学園祭二日目の朝。
晴天。焼きとうもろこしの匂いが風に乗って流れ、ステージでは軽音サークルのサウンドチェックが鳴り響いていた。
──にもかかわらず、僕の周囲はどこか“燃え尽きた”ような空気に包まれていた。
「……ああ、やっぱ今年はナシか……」
高橋は焼きそばを焼きながら、鉄板の上に頬をのせそうな勢いでうなだれている。
「“女神”は降臨せんかったな……」
松田さんは早くも締めのコメントのような口調で、ボソッと呟いた。
「いや、勝手な期待ですし……」
僕は言いながらも、スマホの画面を胸元でギュッと握った。
昨夜、母さんから届いたLINE──
「今年はちょっと都合がつかなくて、行けそうにないの。ごめんね。楽しんでね♪」
それを朝、三人に見せたときの落胆たるや。
松田さんは拳を握り「くっ……!」と苦悶の声を漏らし、
高橋は「……なんか腹減らなくなってきた」と食欲を失い、
剣崎さんですら「……残念だ」と眉をほんの少しだけ下げていた。
──というわけで、ボクシング体験ブースは絶賛“やる気喪失モード”に突入。
松田さんはグローブの紐をゆるめたまま座り込み、
高橋は「体験希望の方はご自由にどうぞ〜」と棒読みで呼びかけ、
剣崎さんは……一人でサンドバッグを無心で殴っていた。たぶん、それが一番真面目。
僕自身も、「母さんは来ない」とわかっていても、
どこかぽっかりと心に穴が空いたような気がしていた。
そんなときだった。
──「あ、ここねー!」
聞き慣れた声が、まるで空からふってきたように響いた。
一瞬、全員が硬直。
振り返ると──
キャンパスの石畳を、帽子を押さえながら走ってくるひとりの女性がいた。
白のカーディガンに、花柄のロングスカート。
顔に日焼け止めを塗っているのか、少し白っぽい頬に、
見慣れた笑顔がふわりと浮かんでいた。
「えっ……えっ!? なんで!?」
僕は思わず叫んだ。
母さんが、そこにいた。
「やっぱり来たくなっちゃって〜。朝起きたら晴れてるし、電車空いてたし、なんかもう……ね?」
無邪気にそう笑う母さんの横で、
松田さんが静かに立ち上がり、震える声で呟いた。
「……奇跡……この地には奇跡が存在する……」
高橋は両手で顔を覆って「うそでしょ……」と半笑いで崩れ落ち、
剣崎さんは「来た」と一言だけ言い、サンドバッグへのワンツーが止まった。
「みんな、久しぶり〜♪」と母さんが手を振る。
僕はもう、何も言えなかった。
……そしてこの後、さらなる騒動が待っていることを、このときの僕はまだ知らない。
「あら、驚かせちゃった? ふふ、なんだか青春って感じね〜」
僕は、もはや覚悟を決めていた。
「母さん、せっかくだし……サンドバッグ、やってみる?」
何気なく言った一言だった。
まさか──あんなことになるなんて、思いもしなかった。
「えっ、私が? いいの? ちょっとだけね」
そう言って母さんは、手を差し出す。
剣崎部長が、無言でグローブを手渡す。
松田さんは、まるで“試合前の選手を見る目”でじっと母さんを見つめていた。
そして──
「じゃ、こう?」
母さんが軽く構えた、その瞬間。
「っ!!」
剣崎さんがわずかに息を呑んだ。
松田さんに至っては、なぜか片膝をついた。
「……あれは……“美の構え”……」
「まさか……女神の拳……ッ」
「いやいやいや! 母さんただの主婦だから! ほんとに!」
しかし、サンドバッグに向かって繰り出されたワンツーは──妙に“形”ができていた。
フォームが、冗談抜きに美しい。
背筋が伸び、軸がブレない。腕のしなり、体重移動……どれもが自然で、滑らかだった。
「経験……おありなんですか?」
松田さんの問いに、母さんは首をかしげて笑う。
「え? あるわけないじゃない。そんな時間もなかったし。でも、なんか楽しいわね、これ」
この一言で、近くにいた一年生部員たちがほぼ全滅。
「えい!」
母さんが下からパンチを振り上げる
剣崎「あれは!伝説のウイニング・・・」
はい、そこまで。
──その後。
「女神は……戦士だった……」
「この構え、伝説になる……」
「うちの部、マネージャー枠でなく“選手”として……」
と、部員たちは謎の会議を始めていた。
「……僕、いまちょっとだけ、本気で母さんが“天才”なんじゃないかって思ってます」
「なぁ……ボクシングって、やっぱ“センス”だよな……」
──こうして、“学園祭最大の衝撃”は幕を上げたのだった。
そして僕は、心の中で静かに叫んでいた。
(……なんで僕の母さんは、何やってもバグるんだよ!!)