと共に再び空に舞い上がった。紫の鱗と炎を揺らして飛ぶ竜と、彼の背中は、かつて見た時とは違って穏やかに見えた。
「さて……次は、あの娘のところだな」
ヴェルギリウスは空を見上げてつぶやく。
「ええ、もうずいぶんと会っていませんものね」
「パルテニアスに、今度は永遠の命の姿を見せてあげられるわね」
その言葉に、ヴェルギリウスは一瞬だけ視線を迷わせた。だがすぐに笑みを取り戻す。
「そうだな。俺たちに祝福をくれた人だからな。あとは――」
「ええ、一緒に穏やかな時間を過ごしましょう。今度は戦いじゃなくてね」
彼らは翼を広げ、王国を後にした。友好の証となる宝と心臓を背に、王と竜は新たな章へと歩を進める。
――天空は、まぶしいほど透明だった。