時止めのキャロル〜かつての邪神はいま、少女となって魔をふるう〜 作:陸そうと
どこからともなく現れ魔物から命を救ってくれたその女性は、冗談でなくリップルには神の使いのように見えた。
魔術は使わず、うすら笑いを浮かべながら単純な身体強化による膂力だけで異形を屠るその姿は、どんな怪物よりも怪物だった。
『あら、生きてるの。運がいいわね!』
霧散しかけている魔物の返り血で汚れた、しかし屈託のない笑顔。
数秒先のことを諦めてすぐ反応できずにいたリップルを見下ろして、そう一言口にした女性は迷宮が崩壊すると同時に瞬く間に姿を消してしまった。
嵐のように現れ、人とかけ離れた力を行使し去っていく亡霊。
そのあまりにも自由で楽しげな姿を見たリップルは、自らもそうなりたいと強く願うようになった。
もう環境に縛られることのない第二の人生は、誰にも侵害されることのない自由を手に入れたいと。
「そんでまぁ、いろいろありつつ邪神の遺物を手に入れて……どうにかして楽に強くなれないものかな~って、こうして魔術を研究してるわけ」
なんでもないことのように語るリップルだったが、まだ幼いレイニィが受け止めるには重たすぎる情報が次々と飛び出してくる。
「私はさ、とにかく楽しく生きたいんだ。でも人間の世界ってどうやっても不自由なことが多すぎるよね。だからいっそ魔物……ううん、魔物なんかも軽く屠れちゃうような。……あのとき見た白い人くらい強い生き物になれたら、少しは世界の見え方が変わるんじゃないかな~って思ってるの」
「それが……魔術師になった理由、ですか」
「うん」
そう返事をするリップルだったが、実際のところ自分が語ったことは心からの言葉ではないと分かっていた。
「あくまで夢の話、だけどね」
爽やかに口にするリップルの横顔を見て、レイニィはなにかを察するように表情を消す。
その存在が何者であるかを決めるのは精神性だ。
どれだけ力を蓄えたところで、心が人間である限り怪物にはなれない。魔術師としての道を歩み始めてすぐにそれは理解できた。
邪神の眷属である魔物の強大さを体感し、もうこの世にはいないはずの邪神そのものに対する途方もない畏怖を覚え、同時にそこへ近づこうとする魔術師たちがどれだけ破綻している生き物なのかを知ってしまった。
生物としての在り方を定めるよりも前提にあるもの、すべての始まりである「魂の在り方」が違う。
あの白い怪物と同じ領域に到達することは、たとえ何度生まれ変わってもできっこない。
自分はあの怪物ほど自由には生きられない。
そうリップルは自覚していたのだ。
「——まあ、怪物なんか目指さなくてもそこそこ楽しいんだけどね〜。お金がないのはアレだけど」
「いいですね、それ」
「…………はい?」
不意にレイニィが放った言葉にリップルは首を傾ける。
「私なりたいです、自由な怪物。リップル先生が諦めた夢、私が引き継ぎます」
それは深い考えのない無邪気な発言だったのか、もう確かめることはできない。
「私に魔術の使い方を教えてくれませんか? 先生の手で怪物を生み出すんです。私という怪物を。……すごくワクワクするでしょう?」
けれどもレイニィが行ったその宣言は、独りで生きてきたリップルを群生社会へと誘う小さくて大きな手のひらだった。
——この子ならもしかして。
直感的にそう思ってしまった。
レイニィ=アバンギャルド。彼女が秘めている「空間操作」の魔術が常識を超越していたことも、彼女に可能性を見出した理由のひとつかもしれない。
曰く空間を操る際に消費される魔力はレイニィ自身のものではなく、「どこかから借りてる感じ」なのだと言う。
所感ではあるが、おそらくは無尽蔵に。
それはつまり本人が内包する魔力量以上のパフォーマンスが可能ということ。魔術師にとってはそれこそ夢みたいな
加えてリップルが魔力操作に必要な基礎的な感覚と技術を教えるだけで、レイニィは目を見張る速度で魔術の実力を上げていった。
治療を名目に単なる金づるとして利用するだけの関係は、いつしか秘密の師弟関係へと変化していった。
魔術師リップルは怪物にはなれない。
だが怪物を育てることはできるかもしれない。
到達できたときにはきっと、弟子が自分の手をとってその領域へ引き上げてくれる。一人のときには感じることができなかった景色を見せてくれる。
そう信じることができたから、リップルは。
「————これは思わぬ収穫だ。辺境といえど、立ち寄ってみるものだな」
死神の囁きを思わせる声とともに街の聖騎士とアバンギャルド家の護衛を一掃したのは、たったひとりの壮年の男だった。
