異世界迷宮ちゃんは入り組み惑っている 作:yubeshiski
仄暗い羊水の中で
迷宮は、迷宮という生き物が魔法で作り出した空間だと言われている、とロクサーヌは語った。
迷宮が魔法で作り出された空間だという証拠に、迷宮の入り口である黒い扉の地下を掘っても何も出てこないらしい。黒い扉はあくまで出入口に過ぎず、迷宮本体は別の空間に存在しているという。
それはどこか。
迷宮は〝虚空〟に浮かんでいるのだ。
虚空が何なのか、の説明は難しい。
言葉通りに捉えるならば、そこには何もなく、〝虚ろで空っぽ〟という言葉通りの場所だ。
しかし、仏典によると、虚空は何にも妨げられず全てのものが存在する場所、とも書かれている。
なるほど、わからん。
ともかく、自分も他人も、世界すら拒絶するこんがらがった彼女の魂は、〝虚ろで空っぽ〟という言葉の概念を捻じ曲げて、虚空に存在していた。
名前:設定なし
性別:♀
年齢:0歳
種族:異界
種族特性:ダンジョンウォーク有効
階層:1階層(1階層)
ジョブ1:迷宮 Lv1
スキル:階層紡ぎ
効果:精神小上昇、MP微上昇
ジョブ2:設定なし
ジョブ3:設定なし
装備:
便宜上、彼女のことを「迷宮ちゃん」と呼ぶ。
迷宮ちゃんが殻に閉じこもり塞ぎこんだまま、ずいぶんと時間が経った。
朝も昼もない虚空では時間の意義は薄いが、地球時間で半月ほどが経過していた。
彼女は焦点が定まらない虚ろな目で、ぼんやりと迷宮の階層が出来上がるのを見ていた。
擦りガラス越しの景色を見ているかのように、仄明るくて輪郭がはっきりしていない。
何かが形作られて徐々に広がってきてはいたのだが、ある瞬間、レースのカーテンを開けたかのように、ふっと1つの階層全体が姿を現す。
2階層が出来上がっていた。
名前:設定なし
性別:♀
年齢:0歳
種族:異界
種族特性:ダンジョンウォーク有効
階層:2階層(2階層)
ジョブ1:迷宮 Lv2
スキル:階層紡ぎ
効果:精神小上昇、MP微上昇
ジョブ2:設定なし
ジョブ3:設定なし
装備:
このとき彼女は気づいていなかったが、〈迷宮〉のLvも上がっていた。
パッシブスキルである〈階層紡ぎ〉に魔力が費やされると、〈迷宮〉の経験値が貯まっていく。
貯まった経験値に比例して、まだ存在していない次の階層がおぼろげではあるが徐々に形作られていく。
経験値が必要数まで貯まってLvが上がると同時に、階層がくっきりと現実の物となる。
迷宮Lv = 階層の数、だと言えるだろう。
彼女からすると、迷宮が作られていく様子は、クレイアニメを見ているような、どこか絵空事のような光景だった。ここではないどこかの出来事のように思えるが、この光景が自分自身のことでもあるという自覚もあった。
彼女がぼんやりとしているのは自死に至った精神のダメージだけが原因ではない。
〈異界〉という別の生き物になったからだ。
〈異界〉の視覚器官は、人間のように頭部の2点から1方向を見る仕組みのような簡素なものではなく、迷宮内をあらゆる角度から全体的に捉えるという超常的な能力を持っていた。
人間であったときの感覚のままではとてもキャパシティが追い付かない。〈異界〉という別生物の脳の仕組みに慣らしつつ、負担を減らすために思考力を落とす。彼女なりの防衛本能でぼんやりしながら、続いて作られていく次の階層を虚ろに眺めた。
* * *
彼女が〈迷宮〉となってから、はや1年が経った。
死の直前のショックからなのか、〈異界〉という生き物になったからか、彼女は欲求というものが特になくなっていた。食欲や睡眠欲などは一切感じなかった。ただ、ぼんやりと階層が作られていくのを見守る日々。
迷宮ちゃんは元々ぼんやりすることが嫌いではなかった。
父ひとり娘ひとりの父子家庭だった。物心ついた時にはもう母親はいなかった。
どうしてお母さんがいないのと父に聞くと、病気で死んじゃったんだよと言った。
おじいちゃんやおばあちゃんは?と聞くと、ずっと前に死んじゃったんだよと言った。
たまに顔を見せるような親類もいなかった。
父親は優しかったが、娘に無関心だった。というか自分以外の他人におしなべて無関心だった。
役所の職員で毎日定時に帰ってくる。ごはんの支度や洗濯、掃除など家事はきちんとやっていた。ただ、献立のパターンは決まっていたし、味付けもイマイチだった。掃除は週末にすると決めており、平日にちょっと汚れが目立ったくらいでは気にせず、週末になるとようやくルーチン通り掃除をする。アイロンをかける習慣もなく、シャツには皺がついていた。工夫して生活を良くしよう発想がなかった。
ニュースを見ながら夕方の食卓を囲む。雑談は少しだけ。
家事が終わったあとの父は趣味の人だった。クラシック音楽を聴く。歴史の書籍を読む。囲碁の棋譜を並べる。集めた切手を分類して綴じる。全てひとりだけで完結する趣味だった。
今で言うところの軽度の自閉症なのかもしれなかったが、昔の男性にありがちな「あの人は趣味の人だからねえ」と見過ごされていた。娘の話を聞かないわけではないが、率先して関心を寄せることはなかった。
娘もいつの間にか諦めていたのか、父に似て元々他人に興味がなかったのか、自分の趣味に没頭した。
家にある絵本を読む。小さな庭の石をひっくり返してダンゴムシを集める。人形やぬいぐるみを使ってごっこ遊びをする。いずれもひとりだけでできることで、社交性は全く磨かれなかった。
家には絵本だけではなく、図鑑や科学マンガ、歴史マンガ、偉人マンガ、そして児童文学があった。マンガは馬鹿が読むものだと言って、父は基本的にマンガやゲームの類は一切買ってくれなかったが、学習系のマンガとドラえもんは許されていた。ドラえもんはいいんだ?
