「お母さん、無自覚美人です 大学生編」   作:松田義和

1 / 28
序章 新しい生活

高校三年の冬、僕は受験勉強の真っ只中だった。

 

滑り止めも含めて三校。第一志望は、ちょっと背伸びした都内の私立大学。模試の結果は微妙、判定はいつも「C」か「D」。それでも、行きたいという気持ちは変わらなかった。

 

そんな僕を、母さんは全面的に応援してくれていた。

……のはいいんだけど、どこかちょっとズレている。

 

「ほら、今朝は“勝負パン”よ!」

 

そう言って出されたのは、アンパン。なぜか真ん中にごまが「合格」の形にふられていた。

 

「これ、作ったの?」

「そうよ〜、焼印の代わりにお箸でちょんちょんって」

 

……もう少しで面接に持って行くところだった。

 

それでも、母さんなりに工夫してくれているのは伝わってきた。

朝はバナナと味噌汁という不思議な組み合わせで「脳に効くのよ〜」と言い、

夜は夜で「おでん食べる?消化いいし」からのまさかの激辛カレー。

 

「なんで!?」

「気合いよ!」

 

……たぶん、どっちかにして欲しい。

 

でも、そんな母さんの“応援メシ”は、実のところちょっと楽しみでもあった。

 

試験当日の朝。

 

僕がドタバタと家を出ようとした時、母さんが慌てて玄関まで追いかけてきた。

 

「ちょっと待って!」

 

差し出されたのは、小さな巾着袋。中には、カイロと、折り畳まれた手紙。

そして──いつもの「勝負パン」がひとつ。

 

「食べなかったらカバンに入れといて。お守り代わりにね」

 

その瞬間、胸の奥がきゅっとなった。

普段はうるさいくらいの母さんなのに、今日はそれ以上なにも言わなかった。

 

ただにっこり笑って、「いってらっしゃい」。

 

僕は頷いて、家を出た。

 

電車の中で手紙をそっと開くと、こう書かれていた。

 

「落ち着いて、深呼吸して。

大丈夫、あなたはやる時はやる子。

帰ったら、おでんもカレーも用意して待ってるからね。

母より」

 

その日、試験会場では妙に冷静だった気がする。

まるで、あの“勝負パン”と母さんの言葉が、

ポケットの中でじっと見守ってくれているような──そんな不思議な安心感があった。

 

 

こうして僕の受験は、なんとか合格という形で幕を閉じた。

 

大学の合格通知が届いたのは、まだ肌寒さの残る早春のことだった。

念願の進学先。嬉しかった。心の底から──のはずだった。

 

でも、いざ「ひとり暮らし」という現実が目前に迫ると、

段ボールに詰められていく日用品や、郵送の手続き書類、

そして、少しだけそわそわした様子の母さんの背中が、妙に胸に迫った。

 

「これも持って行きなさい。あっ、洗剤は液体よりシートの方が楽よ」

「あと、これ……大学の近くの地図プリントしといた。行ってみたいパン屋さんも印つけといたから」

 

母さんは、あいかわらずの“過保護”モード全開で準備をしていた。

けれどその笑顔の奥に、ほんの少しだけ滲む寂しさに、僕は気づいていた。

 

引っ越し前夜。

母さんは「ふふ、寝坊しちゃダメよ」なんて冗談を言いながら、

僕のスーツケースにそっと折りたたんだハンカチを忍ばせていた。

白地に、控えめな花柄刺繍。

 

それを見た瞬間、なぜだか僕は涙が出そうになって、

「もう子供じゃないよ」って強がることしかできなかった。

 

迎えた出発の日。

玄関を出るとき、母さんはあえていつも通りの笑顔で「いってらっしゃい」と手を振ってくれた。

白いシャツにデニム、肩には小さなエプロンの名残。

僕にとって、一番安心する、母さんらしい姿だった。

 

その後ろ姿が、玄関のガラス越しにぼんやり遠ざかっていく。

振り返ると、母さんはまだ手を振っていた。

──その瞬間、僕の中で、何かがそっと“終わった”気がした。

 

でも、それは同時に、“新しい何か”の始まりでもあった。

 

母さんのいない暮らし。

母さんのいない朝ごはん。

母さんのいない帰り道。

 

僕はこれから、それをひとつずつ、受け入れていくんだろう。

だけどきっと、何があっても変わらないのは──

 

あの人が、あの家で、今日も変わらず笑っているという確信だ。

 

だから僕は行く。

ちょっとだけ振り返りながら、でもまっすぐに前を見て。

 

これが、僕と母さんの新しい距離の、最初の一歩だった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。