「これは驚いた」
1943年晩秋。オラーシャのペテルブルクで紅茶色の髪をした女性が欠片も顔色を変えずに目の前の人物に向けてそう言った。
「驚いた、ですか。それは何に?」
その言葉に軽く鼻を鳴らして、女性の目の前にいた人物─否、青年は吐き捨てるように返した。ある意味でそう言われるのに慣れているような、それでいて辟易しているような態度だった。
「それは無論、君という貴重な戦力を扶桑海軍が出してくれたことだ。大尉」
そんな青年の態度にも気を悪くした様子もなく答えた。その様子に大尉、と呼ばれた青年は怪訝そうに片眉を吊り上げたが、女性はそれに構わず続けた。
「統合戦闘航空団の先駆けであるスオムス義勇独立飛行中隊の隊員であり、リバウ撤退戦にも参加した扶桑海事変からの大ベテラン。オラーシャの極寒戦闘が可能かつ寄せ集めの多国籍部隊に慣れている
ニコリともせずに女性がとうとうと語った。その中身としてはかなりの誉め殺しではあれどあまりにも無愛想な態度に青年も反応に困った様子を見せた。彼はしぱしぱと目を瞬かせてから口を開いた。
「…少佐ほどの大エースにそこまで言われるとは思いもしませんでしたが、とりあえず訂正を一つ」
「聞こう」
そう言って青年は小さく咳払いをした。
「自分は
「…ああ、そうだったな」
そう言われて気がついた、というように女性は応えた。おそらく女性が習慣で
「それ以外に訂正はありません。カールスラントのグレートエースたるラル少佐より身に余るお褒めの言葉をいただいたこと感謝します」
「ふざけるのはよせ」
小さく口角を上げながら敬礼をする青年に、女性─ラルもわずかに笑って応えた。
「それでは改めて。本日付けで第502統合戦闘航空団に配属になりました、扶桑海軍大尉の
「第502統合戦闘航空団司令のグンデュラ・ラルだ。君には戦闘隊長として私の副官になってもらうからそのつもりでいてくれ」
「了解しました。全力を尽くします」
ペテルブルクの寒風が身を叩いているというのに、敬礼を続ける中條の身体の内には燃え盛るような熱が湧き上がるのを感じていた。
「ええ、最初はそうだったよ最初は」
1943年冬。まだ入隊してから数ヶ月しか経っていないにも関わらず中條は机の上の書類に辟易としながらつぶやいた。
「届かない資材、足りねえ人手、寒い冬、こっちのことなんて考えてくれない
「愚痴をこぼすな。手を動かせ」
ぶちぶちと愚痴りながら書類の束を処理する中條に、別の机で書類を捌いていたラルが苦言を呈した。そんな彼女に、中條が恨みがましい目を向ける。
「失礼しましたラル少佐。つい先程辛さが我慢の限界を超えましてね」
「どうした。またコーヒーが切れたか」
「ええ。お陰でクソまずい代用コーヒーに手を出さざるを得ませんでした」
「飲み過ぎだな。体を壊すぞ。」
「…まあ原因はそれだけではないんですが。先ほどブリタニアから電話がありまして」
ブリタニア。その言葉にラルの手が止まった。
「ミーナか」
「ええ。お言葉の通り電話はヴィルケ中佐からでした。電話の内容、なんだったと思います?」
「国境を越えたラブコールか。まったく、あのミーナからとは中條も隅に置けないな」
再び手を動かし始めたラルがしれっと言った。中條はその言葉に乾いた笑いを浮かべた。
「ははは、そうだったらなんぼよかったか。─俺宛じゃなくてアンタ宛のラブコールだよラル少佐。開口一番“グンデュラはいる?”と。俺なんか眼中にありませんでしたが、なにか心当たりは?」
「わからん。そんなこと言われてもどれのことかなど一々覚えてないからな」
「そんなにやってんのかアンタ」
悪びれた様子のないラルに中條が額に手をやった。同時に彼の口調からは敬語というものが消え失せたが、ただでさえその辺りが緩い航空歩兵間の慣習に加えて階級ではラルが上だが年齢自体は中條の方が上のため気に留められることはなかった。
「…ちなみに今回は何を?」
「お前のユニット用部品だ。501の坂本少佐宛のをちょっとな」
「マジで何やってんの!?」
中條は本格的に頭を抱えた。そしてこれこそが彼の最近の悩みであった。
欧州戦線は慢性的な物資不足である。それは一般的な部隊だろうとも、エースだけを招集した部隊だろうとも(流石にこっちの方が多少の融通はきくが)変わりはない。どの部隊も一つでも多くの物資が欲しいと目を光らせているのである。
その状況を理解した上で、このラル少佐は横紙を破りに行く。この女傑、思いっきり書類を改竄するのである。
ある時は適当に行き先が修正された跡の残る501用のカールスラント製ストライカーユニット用部品が届いた。またある時は503宛て、のところに思いっきりバツがされた上で502と上書きされた資材が届いた。またある時は…とこんな具合なのである。
当然そんなことをされてはされた方は怒る。ただでさえ物資が足りてないのに横から掠め奪られようものならそれはもう烈火の如く怒る。そしてその怒りは大抵電話でこのペテルブルクまで届くのだ。
「わかるかラル少佐!?電話越しに聞くヴィルケ中佐の声めちゃくちゃ怖いんだよ!昔はヴィルケ中佐の写真見て優しそうな美人だなあ、なんて思ってたのに、今じゃすっかり恐怖の対象になっちまった!」
「真面目に電話に出るからそうなるんだ。私のように出なければいい」
「そういうわけにもいかんでしょうよ!」
中條が天を仰いだ。事実、電話が鳴った時にラルは不自然に席を外すことが多々あるのだが、そのせいで中條が電話を取らざるを得ないのであった。
嘆きながら顔を手で覆う中條をチラリと横目で見ると、再び書面に目を向けながらラルが口を開いた。
「真面目だな。だが中條、もう少しだけ耐えろ」
「…一応理由を聞こうか」
「そのうちその怖い声が癖になる日が来る」
「いやだよ俺そんな目覚め」
ラルの発言はどう考えてもジョークの類ではあったが、本人の仏頂面のせいでどうもそうとは受け取れなかった。
「嫌だ嫌だとわがままなやつだな。なら物資が届かないのとどっちがいいんだ」
「ラル少佐が変なことをしなくても物資がわんさか届く方がいいですね」
「強欲な奴だ」
「ついでに
「本当に強欲な奴だ」
ラルはくつくつと楽しそうに笑った。彼女としては副官のこう言った強欲さは決して嫌いなものではなかった。
「そういえば中條」
「なんです?」
「ミーナには今までなんて返してきたんだ」
ラルの問いかけに中條は少しだけ思い返してから口を開いた。
「『可及的速やかに責任の所在を確認し、折り返しご連絡いたします』。確かそう言った気がしますね」
「そうか。連絡はしたか?」
「いいえ。一度も」
「…これからするつもりは?」
「中佐怖いんで嫌です。てか少佐の仕事でしょそれは」
2人の間に妙な沈黙が流れた。しばらくな沈黙の後、ラルはゆっくりと口を開いた。
「…ミーナが怒っているのは私に対してだけじゃないだろうな」
ラルのその呟きは執務室の壁に吸い込まれていった。