叢雲屋バイト君のちょっぴり怖い物語   作:水無月05

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 記憶って大切だけど、憎いよね。


記憶喪失の青年と犬

 

 ハッと、まるで真夏の太陽に焼かれていた白昼夢から目を覚ましたかのような感覚だった。

 

 閉ざされた瞳の裏に広がる、漆黒の闇。それが、カチリとスイッチが入ったかのように、鮮烈な光で満たされた。停止していた心臓に電撃が走り、鈍く、しかし確実に脈打ち始める。

 

 そんな、身体の奥底から込み上げてくるような覚醒が、突然僕を襲った。

 

 

 気づけば、足元にはアスファルトのざらつき、頬を撫でる湿った風。見慣れない道の真ん中に僕は突っ立っていて、慌てて、道の端、古びた電柱の影へと身を寄せた。

 錆びたガードレール越しに、延々と続く道の先を凝視する。前を見て、後ろを見て、少し先の、使い古された案内板が傾ぐ分かれ道まで歩みを進め、薄暗い新しい道を覗き込む。

 

 しかし、何度目を凝らしても、この場所には全く覚えがない。

 胸の奥底から、鉛のように重い不安が、じわりじわりと這い上がってくるのが分かった。

 

 

 どうしよう。どうすればいいんだ。早く、早く帰らなきゃ――あれ?

 

 

「どこに、帰ればいいんだっけ?」

 

 

 思わず、乾いた手のひらで口を塞いだ。何を言っているんだ。何を口走ったんだ。「帰る」なんて、そんなの、僕の家に決まっているじゃないか。

 

 その時、ようやく僕は理解した。

 自分の家どころか、自分の名前すら、喉の奥にへばりついて、言葉にできないという絶望的な事実を。

 

 

「っあ、だ、誰か! 誰かいませんか!?」

 

 

 底なしの恐怖から逃れるように、僕は当てどなく走り出した。荒い息が喉を焼く。

 

 誰でもいい。誰でもいいから、助けて欲しくて、茜色に染まった空の下、夕日の残光がアスファルトに長く影を落とす中を、がむしゃらに走る。

 

 黄昏時――誰そ彼時。

 なのに、どこを見ても、人影は一つもない。

 

 どれだけ走っても、道沿いに並ぶ灯りのついた家々を覗いても、自動ドアが寂しく開閉を繰り返すコンビニも、幸運にも見つけることができた、ひしゃげた看板の交番にも、人の気配は一切ない。

 まるで、この世界に僕以外、誰も存在しないかのような、ひやりとする静寂が支配していた。アスファルトに響くのは、自分の足音と、荒い呼吸だけだった。

 

 

 

 

_________

_____

___

 

 

 

 どれほど走り続けたのだろう。肺が締め付けられるように苦しく、足はもつれて、ついに膝から崩れ落ちそうになった。

 

 たどり着いたのは、ブランコと滑り台が錆びつき、砂場には雑草が茂る寂れた公園。そこでようやく、僕は足を止めた。

 喉の渇きは限界で、口の中は砂漠のように乾ききっていたが、こんな不気味な場所にある自動販売機から飲み物を買う気にはなれず、僕はそれに目もくれずに、隣の冷たいベンチに腰を下ろした。

 大きく息を吸い込み、ゆっくりと、震える吐息を漏らす。

 何度か繰り返すうちに、荒々しかった呼吸も、痛いくらいに鼓動を刻んでいた心臓も、ゆっくりと、しかし確実に落ち着きを取り戻していった。

 

 

「__っ、_ふう、くっ、__っ」

 

 

 一時的な平静が訪れれば、今度はどうしようもない現実が、鉛の塊のように重くのしかかってくる。

 声を上げたら、この脆弱な心が崩れ落ちてしまいそうで、僕はそれを必死でこらえた。耐えきれずに溢れ落ちる雫は、決して涙なんかじゃない。額から流れる、冷たい汗なんだと、無理やり虚勢を張って、力強く唇を噛み締めた。

 

 

 

 

____チリン。

 

 

 

 

 ふと、澄んだ鈴の音が聞こえた。

 それは、この耳鳴りのような静寂の世界で、初めての変化だった。

 

 ハッとして、俯いていた顔を上げる。ガランとした公園の隅々までキョロキョロと見回して、そして、見つけた。

 

 ――それは、古びた鉄製の門の向こう、公園の入り口に佇んでいた。

 

 

「え、犬?」

 

 

 そこにいたのは、一匹の犬だった。

 日に焼けた小麦色の毛並み。額には白い麻呂眉がくっきりと浮かび、首元には真新しい赤い首輪が巻かれ、そこに大きめの鈴が一つ、静かに揺れている。

 遠目から見ても、とても愛らしい柴犬が、黒い瞳でじっと僕を見つめていた。

 

 目が合ったと悟ったのか、柴犬は「ワン!」と一鳴きすると、公園の外の、夕日に照らされた道へと軽やかに歩き出した。

 

 

「あ! 待って! お願いっ、置いてかないで!」

 

 

