最近、この辺では良くない噂が回ってくる。
噂と言うより都市伝説だろうか。
なんでも、八尺様が血濡れの鉈を持って襲ってくるのだとか。
どこの映画と混ざったらそんな噂になるんだと言いたい。
しかし最近のニュースではこの辺りの行方不明者ばかりの報道がされていて、そこから変な噂へと発展したらしい。
八尺様なんて、そんな非現実的な存在いる訳ないだろうに。
そんなことを考えながら、いつもと少し違う帰路に着く。
少し違う道、少し違って見える街並み。
そして、少し変わっている裏路地の肉屋。
通りから抜けてくる芳ばしい揚げ物の香り。
じゅうじゅう、ぱちぱちと、高温の油の中で衣が躍る音。
この音を聞くだけでもヨダレがとまらない。
パブロフの犬さながら、あの味が忘れられず条件反射のようになっているのだろう。
一度食べてからというもの、あの味が忘れられず、足が店へと向いてしまうのだ。
「……こんにちは」
「おや、こんにちは。今日も何か食べていくのかい?」
今日は朱色の三角頭巾を被って、黒い髪を高い位置でポニーテールにまとめている。
切れ長の糸目が和やかな曲線を描き、こちらを迎え入れてくれた。
「ぁ、はい。今日は……」
真新しいショーケースを覗き込む。
飴色に輝くコロッケ、どっしりとしたハムカツ。
あるいは、蒸したての湯気を吐き出している肉まんも捨てがたい。
どれにするか選んでいる時間が、もどかしくも楽しい。
迷った末に決めた。
「あの、メンチカツ……お願いします」
「……うん、わかったよ。今から揚げるから、そこでちょっと待っててね」
「あ、はい」
彼女が細い指先で指し示した先には、先客がいた。一匹の黒猫が、ショーケースの隅にちょこんと座っている。
あの猫は常連なのだろうか。まるで躾けられた犬のように、行儀良く尻尾を巻いて待ち続けている。
厨房からは、一層激しい揚げ物の音が響いてくる。
ただ過ぎる時間を黒いネコと見つめ合う事に浪費していく。
しばらくして、紙袋に包まれた熱々の塊が差し出された。
「はい、お待たせ。メンチカツだよ」
「ありがとうございます……。あの、あの黒猫はいつもいるんですか?」
代金の小銭を手渡し、気になっていたことを尋ねてみる。彼女は黒猫に視線を落とすと、どこか楽しげに口角を上げた。
「そうだね……常連さんだよ。クズ肉を漁っては食べていってしまうから、お行儀よくそこに居てもらうよう頼んだんだ。お利口さんだろう?」
猫に言葉が通じるものだろうか。
そんな疑問が浮かんだが、それよりも目の前のメンチカツから漂う魔力のような匂いに耐えられず思考を手放した。
一口齧ると、ザクッという快音と共に、しっかりと詰まった具材が姿を現す。
溢れ出す肉汁が、じゅわりと舌を焼きながら、ほろほろと口の中で解けていった。
肉の旨みが暴力的なまでに押し寄せてくる。
美味い。
いや、そんな言葉では足りない。文字通り、病みつきになる美味さだ。
「……おいしい?」
「あ、はい……! とても……信じられないくらいに」
「だろうね。ふふ、君のその顔を見てるだけで、十分伝わってくるよ」
彼女はそう言いながら、白く、綺麗な歯を見せて笑った。
初めて見た、彼女の露骨な感情の変化。
その完璧に整った白い歯が、なぜか獲物を前にした獣の牙のように見えて、一瞬、息をすることさえ忘れて心臓を跳ねさせた。