異世界迷宮ちゃんは入り組み惑っている 作:yubeshiski
〈料理人〉をつけたミチオは、クラムシェルを倒しレアドロップの蛤を得た。
クラムシェルの通常ドロップは〈シェルパウダー〉で、レアドロップが〈
〈料理人〉をつけていないときはなかなか出なかった〈蛤〉が、つけた途端に一度に2個も出ていた。〈レア食材ドロップ率アップ〉の効果さまさまだ。
〈料理人〉
・取得条件:探索者Lv30以上、迷宮食材を使った料理の経験
・効果:器用小上昇、体力上昇、敏捷微上昇
・スキル:レア食材ドロップ率アップ、アイテムボックス操作
ミチオ君は〈料理人〉について「あくまで迷宮探索用」と推測しており、料理を作るのに役立つようなスキルはないと判断していた。
残念ながら、これは彼の誤解だ。
〈鑑定〉で見える効果やスキル以外にも、実はそれぞれのジョブには特性があるし、多くはファーストジョブに据えないとその特性が発現しない。
例えば、〈料理人〉をファーストジョブにすることで次のような肉体的な基礎補正を得ることができる。
・調理の技術や勘が向上する*1
(包丁を入れる最適な場所や角度がなんとなくわかる、
火の通り具合が適切かなんとなくわかる、等)
・特に、迷宮食材については調理の勘所がはっきりとわかるようになる
ミチオ君は〈料理人〉をファーストジョブに当てることはなかったため、気づくことはなかったのだ。そのことに気づいていたら、美食家の彼のことだ、もっと美味しい暮らしにシフトしていたのではないだろうか。
* * *
おばちゃん旅亭♀のハンナは40代後半だ。
旅亭ギルドの斡旋でレグニツァ騎士団の民事室に勤め始めたのが6年前。
落ち着いてきた年齢ではあるが、やはりエマーロの
そんな折、騎士団の上長ミーティングで迷宮攻略拠点としてヒイラギ村を再建する話が上がった。
話の途中にもかかわらず、光の速さでハンナは挙手して、村に設置されるであろう旅亭ギルドの宿の担当に立候補した。
周囲は驚いていたが、ハンナ自身もびっくりしていた。それだけ漂泊への想いが魂レベルで積もっていたのだろう。
ハンナは優秀でもあったので、手放したくない騎士団が快諾したのは自明だ。優秀な社員に辞められるよりは自社内での異動を持ち掛けるのと同じだ。
〝冒険者ギルド〟と〝旅亭ギルドの宿屋〟を兼ねるのはどうだろう、と提案したのは実はハンナだった。
帝国では旅亭ギルドは帝都にしか存在しないのだが、旅亭ギルドはエマーロの研修施設としての側面を持ち、宿屋や酒場が併設されているのだ。だからハンナは、ほとんどのギルドに宿屋や酒場の機能がないことを不思議に思っていた。*2
村に元からある石造りの建物をリノベして重要な冒険者ギルドを当てたいが、建物がちょっと大きすぎて2階と3階が空くと聞いたとき、旅亭ギルドの宿を併設することを提案したのは自然な発想だった。
冒険者ギルドにはフィールドウォークの目印としての壁があるのが常だ。もちろん遮蔽セメントは塗られていない。
深夜や早朝に飛んでくる者もいるので、冒険者ギルドの出入り口は24時間いつでも開け放たれている。かといって、冒険者ギルドの職員は24時間いつでも対応しているわけではない。夕方になったら受付に木戸をはめ、かんぬきを通し、カウンター出入り口に鍵を掛け、朝まで営業時間外になる。当然時間外であればドロップを持ち込んでも換金できないし、アイテムを買うこともできない。
混み合う昼間を避けて迷宮探索する者にとっては、まあまあ不便なのだ。
しかし、冒険者ギルドと旅亭ギルドの宿を合わせてしまえばどうか。
宿屋の店員であっても、冒険者ギルド神殿でユーザー登録をしてあればギルド職員を兼任できる。何より、宿屋の店員とはつまり、睡眠の必要がないエマーロ族だ。宿屋の業務に従事するかたわら、24時間、冒険者ギルド神殿を使ったドロップアイテムの売買を扱うことができるということになる。
元から旅亭ギルドの宿に騎士団出張所を兼ねる予定だったので、騎士数名は常駐しており、夜間の出入りが増えてもセキュリティは高く保たれるはずだ。
また、旅亭ギルドの宿はレストランや酒場を併設しているのが普通だ。
