「___彼に記憶を返してあげな。太陽くん」
鷹野さんは、はっきりとそう告げた。その声は、静かでありながら、有無を言わせぬ響きを帯びていた。
僕は太陽を見た。太陽も僕を見ていた。
小麦色の毛並みは柔らかな光を吸い込み、白い麻呂眉がくりっとした瞳の上で揺れている。首元には、真紅の首輪に付いた大きな鈴がキラキラと輝き、まるで黒曜石を嵌め込んだかのような瞳が僕をまっすぐに見つめている。
その瞳には、かつて見たことのない、深い知性が宿っているように感じられた。
「あの、鷹野さん…。何を言っているんですか?太陽は犬ですよ?」
「うん。そうだね。でも、狭間にいる犬が普通なわけないだろう?」
それは確かにそうだが…。
しかし、何度確認しても、太陽はただの犬にしか見えない。何か特別な力があるわけでも、人の言葉を話すわけでもない。
本当に、ただの犬にしか見えなかった。僕の混乱を見透かすかのように、太陽は首を傾げた。
言葉を詰まらせ、しどろもどろする僕に、鷹野さんは苦笑しながら、仕方ない子を見るような優しい眼差しを向けた。
「ごめんね。その辺りも詳しく説明するには、どう転んでも君の記憶が戻らないと始まらないんだ。だから、勝手に返させてもらうね」
鷹野さんが、太陽の首輪に付いた鈴に手を添える。鈴は徐々に淡い金色の光を放ち始め、その輝きはみるみるうちに増していく。やがて、視界が白に塗りつぶされるほどの強い光が放たれた。
僕は思わずぎゅっと目を閉じる。
___________それは、情報の渦だった。
脳の奥深くから、濁流のように映像が押し寄せる。幼い頃の記憶、家族との温かい日々、学校での出来事、そして、太陽との出会い。いっそ暴力的なその奔流を止める術はなく、僕はただ頭を押さえ、内側から突き破られるような激しい痛みに耐えることしかできなかった。意識が遠のきそうになるのを、必死で食い止める。
___どれくらいの時間が経ったのだろう。
僕の体感では、映画一本分を十分くらいに凝縮したような、目まぐるしい感覚だったが、もしかしたら現実では一瞬の出来事だったのかもしれない。
そして、___全てを思い出した。
自分が何者なのか、どんな人間だったのかを。家族のことも、周囲との関係性も。…そして、太陽のことも。生まれてから今まで歩んできた軌跡の全てが、鮮明に、色鮮やかに蘇った。まるで、色褪せた古い写真が、一瞬にして鮮やかな色彩を取り戻したかのようだ。
だが、どうして僕がここにいるのか。その答えだけが、未だ見つからなかった。
「その様子だと、記憶は問題なく戻った感じかな?」
「はい。まだ少しだけ頭は痛いですけど、記憶に違和感はないです」
「そう。なら、君の名前を教えて欲しいな?」
「春希です。僕の名前は、小鳥遊春希です」
小鳥遊春希。それが僕の名前。
淀みなく告げた僕に、鷹野さんは「よくできました」とばかりに、やわらかな手つきで頭を撫でてくれた。
ああ、少し恥ずかしいな。弟と違って、僕はあまり撫でてもらったことがないから、くすぐったいような、温かいような、不思議な感覚が胸を満たす。
撫でられる僕を見て、太陽が「ワン!」と勢いよく飛びかかってきた。その小さな体は、喜びで震えているかのようだ。ペロペロと僕の顔を舐めまくる仕草が、とても懐かしい。目尻に浮かぶ涙さえも舐めとってしまいそうな勢いだ。
……もう二度と、こんな温かい機会は訪れないと思っていたのに。僕の心に、じんわりと温かいものが広がっていく。
「パンッ」と、鷹野さんの手が、静かな店内に小気味よい音を立てた。
ハッと、僕の意識が現実へと引き戻される。その合図のおかげで、頭の中を駆け巡っていた記憶の奔流が、少し落ち着いた気がした。
「さて、春希くんの記憶も戻ったことだし、話を前に進めようか」
「あ、はいっ!お願いします!」
つい、気合いの入った返事をしてしまった。すると鷹野さんは、「良い返事だ」とフッと笑って褒めてくれる。
その笑顔は、まるで幼い子供を慈しむ親のようだ。
…なんだか、僕が小学生くらいの子供に見えているみたいだ。一応、来年には高校を卒業するんだけどな、なんて、心の中で独りごちた。