黒衣に身を包み、虚空を映した闇色の双眸を持つ亡霊のような人間。
いつものように秘密を共有し、いつものように穏やかだったリップルとレイニィの日々は、一夜にして壊されてしまった。
突如襲撃してきた、邪神教の手によって。
「なに……? あなたなんなの⁉︎」
国王と王妃を殺され、火を放たれ、至るところが赤く染め上げられた屋敷の客間。
リップルは怯えるレイニィを庇いながら男の前で身構える。
「貴様も魔術師であるというのなら既に気づいているだろう、その娘の身に起こっている異常に。だが貴様では救ってやれん。それは主に選ばれた我々にしか扱えない力だ」
「主……? お前、まさか邪神教の……!」
リップルが声を荒げるよりも先に男の左腕が振るわれる。
瞬間、同じ方向へ視界の激動とともに凄まじい重力によって全身が吸われるかのような衝撃を受けた。
「リップル先生!」
「うっ……⁉︎」
平衡感覚と思考能力が戻ったあとも、リップルは男になにをされたのかまるで理解できなかった。
レイニィも行使できる瞬間移動と感覚は似ているが、どこか違和感がある。
「邪魔をするのなら消すまで」
「……!」
人間が内包できるものとは到底思えない莫大な魔力が男の右手に集まっていくのがわかる。
慣れた仕事をこなすように、男は最も軽量な凶器と化した手刀をぶら下げながら倒れ伏すリップルへゆっくりと歩み寄った。
「だめえっ!」
咄嗟に駆け出したレイニィが男の背後から飛びかかる。
だが震える矮躯が見せた抵抗は無情にも、先ほどの師匠同様の手段で床へと叩きつけられた。
「っ…………!」
「レイニィ‼」
切迫した声を上げながらリップルは今目撃したものを整理する。
レイニィが組み伏せられる直前、男の周囲で魔力の起こりとともに空間が歪む現象を観測できた。
今まで何度も見てきたからわかる。
これはレイニィが扱う「遺物を必要としない魔術」と同じ————。
「貴様らの立つ位置と別の位置を繋げる役割を果たしている空間を一時的に消失させただけだ。消えた
「なんだ、邪神教は……! お前は一体なんなんだ!」
黒く塗りつぶされた双眸を睨みながらリップルが問う。
「私自身の存在を定義することは不要だ。人の歴史を完結へと導く——最後にその結果がもたらされるのなら、それのみに意味があると言えるだろう」
男の言葉、表情、視線、すべてに揺らぎはない。
そこに意思など宿ってはいないかのように、ただ機械的に突き出した右手でリップルの胴体を刺し貫く。
炎上する視界に飛び散る赤黒い血潮が自分のものではないと悟ったのは、再び瞼を開き目の前の景色が変わっていると気づいたときだった。
「………………え?」
眼前ではなく部屋の壁際に邪神教の男の後ろ姿が見える。
そしてレイニィの姿がない。
誰かが何かを吐き出す嫌な水音と鉄の生臭さ。
男が振り返りながら右腕を払い、手刀で貫かれていたものが無残に床へ転がりリップルのそばで止まった。
「愚かな」
血濡れの腕をそのままに、男の視線がリップルとその足元に横たわる少女へと向けられる。
そこに倒れていたのはリップルの身代わりとなり胸元を抉られたレイニィ=アバンギャルドだった。
「レイニィ……! レイニィッ‼︎」
這うようにそばへ寄り、リップルは顔を青白くさせながら床へ吸いついているかのように脱力している彼女の手に触れる。
息をしていない。完全に心臓を破壊されている。
ほとんど即死だ。
瞳にはもはや以前のような好奇心の輝きはなく、当然その意思もどこかへ行ってしまった。
(私と自分の位置を空間操作で入れ替えたの……? なんで……。本当は私だけを転移させるつもりだったのかも……。咄嗟の判断が追いつかなくて失敗した? もう取り返しがつかない? 魔力の遠隔操作についてもっとちゃんと教えてあげられれば……)
ただの肉の塊と化したレイニィを抱き寄せながら、リップルはどうしようもなく不毛な考察を巡らせていた。
「惜しいな。だがいい、替えはいくらでも利く」
そう言い残してから、男は文字通りその場から
邪神教徒と思しきヤツが何者であったのか。なぜアバンギャルド家を襲撃したのか。
それらの抱いて当然の疑問は、今のリップルにとっては些事にもならない雑念だった。
レイニィは死んだ。
パルム王家であるアバンギャルドも壊滅した。
魔術師リップルは再び、独りになった。
「私は……魔術師になって、あの人みたいな怪物に……。でも、それは叶わなくて……あれ……?」