宿泊者に食事を提供することはもちろんのこと、冒険者ギルドを使用する者でも飲食をしたり酒を飲むことができるようになる。
他の街とのゲートである冒険者ギルドは、待ち合わせの時間調整に使われることも多い。
特定の街とは朝昼夕しか往復しないなんてこともあるだろうし、領都レグニツァとのフィールドウォーク要員として雇った冒険者たちも次々と飛べるわけではない。MPが回復するのを待ってもらうこともあり、酒や食事は時間潰しにもなるだろう。
併設することのデメリットは見当たらなかった。
そうして、冒険者ギルドの神殿の設置が完了し、いくばくもなく〝ヒイラギ亭〟と名付けられた冒険者ギルド兼旅亭ギルドの宿の準備が整った。
黒い木肌のセドレバの権利を落札したアルル商会がレグニツァ騎士団から求められていた最優先事項は、探索者たちを滞りなくリギの迷宮に送り込める体制を築くことだ。
その大事な通過点をひとつ越えることができ、商会の上役はひと安心だ。
施工を昼夜兼行で急がせたので、大工はもちろん、木戸や家具や寝具、調度品をフル稼働で作成した木工職人たちも疲弊
そしてその金をパーッと使う場所は今のところヒイラギ村の唯一の酒場、兼賭場、兼娼館しかないが、実質アルル商会が運営しているので、払った金はぐるりと巡ってくる。
搾取? いやいや、労働と所得と消費のエコシステムですよー。
ヒイラギ亭の、特に宿の運営の人員は、あえて最小の人数かつ手練れのみで構成することになった。
どんなタイミングでヒトの流入が増加するのか見極められていないし、そのとき求められることが何なのかを流動的に判断していく必要もある。自分で考えて行動でき、周囲への連絡や相談を怠らない人材を求めたとき、レグニツァ騎士団で既に雇用しているエマーロの旅亭をユニットで採用するのが最良であるとの判断に至った。
ハンナを宿側の支配人に据えて、彼女が選んだ人員数人をそっくりそのままヒイラギ亭の従業員として連れて行った。空いた騎士団の穴には旅亭ギルドに補充を手配してあるし、わからないことがあっても前担当は尋ねることができる距離にいるので安心だ。
こうして、短い期間ではあったが、冒険者や探索者たちを呼び込む最低限の施設はしっかりと準備できたのだった。
これらに先立って、レグニツァ騎士団では「リギの迷宮近辺に5つの迷宮があり、そこに拠点を作っている」ことを
一般的にフィールドウォークの価格は片道でひとり銀貨1枚、つまり100ナールが最安値だ。*3 騎士団とアルル商会は検討の末、更に安価で済むように取り決めた。
特に冒険者がいないパーティ、つまり探索者の〈パーティ編成〉でパーティを組むような若輩者を誘因するのが狙いだ。
冒険者がいるパーティなら離れた街や迷宮であっても、ひとりぶんの移動費を1度だけ、例えば100ナールを払えば済む。次回からは冒険者が自分のパーティをまるごと運べるから、払うのは1回こっきりだ。
冒険者がいないパーティは、そうはいかない。
もし、離れた街や迷宮に通うならば、パーティ全員ぶんの移動費用、例えば6人パーティなら600ナールを支払う必要がある。そしてそれは、通っているあいだ毎回発生する。往復なら、1日で1200ナール、5日で6000ナールだ。
そんなものが続くわけはないので、冒険者がいないパーティは今いる街から徒歩で通える迷宮にしか行かないのが通例だ。
逆に、そういった若輩者たちをひとたびヒイラギ村に来させることができれば、彼らは他の街に行くことはない。徒歩で通える5つの迷宮に専念させることができる。
そして彼らの稼ぎはたいてい村で消費される。多くはアルル商会が一枚嚙んでいる店での消費だ。
冒険者がいないパーティをヒイラギ村に呼び込むことは、騎士団にとっても商会にとっても、メリットが大きい。
金額は具体的には、レグニツァからヒイラギ村の往路を、ひとりなら20ナール、6人なら100ナールとした。格安だ。
復路についても価格は抑えたが、ひとり50ナールだ。往路と復路では傾斜をつけ、やや戻りづらくした。
行きはよいよい、帰りはこわい。こわいながらも、通りゃんせ。
