叢雲屋バイト君のちょっぴり怖い物語   作:水無月05

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犬の知り合い

 ……。

 …………。

 ………………、痛みを感じない。

 

 肌を焼くような熱も、骨を砕くような衝撃も、何もない。

 

 1分、2分、3分……。

 

 どれだけ待っても、想像していたような激痛は訪れない。背中に回した腕に、柴犬の温もりだけが伝わってくる。恐る恐る顔を上げ、ゆっくりと振り返る。

 

 

 そこには何もいなかった。

 

 

 文字通り、路地裏の地面には、先ほどまで蠢いていた禍々しい化け物の影すら残っていなかった。綺麗さっぱり、跡形もなく、まるで最初から存在しなかったかのように、あの黒い塊は消え失せていた。

 

 「え?」間抜けな声が喉から漏れる。念のため、顔を左右に振って周囲を隅々まで確認するが、やはりどこにも奴の姿は見当たらない。

 

 消えたのか? なんで?

 

 わけが分からず困惑していると、腕の中から「クゥン…」と、か細い鳴き声がした。

 

 

「ああ、ごめんな。まだ打たれたところが痛むか?」

 

 

 柴犬を抱きかかえていた腕に、無意識に力が入りすぎていたようだ。慌てて犬をそっと横の地面に寝かせ、優しく、毛並みを整えるように撫でてやる。グリグリと頭を僕の脇腹に押し付けてくる仕草が、とても愛らしい。先ほどの勇敢な猟犬の面影は、微塵も感じられないほどに甘えてくる。その表情は、どこか得意げに見えた。

 

 

「ありがとうな。たぶん、僕を守ろうとしてたんだろ?」

「ワフっ!」

「そっか。でも、次あんな化け物に襲われたら、ちゃんと逃げようね? 立ち向かうだけが正しい選択じゃないんだから。それに、痛いのは嫌だろ?」

「ワンっ」

 

 

 よしよしと、何度も頭から尻尾の付け根まで撫で繰り回す。

 どうやら、とても賢い子のようだ。鳴き声の抑揚や、小さな身振り手振りで、言いたいことがなんとなく伝わってくる。

 少し休憩して、立ち上がるよう声をかけてみたが、まだ自力で起き上がれないようで、鼻息も若干荒い。額には汗が滲んでいる。しかし、いつまでもここに立ち止まっているわけにもいかない。

 僕は犬を再び抱き上げることにした。抱き上げるついでに、赤い首輪に名前がないか確認すると、小さなプレートに、少し幼さを感じさせる字で「太陽」と記されていた。

 

 

「おまえ、太陽って名前なのか?」

「ワンっ!」

 

 

 うん。間違いないようだ。

 耳をパタパタと動かし、ニッコニコの笑顔で返事をしてくれた。なんだか、「太陽」と名付けた人の気持ちが分かる気がする。この、まぶしさすら幻視させるような、屈託のない笑顔。まさに、真夏の真っ只中で、ひまわりの熱い視線を独り占めにする、あの太陽そのものだ。

 ブンブンと勢いよく振られる尻尾に、わしゃわしゃと撫でる手が止まらない。

 

 

 

 

 

「おや? おかしいな…怪異の成り損ないが見当たらない。」

 

 

 頭上から降ってきた第三者の声に、反射的にバッと後ろを振り返った。僕の背後、真紅に染まり始めた夕日を背負って、和服に身を包んだ男が、まるで一枚の絵のように静かに佇んでいた。

 

 完全に油断していた。すぐ後ろまで誰かが近づいていることに、僕は全く気づかなかった。

 いや、違う。警戒を怠っていたわけじゃない。人影のない静寂な世界で、僕の五感は研ぎ澄まされていたはずだ。それなのに、微かな足音も、衣擦れの音も、気配すら感じ取れなかったのだ。

 

 

「もしかして、君が祓ったのかな?」

「…なんのことですか?」

「ん? ……ふむ、どうやら本当に知らないみたいだね」

 

 

 コツン。コツン。乾いた下駄の音を規則的に響かせながら、男がゆっくりと歩み寄ってくる。

 逆光だったから気づかなかったが、徐々に鮮明になっていく彼の顔は、息をのむほどに端正な顔立ちをしていた。目尻を彩る鮮やかな赤。長く、肩まで伸びたダークブラウンの髪は、まるで絹糸のようだ。肩にかけた、女性もののデザインに見える長羽織も、何一つ違和感のない完璧な芸術品のようだった。

 

 ――完璧すぎて、姿かたちは人なのに、人間離れしている、そんな奇妙な印象を受けた。

 

 

「ああ、お前さんも一緒にいたんだね」

「ワン!」

「探しものは見つかった?」

「ワン! ワフっ、クルル…ワンっ」

「へー、そうだったのか。よしよし、頑張ったね」

 

 

 彼は僕が抱き上げていた柴犬に気づくと、そのまま二つの存在――いや、一匹と一人?――で、まるで旧知の仲であるかのように親しげに話し始めた。

 犬語が分かるのか……。僕にも教えてほしい……いや、そうじゃなくて、この男は何者だ? この子の飼い主だろうか? 疑問が頭の中を駆け巡る。

 

 困惑する僕を置いて、ワンワン、うんうん、と、まるで人間同士のように何かを話し込んでいたが、やがて話に区切りがついたようで、「さて」と、彼は僕の方に顔を向けた。その視線は、僕の思考を見透かすかのようだった。

 

 

「先ほどは驚かせてごめんね、私の名は鷹野。この狭間の世界で、骨董品の商いを務めている者だ」

「あ、えっと、僕は……すみません、自分の名前が、分からなくて…」

「ああ、気にしないで。それより、場所を移そう。今の狭間は、少し澱(おり)が活発になっていてね」

「…おり?ってなんですか?」

「君たちが遭遇したであろう、あの黒い化け物だよ。正確には、あれは怪異の成り損ないでね。完成することも、自然消滅することもできず、ただ目の前のものを見境なく襲う厄介なやつさ。放っておくと、周囲の気を吸い尽くして、もっと手に負えないものに育ってしまう」

 

 

 眉間に深く刻まれたシワが、彼の「澱」に対する心底からの嫌悪感を如実に表しているようだった。

 

 

「ワン!ワン、ワンワン!」

「はいはい。すぐに連れて行くから、そう急かさないで。とりあえず私の店に招待するから、ついておいで」

 

 

 「逸れちゃダメだよ」と、彼――鷹野さんは、僕が返事をする間もなく踵を返し、来た道を戻るように歩き出した。

 僕は一瞬ためらったものの、この奇妙な状況の中で、唯一の手がかりである彼を、見失うわけにはいかない。僕は抱き上げた太陽をしっかりと抱え直し、彼の後を追いかけることにした。

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