自分の代わりに怪物になると言ってくれた少女の心臓も息も完全に止まっている。
リップルの手で怪物を育てるという目標は絶たれた。
だがしかし、今湧き上がる激情の源泉はそこではない。
魔術も怪物もすべてどうでもいい。
「なにが悲しい……? 私、どうして泣いてるの……?」
長らく知ることのなかった感情。
生まれたときから利用し、利用されるだけの関係しか築いてこられなかったリップルだが、レイニィを喪うことには自分のなかの何かが欠落するという感覚が明確にあった。
自由になれたら、怪物になれたらよかった。そうすればお手軽に、そうなってしまえば二度と孤独と自分の惨めさに苦悩しなくてもいいと思っていたから。
だからそれが不可能だと理解し始めてからは、この世のすべてがどうでもいいと思っていた。
どうにもならない苦しみを背負うことから逃げられない、先の見えない暗闇に向かって歩き続けなければならないのなら、もう自分にも世界にも期待するべきではないと思っていた。
だがレイニィは、思いがけず現れた夢見る少女は、そんなリップルを世界へ引き戻したのだ。
生きたまま死んでいたリップルを、人間にしてくれた。
この繋がりは失っていいものじゃない。
死人のような日々を繰り返したくないのなら、手段を選んでいる暇はない。
「…………死なせない」
おもむろに懐をまさぐったリップルは、入手してから常に肌身離さず所持していたものを取り出した。
それは邪神グアトゥガと邪神アザムの肉片。それぞれ「炎」と「冷炎」という真逆の性質を宿す二つの遺物。
リップル自身の「吸収」魔術によって一定の魔力を保ちながら保管されていたものだ。
すでに生命活動を終えた人体を動かすには、強引にでも魂に宿る自我を叩き起こすほかない。肉体に魂が残滓していることに賭けて。
死なせない。死なせたくない。もう独りになりたくない。
頭の中でそれだけを繰り返しながら、リップルは動かなくなったレイニィの口へ無理やり遺物を押し込める。
結果はすぐに表れた。
「——レイニィ……!」
覚醒するか否かは五分だったが、遺物の摂取後すぐに目を覚ましたレイニィを見てリップルは瞳を輝かせる。
二種の遺物を取り込んだ影響で膨大な魔力による修復が無意識下で行われているのか、胸の傷も塞がりつつあるようだった。
「……レイニィ?」
しかし蘇生に成功したことに歓喜するのも束の間、異変に気づいたリップルが消えそうな声をこぼした。
立ち上がった彼女の瞳は虚ろなままで、ここにはない何かを睨んでいるようにも見える。
「レイ————」
目覚めた彼女が呼びかけに答えることはなかった。
周囲に広がっていた炎の海が瞬く間にレイニィの体へ収束し、猛る赤髪に吸い込まれていく。
直後、足元から爆炎を噴出させたレイニィが飛翔。
半壊した天井を通り抜けて夜空へ舞い上がる様は、神話やおとぎ話に出てくる不死鳥のようだった。
しばらくの間——丸一日ほど、焼け焦げた屋敷のなかで呆然と空を眺めていたかもしれない。結局、彼女がリップルのもとへ戻ってくることはなかった。
●
空間操作の魔術によって分断された後、学舎のなかを駆けながらリップルは改めて考えていた。
長年捜索を続け、一年ほど前にこの魔導学府でようやく再会したレイニィは、もはや以前の彼女ではないと早い段階で分かっていた。
記憶喪失——ちがう。そもそもの中身が変わってしまっているんだ。
本来であれば人間の自我など簡単に食い潰されてしまう複数の遺物の摂取。彼女が耐えられたのには明確な理由があった。
人間の肉体が人間であるために複数の人格を生み出し均衡を保つという、魔術師の歴史上でも珍しい免疫機能。
……そうだ、いま彼女の体には
レイニィは生き返ったんじゃない。
邪神の遺物を取り込んだ影響で、肉体に残されていた記憶を情報源にレイニィ=アバンギャルドという人間の在り方が再現されているだけだ。
レイニィ本人の魂は、もうどこにもない。
かつての彼女が帰ってくる望みは存在しない。
でも、それでも、リップルは彼女に執着することをやめられなかった。
(……だって、私にとってレイニィは…………)
学舎が揺れる。
進行方向で巻き起こった爆発音と衝撃を察知したリップルは、食らいつくような表情で走る速度を上げた。
キャロル=ベルスーズ————あの魔術師の少女が現れてから、状況が大きく変わる予感を漠然と感じていた。
今のレイニィとの接し方がわからないまま無為に過ごしていた時間を破壊するように、白い少女はこの瞬間も暴れているのだろう。
自由に。
かつてレイニィとリップルが憧れた、怪物のように。