そうして迎えた開通後の数日で、ヒイラギ村は迷宮目当てに訪れた者たちで大変に賑わった。
延べ300人ほどで、ほとんどがリギの迷宮に足を運んだ。冒険者ギルドでリギの低階層の地図を無料で配ったことが大きいだろう。
探索者ギルドと聖職ギルドも運営開始を間に合わせることができた。
レグニツァの商業ギルドから誘致した宿屋や食堂や酒場もいくつかは開店が間に合って、景気向上にひと役買っていた。賑わいの演出のために、レグニツァで声を掛けた武器屋や防具屋、雑貨屋や屋台などに露店を開いてもらったが、なかなか盛況だった。あと数日で長屋が建つので、ヒイラギ村に本腰を入れて長屋に移りたいという声も上がっていた。ヒイラギ村に店を構える者にはレグニツァとのフィールドウォークを無料にすると告知していたことも後押ししているのだろう。仕入れの負担が軽減されるのは大きい。
急速に、ヒイラギ村は探索者たちの街になった。
賑わいの中心であるヒイラギ亭は、さっそく人手不足となったのだった。
* * *
狼人族♀の〈料理人〉ターニアは小ぶりな樽を手押し車に載せて、ヒイラギ村の迷宮の1階を進んでいた。おばちゃん旅亭♀のハンナも同じような手押し車を押している。
「ハンナさん、あんがとねー。超助かるー」
「いいのよー! わたしも〝寝床部屋〟見てみたかったのよー!」
ふたりは〝寝床部屋〟に着いた。大工たちが寝床として使っている迷宮の小部屋である。
あれから大工たちの宿舎は十全に用意できたのでヒイラギ村の迷宮の小部屋を寝床にする必要はないのだが、快適さが気に入って引き続き常宿にしている大工が数人いるのだ。
そんな寝床部屋の3割ほどが彼らの居住スペースで、4割ほどが通路。残りが〈料理人〉ターニアの調理用のスペースとなっていた。
壁面には棚があり、調理器具や壺、ランタンなどが置かれている。
そして、真ん中に大きく使いやすそうな調理台が主人を待ち構えていた。
この寝床部屋の居住スペースや調理スペースの床面と壁面には、〈遮蔽セメント〉が塗りこめられている。
迷宮は命が尽きた者や、ヒトの手を離れた物を吸い込んでしまうことで知られているが、実は遮蔽セメントはそんな〝吸い込み〟を妨げる効果がある。
20年ほど前に発表された、なんとかという偉い学者さんの研究の成果だった。
ターニアは、棚に置かれた壺の中身のとろりとしたペースト状の物を、順番に嗅ぎ始めた。〝夏の11日、9時〟とか〝夏の13日、15時〟など日時が書かれたパピルスが壺の足元に置かれている。
ターニアは冒険者ギルドのユーザー登録済みなので、ギルド神殿の機能の一部を使用することができ、いつでも右上に表示される日時を確認することができる。パピルスの日時はギルド神殿で確認したものを記載しているので、だいぶ正確だ。
ハンナも嗅がせてもらった。
ヨーグルトのような、柑橘類のような、酸味がふわっと香った。
「へえ、これが〝サワー
「そ。クセがあるっしょ? でも、あたしこれ好きなんだな」
この〈料理人〉がこれから始めるのは、ライ麦パンづくりだ。
ライ麦パンは小麦パンとはまったく別物で、グルテンがほとんど作られない性質のため、小麦パンのように〝こねて延ばす〟工程がない。
代わりに、ライ麦粉に水を混ぜて数日発酵させたサワー種を作る工程が必須となる。
サワー種とは、乳酸菌と酵母が共存する天然酵母で、ライ麦パンの心臓部といっていい。
つまり、ライ麦パンの品質を決めるのは、発酵管理に他ならないのだ。
発酵は生き物だ。環境に大きく左右される。
サワー種の育成には3〜5日ほど発酵させる時間が必要なので、気温や湿度が大きく上下するような気候ではコントロールが難しい。
その点、迷宮は優れている。
温度や湿度が常に一定に保たれており、昼夜がなく刺激となる光もない。最高の環境といえた。
「じゃー、
ターニアは陶器の大きなたらいにライ麦粉を開けた。
その上に、サワー種から作った
更に塩や水を加えて、練り始めた。
生地は粘土のように重く、手に強く張り付く。
そんな感触も
汗ばむ首筋に
「ハンナさん、ふきんを濡らして絞ってもらってもい?