 僕は急いで、縺れる足を叱咤しながら犬の後を追いかけた。この奇妙な状況を脱する手がかりになるかもしれない。体力など顧みず、絶対に見失ってはいけないと、全力で走る。

 

 僕が後を追っていることに気づいているのか、柴犬は決して急ぐことなく、しかし常に一定の距離を保ち、先を進み続ける。時折、器用に首を回して、僕がいるかを確認する仕草まで見せた。

 

 なんだか不思議な気分だ。犬を飼っていた記憶などないのに、あの犬にはどこか見覚えがあるような気がして、胸の内がモヤモヤする。

 

 

 

 

_________

_____

___

 

 

 

 先を行く柴犬を追いかけて、どれほどの時間が経っただろうか。

 薄暗くなってきた空の下、どこに向かっているのか、現在地すら定かではない僕とは違い、あの柴犬には明確な目的地があるかのように、迷いなく進んでいく。古びた木造の家々が並ぶ細い路地を抜け、コンクリートの塀が続く見通しの悪い道へ。

 

 

 柴犬が何度目かの角を曲がった時、突然、鋭い鳴き声が響いた。続いて、地を這うような低い唸り声が、路地の奥から聞こえてくる。

 僕は驚いて、飛び込むように角を曲がると、目の前の光景にヒュッと喉が鳴った。

 

 

「な、なんだアレ!?」

 

 

 そこにいたのは、黒い化け物だった。

 墨汁をぶちまけたように黒く、不定形にぐにゃぐにゃと蠢く、とても生き物とは呼べない「ナニカ」。

 

 それは、路地を塞ぐように、そのおぞましい質量を晒していた。見ているだけで、言いようのない嫌悪感が、背筋を這い上がるような寒気が、全身に鳥肌が立つ不快感が、まるで質量を持って僕にぶちまけられたような感覚に襲われた。

 

 逃げなければ。アレに捕まったら終わりだ。

 アレが何なのか、その正体も、生態も、存在そのものも、何もかもが分からないけれど、捕まってはいけないことだけは、僕の本能が叫んでいた。

 

 

「グルル…ワンッ! ワンッ!!」

「っ!、何してるんだ!! 逃げろっ!!」

 

 

 あろうことか、犬が化け物に向かって走り出す。その勇敢な姿は、今の僕には、無謀で愚かな特攻にしか見えなかった。

 

 化け物は、向かってくる小さな存在に明確な敵意を感じ取ったのか、形が曖昧なその体から、無数の触手を生やし、自分を守るように振り回し始めた。

 ブンッ、ブンッ、と、空気を切り裂く質量のある音が、耳朶を打つ。

 

 僕は動けなかった。立ち向かう犬を囮にして、さっさと逃げ出せばいいのに。僕は、あの犬を、見捨てることが、どうしてもできなかった。

 

 縦横無尽に振るわれる触手を、柴犬は巧みなステップでかわしていく。まるで舞うように。

 ああ、そういえば、柴犬は猟犬の歴史が深いんだったか?と、こんな状況で場違いにも感心してしまった。

もっとも、あの犬が猟犬として訓練されているかなど、知る由もないのだけれど。

 

 避けては、化け物の隙を見つけては、小さな牙で噛みつき、鋭い爪で引っ掻く。その一撃一撃は微々たるものだが、確実にダメージを与えているのが、黒い体に刻まれるわずかな歪みで分かった。

 

 ひょとして、もしかしたら、勝てるんじゃないか? 倒せるんじゃないか?――そう、身勝手な期待を抱いてしまった。けれど、

 

 

「ギャウゥンッ!!」

 

 

 耳をつんざくような悲鳴が、薄暗い路地に響き渡った。その期待は、無情にも叩き潰される。

 死角から躱しきれなかった一本の触手が、柴犬の小さな体を勢いよく打ち、宙を舞わせた。

 反発の弱いボールのように、一、二度地面に跳ね、そのままコンクリートの塀に叩きつけられる。打ちどころが悪かったのか、起き上がろうともがくその体には、うまく力が入らないようだった。震える脚が、虚しく宙を掻いている。

 

 か細い鳴き声に誘われるように、ズルズルと嫌な音を立てて、ゆっくりと化け物が犬に近づく。

 触手の先端が、獲物を捕らえるかのように、鋭利な形に変形していく。――これから訪れる犬の末路を想像するのは難くなかった。

 

 「助けないと。」そう、心は叫んだ。

 

 「どうやって?」頭の中で、冷徹な声が響いた。

 

 分からない。解らない。判らない。ワカラナイ。

 

 それでも、僕は走った。

 地面を蹴って、足元のもつれも気にせず、ただひたすらに前へ。あの犬のように。勇敢に。無謀な愚か者のように。

 

 

「やめろぉぉぉ!!」

 

 

 喉が張り裂けんばかりの叫びとともに、僕は化け物の前に滑り込んだ。

 地面を滑るように駆け寄り、小さな柴犬を守るように覆い被さったその体は、僕の予想に反して、ひどく小さく感じられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____パァンッ!!




ちなみに作者は猫派です。
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