気づいた時には、もう辺りは暗くなっていた。
思っていたより遅くなったらしい。
季節は流れ、街にはコートを羽織る人の姿が混じる。
そろそろ、焼き芋の匂いが漂う頃だろうか。
いつもの帰り道のはずなのに、景色が少し違って見える。
街灯の明かりはやけに白く、人通りも少ない。
自分の足音だけが、コンクリートに硬く響いた。
少しだけ、疲れた。
空腹というほどではない。
けれど、無性に「何か」を口にしたい気分だった。
ふと、あの匂いを思い出す。
揚げたての、暴力的なまでの芳醇さ。
──まだ、やっているだろうか。
無意識に、視線が横に流れる。
いつもの道から、わずかに逸れた。
……やっぱり、やめておくか。
一歩、引きかけた時だった。
ふわ、と。
微かに生温かい、油の匂いが鼻腔を撫でた。
決して強くはない。
だが、脳の奥底にある原初的な空腹を、直接揺さぶるような匂い。
足が、止まった。
……やってるのか。
小さく息を吐いてから、私はその暗がりに足を向けた。
裏路地は相変わらず、外界を拒むように薄暗い。
けれど、あの店の前だけは、不自然なほどに明るかった。
ショーケースの明かりが、白い湯気と一緒に立ち上っている。
「……」
店の前で、足が止まる。
「おや」
カウンター越しに、彼女が顔を出した。
今日は黒いエプロン。髪は後ろで一つに束ねている。
余計なものを削ぎ落としたような、無機質な美しさ。
相変わらず、その笑顔の奥は読めない。
「遅かったね」
「……どうも」
何日ぶりだろうか。
一週間か、それくらいか。
私は吸い寄せられるように、ショーケースを覗き込んだ。
コロッケ。メンチ。ハムカツ。
どれも、磨き上げられた工芸品のように、端然と並んでいる。
「……ハムカツ、ください」
「ハムカツね」
彼女は一つ取り出すと、トングで軽くその厚みを確かめた。
「少し冷めてるから温め直すよ、待っててね」
そのまま、背後の鍋に沈めた。
じゅ、と小さな音。
油が静かに、だが鋭く弾ける。
ほんの数秒。
肉の芯まで「熱」を呼び戻すためだけの、計算された時間。
彼女はすぐにそれを引き上げ、余分な油を落として紙袋へと滑り込ませた。
「はい」
「……ありがとうございます」
紙袋を受け取る。
ずっしりと重く、そして
「……あの」
「ん?」
ショーケースの明かりに照らされた彼女の顔が、わずかにこちらへ傾く。
「この辺、最近も……その、事件とか」
彼女は一度だけ、ゆっくりと瞬きをした。
「ああ」
少しだけ、間を置く。
「まだ、解決してないみたいね」
「……そう、ですか」
「キミも気をつけてね? ──夜道は、危ないから」
それだけ言って、彼女はまた、手元のナイフを布で拭き始めた。
まるで、鏡でも磨くような手つきで。
「っ……はい、気をつけます。お姉さんも気をつけてくださいね」
「ふっ、ありがと、私も気をつけるよ」
「それじゃぁ……また」
「あぁ、まいど、また来てね」
店を離れた。
冷たい夜気が、火照った頬を撫でる。
数歩歩いて、耐えきれずに足が止まった。
紙袋を開ける。
わずかな湯気が、夜の闇に溶けていく。
一切れ、口に運んだ。
「……っ」
美味い。
言葉を失うほどに。
衣が軽くて、噛んだ瞬間にさくりと崩れる。
中のハムはしっかりしているのに、妙に歯切れがいい。
脂は驚くほど軽く、体温で溶けて、甘い余韻だけを残して消えていく。
もう一口。
だが、手が止まらない。
考えるより先に、喉が舌が、それを求めている。
気づけば、紙袋は空になっていた。
指先に、ねっとりとした油だけが残る。
ふと振り返ると、店の明かりがやけに遠く感じた。
カウンターの向こう側。
あの店主の影が、じっとこちらを見送っているような気がした。
──また、来るかもしれない。
そう思いながら、路地を抜けた。
◇◇◇
帰宅してスマホを開くと、ニュースの通知が届いていた。
また一人、行方不明者が出たらしい。
今度は若い女性だとか。
……危ないな。
呟きながら、スマホを閉じる。
ふと、指先に残った油をぼんやりと眺めた。