たらいの上にかけて、生地しばらく寝かすわ」
「はいはい。
ライ麦パンの生地を寝かしてる間に、次の小麦パンの生地をこねるの?」
「そ。〈コボルトフラワー〉を3割くらいで、あとは小麦粉。
こっちは楽勝。〈コボルトフラワー〉が迷宮食材だから、こねる加減とか寝かす加減とか、〈料理人〉だとピンとくんだよね」
台の上をふきんで拭き上げ、〈アイテムボックス〉から〈コボルトフラワー〉を取り出すターニアは生き生きとして、実に楽しげだった。
ハンナは、この〈料理人〉を雇って良かったなあと微笑ましく思った。
「ネモさんとハンナさんには、ほんと感謝よ。
誘ってもらってなかったら、ライ麦パンおいしく作れなさ死、してたかも」
「そんな死に方ある?」
ひとしきり笑いあったあと、ターニアはとつとつと身の上話を始めた。
* * *
狼人族♀の〈料理人〉ターニアの生まれは帝国の北方だった。
父母が定食屋を営んでいたため、幼いころから手伝いをしており、料理は自然と得意になっていた。
寒冷地では小麦は育たない。瘦せた土地で育つのはライ麦だ。
そのため、北方ではライ麦の粉で作ったパンが主食となる。〈コボルトフラワー〉や小麦粉のパンと比べて、堅く酸味が強い。
ターニアはライ麦パンのことは嫌いではなかったが、たまに口にするふわふわとした小麦パンがごちそうだとも思っていた。
畑が肥沃でなくとも、迷宮で得られる食材は温暖な地域と変わらない。
鼻と舌の感度が高い彼女が、美味しい食材を求めて迷宮に入るようになったのは、ごく当たり前のことだった。
探索者レベル30になり、地元の探索者ギルドで〈料理人〉になった彼女は、腕を磨くために料理人ギルドのある帝都にやってきた。
料理人ギルドに転属してすぐの斡旋で一流レストランに雇われたのは幸運だった。
そのレストランでは目にするもの口にするもの、全てが鮮やかだった。
レストランの料理長や先輩の料理人たちは、ときに厳しく、ときに優しく、田舎のビギナー料理人にいろんな調理を教えた。
特に、迷宮食材の扱いについては目から鱗が落ちるようだった。
調理をするときには、一般食材だけで調理をせず、必ず迷宮食材を加える。
迷宮食材を加えることで〈料理人〉の勘が格段に働くようになり、料理の出来が失敗しなくなるのだという。
肉や野菜には砕いた〈コボルトソルト〉や〈ペッパー〉をすり込む。
衣として〈コボルトフラワー〉をまぶす。
炒めるときは〈オリーブオイル〉や〈カメリアオイル〉などの迷宮由来のオイルを使う。
茹でや煮込みには〈コボルトソルト〉や〈コボルトスクロース〉や〈リーフ〉を入れておく。
教わったひと手間を加えるだけで、包丁を、鍋を、かまどを、踊るように操ることができた。
1年目、迷宮食材の配合が足りずに失敗することもあったが、食材の声が聞こえたときの喜びは大きかった。全てが新鮮で毎日が目まぐるしく過ぎた。
2年目、多くのメニューのレシピを覚え、迷宮食材の配合を間違うことはなくなった。何でもできる全能感に満ちていた。
3年目、定番メニューは難なく作れるようになったが、新しい何かを作りたくなった。休日に挑戦したが、何を作っても似た味や食感になってしまった。
レストランでライ麦パンを作って出したいと料理長に提案したとき、コボルトフラワーを半分混ぜるならやってもよいと言われた。
そのやり方で作ってみたが、よく食べたライ麦パンとは全く別物だと思った。結局コボルトフラワーを配合することで、いつもの味わいに戻ってしまったのだ。
ならばと、全てライ麦粉で作ってみたが、迷宮食材の声に慣れてしまったからか、幼いころに慣れ親しんだサワー種の声が全く聞こえなかった。元々美味しいライ麦パンを作るのは難しい。また、帝都の温暖な気候は低温での醗酵に向かない。
出来上がったライ麦パンは、散々な出来だった。
料理長に味見をしてもらうでもなく、ターニアは何も見なかったことにして、
4年目、料理長と口論の末、行く当てもなくレストランを飛び出した。
迷宮食材を配合することによって〈料理人〉の勘が向上し、間違いがない調理法に導かれる。
何を作っても味や食感などは似てくるが、料理長は「それこそが至高で、歴史あるこのレストランの目標は最高の同じ味を提供し続けることだ」と言った。
ターニアは、それは正しいと思った。
そして、正しくないとも思った。
いつもはふてぶてしく余裕のあるターニアだが、わからなくなってしまい、気がついたら店を飛び出していたのだ。