「コホン」と、わざとらしく咳払いをしてから、鷹野さんはゆっくりと語り始める。彼の言葉は、僕が今、直面している問題の核心を突くものだった。
彼曰く、重要なのは、「なぜ記憶を失ったのか?」ではない。そうではなく、「なぜ記憶を失うことになったのか?」なのだと。
「?、何が違うんですか?どちらも同じなのでは?」
僕の疑問に、鷹野さんはフッと息を吐いた。その吐息は、どこか諦めを含んでいるようにも聞こえた。
「んー、これはちょっとややこしいけど、ニュアンスの違いなんだよ」
鷹野さんは、まず最初の問いを口にした。
Q.「なぜ記憶を失ったのか?」
これは、何が起きてその結果に至ったのかを問いかけているのだ、と。そして、その答えは――。
A.太陽が小鳥遊春希の名を隠したから。
その言葉を聞いて、僕はハッと息を呑んだ。胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われた。
「記憶が戻った君なら理解できるよね?この子はもうとっくに死んでいる」
その通りだ。太陽は、確かに先月に息を引き取ったはずだ。
太陽との出会いは、僕が小学生の頃だった。
学校の帰り道、見慣れないダンボールの中で、「拾ってください」と書かれた紙とともに、弱々しく鳴く小さな子犬を見つけた。その時の、震えるような鳴き声が今も耳に残っている。そのまま見て見ぬふりなどできるはずもなく、家に連れて帰ったけれど、両親は犬を飼うことを許してはくれなかった。
結局、近所に住む母方の祖母が引き取ってくれることになり、それから僕は太陽に会うために、足繁く祖母の家に通うようになった。
太陽はいつも僕が訪れるのを心待ちにしてくれていた。玄関のドアを開けるたび、喜びで尻尾を激しく振る姿が目に浮かぶ。
そして先日、太陽は僕の腕の中で、まるで眠るように静かに息を引き取った。その温かい体が冷たくなっていく感覚が、忘れられない。
簡素ではあったけれど、家族みんなで葬式もした。
その、死んだはずの太陽が、今、僕の目の前で尻尾を振っている。
これは、いわゆる幽霊というやつなのだろうか?何か未練でも残っていたのだろうか?
僕の考えを読み取ったかのように、鷹野さんは首を横に振った。
「違う。死者があの世に行かず、現世に留まる理由は、未練だけじゃないんだよ」
彼は静かに続けた。その声は、重く、僕の心に深く響いた。
「この子は、恩人である君を守りたくて、そばにいることを選んだんだ」
そして、僕の身に何かが起こり、太陽は僕の名前を隠すことで、僕を守ろうとした。
しかし、僕が「狭間」と呼ばれるこの奇妙な場所に迷い込んだのは、きっと太陽も想定外だったのだろう。
困り果てた太陽が、鷹野さんに助けを求めたのが、ここまでの全ての一連の流れなのだという。
続けて鷹野さんは、次の核心的な謎へと移った。
Q.「なぜ、記憶を失うことになったのか?」
これは、なぜ太陽は、晴希の記憶を隠す必要があったのかを問いかけているのだ、と。そして、その答えは――。
A.小鳥遊春希が呪われたから。
「呪い、ですか?……あの、呪いの藁人形的な?」
「そうだねぇ、今回は海外版の藁人形かな。まぁ、やり方はほぼ日本の藁人形と変わらないんだけどね」
呪い。この奇妙な「狭間」に迷い込んでいなければ、きっと僕は笑い飛ばしていただろう。
非科学。
超常現象。
オカルト。
だが、今は目の前の現実が、それを否定する。僕は、目の前で尻尾を振る太陽を見つめた。
「呪いには古今東西、様々な方法があるけれど、特定の人物を呪うには必須条件があるんだ。それは、呪う相手の『名前』と『体の一部』」
その言葉で、すべての点と点が繋がった気がした。パズルのピースがカチリと嵌まるような感覚だ。
だから、太陽は僕の名前を隠したのだと。
そして、僕に呪いをかけようとした人物。これに関しては、僕が見つけるしかない。
パッと思いつく人がいるわけじゃない。けれど、なんとなく。もしかしたら、あの人なんじゃないかって思う人が一人、いた。
僕の胸の奥で、冷たい予感がざわめいた。
「その人は?」
鷹野さんは笑って問いかける。その顔は、まるで僕の答えを最初から知っているかのような、余裕に満ちていた。
「その人は___」