児童文学はむしろ率先して買い与えてくれた。
中でも『モモ』と『ナルニア国物語』と『はてしない物語』はお気に入りで、何度も何度も読み返した。
春の小さな縁側で、夏のひんやりした階段の脇で、秋の自室の座椅子で、冬の暖かいこたつで、ぼんやりと本の中の世界の空想にふけった。
小学3年生の頃には、家事を少しだけ手伝うようになった。
休日に洗濯機を回すのは彼女の担当だった。当時は二層式洗濯機で、洗濯槽の中で定期的に流れの向きを変えながらぐるぐる回る渦を、ただ眺めているのが好きだった。頭の中を空っぽにする時間が彼女の癒しだった。
右回りにぐるぐるー。
左回りにぐるぐるー。
右回りにぐるぐるー。
左回りにぐるぐるー。
高校生のころに洗濯機を買い替えた際に、フタが透明ではない全自動洗濯機に変わり、渦が見れなくなってしまった。迷宮ちゃんは、洗濯を掛けている間はどこに居たらいいんだろう?としばらく戸惑っていた。全自動だから洗濯機に任せて、アンタは他のことをしたらええねん。
迷宮は、既に14階層まで出来上がっていた。
名前:設定なし
性別:♀
年齢:1歳
種族:異界
種族特性:ダンジョンウォーク有効
階層:14階層(14階層)
ジョブ1:迷宮 Lv14
スキル:階層紡ぎ
効果:精神小上昇、MP微上昇
ジョブ2:設定なし
ジョブ3:設定なし
装備:
迷宮は1階層から14階層まで、順番に上に積み上がっている。
積み上がっているといっても、ビルとは違う。1階層の上に、水平方向に30度ほど回転して2階層が乗っており、その上の階層は更に30度ほどズレて…と、およそ重力を感じさせない積み上げ方になっている。普通なら瓦解しているだろう。重力すらない虚空だから保てる構造だった。真上から見下ろすと、重なっている部分を軸にして各階が互い違いに放射状に伸びているように見える。
彼女はそれを見下ろして、まるでガーベラの花みたいだ、と思った。
ガーベラといえば。
中学生の時、吹奏楽部に所属していた。パートはクラリネットだった。
気が利かず、話や受け答えがズレている迷宮ちゃんは当時はもうだいぶぼっちで、クラスでは存在が希薄だった。部活でも薄かったが吹奏楽はチーム制だ。必ず声がけされる機会があるぶん、ましだった。
ある日、帰り道で同じ部活の男子に話しかけられた。
他意はなく単なる彼の気まぐれだったが、一緒に帰りながら、彼は自分が興味を持っていることについて一方的に楽しそうにまくし立てた。彼にとって話す相手は別に誰でもよかったが、迷宮ちゃんにとっては自分の存在を認知して、楽しそうにしてくれていることが嬉しかった。
その時、道沿いのプランターに花が植わっているのを見つけた彼は、この花はガーベラだと大仰に教えてくれた。ガーベラの見た目や種類などの特徴、得意な気候や育てる時の注意点など、ちょっと引くくらいの情報量を乗っけてきた。
とはいえ、彼は花全般に詳しいわけではなかった。
単にガノタで、〝ガーベラテトラ〟というモビルスーツの名前の由来がこの花だったので、調べててめっちゃ知ってた、というだけだった。*1
話の内容自体はよく分からなかったが、自分に話しかけてくれること、すごく大好きな物事があること、それはいいなあ、と思った。
一緒に帰ったあくる日、また一緒に帰りたいと期待して昇降口で彼が通りかかるのを待っていたが、迷宮ちゃんを見つけた彼は露骨に嫌そうな顔をして、急ぎ足でひとりで帰り出した。
慌てて後を追いかけるが、昨日と違う道を曲がって行ってしまった。来るな、と背中がイラついていた。
急に避けられて、迷宮ちゃんはとても悲しかった。
彼は別に迷宮ちゃんのことが嫌いになったとかではなく、中学生にありがちだが、ふたりで帰っているのを見かけた同級生に冷やかされて、女子といることが急に恥ずかしくなったというだけだった。まあ、冷やかされたくらいでオフれるくらいの浅い関係だと思っていたことは間違いない。
心の傷とガーベラの知識だけを残して、迷宮ちゃんの初恋未満はあっけなく終わった。
そういえば、ガーベラの花言葉は〝神秘〟だ、と彼が自慢げに語っていたことを思い出した。
ガーベラみたいだなと感じたこの迷宮の威容は、確かに〝神秘的〟という言葉がしっくりくる。
この迷宮が自分自身であるとも自覚している迷宮ちゃんは、切ない思い出をそっちのけで、なんだか嬉しくなった。