どこへ何を誰にどうしたらいいのか惑ったまま、知らない帝都の裏路地をさまよっているときに、知っている匂いが香った。
乳製品のような、柑橘類のような、力強い酸味の香り。
忘れようがない。ライ麦パンの匂いだった。
帝都の裏路地、うらぶれた場末のパン屋のライ麦パンを買い、かじった。
蓋をした、あのライ麦パンより酷い出来だった。
しかし、これはこれで間違っていない、とも思った。
舌が、鼻が、おなかが、そう語っていた。
レストランには帰らなかった。
当時、帝都のアルル商会本店勤めをしていた猫人族♂商人のネモは、知人から変な食堂があると耳にした。興味に駆られて寄ってみたネモは、想像以上に驚かされた。
場末のはやらない場所にあり、オープンしている時間は昼だったり夕方だったり決まっていなかった。値付けは安い。というか適当だった。一流レストランのように格調高い食事を提供することもあれば、場末の食堂らしい大してうまくない雑味のメシが出てくることもある。必ずライ麦パンが付け合わせで出てくるが、とびきり美味しいこともあれば、強すぎる酸味に面食らうこともあった。
何より店主が、出来が良くないものを提供するときに悔しそうな顔をしていたのが印象的だった。
その食堂は、レストランを飛び出したターニアが〈アイテムボックス〉に入れてあった手持ちで開いた店だった。ターニアにとっての研究所であり、リハビリ施設でもある。
興味津々で声を掛けターニアのいきさつを聞き出したネモは、彼女のこんなたわごとを聞き逃さなかった。
「帝都暖かいじゃん。ライ麦には合わないかもしんない。
もっと北とか、あーいっそ迷宮の中とかの方が、ライ麦向きなのかも」
数か月後、「迷宮まで徒歩3分の食堂で働いてみない?」とターニアはスカウトを受けることとなる。
* * *
小麦パンの生地をこねながらターニアがハンナに話している過去語りを聞いて、迷宮ちゃんは、就職して大変だったけど充実していたことを思い出した。
迷宮ちゃんは、経理の専門学校を卒業して、隣の市の中小企業に経理として就職することができた。通っていた専門学校は企業に顔が広く就職率100%を謳っており、就職活動にそれほど時間を割かなくても就職が決まったのはありがたい限りだった。
時間に余裕のある学生生活と打って変わって、社会人になると日々のほとんどは仕事になった。
就職先は海産物加工の製造業だったが、アンテナショップとして小売業や飲食業も運営している多角化経営で、経理の仕事はめちゃ煩雑だ。
製造業は、単にお金の出入りを記録するだけでなく、原材料の仕入れから加工、在庫管理まで工程ごとに細かく数値を追って原価計算する必要があり、月末の棚卸し業務も発生する。
小売業や飲食業は、不特定多数のお客様に販売を行うため、売上の件数がとにかく多い。
また、製造部門で扱っていないような、例えばカフェで出すコーヒーの豆などの原料の仕入先が多岐にわたるため、買掛金の管理や振込作業も簡単ではない。
専門学校で習った簿記の知識だけでは全然足りず、工場や小売飲食の現場知識も求められるため、新たに覚えることが本当に多かった。
それでも、経理課では年齢がだいぶ年上の者しかおらず、器用ではないが真面目に取り組む迷宮ちゃんを温かく迎えていたのは幸いだった。まるで、娘や孫のように手厚く気を回してくれるため、迷宮ちゃんも恩に報いたいという気概が芽生えた。
自主的に経理や業務のビジネス本を買って休日に読んだり、わからないことは周囲に教えを請うたりして、がんばった。
不器用であっても、がんばっている者を支えたいと思うのが人間の性だ。がんばったぶんだけ、周囲の温かいサポートを得られるという好循環が生まれた。
迷宮ちゃんは、そこまでの半生で得られなかった周囲の人間との温かいコミュニケーションを、ついに得ることができたのだった。
うれしかったなあ、と思った。
あと、残業いっぱいしたこともあり、学生時代より格段に多いお金を得ることができた。
気付いたら、ずっと欲しくてあきらめていた小説をどかんと全巻、大人買いしてしまっていた。社会人こわい。社会人すごい。
自室の棚に整然と並ぶ全巻の神々しさたるや。
あれは、とてつもなくうれしかったなあ、と思った。
温かいコミュニケーション <<<(越えられない壁)<<< 欲しかった小説全巻
……になってしまうところが、迷宮ちゃんの残念なところではある。