黄昏が大地を覆い尽くし、空の青が漆黒に溶け落ちる頃、僕は薄い膜を隔てたような世界を歩いていた。
アスファルトの道は、まるで月光を吸い込んだかのように朧げな銀色に光り、足元をはっきりと照らしている。周囲の景色は、輪郭が滲みながらも不思議と鮮やかに感じられた。辺り全体が淡い光を帯び、まるでこの世界そのものが、深い眠りから覚めた生き物のように、内側から微かな鼓動と共に発光しているかのようだった。その中にあって、誰もいないはずの家々から漏れる橙色の温かい明かりや、等間隔に並ぶ街灯の鋭い白色の光は、ひときわ強く輝き、暗闇に不気味な色彩を与え、現実との境界を曖昧にする。
「今更だけど、ここは本当に奇妙な町だ」
思わず口から漏れた言葉は、夜の静寂に吸い込まれていく。
街の景観は混沌の極みだった。古びた木造家屋の上に真新しいアパートが乗り、その隣には、錆びついたトタン屋根のプレハブが不自然に傾いて建っている。建物の壁からは、生命力に満ちた緑色の蔓が絡みつき、鮮やかな赤いトマトや瑞々しいキュウリが鈴なりに実っている。道端の草花ですら、本来そこにないはずの植物が、パッチワークのように脈絡なく繋ぎ合わされている。
まるで無邪気な幼児が、積み木を思うがままに積み重ねたかのように、色彩も形も異なる建物や公共物が、不安定なバランスで積み上がっているのだ。初めて足を踏み入れた場所は、まだ幾分か秩序があったように思う。
しかし、今僕が歩いているこの場所は、アパートの上に木造の家が乗っかり、側面の壁からは野菜が不自然に生え、しまいにはどうやって到達するのか皆目見当もつかない、青白い光を放つ空中都市のような展望台まで存在していた。建築基準法などという生易しいものではなく、もはや物理法則そのものがここでは完全に無視されているかのようだ。
重力すらも、この場所では気まぐれな神様の気分次第なのかもしれない。
ただ、時折、墨汁で塗り潰したかのような、一切の光を拒絶する真っ暗な路地を目にすることもあった。その先がどこに繋がっているのか、想像することすら恐ろしいほどの闇だ。
一度、その異様な暗がりに目を奪われ、思わず足を止めかけた時だった。前を歩く鷹野さんの声が静かに響いた。「見ない方がいいよ」。彼の声は、囁くようでありながら、どこか鋼のような意志を感じさせた。
彼曰く、そこに引きずり込まれるらしい。「何に?」と聞き返したが、彼はただニコリと微笑むだけで、それ以上は何も語らなかった。その笑顔は、どこか諦めにも似た諦観を宿しているように見えた。僕の背筋に、冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
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「さ、着いたよ。ここが私の店だ」
鷹野さんの声に促され、視線を向けると、背の高い植木に隠れるようにひっそりと佇む屋敷が目に入った。蔦が絡みつき、苔むした石畳の先に、古びた木製の扉が見える。
まるで物語の世界から飛び出してきたかのようなその佇まいに、ちょっぴりジ◯リの映画に登場する建物のようだと思ってしまったのは、ここだけの秘密にしておこう。
「古物商 叢雲屋」。
店の入り口に掲げられた看板は、木製の古びた板に、達筆な筆致でそう書かれていた。風雨に晒された跡が、文字の周りにくっきりと刻まれている。
一見すると、何の変哲もない、ごく普通の古物商だ。
星の模様が美しい琥珀色のステンドグラスが嵌め込まれた、年代物の重厚な扉を開くと、「リーン」と、透き通るような涼やかな鈴の音が響き渡った。まるで、遥か遠い異国の風鈴が奏でるような、不思議な音色だ。
薄暗い店内には、天井からいくつものガラス細工のランプが吊り下げられ、蜂蜜のような暖色の光を放っている。その光は、店内に漂う古木の香りと埃っぽい匂いを、一層引き立てる。周囲を見渡せば、使い込まれて艶を増した木製の棚やガラスケースの中に、多くの人がイメージするであろう古めかしい品々が所狭しと並べられている。
埃を被った懐中時計、色褪せたアンティークのレース、錆びた鍵の束、そして、見るからに曰くありげな呪物の類だろうか。奇妙な象形文字が不気味に刻まれた漆黒の石や、何かの動物の骨で精巧に作られたらしきおぞましい像までが、薄暗い店内でもぞっとするような空気を放ち、ひっそりと息を潜めている。中には用途が全く分からない物や、見た目があまりよろしくない禍々しい雰囲気を纏う置物まであった。
ただ見ているだけなら、物珍しさも相まってなかなか楽しい空間だ。僕の好奇心をくすぐるように、品々の一つ一つが、それぞれの物語を秘めているかのように見えた。
「君、その子をこの座布団に。君はこっちの椅子に座りな」
「あ、はい」
鷹野さんに案内されたのは、店の奥にある一段高くなった畳敷きの場所。そこには、真新しい紺色の座布団が用意されていた。
そこに、言われた通り、抱えていた太陽を下ろす。移動中に回復したのか、太陽は痛がる素振りもなく、座布団の上でちょこんと行儀良くお座りをした。その様子に安堵し、僕も促されるまま、どっしりとした木製の椅子に腰掛けた。椅子の背もたれは高く、まるで王座のようだった。
その間、鷹野さんは店の奥にある、使い込まれた茶箪笥から湯呑みを取り出していた。小気味よい陶器の触れ合う音が微かに聞こえる。
「どうぞ」と、彼は温かい緑茶を注いで渡してくれた。湯気と共に、清々しい茶葉の香りがふわりと立ち上る。お礼を言って一口飲むと、程よい苦味の中に広がる奥深い甘味が絶妙で、もしかしたら初めて緑茶を心から美味しいと思えたかもしれない。…これまでの人生で緑茶を飲んだ記憶がないため、確かなことは言えないが、この一口は、僕の記憶に鮮烈に残った。
「落ち着いたかな?」
「はい…その、お気遣い、ありがとうございます」
「んふふ、まだ堅苦しいなぁ…もっと気を抜いてもいいよ。君をここに連れてきたのは、その子の頼みだからね」
鷹野さんの視線が、座布団に座る太陽に向けられる。太陽は、大きな目をきょろきょろさせながら鷹野さんを見上げ、「ワン!」と元気な返事が返ってきた。尻尾が嬉しそうにパタパタと畳を叩く音が、静かな店内に響く。
「え、そうだったんですか!?どうして…ええっと、そもそもここはなんですか?明らかに普通じゃないですよね!?」
「私たちが今いるのは狭間と呼ばれる、彼ノ世と此ノ世の間に存在する異界だよ。どちらの世界にも行けない者、居場所が無い者、あるいはここでしか生きられない者が辿り着く場所なんだ」
「狭間の世界」。
あるいは「世界の外側」。
あるいは「境界の向こう側」。
あるいは「何処でもないどこか」。
時と人によって、この異界を示す様々な呼び方が存在した。
その響きは、僕の胸の奥底に、拭いきれない不安を呼び起こした。
「そして、この店は私が営む古物商、叢雲屋。店に流れ着いた物を在るべきところへ、渡すべき人や人ならざるモノへ橋渡しをする場所だ。時には形の無いものも取引したりするね。例えば、“記憶”とか」
「っ!?」
ヒュッと息を呑んだ。狙って告げられたような言葉に、冷や汗が背筋を伝う。もしかして、この人は僕の記憶喪失と何か関係があるんだろうか?
「まぁ、人間の常識がゴミのようなとこだけど、ちょっぴり個性的な住人がいる和風ファンタジーに迷い込んだと思えばいいよ!」
「そんな軽く捉えて良いとこじゃないでしょ!?明らかにヤバいやついましたよ!?」
自身に向けられる警戒の眼差しに気づいていないのか、あえて無視をしているのか。鷹野さんはおちゃらけたように言った。
彼の言葉を全て理解することはできなかったし、ツッコまずにはいられなかった。彼の飄々とした態度とは裏腹に、僕の心臓は激しく波打っている。
それにしても、「元気だね」じゃないですよ、こっちは真剣なんですよ。けれど、もし彼の言葉通りだとしたら、この異界に来てしまった僕は一体……。
「まぁ、君の場合、ここに迷い込んだのはそうしなきゃいけない事情があったからね。その原因を片付ければ、ちゃんと帰れるさ」
「ほ、本当ですか!じゃあ、その原因?を解決するために、僕は何をすればいいんですか?」
「まぁ、そう急かさんな。物事には順序があるものだ。だから、」
「___彼に記憶を返してあげな。太陽くん」